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高橋源一郎の独りよがりな「平和物語」の虚妄

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 ここ数日『はだしのゲン』に関する記事をがむしゃらに書き連ねた。そのせいなのかどうなのか、すっかり燃え尽きてしまった状態で、物事を考えるのが疲れてしまって困っている。


 8月29日の朝日朝刊の論壇時評に高橋源一郎の『戦争を伝える ― 知らない世代こそが希望だ』(こちらのブログでほぼ全文が転載されている)が掲載された。

 これを読んでずっと違和感が残っていたのだが、その違和感を突き詰めていくと怒りが生じてしまって、正しく考えることができなかった。だが、とにかく高橋の投稿に対する反駁をきちんと整理しなければダメだと思いながら、でもその反駁すること自体が実にくだらなく思えて、「高橋もボケたな……」で済ませたいような疲れも感じていた。

 高橋の論壇時評に対して野口尚孝という人が適切且つ簡潔に批判している。僕の考えていたことはおおよそこの人と同じで、僕もそういう切り口から高橋の論考に疑問を感じていた。(「(戦争を)知らない世代こそが希望だ」という高橋源一郎氏への疑問 - 野口尚孝のブログ)

 
 結論から言えば、「戦争体験がない」ということと、終戦の年さえ知らない人間の無知は、全然意味が違うということで、後者の人間たちに平和を守り続ける力なんてあるわけがない、ということだ。終戦の年すら答えられない者の無知は罪だと僕は思ってる。

 無知という罪に無自覚な人間が享受してきた時間は「平和」なのではなく、単に「戦争がない状態」に過ぎない。

 そして世界がどんどんグローバルになっていく現代において、悲惨な戦争をしてる国々の哀しみに共感しようという努力ができないことも「罪としての無知」であって、自国が戦争していないからといって済まされる時代ではない、他の国々の「戦争と平和」への視野がないような状態で今のこの日本を「平和」と括れるのは愚かさでしかないということだ。


 だいたいね、「ひめゆり学徒隊」を舞台化した戦後生まれの人々の感受性と、終戦は1975年と間違えたり「疎開」のことを「過疎化」って誤答するももいろクローバーZの無知を背景に置いた「戦争は嫌だ」っていう安直さを同一視する部分で、高橋はすでにトチ狂ってるんだよね。

 両者の間には単純に「戦争を経験していない世代」というただ一つの共通項しかなくて、「cocoon」の舞台に「煩悶」があっても、ももクロの無知っぷりには「未来に対する責任感」が感じられないんだよね。だって、過去に関する最低限知っておくべき「義務としての知識」がない連中に平和なんて作れやしないもの。

 平和っていうのはね、戦争とか窮乏を理解しているから平和だって感じられるものなんだよ。言い換えると、戦争を分かってる頭があってこそ、平和は保障されるの。

 戦争体験者が今の時代を平和だと感じるのは戦争を知ってるからで、だからその裏返しで、戦争をまったく想像できないような連中が「希望は戦争」なんて言ったりするでしょ。戦争とか窮乏を常に頭においていないと平和は守れやしないの。

 誰かが「戦争がない状態」を「不正義の平和」だとか言い出したら、無知なバカ野郎は「正義の戦争」をあっさりと受け入れてしまうの。イラク戦争の時とか今のシリアの問題を見てるとそれがはっきり表れてるじゃない。
 戦争に対抗するには、戦争より平和の方がどれだけ意味があって未来に禍根を残さないか、それを立証できなきゃだめなの。
 どういう連中がどういう手口で戦争を始めようとするか、それこそ「ナチスの手口」を分かっていなきゃ、戦争が始まる勢いを止めることなんかできない。

 戦争を知ってるから平和を作れても、戦争を知る努力のない「戦争のない状態」の中から平和を遵守する智恵なんて生まれやしないの。
 なぜかって、人間はそういうふうに作られているとしか言いようがないけれどね。

 まあ、僕が拙く言うより野口尚孝さんの言葉の方がはっきり言ってくれてるけど。

 「安直な想像力を働かせて戦死者たちと自分を同一化するのでもなく」というのはあまりにも安直なとらえ方ではないか?たとえ安直であっても、戦死者と自分を同一化するという想像力がなければ、自分がいまこうして「平和な場所」で生きていることの深い意味が分からないだろう。


 そうそう、戦争ってのは「差別」と同じものだと考えると分かりやすい。

 差別ってのは「差別の存在」を幼い時から知っていることで「差別は良くないんだ」という意識が生まれる。その意識があるにもかかわらずヘイトスピーチをするバカもいるけれど、その意識があるからレイシストに反対する人々も同時に存在する。
 だけど「差別がどういうものか」ってことをまったく知らなかったら、差別そのものしか生まれないし、差別が悪いものだという自覚がないところでは、人はごく単純に人を差別するんだよね、物凄く平気で。

 確かに戦争を経験していない人々にとって、戦争経験者の辛酸舐め尽した事実ってのは「『他人の物語』にすぎない」のだけれど、だからといって「戦争を知らなくていい」とか、「彼女たちの『無知』にこそ、希望があるのだ」って、飛躍しすぎで、知的怠惰に対する居直りの理屈としか思えないんだよね。

 それに戦争経験者の語りや証言を『他人の物語』にすぎない」って言い切る感性も、よくそんなこと言えるなって話だよね。そういう無知の居直りがあるから被爆者差別が続いてきたり、従軍慰安婦の存在が明るみに出てこない、平和とはいえない「戦争のない状態」が今まで続いてきたんだろうね。まあ高橋にとっては「受け売りの『戦争の体験』」っていう程度の認識しかないんだから、最初っから過去の戦争体験に価値なんてその程度にしか置いてないんだろうね。

 僕は戦争経験者の経験ってのは決して「他人の物語」なんかじゃなく、「人類が共有するべき記憶の財産」だと思ってるけどね。



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 ここんとこずーっと「被爆者の声」で、ビデオ証言見てるんだけどね、驚いたのは語り部さんの中には「日本ってアメリカと戦争したんですか?」と日本の若者に言われたって人もいるんだよね。
 アメリカに行って被爆証言を話す人もいるけど、アメリカ人って本当に原爆の被害なんて何も教えられていないものだから、被爆の事実と戦後の被爆者の苦労なんかを証言すると、たいていの人たちが泣きながら「全く知らなかった」って言うらしいよ(そもそもアメリカ市民は劣化ウラン弾の存在すら知らないという)。

 終戦の年とか疎開のことすら知らない日本の若者だったら、南京虐殺や強制連行だって全然知識がないんだろうけどね。アメリカ人が原爆被害のことを全然知らないことに対する我々の心の痛みを考えてみれば、南京やら慰安婦のことを全然知らないことへの被害者の痛みだって当然想像できるけど、そういう知的怠惰な無知のバカどもの無知を肯定したり、挙句は「彼女たちの『無知』にこそ、希望があるのだ」と言える神経って、どうなんだろうね。まあ僕がさっき書いた「我々の心の痛み」なんてものが高橋とか古市が持っていないんだったら、どうしようもないんだけどね。


 あとさあ、「現在の日本人の大半にとって、もっとも『大きな記憶』とは、実は68年続いた『平和経験』」って言うけど、そんなにあっけらかんと言えるほど、日本は平和だったの? それ、高橋の感覚だけの独りよがりな断定じゃないの?

 野口尚孝さんもこの点についてきちんと批判してるよね。

 さらに言えば、「平和の体験」「平和な場所」と古市氏や高橋氏がいう戦後の60年間に、何があったのか、そしていま何が起きているのか、その間日本以外の各地で頻発している戦争で何が起きているのか、それを直視してほしい。この戦後の60年間を「平和な時代」として括ってしまうことの危険さをこそ、いまの若者に感じて欲しい。


 被爆者さんの証言を聴いてるとよく分かるんだけどね、多くの人たちが「わたしたちの戦争は昭和20年の8月15日に終わったんじゃなく、それからの苦労も戦争と同じだった」って言ってる。この点がアメリカ人の頭の中には完全に欠如してて、だから被爆証言を聴いて「何も知らなかった」と彼らに言わせる根拠になってるんだけどね。高橋とか古市も日本人なのに、そういう目配りがないんだろうね。

 被爆者だけじゃないよ、従軍慰安婦の人たちだってそうだ。彼女たちに耐え難い沈黙を強いて、無知の堕落の上でバカみたいに我々が享受した「平和」って本当に平和って言えるんだろうか。それは単に「自分たちに戦争や過去の戦争から生じた苦痛が皆無だった」っていうだけの「戦争のない状態」でしかなかったんじゃないの?

 「自分たちに戦争や過去の戦争から生じた苦痛が皆無だった」っていう意味で日本人の虚妄としての「平和」を考えたら、沖縄なんか本当に多くの日本人から無視されっぱなしだよね。あの戦争以降、今に至るまで沖縄が平和だったって言えるだろうか。オスプレイもそうだけど、沖縄の米軍基地って「本土」の米軍基地が戦後だんだん移されて行って、あれだけ沖縄に集中していったんだよ。「平和」って沖縄は抜きなの?

 沖縄だけじゃない。同じ文脈で言うなら、東日本大震災の被災地や、福島だって同じだ。「無知」を肯定するとか、かけがえのない「平和体験」だとか、自分の断定的な言葉に負い目とか感じないか?


 もっと大きい話をすれば、日本の戦後からずっと今も世界のどこかで戦争が起こってるけど、そういうのを無視した上で、自分たちが「戦争がない状態」だから「平和」だって、そういう規定ができる時代じゃなくなってると僕は思うんだけどね。

 モノカルチャー経済のことを考えてごらん。日本は多くの商品作物を大量消費して貪ってるけど、そういうのが発展途上国の環境破壊や貧困問題と密接に繋がってるんだよ。世界のどこかの人たちの生活の安定を犠牲にしてまで自分たちが享受する「平和」って、結局、「搾取」という形で他国に窮乏という「戦争に似た状態」を起こしてるんだよ。


 簡単に「受け売りの『戦争の体験』ではなく、自分の、かけがえのない『平和の体験』」なんて言うもんじゃないよ。おまえがどんだけ他人の苦痛や悲惨を見てきたんだよ。

 しょせん「『他人の物語』に過ぎない」から、同じ日本人でありながら沖縄を犠牲にしてまでノホホンとしてられるんだよ。高橋の安直で視野の狭い「平和」の断定には、「他人」への煩悶すら感じられないんだよ。


 もう一度、野口尚孝さんの言葉を借りよう。

 
戦争をしらないことが自信になるような若者では決してあってほしくはない。
 

 高橋源一郎につけるクスリは、これに尽きる。


 しつこいけど言わせてもらうけどな、「『他人の物語』に過ぎない」とか、「受け売りの『戦争の体験』ではなく、自分の、かけがえのない『平和の体験』」だとか、高橋源一郎の言葉がこんなに安っぽく響くようになるとは思ってもみなかった。

 『さようなら、ギャングたち』に感動して、『ロンメル進軍』の翻訳にもっと感動して、今まですごく尊敬してきたけど、結局、80年代の狂騒を泳いでいた頃へのノスタルジーしか頭にないから、こんな「独りよがりな平和」しか見えないオヤジに成り下がったんじゃないのか。

 今まですごく尊敬してきたからこそ、ものすごく失望した、むかついて仕方ない。

 
 ばかやろう。





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