Hemakovichの半永久的平坦な戦場

パニック不全神経症者が落ちてゆくカムフラージュ

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死んだ後の世界でも一緒に生きていくと決めたこと

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 ブログの更新を怠っている間にいろんなことがあった。

 9月の末にタイに6日間旅行した。バンコクと、ホア・ヒンという静かな海辺の街を訪ねた。


 タイに行きたかったからタイに行ったのではなかった。以前からネットで海外に友人を見つけたらその国へ行くというようなことを決めていたが、数人見つけた友人がタイ人であったから行ったのだった。数人のうちの2人と会ってきた。

 2人とも三十代の女性だったが、そのうちの一人、バンコク在住の日系書店で働いてる人と恋愛関係に落ちた。彼女とホア・ヒンに行き、2日間過ごしたのだが、それが思いがけず忘れられない出来事となった。

 タイを去る日だったか、帰国してからだったか、僕はそのヴィクという女性を一生の伴侶にすることを考え始め、彼女もまた同じことを僕に求めてくれるようになっていた。


 当初はヴィクが来日して、一緒に我が家にある7つばかりの田畑を糧に農業でもして暮らそうという予定になっていた。だが構想が露見するや否や、僕の側の両親兄弟から激しく反対された。

 「結婚するなら家から出て行け」と言われて、相当不条理な思いを味わった。僕だけの家ではないけれども、僕の家でもある。両親に反対されるのは仕方ないと思ったが、離婚して出戻ってきて同居している姉に家から出るように言われたのは釈然としなかった。

 いろんな理由をこじつけられたけれど、要するにヴィクが東南アジアの女性だからという属性のみで、彼女の人格も内質もあったものではなく、無暗に排除されているとしか思えなかった。

 当然のことながらそのことを暗に理解してしまった彼女は傷ついて、僕は彼女を傷つけたことに傷つき、家族から剥き出しに不条理な本意に、近年味わったことのない絶望感に打ちひしがれた。


 数年ぶりに衝動的なオーヴァードーズをやってしまった。むろん、死ぬほどの薬は一度に飲めるはずもなかったのだが、その後、数日死ぬことばかり考えていた。

 ある晩、自分のなかに自分ではないなにかの思考が降りてきて、自分が瞬間に貫かれ、その結果、直感的にすべてを自分ではないところのどこかへ委ねようと悟る、というようなことを経験した。

 それが起こった直後に、僕はプロテスタントの熱心な信者であるヴィクと同じところを生きようと、すべてが型に収束するようにおもえるようになった。
 
 翌日から聖書を読み始めて、その日のうちに以前から知り合いだったルーテル派の知人の伝手をすがって、唐突な勢いに押されるようにして教会へ出向いた。

 牧師には部分的にしか告白しなかったが、ともかく入信の機会を与えてもらって、次の日曜の主日礼拝に参加することになった。以来、週末の朝は欠かさず礼拝に出向いている。


 僕は最初の一歩でヴィクに大きな夢を与えすぎてしまったことを大いに悔やんだ。彼女はタイで暮らし続けることを僕に告げ、僕の判断を試した。なんのためらいもなく、ヴィクの求めに応じてタイで彼女と生きることを僕は即断した。

 来年の秋をめどに、とにかく貯められるだけの金を一年間貯めた後に渡航することを決意した。

 まずは語学学校でタイ語を学ぶことから始まるだろうが、すぐにヴィクとの暮らしを始めること以外、あまり大きなことをはっきり決めてはいない。

 タイ南部の農村出身である彼女と田畑を持ち、できれば思い出の地であるホア・ヒンか、それ似た温暖で喧騒から離れた土地でゲストハウスを営めたら、というようなビジョンをヴィクとの間で共有している。だがそれもどうなるか分からない。

 はっきりしていることは、ヴィクと死ぬまで一緒に生きていくということ、それだけである。僕が洗礼を受けた後は、生きている間のみならず、死んだ後も約束された世界でやはり二人の関係は続いていくということにもなる。

 今よりも多くを稼ぐために10年ぶり以上くらい久しく職安を訪れて、仕事を探したりもしている。履歴書の書き方なんかすっかり忘れてしまっていたが、臆することなく願書を送り続けている。


 聖書はあまり読み進めていないのだが、それでもキリスト教がなんなのかは少しずつ理解して行きつつある。

 「神に関わることが信仰だ」と牧師が言うので、関わるということはどういうことかと聴くと、神様と触れ合うことだという。最近になってその触れ合うという感覚がなんとなく分かってきた。逆に言えば、目に見えないものと真剣に触れ合う人生を僕は送ってこなかったということだ。
 
 クリスチャンの友人の一人は「あなたが神様を選んだんじゃない。神様があなたを選んだのだ」という。ヴィクの祈りを通じて神様が僕を見つけ、僕を見出したのだという。

 「そうでもないとそう簡単に教会に来れるわけがない」。確かに僕を信仰へと押し出したのは自分以外の何かの力がなければ可能ではなかったようにも思う。






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