Hemakovichの半永久的平坦な戦場

パニック不全神経症者が落ちてゆくカムフラージュ

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「トカトントン」なのである

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 数日前から「トカトントン」状態である。

 太宰治の愛読者なら、この「トカトントン」状態の意味を了解してくれると思うが、もし何のことかさっぱりわからないという方がいらっしゃれば、青空文庫で太宰の小説『トカトントン』をお読みになることを推奨したい。

 あの小説で描かれた意味の「トカトントン」と、僕が用いる意味での「トカトントン」が同一であるかどうか、わからない。

 だが、とにかく、「トカトントン」としか形容できないのが僕の今の状態なのだ。


 先日、朝日新聞掲載の高橋源一郎の論壇時評をクソミソに批判した。

 そのブログ記事を掲載後に、論壇時評に関係する高橋のツイッターでの発言を目にしたのだが、どうもその辺から今回の「トカトントン」状態は始まっているらしい。

 ブログのなかで吐き尽くして処理してしまいたい内容はほぼ明確に分かっているのだが、それを書くことにあんまり意味がないんじゃないか、どうでもいいんじゃないか、そういう思いになるあたりが「トカトントン」の表れ方であるようだ。

 社会的なことを書こうとすると「トカトントン」なので、詩作をアップしようと思うのだが、こちらはより深刻で、もはや「トカトントン」以上のものが意欲を削ぎ、僕を呑みこもうとする。


 中学時代に『トカトントン』という小説を初めて読んだとき、僕はこれがどういう意味合いの話を書いてるのか、ほとんど理解できなかった。
 太宰が自身を描いていると思われる物語の終わりに出てくる作家の謎かけのような解答(イエスの言葉を引用した部分)も、全然意味が理解できなかった。

 作家の解答の方は今でも意味が分からないが、「トカトントン」が聞こえてくる男の心情の方はここ近年になって、なんとなく、本当になんとなくでしかないが、共感しているかもしれないという気持ちの段階に至っているような気もする。

 「人生というのは、一口に言ったら、なんですか」

 『トカトントン』の主人公はこんなことを伯父さんに質問してみたりするのだが、本当に「トカトントン」なら、こんなことは訊かない。
 この部分は小説としてのサービスであって、太宰自身も書いててアホ臭いと思わなかっただろうかという風にも思う。

 だが主人公の質問に対する伯父さんの答えが揮っている。

 「人生、それはわからん。しかし、世の中は、色と慾さ」

 もっと若かったころの僕なら凡庸で通俗的だとしか思えない台詞なのだが、久しぶりに読んでみると、いやあ、まったくそうだよなあ、と思えてくる。

 僕には「色と慾」のような、ガソリンみたいな燃料と発火装置を失ってしまっているのである。

 ガソリンを爆発させて活発になって、積極的になにかに関与していったり饒舌に話してみたりしたところで、その関与とか饒舌さ自体がすでに空しく思ってしまうのだが、それを空しいと思ったりしないことが羨ましい(皮肉ではない)。

 関与したり饒舌であったりするからには、関係性のレスポンスを得る機会が増えるわけだが、そういう刺激のシャワーを気持ちよく浴びられる貪欲さに未だのめり込められること、それが信じられないのだが、とにかく元気なのだからその元気は羨ましい。


 これはニヒルだとか怠惰とは違うし、蓋然性に対する期待値の喪失でもないと思う。歳をとったり、ハンディが増えたとしても、ガソリンがあれば元気だし、発動するかぎり動くことはできるのである。

 だがガソリンスタンドへ向かうことの意味すら自分なりの説明がつかないので、「トカトントン」としか言いようがない。

 ただ僕の場合の「トカトントン」に僕自身危うく思えたりするのは、変に「トカトントン」の苦悶に耐えていよう、我慢しようなどと、「トカトントン」に耐久することが他の事よりもマシであるかのような気分になってしまったりすることである。

 「トカトントン」を気取れるのならばそれは虚無の魅惑のようなものであって、若いときは仲間のうちにそういう連中はたくさんいた。実は全然「トカトントン」でもなんでもなくて、「色と慾」にはちゃっかり反応できるような連中。

 僕は全然「トカトントン」を演じられるような人間ではなかったので、そういう気取り方ができるのがとても羨ましかったのだが、今では重篤の「トカトントン」を一日三食毎食後服用するほどにまで至ってしまった。


 小説『トカトントン』の結末に記される「無学無思想の男」の言葉、これは太宰自身の自虐と自己愛が混ぜ込んで投影された言葉だと解するのだが、こういうオチになる範囲では、未だ本当に「トカトントン」なのではなく、どこかに気取っていられる余地というか、落ちつく場所が残されている、まだ救いのある「トカトントン」であるように思えてならない。

 何かに身を投じたり、人生に対して自分が英雄的に存在したと思えるようなことによって「トカトントン」が消えるとするならば、それは本当は「トカトントン」ではないのではないか、そんな気がしてくる。
 人生は時に長く鈍重なもので、世界が移ろいゆくなかで、自己の問題が易々と締めくくられる機会はそれほどありえない。
 「トカトントン」とは、「トカトントン」に終わりが見えないからこそ、「トカトントン」なのである。

 太宰が心中した年齢を追い越してしまった僕は、そのことをだんだん気づきつつある。

 そして、僕の認知にそれほど誤りがないとするならば、この「トカトントン」はもしかすると人生に対して最も真実味を帯びた肯定的な態度であるのかもしれないとも考えたりもする。

 これは救いのなさなのだろうか。

 それとも、逆説的な救いなのだろうか。


 
 僕は充足しているのだろうか。





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