Hemakovichの半永久的平坦な戦場

パニック不全神経症者が落ちてゆくカムフラージュ

この支離滅裂な憂鬱は天気のせいか、ピカートのせいなのか

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 苦闘しながら、マックス・ピカートの『われわれ自身のなかのヒトラー』を読み続けている。

 1946年発行の著書ゆえに、今からみれば差別的な主張だとかドイツ人に対する十派一絡げな偏見も多数見受けられるのだが、それでもこのなかに何か大事なものが見えてきそうな気がして、下手くそで難解な訳に我慢しながら読んでる。

 この著書の結論を安直に言ってしまえば、

 「ヒトラーが登場する以前にナチスを許容してしまうような忌まわしい世界の下地が用意されていた」というような話である。

 それはなぜなのかというと、

 「無関連で支離滅裂極まる瞬間だけの刹那主義が人々を覆っていて、ナチスの喚声に共鳴しうる条件に適合していた」というようなことを、ピカートは指摘する。

 じゃあ具体的にどういう無関連や支離滅裂さなのかというと、説明するのが非常に面倒くさい。
 アマゾンのレビューを引用させてもらうと、

 「連関性を欠いた人間」の日常の隙間にわれわれはヒトラーを培っているというピカートのライトモチーフ、それの沿線上にあるナチズムへの道程は、何を隠そう、われわれが虚無的に過ごす「断片的」で情報過多な日々の生活習慣の積み重ねとしている。
これはピカートの政治病理学上の一大発見と言える。
論旨自体は、出版後60年を経た現代社会においても現実的な見解であるし、およそ過去から近未来、そして未来に至る人間社会に通底する宿痾でありつづけるだろう。


 ・・・・・・という内容なのである。

 この本を読んでいると、TVとかネットの情報を湯水のように毎日浸かりきっている当たり前のような日常が恐ろしくなってくる。

 以前からツイッターだとかSNS、検索情報といったメディアに対して批判的な思考を巡らしてきたけれど、『われわれ自身のなかのヒトラー』を読むと、自明の日常の基盤に対して根本的に疑問を感じ始め、自分の生活がまったく信用ならないものに思えてくる。

 どこからどこまでが正常で、どこから異常が発生するのか。

 そういう足許が崩れてくるような自明の喪失感が迫ってくる不安を感じるのだ。

 いっそのこと読まなければいいかもしれないとも思うのだが、これを知っておくのと知らないのとでは、時代に対する「悟り加減」のようなものが違ってくるような気もする。だから苦闘しながら読んでいる。

 どっちみち、自分が生きてる現在の様相から逃げられるわけもない。自分の日常が非人間的なものに蝕まれていると気づいたとしても、時代から逃げられず、世界をこれまでどおりありのままに受け入れるしか道はない。



 時事の話に少しだけ触れる。

 韓国の元従軍慰安婦であったハルモニたちが、米国の国務省とホワイトハウスを訪問したらしい。

 ホワイトハウス、韓国人元慰安婦2人と面談、賠償問題の早期解決を約束 - 新華ニュース 2014年08月06日 17時43分

 今月中旬にはローマ法王が訪韓してハルモニたちと会うとの報道もある。喜ばしい限りだ。

 慰安婦問題といえば、先日朝日新聞が過去の慰安婦報道に対する検証記事を2日間に渡って掲載した。そして日本人による済州島での朝鮮人女性強制連行の証言報道記事を「虚為だった」と訂正を行った。

 これに対して自民の石波が「国会でこの問題を扱おう」という趣旨の言及を、さも鬼の首を取ったかのように話しらしい。

 だが、朝日が訂正するとした吉田清治という人物の証言は、もともと何年も前から韓国側の研究者からも疑わしいとされていたものであって、かなり以前の慰安婦関連の著書でも信用できない証言という扱いで名指しで批判されている。
 だから朝日が今回そういう訂正を行ったということは、むしろ「なにをいまさら」という程度のものである。

 朝日が吉田証言の虚偽を認めたことを、さも慰安婦問題のすべてを疑わしいものであるかのように誘導・印象操作させようとする反動的思惑が下痢政権にはあるようだが、今回の米国政府によるハルモニ面会はそれを牽制するものとなるだろう。

 アメリカやバチカンがこの問題に直接向き合おうとする強い態度を示す限り、下痢首相が終戦記念日に靖国参拝することなど不可能であって、もしそれを強行するなら外交的孤立のリスクを背負うだろう。

 今日の広島の原爆記念式典を生放送で見ていた母は「首相のスピーチする様子がなんかイラついてるように見えた」と言っていた。

 下痢のミックスの鍍金が徐々に剥がれ始めるとともに、支持率低下の焦りからか、極右反動政治姿勢にどんどん前のめりになりつつある糞下痢首相だが、そろそろ強権的な本性を現し始めるかもしれない。

 化けの皮が剥がれて、A級戦犯の孫らしいファッショぶりが剥き出しになれば、カタワの下痢坊などきっと身内から足を引っ張られ、じきに陥落する。恐るるに足らずである。



 理研の笹井芳樹の死について。

 この男の自裁について、僕はなんら同情する気持ちを持たない。その死を悼む気持ちもまったくない。

 今年の初め、メディアを使ってiPs細胞をあれほど不当に貶めていた躍起さが因果応報となって、逆に捏造不正をメディアからさんざん叩きのめされた挙句のこの終わり方と総括するならば、むしろ自業自得だと思うし、卑怯な逃げ方だとも感じる。

(陰謀論に与したくはないが、本当に自殺なのか?という疑い、死に方への違和感があることを僕は否定できない。自宅でもない場所の階段の踊り場で首を吊ろうと思う自殺志願者がいるだろうか?)
 
 NHKスペシャルや日本学術会議の声明が結果的には起因したのだろう。最初は「たかがこんなことで死のうとするものだろうか」と驚いたが、恥辱に耐えられないインテリ独特の打たれ弱さと思えば解釈できるようにも思える。

 笹井芳樹の自殺報道をしばらく観ていて、僕は連合赤軍の森恒夫のようだと思った。STAP騒動をあの事件に照らし合わせると、笹井芳樹の逃げ方はまさしく森恒夫の脆弱さに酷似して、面の皮の厚さというか、世間の空気とのギャップぶりにおいて、小保方晴子は永田洋子に匹敵する、という喩え方はジョークが過ぎるだろうか。

 科学については科学的態度で蹴りをつけるべきである。

 最初にそれを誤ったから、STAPは人を救う万能幹細胞の話になるどころか、死人が出るような陰惨な様相を呈し始めた。それこそが世界三大不正と称されるに相応しい忌まわしさとするならば、元も子もないが。





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