Hemakovichの半永久的平坦な戦場

パニック不全神経症者が落ちてゆくカムフラージュ

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『マッサン』は朝の連ドラ版『プロジェクトX』ではなかった

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 シングルモルト宮城峡をイオン系列店で見つけて、数字前に衝動買いをした。

 やたらに高い酒専門店も含めて、いろんなところを見てまわったが、余市と竹鶴はあるが宮城峡だけはどこに行ってもなかったので、原酒不足で出荷停止しているのかと思っていた。
 普段は足を運ばないスーパーにトイレを借りに入店して、たまたまついでみたいに酒コーナーに拠ってみると、それはまるで奇跡のようにあった。
 
 結局、今月はハイボール用のジンジャーエールと肴の品々を合わせて、ウイスキー関連に一万円近く注ぎ込んだ。もはやニッカのお得意様である。

 サントリーとニッカ、両方のシングルモルトのなかで一番クセが薄いウイスキーと、よく見るウイスキー紹介ブログには書かれていた。
 甘くて飲みやすく、フルーティーであるとの触れ込みだった。

 だが実際には余市に劣らず、しっかりクセの強い味と香りだと感じた。

 いまだにピート香だとかスモーキーフレーバーというのがよく分からないのだが、余市を始めて嗅いだときに感じた草の匂いのようなものは宮城峡にも感じられ、むしろこっちの方が強く匂った。

 味の方は独特のクリーミーが漂う余市ほど強烈ではないが、やはりそれなりの個性は感じられ、グレーンの入ったブレンデッド・ウイスキーとは完全に別個の味わいが、しっかりとあった。

 余市と宮城峡しか飲んでないわけだが、肴のマリアージュはやはり、いかくんとか鰯の丸干しなどの海産物系が一番合うように感じられる。それと、チーズたら。
 ウイスキーにはチョコレートが合うようにいろんな人が言うけれど、それはニッカのシングルモルトには当てはまらないような気がする。
 チョコレートと一番相性がいいのは、僕が飲んだものの中ではブラックニッカ・クリア。逆に言えばブレンデッドウイスキーには海産物系はまったく相性が悪い。

 ニッカのウイスキーを飲むときは必ずニッカのサイトを眺めながら飲んでいる。ニッカのサイトは割合にデザインがよく、配色やフラッシュとか画像のセンスがなかなかいい。
 まさに飲む気を誘うようなサイト構成なのだ。
 
 写真で見る余市や仙台の蒸留所、付近の自然は本当に美しい。清涼な水とか空気が二次元の中から香ってきそうなほど、実にきれいだ。
 それらを眺めながらウイスキーに浸る真夜中の時間は本当に至福の一服である。

 「余市を気に入るようになれば、あなたも立派なスコッチ入門者」みたいなことが書かれてあったりするが、今のところは、ニッカだけで十分な気もする。
 人の手作業による石炭の直火焼きでの蒸留なんてことを想像すると、「これこそ本物」みたいに思わざるをえない。
 
 日本人は時として、実に非合理的な部分に美意識とともに合理性を見つけようとする。それは長所ともいえるが、やりすぎると性懲りもない悪癖と化す。


       *    *    *    *    *       


 『マッサン』の最終回を見る。朝の連ドラの最終回を見るのは『私の青空』以来だから、約15年ぶりぐらいか?

 全回視聴した姉は「回想シーンが多くて面白くなかった」というが、想像する限り、あれ以上に他に見当たらない終わり方をしたんじゃないか、というのが、2月から見始めた僕の感想である。

 最後の一週間でサーっと登場人物がどんどん去っていって、最後は主人公二人だけの世界に回帰する。あのドラマの骨子がロマンスである以上、そうやって終わるのが自然だと思う。
 最後の回想シーンにしても、映ったのはほぼ主人公の二人だけだったし、そういう細かな意図にも好感が持てた。

 マッサンがエリーの「ラブレター」を読むシーンは胸が詰まるような思いがした。それは感動に由来する感情ともいえるのだが、実のところ、「あんな完璧なまでに愛されて愛が完結したら、もはやウイスキーすら必要ないんじゃないか」と思えるような、ありえないものを見ているような気持ち、つまりは羨ましさだった。

 特に、自分が死んだら洗濯物はちゃんと表にして脱いでおいて、という遺言の部分と、ウイスキーのことは本当は何も分からなかった、「ごめんね」と最後に告白する箇所で、エリーの最大限のマッサンへの愛情を感じた。

 エリーが逝く場面も劇的だったが、あんな完璧なラブレターを最後に残されたなら、もう何もいうことなく、何も憂うこともない愛の完成形として、成就できるのではないか。
 というか、いくらドラマとはいえ、あんなにありえなさそうな幸福の頂点を見せつけられると、振り返って現実の自分自身の人生について反省してしまうような思いに、僕なんかは持っていかれる。

 ドラマが始まった当初は、いろんな人たちが指摘するように、これは朝の連ドラ版「プロジェクトX」みたいなもんなんじゃないかと、大っ嫌いだった番組と重ね合わせられる気がして、無視していた(いみじくも主題歌は同じ中島みゆきに拠るものだった)。

 印象が変わったのは、年を越して「北海道編」の宣伝CMを見てからだった。あのときに「ちょっとこれ、面白いのかもしれない」と思い始めた。

 実際に見始めたのは太平洋戦争勃発後からであって、エリーが特高に非を唱えて抵抗するという、いきなりクライマックスみたいな場面を見せられて、それに続く一馬の出征ときて、まったく息つく間もない名場面ばかりで、一話一話を見続けるのが正直重い気分だった。でも脚本と演出の素晴らしさがいつも期待以上に感動へと誘ってくれて、毎日爽やかな思いを与え続けてくれた。

 どのような時間軸に必要な場面を多く割くか、そういった配慮が行き届いた脚本だと思った。特に一馬の出征に関して一週間まるごと時間を割いたのには作者の意図の上手さを感じた。あれが後になってすごくドラマに深みを与えた。
 脚本に関しては、さすが『パッチギ!』や『フラガール』を手がけてきた作者だけあって、「上手いなあ」と何度も感嘆させられた。普通のTVドラマだったら台詞や直接的な造作で説明させたりしてしまうところを、間接的な表現で遠まわしに悟らせるところが映画的な手法に近く、共感した。

 最後にスーパーエリーを完成させる場面がそうであったように、懸念していたような「プロジェクトX」臭は微塵もなかった。
 端的にラブストーリーであり、家族や仲間とのいたわりの物語であった。

 朝っぱらから煩わしいと最初は感じていた中島みゆきの歌であったが、ドラマ終盤になるとだんだん歌詞が心にしみて、聴けるようになった。

 『麦の唄』は、あの『地上の星』のような暑苦しさ、男臭い押し付けがましさは、まったく感じられない。むしろ名曲『時代』と同じような道筋の、あどけないロマンティシズムを慈愛で包むような、時間をかけて長く聴き続けられそうな普遍性を持った歌だと、途中から気がついた。


 たぶん、『まれ』は見ないと思うけど、久々に心に残る朝の連ドラを見せてもらった。

 もちろん、DVDになったら買うつもりだ。





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自立日記

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きょうはとてもかなしかったので、どうせひまこを一人、イワンのばかに売り飛ばしてしまいました。それでどうせひまこも、もうあんまりのこってないんです。きのうは電きだいをはらわなくちゃいけないので、やっぱりひまこを、えちごやさんに奉こうにだしました。そのまえは兵たいさんにむりやり国さいをかわされたので、ひとばんひまこを30ウォンでだース・ベーだーさまのちんかすやろうのおあいてをさせました。ちんかす、にがかった。





ゾンびのおせわをするおしごとは、きついです。いちにちに3かい、ゾンびさんのこやに青さんソーダとひきにくを3体もっていくのは、じゅうろうどう。このあいだひきにくちょうり場からきこえたひめいにびっくりして、青さんソーダ、こぼして、うでのセラみっくがすこしはげてしまいました。それで、えさやり、ぐずぐずして、ご主人の、ワンヤンアグダさまに、えらく、おこられてしまいました。でも、そのあと、ゾンびの、ぶらうんおじさんに、「ひまこちゃんはおいしそうだね」とこえを、かけてもらって、すこしげんきになれました。


でもうでのぶひんは、こんど、うっかりしょうてん島からゆそうせんだんがこないと、こうかんできないみたいです。





めいおうせいの、せいかつ、とてもつらい。いちにちに25かいぐらいは、くうしゅうけいほうがなって、ほわいとべーすがばくげきにきます。

このまえはラーげリだい25ばん○大はいき肉ショリじょうに、れっかスぺしウムこうせんがおちて、畜生ニンゲンがおおぜいやけたそうです。

えヴぁんげりヲンは、じこのムゲンぼうちょうだとかいって、たたかってくれないそうです。
こうかくキドウタイは、みんな、いんたーねっと・定食屋ちゅうどくで、ザシキろうにいれられてます。





ひまこは、はやく、せえんそう、がおわればいいのに、とおもっています。せえんそう、きらい。ころしあい、きらい。





ゆうべはこうしゃほうでうちおとされたほわいとべーすのじょういんのくそがきをびーむさーべるでめったぎりにしてやりました。





れっかスぺしウムこうせんが、おちたあとの、にじをみながら、


「おーばー・ざ・れいん・ぼー」、きいています。


やけあとに低じゅうりょくでういてるざんがい、をながめながら


「おーばー・ざ・れいん・ぼー」、うたっています。



おかあさんのこと、おもって、いっしょうけんめい、うたっています。





おかあさん、はやく、むかえにきてね。





おてがみといっしょに、畜生ニンゲンのほしたひきにく、てんぷふぁいるでおくります。

ながもちするので、おかねのたかい、くうるたっきゅう便でなくてもおくれます。





きょうはこれから、ヨシワラどっと混む市ばで、げノムおまんこ売りの、じ給れっせいいでんしレバー300ぐらむ、
の、ばいとです。



がんばってはたらくね。





安ラク死ハイキせんたーのある、ねヴぁーらんどの冬はとてもきびしいと、ふー・まんちゅうせんせいがじゅぎょうで
おっしゃってました。





おかあさん、そちらのさむさにまけず、おからだだいじにしてください。





だいすきなおかあさんへ





ひまこ






初号ブラックニッカ復刻版の再商品化を強く希望する

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 最近の生活について。

 寝込んでしまうほど苦しい冬季うつはなくなったが、春めいた季節の到来とともに、苦しくはないが、何事にも無気力な脱力感が日々を覆うようになった。


 ブログの日記をほとんど書いていない。いまアップロードしているのは、すべて以前に書き溜めていたものである。書きたいと思うことは時々浮かぶのだが、まとまった文章にならない。
 思い浮かぶことは感覚による短いフレーズのみであって、それが文書になるような思考まで到達しない。
 
 コラージュも全然作ってない。数週間前ぐらいから完全に製作がストップしてしまった。新しいアイデアが浮かびにくくなっている。というか、フォトショップを開く気分さえない。やる気が起こらない。


 新聞はまったく読んでいない。それどころかネットのニュースサイトすら見ない日もある。冬季うつ対策の中で「ニュースを見ない」というのを決めていたが、それが延長している。

 新聞なんて見出し一行見るだけで憂鬱になる。政治状況なんて関心はない。どうせ悪くなるばかりで、メディアは下痢ゴリラの太鼓持ちだ。
 現政権を僕は信任などしていない。
 僕には革命権が認められる。それが無政府主義者の論理だ。


 友達の中国人メイ・ティンの最近の写真を見ようとして、縁を切ったはずのInterPalsにアカウントをつくったところ、これをだらだらやり続けてしまっている。
 相変わらず反吐が出るくらい嫌なサイトなのだが、いいかげんなコミュニケイトをこころがけて投げやりにやっていると、案外没頭してしまう。

 外国人とのトラブルも以前と同じように起こる。
 20代のチリの女の子の発言にむかついて異議を唱えたら、最初は謝意を示していたが論理的に何が悪いかを説き続けていると逆ギレされて激しく罵倒された。
 そのまま縁を切っても良かったのだが、人を削除したり削除し返したりするのに疲れてしまっているので、仲直りを提言すると、逆ギレが嘘だったかのようにもう一度謝られて、「あなたは何も悪くない」とまで言われ、頭がくらくらしてきた。
 一応関係改善したふりをして無視しながら自然消滅的に離れようと思っている。

 一概に十派一絡げに言えることではないが、逆ギレというのはキリスト教文化圏の人々の文化みたいなところがある。論理的に非を質していくと、無茶苦茶な非論理で激高されることは珍しいことでもない。
 非論理的な人間の逆ギレ攻撃には一点を集中してぶれずに叩くというやり方が特徴的である。これは何も外国人に限らない。掲示板なんかで教養のない人間がこういう報復をするのはありふれた光景といえる。

 InterPalsというところは表看板はメル友探しサイトだが、ざっくりいえば犯罪の温床にすらなりそうな出会い系サイトである。
 「あなたに会いに行くから旅費を出して」なんて言われて、アメリカAmazonのギフトカードで支払いを求められたりしたこともある。ついつい「後払いで払うから」なんて半分のめり込みながら断ろうとすると、スカイプでおっぱいを見せようとされたりした。これにはさすがに引いた、というか激怒した。
 国にもよるが、彫りの深い顔をした文化圏の外国人はいかにも直接的に下品である。

 初めて香港・台湾以外の中国人と知り合って、先日スカイプで話した。上海の女性で日本企業で働いているから、日本語が使えて楽だった。

 僕のコラージュ作品のブログを見せたら、「マンガを描いているのか?」と言われて驚いた。フォトコラージュに過ぎないのだが、イラストと勘違いされたのだ。
 だがそういわれて注視してみると、作っている人間以外にはコラージュというよりイラストにしか見えないのではないかと初めて気がついた。肌のコントラストなどをいじくっていくうちに、素材の写真の質感がなくなっていくからだ。

 上海の子にメイ・ティンのことを話して、「彼女はミラン・クンデラが好きな変わった女の子なんだ」というと、ミラン・クンデラは中国では結構ブームなのだそうだが、これにはびっくりした。彼の小説は共産主義圏を舞台にしているから共感する人は日本なんかより多いのかもしれない。


 ウイスキーは相変わらず毎晩飲んでいる。

 シングルモルト余市以外は飲まなくてもいいと思えるくらい、やはりハマっている。この間、久々にブラックニッカ・クリアを買ってきたが、全然美味いと思えなかった。

 痛風に一回襲われたので飲酒後に夜食を作るのは控えるようにしているが、余市を飲むときは少量の肴は付けている。
 だいたいは鰹節とちりめんじゃこを混ぜた納豆だとか、昆布だとか、鮭フレークとか、塩分メインのものが多い。鰯なんかを買ってくるときは豪勢に感じられ、ものすごく幸せに包まれる。

 今までに飲んだ数少ない種類のウイスキーを格付けしてみる。

1. シングルモルト余市
2. 初号ブラックニッカ復刻版
3. モルトクラブ
4. ブラックニッカ・リッチブレンド
5. ブラックニッカ・クリア
6. 凛 (宝酒造)


 特にブラックニッカ復刻版は、とてつもなく美味かった。これが販売限定商品なんて実にもったいない。なんらかの形で新しく商品化してはもらえないだろうか。





その真理が何であるかを我々は知ろうと欲している

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 我々は思想の危機にあたって理論的なものが実践的なものに推移してゆくのを見た。しかも同時に我々はそこにおいて理論そのものの否定が実行されているのを知った。

 かくのごとき場合においては、理論的意識はもはや単なる理論的意識としてとどまることが出来ない。独断論における理論より実践への転化がまさにそのことを教えるのである。実践を理論から分離することが純粋に理論的意識を維持する所以であるとする見方は、思想の危機にあっては、なんら現実的なる理論的意識であることが出来ぬ。思想の危機にあっては、このような見方こそかえって理論的意識そのものを死滅させることとなる。それはこのとき、思想そのものにとってはむしろ「危機の思想」であるのである。

 ここに私はかかる非現実的な危機の思想として現われている一、二のものを挙げておこう。

 そのひとつは形式主義である。

 形式主義者は考える。理論は理論としていつでも形式的なものである。したがってそこには階級性などはあり得ない。彼らは階級を超越した理論を求める。しかるに理論は、それが現実的な理論として、現実の社会と連絡をもちそれに働きかけ得るものである限り、現在の階級社会ではつねに階級的な性格をもたざるを得ないから、そこで彼らは非現実的な理論を意識的に求めることになる。そして彼らは彼らの理論の非現実性に、普遍妥当性または永遠性などというがごとき美しき札を張りつける。

 例えば、彼らは、普遍妥当的な真理があるということを論理的に証明し得ると称して、――相対主義は自己矛盾に陥る、なぜなら相対主義をいやしくも意味あるように主張し得るためにはこの主張そのものが絶対性をもたねばならず、したがって少なくともひとつは絶対的な真理がある、という。

 かくのごとく形式的には、真理の普遍妥当性は証明されることが出来よう。絶対的な真理はある、しかしそれでおしまいだ。その真理が内容的には何であるかを我々は知ろうと欲しているのである。形式主義は形式を説くことによって我々の認識を豊富にすることなく、形式に固執することによってかえって我々の認識を貧困ならしめる。

 形式主義は最も多くの場合我々の認識活動を停止せしめることを我々に命ずる。かくしてそれは我々の具体的な理論的意識を満足させることなく、思想の危機に際してはそれは、我々の認識を窮乏ならしめる論理であることによって、かえって反動的な役割を演ずる。

 ――他のものは自由主義である。今日、自由主義者は行為の自由と研究の自由とを区別する、そして思想研究の自由は認めるもそれを行為において実現することはこれを認めることが出来ぬ、と考える。しかるにかかる自由主義は現在の社会において我々はこれを徹底し得るであろうか。

 なるほど、危険思想の研究が自由に許されているとする、そこでいまひとりの者がこの思想を研究しているとする、しかし彼はまさに危険思想の研究者なる故をもって、会社でも、銀行でも傭ってくれず、否、大学においてさえ使ってくれない。研究の自由は彼にとって貧困の自由を意味する。彼の研究の自由はかたっぱしから彼の行為の自由によって否定されてゆく。行為の自由を得ようと思えば、彼は研究の自由を否定しなければならぬ。

 自由主義は階級社会の中では現実的に存在し得ないのである。

 思想の危機にあたっては、理論的意識は実践と結びつくことによってのみ現実的であることが出来る。このとき実践はもとより単なる理論の否定ではない、それは独断論者のことである。

 実践は理論にまで高められ、理論は実践にまで深められ、かくて理論と実践との弁証法的統一がなければならぬ。理論と実践との弁証法的統一の上に立つ理論的意識のみが、思想の危機に際して、ただ一つの現実的なる理論的意識である。

 しかるにかくのごとき理論的意識は今や社会的に危機にある階級、すなわち支配階級の中では獲得されることが不可能である。彼らは危機を絶対的なる危機として受取らざるを得ないが故に、弁証法的に危機を思惟することが出来ない。この危機を弁証法的に把握し、そこにむしろ未来の発展に対する展望を認め得るものは、未来を約束されているところの新興階級である。

 これが思想の危機の理論である。



三木清 『危機における理論的意識』 (改行の一部は引用者による)




シングルモルト余市にハマる

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 酒を愛飲するようになると、肴になる食事にも凝り始めるものだと聞いてはいたが、普段食欲が皆無に等しい自分がよもやそういうふうになるとは思ってもみなかった。


 ノンエイジのシングルモルト余市にハマっている。これさえ一本飲んでいれば、ブラックニッカ・リッチブレンドやモルトクラブを併用して飲まなくても満足できる。ブラックニッカ・クリアなどは薬を飲んでるような味気なさで飲む気にもなれない。
 ただ惜しむらくは他のブランドが700ミリリットルであるのに対し、500しか入ってないことだ。まあ2000円以下でシングルモルトが飲めるのだから、この点は致し方ない。

 最初は「草の匂い」としか思えなかったのも、なんだか「果実香豊か」と感じられるようになったし、「クリーミーな口当たり」だとか「バニラのような甘さと香ばしさ」というのも、だんだん頷けるようになってきた。

 これを飲みながらニッカのブランドサイトや蒸留所の文や写真を眺めていると、大変に気持ちよく、そのうち北海道の余市まで工場を見学に行きたい気分にもなる。
 ほどよく陽気なケルト音楽をYouTubeから再生させて飲んでいると、ウイスキー発祥の地であるスコットランドを俯瞰している心地にもなり、このような酒を文明にもたらしてくれた神にすら感謝したい思いにすらなる。



 さて、そのウイスキーを飲む際の、肴に関する話である。

 ビールやチューハイしか飲んでこなかった今までは、酒さえ飲んでいれば腹も膨れたような満足感が伴っていたので、飲酒するときは何も食べてなくてもよかった。特につまみについては考えたこともなかった。

 だがウイスキーというのはどうしたものか、飲んでいると必ず食を欲するようになる。酒だけ飲んでるとどうも胃の中に何か入れたくなり、酔いだけでは満足できないのだ。
 カナダドライのハイボールで飲んでいるのだが、この場合、炭酸はお腹を満たすのにはまったく関与していないらしい。

 仕方なく冷蔵庫やらキッチンの棚やらをいろいろ物色してみるのだが、うちの家族は間食という習慣がないのでめぼしいものが見当たらない。
 酒を飲むのも父が夕食時に焼酎を晩酌する程度なので、父のためのアテは夕食後にはきれいさっぱり片付けられてしまっている。

 最初は常時イオンで買っているトップバリュのベーコンを食していた。だがベーコンに限らないのだが、トップバリュの食品は続けて摂取していると、次第に飽きが来てしまう。

 そのうちに週に一回ほど、アテとなるべきものを求めて、タバコを買う以外は近寄りもしなかったコンビニやスーパーへと買いに寄るようにもなってきた。

 ブラックニッカ・クリアやリッチブレンドの場合、一番最適なのはビターテイストなチョコレートで、これだけでほぼ足りるとった感じだが、シングルモルト余市だとちょっと異なる感じがする。
 余市のブランドサイトにマリアージュ(食べ物との取り合わせ)として、チョコレートが筆頭に上がっていたが、僕が食べて見た感じでは余市とチョコレートは最も相性が悪い気がする。そのミスマッチぶりはなかなか言い表せないが、日本酒を飲みながらコーヒー牛乳を飲んでるような、そんな感じの悪さがしてならない。

 余市には塩分の際立つ肴が一番合っているように思う。

 だからカルパスだとか、いかくん、チーズたらなんかを買ってくる。だが今までアテなんか食して飲んだことがなかったから思うのだが、元来、店で売ってる酒のつまみなんてものはどれもこれも割合に高いものが多い。一品でタバコ一箱買えそうであり、毎日こういったものを買ってくるのは少々財布に響いてきてしまう。

 先日、何かないかと冷蔵庫を探索していたら、たまたま母が買ってあった「こいわし」を見つけた。
 魚屋でバイトしてたときに教わった要領で適当に火であぶり、朝食の漬物に添えるちりめんじゃこと吸い物用の塩昆布をこれにつけて一杯やってると、これが最適のマリアージュで、すこぶる美味かった。

 以来、夕方の家事をやりながら、夜が更けてから飲むときのアテのレパートリーを考えるようになり、案外いろんなレパートリーを思いつくようになった。


 
 深酔いはせず、酒の味覚がまだ判断できる程度にほどよく酔った感じで、一日分の飲酒が通常終わる。

 だがウイスキーの場合、どうも不思議なもんで、飲み終わってからもさらに食欲が湧いてくるのである。これは僕だけだろうか。
 だからそこからまた夜食を作り始めたりするのだが、やっぱり塩分の濃い料理が食べたくなってくる。

 最初は袋入りのインスタントラーメンにネギをかける程度のものを食べていた。だが、それに飽きてくると、白菜を入れてみたり、えのきやシメジを入れたり、野菜を炒めて加えてみたり、その野菜炒め自体も胡麻油や料理酒を使ってみたりと、なにかとアレンジするようになってくる。

 ラーメンに飽きてくると、今度はうどんや蕎麦を作るようになって、ここでも加える具材や調味料をいろいろ変えてみて、だし汁から自分で考えて作り始めて、自分でも驚くほど「にわか食通」みたいになってきた。

 いま凝っているのは和風スパゲティである。味付けもインスタントの製品は一切使わない。材料も野菜だけで6種類ぐらい入れていて、もはや夜食のレベルを超え始めている。大学で下宿していたとき、結構まめに自炊していた方だが、料理に凝るのはそれ以来ではないだろうか。

 元来、僕は一度面白くなると真っ直ぐに凝り性に向かう性質なので、たぶんこの、飲酒後の夜食作りもしばらく続くだろう。

 料理にハマり出すと、当たり前のことだが食べ物全般に関して以前よりも興味を示すようになるわけで、そうなると自ずから今までになかった食事に対する関心も高まってくる。

 ウイスキーを飲み始めて酒の弊害よりも、僕の場合、むしろ健康体に近づいたといえる。

 そのうち図書館に行って、壇一雄の『壇流クッキング』なんかを再読し始めるほど勢いが止まらなくなるかもしれない。





恋は盲目だと言われている

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恋は盲目だと言われている。






だから街角ではたくさんの盲人が舗道をさまよっている。



おまけに恋人たちの信号は しょっちゅう壊れている。



それゆえ愛情の交差点は いつも混雑している。






ある日、赤信号を渡った盲人の男が 盲人のカップルが乗った車に 
はねられて死んだ。



翌日、死んだ男の 盲人のガールフレンドは 見知らぬ盲人の男の車に拾われ 
どこかへ消えた。









僕たちの顔は誰かに供給され、飽きられた僕たちは誰かに消されて

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 数日前、ニッカのシングルモルト余市を購入した。

 サントリーやニッカが売り上げ上昇とともに原酒不足に陥り、出荷数を減らしたり一時的に停止したりしているということは、報道によって知っていた。
 だが実際にディスカウントストアで「入荷未定」というラベルの貼られた空っぽの品棚を見ると、途端に焦燥感に駆られた。

 前から飲みたかったシングルモルトウイスキーの中でも特に関心の高かった余市がなくなっているのを見て、すぐさま別の店に駆け込んだのだが、あと2本ぐらいしか残ってなかった余市を最安値で買うことができた。

 封を切って、ボトルの先に鼻を近づけた途端に、驚愕した。

 すごい匂いなのである。
 しかもこの匂いをどのように形容したらいいのかわからない、そんな匂いなのだ。

 今まで嗅いだことのない匂いというのではなく、今まで飲んだすべての飲み物のなかでこんな匂いの付いた飲み物は飲んだことがないという意味だ。
 これがいわゆる、大麦麦芽のみで同じ工場で作られたスコッチ風のウイスキーに顕著な、「スモーキー」と呼ばれる匂い、つまり「ピート香」というものなのか。

 「果実香豊かで華やかな香り立ち。柔らかなモルトと爽やかに広がる樽熟成香の甘い香り。ほのかなスモーキーさも楽しめる」

 ボトルのラベルにはこんな風に書かれているのだが。「甘い」香りもしないでもないが、果実香というのは、ちょっと違うような・・・・・・。
 「スモーキー」とか「ピート香」を表す形容として、よく「煙臭い」という表現が使われる。

 だが僕からしてみれば、これはなにかの「草の匂い」というのが一番近いように思われた。

 味の方も独特で、こんな味の酒は飲んだことがなく、だが不味いというのではない。

 「柔らかくクリーミーな口当たり。力強さを持ちながらも、果実やバニラのような甘さと香ばしさがある」というのがラベルのコピーだが、こちらの方はやや正確であるように感じられる。だが、バニラってのはちょっと違うような・・・・・・。

 面白いことに、この匂いや味はジンジャーエールで3 : 1ぐらいで割ってみたところで、容易に失われることがないのである。
 また「ピート香」の方については、余市を飲んだ後にブラックニッカやモルトクラブを飲んでみると、同じ種類の匂いが、かすかながらも、割り出して嗅ぎ分けられるようになる。

 余市は他のジャパニーズ・シングルモルトウイスキーのなかでも、格段に個性の強い味覚と香りだと言われているらしい。だが、僕は案外これが気に入ってしまった。

 余市を飲んだ後に、ブラックニッカクリアなどを飲むのは、高い買い物をした後に数十円の菓子を買うみたいで、なんだか物足りなく感じてしまう。

 僕の経済事情からすれば安い酒ではないのだが、ウイスキー全般からしてみれば、これほど豊穣な味わいのウイスキーを2000円以下で買えるのは、庶民に優しいコストパフォーマンスといえる。




 久々にポリスのアルバムを聞いている。

 “Message in a bottle”や“Wrapped around your finger”を聴いていると、大学に入学した春、初めて一人暮らしを始めたころの思いがよみがえって、暖かくつつみこんでくれる感じがして、無性に切ない。

 昔は良かった、なんていうふうな懐古趣味はもともと持ち合わせていないけど、最近はあのころの時間にほんの一瞬でも戻れたら、などと、どうしようもないことでさえも、切実な気持ちで考えたりもする。

 でも、ただ「若かったから」、あのころは良かったなどと思っているのではない。

 「あのころはインターネットも携帯電話もなくて、ほんとよかったよな」と、この頃思うのである。

 IT社会が発達したから世界は縮まって、コミュニケーションは広がった、などというのは、もはや唾棄すべき幻想である。むしろ人々が個々に断絶される文明になったと思った方がいい。
 ・・・・・・というか、こういう文明論に手を伸ばすこと自体、バカバカしいというか、安易だというか。こんなことを今更ブログに書くことすら、消耗させられるような、今ではもう不毛でしかない。

 アカウントに依存した人々を見ていると、彼らは自分たちに起こっていることを本当に理解しているのかと思いたくなる。

 SNSの中に並んだ僕たちの顔は「陳列品」で、僕たちの存在のすべては「品物」に過ぎない。
 誰かの暇つぶしとして陳列品の僕たちは買われて、誰かに飽きられて僕たちは消されて、その反対もしかり。仮想とはいえ、誰かの存在を簡単に引き入れたり削除したりする行為、その非人間性に、もう僕はくたびれてしまっている。

 フランス語の授業でたまたま隣に座ったのが縁で恋人にまで発展したりとか、カルトな自主映画上映会の会場でエレベーターに乗り合わせたときに言葉を交わした相手が親友になってったとか、そんな昔はごく当たり前で今は奇跡みたいな出来事は、皆がスマホ画面しか眺めない街の中ではありえない物語になってしまった。

 『シンクロニシティ』のジャケットを眺める。

 神秘的なことがまさしく神秘性を持ちえた時代は終わった。3色の色の帯で描かれたメンバーたちの写真の神秘性は、ネットが現れてしまった現在、あの当時のイメージの深みは打ち崩され、今では通俗的なものしか語りえない写真に落魄れてしまった。
 
 “Wrapped around your finger”の倦怠的なメロディを聴きながら、僕は現在のこの通俗的な意味の低落を嘆こうとは思わない。

 あのアンニュイは僕たちの過去がまさしく神秘的であったころの、時代の官能として、僕は今でも聴いている。“Wrapped around your finger”を初めて聴いたころ、何も分からなかったことが何もかも官能で、神秘であったこと。

 生きるのがとても苦しかったけれど、今から思えばその苦しみさえもがロマンティシズムであったのだと、省みるあの時代。

 あのころの夕方のトワイライトを思い出しながら、僕はもう一度何も知らなかったころのイマキュレイトのなかへ落ちてゆきたい感傷とともにある。

 僕の完璧に永久化された過去をふりかえって、自分が低落な現在に至る寸前の時間を生きられたことの幸運を思う。





詩が亡びるということは人間が亡びるということ

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 もうひとつ、これも日本的というものであろうか、どうせ食えない時代だから、食えないことを覚悟の上で、文学に精進するのだという作家の心構えだ。そういう心構えはフランスあたりに流行していたのであろうか。


 そのような作家をいながらにして見せつけられるということは、日本の文学の意気地なさが感じられる。食えない覚悟まで文学のために持たなくてはならぬのだから日本の作家は瘠せ細って死んでしまう傾向がある。食えない覚悟を文学のために持つだけのほんとうの勇気があるならば、食えない時代のためになぜ食う覚悟を持たないで、しかも文学を舐めてばかりいるのだろうか。


 時代が食えない時代だから、食えない覚悟で、文学の消費は、ジイドを舐めヴァレリイを舐め相当に行われているにもかかわらず、その生産面に於ては彼等の比でないと考えられようが、それは仕方がないと答えることによってすますつもりでいるのだろうか。


 ファンク博士はその手記で、仕方がないということを、日本人の特長として挙げていたようだ。


 この時代が、食えない時代であるということを、ほんとうに自覚しているならば、食う覚悟、それは僕みたいにつらの皮を厚くしてまでも持たねばならぬ覚悟なのだ。


 そうして文学は、日本の文学が気に入らないなら、さしあたり外国の文学を真似てもよろしい。が舐めさせるだけにでも値するような、なるべくは真似もばれない位の文学を生産するという覚悟で、持つ覚悟も健康な覚悟を持ちなおしたらどうであろう。


 詩は亡びる。と菊池寛氏が言ったので、詩人達の間に騒がれた。小学生が言ったのなら、振り向くものもなかったろうに、菊池寛氏が言ったというので騒がざるを得なかったわけなのだ。


 詩が亡びるということは、人間が亡びるということをも言わなくては用をなさない言い方である。詩が亡びることは考えられて、人間が亡びるということを考えられないとすれば、詩が亡びるということの論拠が薄弱である。


 人間に死ということがある。死ということは個人の現象であって、人類の現象としての結論ではない。だから死んでしまうのは昔から今に至るまで個人ばかりが死んで来たのであるし、なお、将来もどこまでも個人にだけ死は現象するが、人類は地球といっしょにどこまで行くものか解らない。


 たとえ文明の方向が人間を殺したり、生かしたりしてもそれは人類の方向を美しく表現するための、個人的な現象にしかならないのだ。つまり僕らには、個人の死は考えられても、人類の滅亡は考えられない。しかも、個人の場合に於ては、死を前提にしていながら生きるようなものであるとも言えるのであるが、人類の生死は、僕だけでなく人類総がかりになって考えても計り難いことなのだ。


 詩の概念もまた、僕らには、人類の概念と等しいものでなくてはならないのだ。


 詩が亡びるということは、詩が亡びるということの意味をなさない。そのような個人の言動や生死如何に依らず、亡びることなど知りもしない人類と同時しつづけているのが詩なのである。


 即ち、詩と人類とはぐるになっていて、誰が何と言おうが地球を振ら提げて生きる一方なのだ。


 僕は或る人が、詩よさよなら、と言ったことを知っている。

 詩を経験し詩を知っている人は、さすがに詩に対する礼儀をわきまえていると見えて自分の身をひくのであるが、詩に就て、その可能不可能の限界を持っていない人は自分には詩は解らないと率直に引き下るべきであって、一体どこを向いているのであろうかと人に思わせるようなポーズで詩を見ていては、つまり詩は亡びる。



山之口獏 『つまり詩は亡びる』 (改行の一部は引用者による)






時間の藻屑に散っていくのもまた風流なのかな

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 抑うつ状態になりそうで、ならない、そんな気持ち悪い状態が昨日から続いている。

 先日、かつて恋愛状態にあった韓国人女性が僕のYouTubeチャンネルを3ヶ月前から登録していることを偶然に知って、僕の心は千々に乱れた。
 それ以来調子が悪いのだが、たぶんそれは今の状態の原因ではないだろう。

 周期的な抑うつのペースがやってきていて、それに天気の悪さ、低気圧の到来が重なって、抑うつと、抑うつを防ごうとするものが、僕のなかで綱引きをしている、そういう状態なのだと思う。


 遠隔地に住む双極二型障害を病むMくんから、メールが来る。

なんで毎日地獄の苦しみを味あわなきゃいけないんだろうと考えてみたんですが、結局行き着いたところは同じで、自分をあきらめられないからで。単に往生際が悪いだけで。

あきらめられられるものは全部あきらめて、中島らもみたいに朝からビールでも飲みながら、出勤して行くサラリーマンを嘲笑う自分にOKに出す、そこに一旦は腰を据えて見た方がいいのかもしれません。で、気が向いたら風俗に行く。

そうでも考えないとやってられなぃのが今の自分の人生です。そうやってなんとか爆発を押さえています。

夢とか目標とか自己実現とかいった体のいいことは、ときに人を殺すこともある、そう思います。それだったらいっそ落ちるところまで落ちて、そこから見えるものに向かって進んだ方がいいんじゃないか、そう思いました。今の自分にそれが出来るかどうかは怪しい、というか無理っぽいですが。今まで積み上げてきたものを0にするのは怖いですから。今まで通り行くか、それとも地獄の一丁目に立ってみるか、引き裂かれそうな気持ちです。


 それに対する僕の返信。

二者択一的な思考は苦しいので、「その中間」辺りで、ぼちぼち考える方が楽だと思いますよ。あと、「考えない」という時間も必要だと個人的には考えています。

自分のことについては、「そうではない自分」について思考するよりも、「いまそうである自分」について立脚する、というのが大事だと個人的には思 います。

夢とか目標の自分像や、中島らものような自分も、現在においては仮定なので、とにかく今の自分以外のことは考えない方が良いかもしれません。

「なるようになる」とよく言われますが、これは逆説的な意味だと思います。「どうなるかより、いまを生きるのが大事」ということを諭しているので はないかと思います。

僕の場合は、夢とか目標とか自己実現は想定していないですね。前にも書いたけど、「今は何が出来るか」、「今日は何が出来たか」、その2つだけですね。

僕はその2つだけで、僕の人生は足りていると思います。

ときどき詩を書いたりしているけど、遺言を生産しているつもりでやっています。これらが死後に評価されたら嬉しいなとか思いながら。死後も評価さ れなかったら、時間の藻屑に散っていくのもまた風流かなとか、そんな自己肯定に酔って、毎日を続けています。



 ニッカのモルトクラブをジンジャーエールでハイボールにして、アストル・ピアソラを聴きながら深夜に飲む。

 最近になって、リベルタンゴはピアソラのオリジナル原盤で聴くのが最も良いと思うようになった。以前は他のアレンジャーの演奏ばかり聴いていた。

 ウィキペディアで調べてみたところによると、失墜していた独裁政治家ファン・ペロンが大統領に返り咲くアルゼンチンの雰囲気に嫌気がさして、イタリアで活動していたころの作品がリベルタンゴなのだという。
 Libertangoは「自由」と「単語」を組み合わせた造語のタイトルであるとのこと。

 それを知ってから、オリジナル原盤の演奏志向に関する意味のようなものが感じ取れるようになった。そして後進の他の演奏家によるものとは完全に趣きを別にする差異が何なのか、なんとなく理解できるようになった。

 つまりこれは、たとえばファシズムだとか文革だとか、そういう激しい政治動乱を背景に人間を描いたような映画のサントラに使われるような、シビアでストイックなテーマを持った曲なのだという気がする。
 恋愛とか官能だとか、そういう平時に生きる人間の有閑ドラマになんぞ、間違っても引用してはならない。命に関わるような厳格な場面で生きる人々の魂を描いたのが最初の主題であったように思う。

 ドラムの叩き方とかギター(エレキを使ってるのか?)の弾き方が実にソリッドで、これなんか、そういう政治的主題をモチーフとするところの表現の現われのように感じられる。他のアレンジャーだと、こういう鋭敏さが抜け落ちて、甘ったるくなってしまってるように思う。

 だから、ピアソラのオリジナルのリベルタンゴは、いまのこういう危機的状況の日本で、反時代的な精神を持って生きる人たちにこそ聴かれるべき曲なのだろう。

 ピアソラが失望したのはファン・ペロンに対してではなく、彼を受け入れようとする母国の人々の空気にこそ失望していた。それゆえにLibertango、「自由」のための「タンゴ」と成りうるのだから。

 それにしても、ヨー・ヨー・マは別として、日本人女ヴァイオリニスト、寺井尚子や川井郁子やらによるリベルタンゴのアレンジや演奏、クソみたいにひどいものだ。聞くに堪えない。
 なんというか、「官能です」みたいな、フランス書院文庫みたいな、マン汁で弾いているみたいに、かったるくて、あまっちょろくて、ヒマでボケたような音の鳴り方だ。思わずモルトクラブの豊穣な香りを忘れてしまいそうなゴミの音だ。

 リベルタンゴも好きだし、「ブエノスアイレスの四季」とか「タンゴの歴史」ももちろん好きだが、一番よく聴くのはアディオス・ノニーノだ。

 以前、冬の五輪でキム・ヨナが使っていた曲だが、そのときに調べていてネットで見つけたすばらしい演奏がある。この人の演奏を聴かなかったら、僕はこの曲を好きにならなかったかもしれない。

 下記の外部プレーヤーで堪能していただきたい。





殺人的に

Posted by Hemakovich category of Poetry on


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愛なんて




なによ




たった1分前に




もらった この平和




自ら




自滅のために




絨毯爆撃





永久敗者の




醜いあたしは




オマタ




突撃




不名誉乱交死




どうせ




犬死必須なら




むしろ




屍骸のまま




転がっていたい




この路上




千人の




貴方と




不在の




だれかの




幻影に




蹂躙




されて






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