Hemakovichの半永久的平坦な戦場

パニック不全神経症者が落ちてゆくカムフラージュ

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辺見庸よ、お前が言うほど「いまある現実」は愚かでも単純でもない

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 垂れ込める低気圧のせいで、まだらのように混ざり合う気分に悩まされる。

 以前から感じていたことではあるが、どうやら僕の抑うつは天候に左右される場合が多く、よくよく観察してみると、やはり雨降りの日には、憂鬱とやる気のなさが濃霧のように行く先を阻むことが顕著だ。

 あまりに今年は冬季うつがひどいので、主治医にエビリファイを処方される頻度が増えた。

 この薬はもともと統合失調症患者の陰性症状改善のために開発されたもので、よほどの効き目があるのか知らないが、とにかく開発元の大塚製薬が、国際的な賞をもらったとか聞いている。

 僕のように非定型型の鬱病患者にも使われる場合が多いらしい。最初のころ、あまり飲む頻度の少なかったころに飲んでたときは驚くほど劇的に効いた。
 その効き方というのが「ハッピードラッグ」とでも命名したくなるようなもので、抑うつ状態から一気に多幸感に満ち溢れる快適な状態まで押し上げる感じ。
 鶴見済が『人格改造マニュアル』に著していたプロザックについての表現と似た状態に思えて、効き目が現れるのも二、三日とごく短期間なのだ。

 あまりに幸せな気分に持っていってくれるものなので、これは覚せい剤みたいなものなんじゃないか、やばいんじゃないか、とすら思ったこともある。

 ただ、昨年末ごろの抑うつが一番ひどかった時期に毎日服用で処方されていた期間があってからは、以後、「ハッピードラッグ」というような多幸感が現れる効果は消えてしまった。

 今は頓服として処方され、だが飲む頻度も多い状態だが、抗鬱効果は地味ながら感じられる。だが重い鬱に落ち込みそうなところを無理やり引っ張り上げようとして、まるで頭の中で鬱とエビリファイが綱引きをしているような感じに思える。
 だから気分の状態が、なんとなく、まだら模様のように交じり合った感じで、完全に鬱でもなければ、かといって元気だとはとても言えない、すべてのやる気が起こらないまま、なんとなく身体が動かせるという、中途半端な現象になってるような気がする。

 この、まだら模様の状態はパニック障害の不全発作に似ている。鬱に陥る不安に彩られた状態だけが鬱でもないのに続いていって、なんとも気持ち悪い。



 辺見庸が最近、自著や対談で「人間の最後の尊厳はいまある現実を偽りだと言うことである」という言葉を盛んに用いているようだが、この言葉にどうも大きな違和感が感じられて仕方ない。

 細かなことは分からないが、彼がこの言葉に込めている内容は、たぶん、この国を取り巻く現在の状況に決して妥協しない、正統性を認めないという意味合いの表れなのだろう。
 その辺は理解できるのだが、「いまある現実」をここまで断じて拒否しようとする姿勢には、イデオロギーの表現を借りれば、まるで「極左」的で、このようなスタンスにだけは共に巻き込まれたくないという気持ちしか持てない。

 「いまある現実を偽り」とすることが、本当にそれが「人間の最後の尊厳」なのだろうか。
 むしろそれは、「最後の暴走」とか「最後の玉砕」のような、極めて危ういものに思えてならない。

 もし辺見の言葉がいまここにあるリアルの一切から乖離しながら突き詰めていくならば、極端な話、あらゆる人々は秋葉原の殺人者だとかテロリストだとか、ネット廃人だとか解理性障害疾患者になる他、道が残されなくなるのではないか。

 だいたい人生の終末において、自分が辿ってきた道の終着が誤りの世界に行き着いてしまったと思いながら死んでいくことが、「尊厳」という言葉の重さに見合う結末だろうか。僕ならそんな思いで絶望しながら死ぬのは絶対に僕の尊厳が生かされた最後だとは決して思わない。

 辺見のその言葉を咀嚼しながら想像を巡らすとき、僕はそこに、ネットに満ち溢れる自己顕示欲だとか憎悪に駆られた陰謀論者の姿を映し出す。
 それらの存在が辺見の言葉と通低するように思えるのだ。

 そもそも陰謀論者なんてものは、陰謀に含まれる卑屈さや狡猾さに塗れてしまって、自らもそういう手段を好むからこそ陰謀論者足りうるのである。

 現実の状況から一切の意味を見いだそうと出来ず、自分が自分にしかるべきところで生きていないことに我慢がならないと考える連中が行使する方法は、陰謀を好んで用いることで、状況の基本的な根っこの部分からすべてのリアルを卓袱台返しのようにひっくり返してしまう、そういう独りよがりな暴挙でしかありえない。

 「いまある現実を偽り」とすることを「尊厳」とまで言い切ってしまうことは、そういう短絡的な者どもたちの独りよがりさにお墨付きを与えてしまうことにもなりかねない。

 辺見の言葉自体のニュアンスには、そういう視野狭窄な行為のイメージを相手に印象付ける危うさが、表象にある。


 どのように抑圧的な政治体制であって、弱者が苛まれる経済の状況であったとしても、人々の生活は現にそこにある。
 人々の継続されてゆく日常というのは抑圧的社会によってすべてが定義されうるような、そのような短絡的かつ単純なものでは、決してない。

 どんな社会であっても親子の情はあるし、人は人を好きになったりする。そんな人間らしい基本的な営みを守り続けていこうとするガムシャラさだって、どんなことがあっても持ち合わせていたりすることだってある。

 日常に現れる幸せとか不幸せなんてものは、社会の体制の形に根底から支配されてしまうほど単調なものではない。

 社会そのものがどうであれ、人間一人一人の深遠な人生の意味が社会に決定づけられてしまうことなど絶対にありえない。

 現実を偽りとして否定し、意味を見いだそうとする一切の努力を放棄してしまえば、基本的な営みを地道に生き抜く人間の人間らしい愛らしさまでもが、「正義」だとか「大義」という名の下の憎悪や原理主義的観念によって踏み潰されてしまうことも起こりうる。イスラム国なんてものはそんな一例の真骨頂みたいなものである。

 僕は辺見に問い質してみたい欲求に駆られる。

 いまある現実が偽りとして否定されるなら、じゃあいったい、どんな現実が後に残されるのか。
 現実は常に現実の先端を目指して淡々と連なっていくものとして捉える他に、選択できるどんな道があるというのか。
 お前はお前自身の個人的絶望をいまある世界に投影しているに過ぎないのではないかという疑念を、お前は完全に否定し切れるのか。

 辺見がもしも創造者の端くれであるとするならば、彼には井上光晴の『明日』や、フランクルの『夜と霧』を熟読することを是非とも勧めたいものである。

 
 心ある者がいるとするなら、彼は現実に対して完全に負けて絶望に拘泥してしまうような、そんな脆弱な人間などではない。

 人間らしい日々の営みが続いているとするならば、それはアベゴミクズごときですべてが喪失されてしまうような、そんな単純で愚かなものなどではない。





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恩寵    あの11月

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アーリータイムス、

  100%濃縮オレンジジュース、 朝食用、


    割る    半分、


      Lady day     たいむ  いず  on my hands

         絞っていく    

                       音   余韻、 身体    もたれる、


           本当に   一杯   


だけ、



    ベッド     すぐそば          本棚       

                             メモ帳、


       ここ   ない、


              そこ   mo      あるはずない   


                  折れる 、  こころ、                 

    
  街灯、 


  なつかしい誰かみたい、   

                              染み入る、  部屋       白塗り、 壁、



     あの11月  筆談した  メイ・ティン      


                         彼女の字   


                         ゆっくり


                                 一枚ずつ。




         眠れないディスチミア患者        



落ちていく、      いま、午前2時54分  


                                 こんな     儀式。






“You love me more than my fatherland? haha”






きみは日本の都市の夜に消されたふりをして、ふりかえって もう一度 僕の背中を見た。夜の香港の人影に埋もれていくことを想像しながら、一瞬だけきみと人生が交錯した奇跡を 反芻して僕はまたも混沌に沈む。アディクションではない、本当のものを別々の都市で愛しながら、誰のものでもないきみと、 他の誰でも自分でもない僕が、同じ夜に千切れていく。きみが愛するクンデラの小説のようには、生きられやしないんだからね。いずれ、こんな影は、感熱紙に刻みこまれた詩のように、かすれ、きえる。それでも本当に一目惚れだったんだよと、メイ・ティンの筆跡に、告げてみる。





"I have also thought of you sometimes, maybe"






             コップ 沈む          ロヒプノール


      蒸留酒      温度の中    



                 報われたくない


                    決して


                            と   いう        信念


                               一緒   に   


                                          葬る
      




誰ひ とり                   正しく愛せない        病    


                こうやって      

                                 夜

                    生きている


         たぶん    会えない      

                             もう     ずっとずっとずっと


             da


        か

                           ra
 

  あのとき   頑張って

                 正しく愛した


        ン
              だ
                      yo              




                  唐突      意識喪失、     ベッド      沈む    




夢    



中    

             二度            反復し   ない

  



                       恩寵    み たい   だ         った


                                  
                                      奇跡

            の


                       あの11月。







Facebookへの恥辱感と「つまようじ少年」への憐憫

Posted by Hemakovich category of Diary on


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 Facebookをついにやめた。

 長い間ログインせずに放り出していたのだが、アカウントだけでも残しておくことすらFacebookを利するような気がして、だんだん我慢ならなくなってきていた。

 たまにログインすると、まったく見知らぬユーザーたちのリストが並んで「知り合いかも」なんて表示が出る。以前なら知らないユーザーに友達リクエストを出したら警告されるぐらい厳しかったのに。

 長い間何の関係もなく疎遠に過ごしていたユーザー同士が、同じ大学を登録していただけで片方が相手にたどり着くことができて、相手の生活状況を簡単に割り出すことが出来た、という体験談を最近友人から聞いたことがあった。
 この出来事がきっかけで、アカウント自体も消滅させるということを決意するに至った。

 実際にアカウント消去作業に着手すると、途中の過程でいま現在友達であるユーザーの写真が並ぶ画面が現れたりする。そして、
 「(Facebookをやめると)○○さんが寂しがります」
 「○○さんが悲しみます」
 という具合に、やめることに躊躇させるべく動揺を誘おうと意図する文言が表示される。
 僕の場合、この下らない作為の画面を見て、「絶対にFacebookと縁を切ってやる」という決心が一層強固になった。

 アカウントを停止させる場合、一つ問題が生じる。

 Facebookが明示してあるユーザーに分かりやすい手順で作業を行なうと、ともかくアカウントの停止は実行される。だが実際にはそれは「凍結状態」であって、90日間の猶予の間に再度ログインすると、簡単にアカウントが復活されてしまうのだ。

 もし本当に一刻も早くさっさとアカウントを消してしまいたいと希望するなら、下記のサイトで教えてくれてあるような方法が必要となる。

 これでアカウント完全削除!「Facebook(フェイスブック)」の退会方法 - nanapi [ナナピ]

 このサイトで紹介されてある手順を踏んで作業すると、アカウント凍結状態の猶予期間は2週間に短縮され、「完全に退会する(データを削除する)」ことが可能になる。

 事件が起こってニュース映像などを見ると、被害者であれ加害者であれFacebookにアップロードしていた自身の写真を無断で使われることが最近とみに多くなった。Facebookを利用しているということがそれだけ当たり前のことになったという証左でもある。

 学校の卒業アルバムの写真なんかを使われるのもイヤだが、SNSの写真をTVで流されるのって、僕にはなんか抵抗が感じられる。
 たとえば干してある洗濯物を盗まれたり、オナニーしてるところを盗撮されてネットに晒されるような事態と、同種のような恥辱感を覚える気がするのだ。

 以前はFacebookをやってることを他人に示すことはなんでもないことだったのに、今は「わたしもFacebookユーザーです」と知らしめることが、とても恥ずかしいことのように思える。



 「あなたの詩って、よく孤独に関連するものが多いよね」と、香港女性のメイ・ティンに言われて、なんか不思議なことなのだが、一抹のショックのようなものを受ける。

 彼女に見せたのはそういう類のものばかりで、それは僕の作品全体の一部でしかない。だが、孤独について言及することがなにかネガティヴなことのように感じさせられた。

 彼女が持った印象が正しいと仮定して、僕の作品が孤独に見えるのは、僕が孤独だからという理由に起因する。

 そして僕が孤独なのは、単純に友達が少ないからということだけではなく、僕が常に他者に対してなにか言い足りないものをいつも抱えているからだ。
 言い足りないものがたくさんあるということは、僕が求める僕の現在の意味が、いまだ充足したり完結したりしていないということなのだろう。

 その状態がネガティヴなのか、あるいは健康的なのかは、人によって異なるだろうけど、言い足りない状態が孤独な色彩として映るものに対して、それを傾聴してみようという試み自体は、大切なことだろうと思う。

 例の逮捕された19歳の「じゃがりこつまようじ」少年の話だが、うちの姉貴なんかは始終「むかつく」と気炎を吐き続けていたが、僕はなんかちょっと面白い感じがしたので、彼のYouTubeのアカウント動画を幾つか視聴していた。

 専ら愉快犯とか劇場型犯罪の括りで語られっぱなしの少年だが、動画を見ていた人たちなら簡単に分かることだろうけど、以前過ごしていた少年院生活に対して、19歳少年が非常に強い執着を持っていたことが顕著に伺える。「少年法に反対するために逃走していた」という一見トリッキーな犯罪動機が、実は全然関係ないことでもなかったことがはっきりと分かる。

 少年院の教育で更正出来なかった訳

 上記のリンク先のYouTube動画で、「つまようじ」少年はなぜ自分が少年院に入っても変わることができなかったのかを語っているのだが、彼の経験や主張が全く無意味というべき代物ではないことが、分かる人には分かることができる。
 むしろ彼が見てきた少年院の在り方というものが、この社会において少年院だけに留まらず、いろんな場面で問題提起されるべきものなのではないかという印象さえ受ける。

 少年が万引きの光景(トリックかもしれないのだが)やら、生活保護費を写した動画を見ていると、彼の現実や反社会性のなかに、それが単純な自棄他害の悪のみならず、彼がある部分では社会に対して「きちんと」言い足りないものを持ったままそれを言い切れない、健康的な意味での不充足を持っていた状態を、僕はそこから感じ取れるような気もしていた。

 見せびらかすように生活保護費を写して「悠々自適」と言ってみたり、「万引きしても万引きしなくても僕の人生は変わらない」とうそぶく挑発的な姿は、彼がけしかけようとする社会の中での彼自身の圧倒的な孤独を思わざるをえない。
 だが孤独が孤独だけで完結するわけではないという一例がこの少年にも存在していて、彼が語る少年院の偽善だとか、その少年院で優秀賞をもらったという彼の詩作品のなかに、傾聴に値するものが、きちんとした形でそこにあったりもする。

 その不充足が社会という視座から感光しないことにおいては、僕の孤独も19歳少年のそれも、あまり種類は違わないような気がする。
 最終的に犯罪という形でむりやり露出させようとした彼がいて、なにものにも結びつかずに詩を書き続ける僕がいて、それは結果の違いでしかない。

 Facebookという横並び式のテンプレートで収まる自己顕示欲に対して恥辱を感じながらも、少年院の話や万引きの動機の語りから窺い知れる19歳少年の健康的な不充足に僕が共感を感じてしまうのは、それが社会が用意した形に収斂されて同質化され得ないものであるからだろう。

 生きた年数の違いの分だけ、彼は未熟な形で孤独の使い方を誤りぽしゃってしまったが、孤独に対して老獪に泳ぐようになってしまった僕は、孤独なもの同士として、中途で未熟に蹴躓いた少年に対してどうしても憐憫の気持ちを正直感じざるをえない。

 僕のこの感情が、巷によくありがちな「錯覚した思考による犯罪者への過剰な同一化」の話として読まれないことを、僕は希望する。





扇動者とテロリストの相互確証破壊を希望する

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Please click this upper picture if you want to see it clear.



 被征服者のいっさいの行為に対して、絶えず兵力を用いる困難と費用とおよび部分的失敗とは、ついに征服者の一大負担となった。一時は勝利の誇りに駆られて、その権威に対するあらゆる叛逆者を、見つかり次第に厳罰に処してもいたが、やがてこんなふうに一人一人別々に支配して行くのが面倒臭くなって、何とか纏った統治の方法が要求せられて来た。

 すなわちもっともしばしば犯される行為の種頬を圧伏するために、ある一般的規則を設けることが発明せられた。そしてこの方法のはなはだ経済的なことが分ってからは、なおその他の広い範囲の諸種の行為にも、同様にそれぞれの一般的規則を設けることとなった。かくしてついに今日いうところの法治的支配の基礎が置かれたのである。そしてこの法律を犯さない間は、多少の自由が、被征服者に与えられる。換言すれば、この法律に服することが被治者の義務であり、この法律の違犯にならない行為がその権利であると認められるようになった。

 これと同時にまた、征服階級のいわゆる教育ということが行われた。両階級の地位の不平等を維持して行くためには、もともと被征服者階級の方があらゆる点において劣等種族であるという観念を、是非とも被征服階級自身の心中に、しかと植え付けて置かねばならぬ。もし被征服階級がいささかでもこれに疑惑をさしはさむようになれば、それは社会の安寧と秩序との大なる紊乱を生ずるもととなる。そこでこの観念を強制するために、諸種の政策が行われた。いわゆる国民教育の起原にしてかつ基礎たる組織的瞞着の諸種の手段が行われた。

 けれどもただこれだけでは治まって行くものではない。元来ある一種族が征服せられたというのは、ほんの偶然の出来事からか、もしくは戦争術が下手だったからである。その他の点においては、あるいは被征服者の方がかえって優れていたかも知れぬ。そこで征服者は、利害のまったく異なった被征服者を統治する困難から遁れるために、被征服者の中のあるものの助けを乞わねばならなくなる。被征服者の中にもまた、多少の特権を得て、容易にこれに応ずるものが出て来る。すなわち被征服者の中の知識者が、征服者の階級に仲間入りをして、その征服事業に協力することとなる。そして権利と義務とが、両階級の間に、もっと適切に言えば、征服階級と被征服階級の一部分との間に、多少相互的になる。

 この相互的ということは、いまだ不平等を生じない被征服階級に対する、絶好の瞞着手段であったのである。すなわち知識者は言う。

 見よ、今やわが部落は征服階級のみの部落ではない。彼等はすでに先きの非を悟って被征服階級たる吾等に参政権を与えた。万人は法律の前に平等であると。

 なお種々なる事情は、一方に征服者をして諸種の譲歩をなさしめるとともに、また一方に被征服者をして空虚な誇りとおよびあきらめとに陥らしめる。そして両階級の間に、漸次に皮相的妥協を進めて行く。



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 僕は今、この征服の事実について、詳細を語る暇はない。けれども以上に述べた事実は、いやしくも正直なる社会学者たらんものの、恐らくは何人も非認することのできない事実である。

 歴史は複雑だ。けれどもその複雑を一貫する単純はある。たとえば征服の形式はいろいろある。しかし古今を通じて、いっさいの社会には、必ずその両極に、征服者の階級と被征服者の階級とが控えている。

 再び『共産党宣言』を借りれば、「ギリシャの自由民と奴隷、ローマの貴族と平民、中世の領主と農奴、同業組合員と被雇職人」はすなわちこれである。そして近世に至って、社会は、資本家てう征服階級と、労働者てう被征服階級との両極に分れた。

 社会は進歩した。したがって征服の方法も発達した。暴力と瞞着との方法は、ますます巧妙に組織立てられた。

 政治! 法律! 宗教! 教育! 道徳! 軍隊! 警察! 裁判! 議会! 科学! 哲学! 文芸! その他いっさいの社会的諸制度!!

 そして両極たる征服階級と被征服階級との中間にある諸階級の人々は、原始時代のかの知識者と同じく、あるいは意識的にあるいは無意識的に、これらの組識的暴力と瞞着との協力者となり補助者となっている。

 この征服の事実は、過去と現在とおよび近き将来との数万あるいは数千年間の、人類社会の根本事実である。この征服のことが明瞭に意識されない間は、社会の出来事の何ものも、正当に理解することは許されない。

 敏感と聡明とを誇るとともに、個人の権威の至上を叫ぶ文芸の徒よ。講君の敏感と聡明とが、この征服の事実と、およびそれに対する反抗とに触れざる限り、諸君の作物は遊びである、戯れである。われわれの日常生活にまで圧迫して来る、この事実の重さを忘れしめんとする、あきらめである。組織的瞞着の有力なる一分子である。

 われわれをしていたずらに恍惚たらしめる静的美は、もはやわれわれとは没交渉である。われわれは、エクスタシイと同時にアンツウジアスムを生ぜしめる動的美に憧れたい。われわれの要求する文芸は、かの事実に対する憎悪美と叛逆美との創造的文芸である。



大杉栄 『征服の事実』 (改行の一部は引用者による)






精神障害1級の心理カウンセラー、桂小五郎、ブシドー

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 3年ぐらい前から会っていない、広島市に住む30代の解離性障害を病んでいるという知人女性に、久しぶりに連絡を取った。

 彼女は障害年金1級であり、介護給付も受けているのだが、明らかにこれは不正受給である。解離性障害で1級であるのはほぼありえない。また彼女は同伴出勤の水商売のバイトもやっている。

 「今もまだ働いていない」と完全な嘘をまだ言っていたが、市内の病院でなんらかの資格を取得して「心理カウンセラー」として「ボランティア」していると言うのには少なからず驚かされた。
 解離性同一性障害で、いざというときのために家族の連絡先を書いたメモを持ち歩いているほどの「重症」の患者がカウンセラーって、いったいどの程度の「ボランティア」の内容なんだろう。
 医療施設に出入りしているということは、彼女の主治医も「ボランティア」の件を把握しているんだろうが、よく許可したものだ。

 僕が知りうる限りの彼女の状態では、「心理カウンセラー」なんて名乗るほどのような作業は絶対に出来っこないはずなんだが。
 いきなり意識を唐突に失って、目覚めた後、周りの様子も知覚出来ないほどの「重症」を高校以来ずっと病んでるはずなんだが、あれが3年弱でめでたく寛快したとでもいうのか。

 ここにきて初めて、彼女は僕に対して出会った最初から詐病を演じてたのではなかったかと疑い始めている。

 彼女の夜の商売について主治医は知り得ていないだろう。だが心理カウンセラーとやらの「ボランティア」が出来る程度の人間に1級の診断を下していることは、主治医も彼女の不正受給に加担していないとは言えまい。

 僕の見てきた限りでは、広島市で重度の障害等級を取得するのは極めてザルである。境界例で障害年金をもらっている人も知ってるが、他の自治体では考えられない。
 統一的な指針がなく主治医の裁量でどうにでもなる現行制度には問題がある。

 本当に救われるべき人を救うということは、報われない患者や、患者全体に対する社会の不条理な怨嗟を防ぐことでもあるはずだ。



 年末年始の激鬱を脱して、年賀状をくれて返事が出せないままだった山口県在住の女性に電話をかけた。大学時代の元彼女であり、今はよき親友という、極めてレアなケースの関係を結んでる人である。

 「あたし、今の世の中ってイヤ」。そうして彼女の口から出てきたのは今年の大河ドラマに対する嫌悪の感情であったのだが、これに少々驚かされた。
 別に山口の人みんなが今年の大河を喜んでるというわけだってありえないことだろうし、だから驚かされたというのにも僕の偏見が混ざっていたことの証左だろう。

 「俺の場合、だいたいさ、そもそも吉田松陰って大っ嫌いなんだよ」
 「あたしも、あの人、イヤ」
 僕は力強く強調した。
 「長州で一番評価されるべき人物は、やっぱ桂小五郎だと思うんだよ」

 「それ、むかしっから言ってたよね」と返されて、そんな十数年も前から俺は小五郎の話とかしてたっけと、拍子抜け。司馬遼太郎の『花神』を読んで小五郎ファンになったはずなのだが、あれって、彼女と別れた後じゃなかったか、どうだったんだろうか。

 3日間、部屋にこもりっきりであの小説を読破していたのは憶えているが、あのころ、僕は京都市内のどこの下宿に住んでいたんだろう。

 僕は大学時代に三度住まいを変えた。だからあのころを思い出すときは、それがどの下宿環境のイメージが付随してくるものなのか、それを思い出すことで、物事が起こった過去の正確な時間を思いだしている。

 NHK大河に関しては、前も書いたかもしれないが、いい加減、幕末と戦国を舞台にする隔年スパイラルをやめてほしい。今年の大河なんて誰もが指摘するとおり、完全に下痢男くんへのNHKの「貢ぎ物」だろう。

 再来年の大河の主人公が卑弥呼でも構わないから、とにかく別の時代、やってほしい。


 
 哲学科時代の親友にメールを送る。

 彼は栃木県で精神科ソーシャルワーカー(PSW)をしているのだが、僕が一時期、精神保健福祉士を目指したことがあるのは彼からの影響だった。

 「PSWなんか目指すより、お前は映画監督でも目指せ。PSWは魂を救わない」なんてことを言われたこともあるが、本格的な患者稼業を始めてからは、彼の言ったことが正しかったと思わざるをえなかった。

仕事のほうは、相変わらずpswしています。最近取り組んでいることは、患者さんに敬語で話すことも出来ないバカ職員たちのために、接遇の基本を教えることです。支援や指導する前に、その生意気でアホな口の聞き方を直せと。こんな低レベルな仕事を、他に楽しい仕事もないので、とりあえずしています。


 学生時代、僕は彼のこういう砕けた物言いを愛していた。詩作の中でアホだとかバカとかオマンコだとか、そういう卑語を連発するようになったのも、たぶんこれも彼からの影響である。

鬱、大変そうだが、何とか上手く付き合い抜いて下さい。また、あんまり自分を嫌わないように。というのも、ひまこのブログ前に除いたが、スゲー面白かったからです。ちょっとリベラルなひまこの社会評論?、同感と思うところも多かったと記憶しております。何よりもその語彙の豊富さに圧倒されたのを思い出します。ああいうことを書ける人間は、そうそうざらにはいないと思うので、出来ればブログ活動を続けてもらえると、友人としては嬉しいですね。ひまこの言葉に触れる楽しみが続くわけだから。
排外的なこの時代、反時代的に自分が正しいと思うことを表現してみる、それだけで十分にブシドーです。シゴトです。存在意義です。


 反時代的、かあ。ブシドーかあ。

 最近そこまで思い切れるようなこと、全然書いてないし、むしろ遠ざかってるよなあ。僕が思うことを僕が躊躇せず書きなぐれば、それだけで僕自身ではあるのだが。反時代的、そこまでかっこよくないよなあ。

 語彙だって自分では「不足している」と、いつも悩んでいる。「ブシドー」なんて、こんな一発の表記で諧謔してみせる奴の方がよっぽど面白いよと思うんだが。





負け犬4回戦ポエマ-のポエマー魂

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ポエムが天上の空から降りてくるので、

ベンチに横になってそれをぼんやり眺めていた。





地上ではキャプテン・ビーフハートとアダムスキー型金星人の

激しいファックが繰り広げられ、

丸尾末広がその成り行きを「マリエ・クレール」で連載していた。




わたしは公園の落葉に混じって積もったポエムを2,3拾ってみた。

こんな感じだ。




「野 原 に は 三 匹 の 死 体」

「デ カ い う ん こ で 我 慢 し て く れ よ・・・・」

「コ ダ ッ ク ? ラ イ ラ ッ ク ? ハ イ ジ ャ ッ ク ?」

「舌 を 噛 み 切 っ た ら あ な た の 味 す る ?」






わたしは自宅に戻って、自前のタイプでひとつのポエムを完成させた。

PM11:00  現代詩混沌旅団はデスラー総統の放った沖仲仕デストロイヤーの前に屈服していた。

ポエムのタイトルはこうだ。





「障害年金支給要件:その2

(初診日前に保険料納付済期間と保険料免除期間を合わせた期間が被保険者期間の3分の2以上あること)において、

 診療報酬出来高払いの現状がいかに不利益を障害者家族の保険負担を著しく過大にするものであるかを、

 わたしがポエム不遜な負け犬4回戦ポエマ-のポエマー魂においてポエマ-モラ

 ルに則ってポエマ-パッシングするところの如何せんポエミズムによるポエム効

 果の実態とは?」







 わたしは退屈していた。


 どのような神でもよかったのだ。

 
 広島カープの首位とのゲーム差10.0の今となっては・・・・・・。








ろくでなし子が「ただのおめ子」と改名すれば済む問題

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 皆様方にはどうでもいい話だが、僕の現在のハンドルネームは「どうせひまこ」、またはアルファベット表記で“Hemakovich Uzumaky”である。

 最近、これらのハンネをぜんぶ変えたくなって仕方なくなった。

 そもそも僕のハンネの由来は2つの原因がある。

 十年以上前に大学のサークルの後輩が年賀状を送ってくれた。むかしから諧謔精神に富んだ面白い男だったのだが、新しく変わったメアドを知らせてくれて、そのユーザーアカウントが“dousehimadesukara”だった。
 これが大いに気に入った僕は、当時出入りしていた詩投稿サイトで“Douse Himadesukara”と名乗り始めた。
 ただ、綴りが長すぎる難点と、当時の僕の詩を読んだ人たちが僕を女性と想像した出来事があって、「どうせひまこ」へと自然に略称するようになった。

 それから東欧だとかタマラ・ド・レンピッカに夢中だった時期に、タマラをモチーフにしたある詩を書いたときに“Himakovich Uzumaky”と名乗ったことがあった。後にこれを改良して東欧っぽい表記にしようと思ったので“Himakovich”は“hemakovich”となった(だが実際には東欧諸国の人とスカイプしていて“He”を「ひ」と発音してくれたことは、ただの一度もない)。
 
 “Uzumaky”というのも大学時代由来の発想であった。僕の自主映画を観てくれたある女性がマンガを描いていて、ペンネームが「渦巻けい」という名前だったからである。
 この名前を彼女に命名した男性は僕の友人だったのだが、命名の理由を尋ねると、
 「だって外国語にしたら『ケイ・ウズマキー』になるだろ? なんかタルコフスキーとかカウリスマキみたいでかっこいいじゃん」
 なるほど、と非常に感心してしまった僕は、それから数年後に自分のハンネとして横取りさせてもらうことになった。

 
 なぜ今になってハンネを変えたくなったかというと、マンガ『ナルト』があまりにも有名になったこと、それと漫画家の「ろくでなし子」の知名度が急激にアップしたことに起因する。

 端的に言えば、僕のハンドルネームがこれらのものたちにあやかったものなのではないかと、そういう誤ったミーハー的解釈をなされてしまう事態を、なんとしても避けたいからなのである。

 だいたいマンガはろくに読んでもいないので、『ナルト』は名前を知っていはいても主人公の名前なんか全然知らなかった。なのにInterPalsなどで“Uzumaky”を名乗ると、やたらとインドネシアの人たちから話しかけられる。どうやらかの国では『ナルト』は非常に人気があって、それにあやかって“Uzumaky”と名乗る人が大勢いる。そして同じように名乗ってる人には親近感を憶えるらしい。そういった事情が掴めて、僕は『ナルト』の内容を初めて理解したぐらいなのである。

 だが“Hemakovich Uzumaky”のハンネよりも、「どうせひまこ」を使う頻度の方が断然多い僕にとっては、『ナルト』の存在よりも「ろくでなし子」の一件の方が、よほど「迷惑」に感じられて仕方ない。

 この「迷惑」というのは「名前がかぶるから迷惑」という意味でのことに過ぎない。だが僕はもう10年以上この名前を使ってるので今更変えるのも結構不都合である。
 いったい彼女がいつから「ろくでなし子」と名乗り始めたのか、氏の経歴を調べてみても、2010年代以前の履歴は見つからない。
 だがなんといっても向こうは「まんこ」の一件で一躍時の人になってしまったので、無名のなんちゃって詩人の僕の方が彼女にあやかっているのではないかと、どうしても初めて僕の作品を読む人はそういう解釈をしてしまうだろう。

 そういうふうな想像が強迫的に僕に襲ってきて、どうしても「改名」したい衝動に駆られてしまう。時折、詩を投稿させてもらってる「星空文庫」では、すでにアカウント名を変えてしまっている。


 ろくでなし子の起こしたことの事件性については、正直、何の関心もない。
 
 逮捕した警察・検察も、彼女のシンパである側の者たちも、ろくでなし子を買いかぶりすぎである。どうして官憲はあんな瑣末なことで彼女をジャンヌ・ダルク化して売名に貢献してしまったのか。それとも彼らには北原みのりの口を封じるという別件的な意味合いが主目的で、ろくでなし子を「利用」したのか。

 女性器の呼称にこだわることで「まんこを下卑たモノ扱いしている」という、ろくでなし子の主張は、彼女のやってる創作活動の意味合いによって自ら破綻させてしまっている。
 「まんこ」のボートだとかランプだとか、3Dプリンターの情報だとか、彼女がやってることにおいて、彼女は著しく「まんこ」を物自体としてのカリカチュアライズしてしまっている。その本質には「下卑たモノを公に引き出す」という意味合いが根拠になっていると思う。根拠になっていなかったら「まんこ」をひたすらデフォルメする作業にいそしんで主張しないだろう。「まんこ」をモノに扱っているのは、下卑たものをアートで持ち上げようとする、芸術家としてごくありふれた動機を持った彼女の方であり、その点において彼女は十分に「まんこ」を「下卑たモノ」と認識している。
 留置所ではいたパンツの公開も、その流れで発想したのだろう。それぐらいのことをきちんと理解しながら左派的知識人は彼女を擁護しているのだろうか。フェミニストはどう考えているんだろう。逮捕されたら誰でも芸術家はジャンヌ・ダルクとして持ち上げられるのか。

 そうした彼女の自己矛盾に満ちた活動に対して僕は興味を持たない。むしろあれほど自己矛盾に満ちたことをやりながら、「まんこ」を「下卑た物扱いしている」と世間に向かって糾弾する、彼女の政治的言動の滑稽さの方に、むしろ僕の関心がある。
 
 
 ろくでなし子氏に提案したいと思うのだが、そんなに「まんこ」に政治的こだわりを持つのであれば、いっそ「ただのおめ子」に改名したらいいのではないか?

 「ただのおめ子」と名乗ることが「まんこ」を「物扱い」していて「下卑ている」とは全然思わない。むしろ「まんこ」にきちんとアイデンティティを与えている。「まんこ」ボートを作るぐらいなら理解してもらえるはずだ。「まんこ」が卑猥でもなく、日常的なものとして考えるなら、「ただのおめ子」と名乗ることはなんら不思議もなく、等身大の意味合いとして保てることではないだろうか、「花子」と名乗ることが花を下卑ていないのと同じように。この場合、「ただの」と付け加えることが彼女の主張に非常に適っているとも思う。

 自信を持って真面目にそう提案したい。なんなら僕が「ただのちんぽ子」に改名したっていいくらいだ。ただしそれは、もし僕が彼女と同じ内容の政治的動機を持つに至ったらの話だ。
 (実際のところ、ろくでなし子氏の政治的言動のなかには彼女の政治的動機など含まれていないのだと僕は推察する。たぶん「まんこ」はアートとしてのネタに過ぎないのだろう)

 
 幾つかの作品を読んでもらえば理解してもらえるが、僕は「おまんこ」とか「チンポ」だとか、詩の中で結構頻繁に多用している。
 「オマンコ選抜皆殺しエリア」なんていう作品タイトルもあるぐらいで、時々怒られないかと思ったりもする。

 だが、僕にはチンポやオマンコが「下卑たモノ」かどうか、そういうことにはまったく関心がない。ただ単純に「下卑たモノ」という社会の一部の偏見だとかコモンセンスを「なぞっている」だけなのであって、「下卑たモノ」という認識の現実があっても、全然構わないのである。
 僕にとっての言葉とは、それがどのような意味合いで現実に呼ばれているか、そのリアリティだけが重要なのである。
 そして、僕が作品を政治的文脈で描くときは、その現実性を否定しないところから始まって、現実が矛盾にぶつかるところに追い詰めることによって他者へ理解してもらう、そういう手段を使う。
 政治的意図がないところにおいては、言葉の呼ばれ方の意味合いなど、全然僕にはどうでもよいことであって、現実を適切に読み取ることのみが重要になってくる。それだけなのである。
 
 「まんこ」という言葉の日常的立場を考えると、それこそ言葉を発する人の意思とか無意識が無数にあって、百家争鳴のごとくいろんな主張があると思う。だがそれ自体は社会としては非常に健康な状態にあるといえるだろう。
 ろくでなし子氏が「まんこ」を伏せるな、ちゃんと呼称しろと主張することのなかで、「下卑た物扱い」などというのは後付けと似たような意味しかないだろう。
 「まんこ」という言葉を見たり発音したりしたい人と、したくない人、両方があって、それを公のなかで一方に強制しようとするならば、背景に妥当性がなければならない。だが実際には、「まんこ」を「下卑た俗語」と考えていながらそのことが女性蔑視と結びつかないケースは多分に含まれているわけで、パブリックに訴えるほどの妥当性があるかどうかは、かなり無理があるように僕は思う。
 「まんこ」という言葉を日常的に強制する作用のなかで、ジェンダーの問題を取り込むのは的外れだと思う。「まんこ」という言葉(とか、留置所ではいた他人のパンツ)を見たくない人は男女を問わず存在していると考えられるからだ。

 こうした呼称の強制の意識には、根っこのなかに「言葉狩り」と反対の意味での強制性が働いているように、僕には思えてならない。

 言葉の問題を政治的主題として扱うならば、「まんこ」はそれこそ百家争鳴状態であって、誰かの勝手気儘に対して強制性を発動させることは、むしろ百家争鳴の自由な状態を侵害する恐れすらある。
 政治的な意味で切迫さを感じるのは、むしろ「在日認定」などという明らかに他者の自由を排除するレイシズムにもとづいた言葉をパブリックに禁じる措置の方が、よほど現実的に重要だろう。

 「まんこ」を他人に呼ばせたい自由を行使するならば、ろくでなし子が「ただのまん子」とか名乗れば片付く問題なのである。
 ただしその場合、呼び手が「まんこ」ではなく「ただのまん子」氏のことを「下卑ている」と思うか否かに対しては分からないし、分かったところで意識を変えさせられるかどうかは本人の努力の問題だろう。
 
 だいたいさ、他人に「まんこ」と呼ばせるかどうかとか、そこに拘泥しすぎるのは、売名目的と思われても仕方ないと思うよ、まあ、「まんこ」ボートとかシール作るのは勝手だけどさ。

 「それだけなのか?」と看過されてしまって通り過ぎられるのが、創作者としては一番痛いことじゃないの?

 僕からすれば、「まんこ」だけじゃないってところが、引き出しの多さが重要になってくる創作者としては一番注目される箇所だと思うんだけどね。

 考えてみれば僕の作品、『オマンコ選抜皆殺しエリア』だって『チンポコ選抜皆殺しエリア』であっても全然構わないよな。描いてある内容、変わんないんだから。どちらかというと「オマンコ」の方が好きだから、そうなのであって。『女性器選抜皆殺しエリア』としたって、作品の質が変わるわけでもないんだし。
 
 問題は、僕の作品の意識がどこにあるかとか、僕の作品には「オマンコ」しかないのかとか、そういうことなんだと思うけどね。
 水玉模様を描き続ける草間彌生みたいな、ああいうある種実存的な理由は拘泥とはまったく別次元だと思うけど、あの人は他者の認識とか問題にしてないよね。
 なんか、ろくでなし子のやってることは、一時期パブリックとして流行って消えてったストリーキングと同レベルの程度しか感じられないんだよね。


 ここまでダラダラ書いてきて、なんかどうも、ろくでなし子と「どうせひまこ」がかぶりそうだとか、どうでもよくなってきた。

 調べてみてわかったけど、僕がよく知ってる「辛酸なめ子」とか、他にも「腹肉ツヤ子」とか 、「まんしゅうきつこ」やら、「魔神ぐれ子」とか、かぶりそうなのは無限にありそうだしな。

 作者の名前がときどき変わっていくというのも、作品の独自性の逆を踏むみたいで、面白いかもしれないな。





刹那に出遇って、ふとある空虚を感ずる、何という悲惨なことだろう

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「今日は二人で、こうして海を眺めながら、歌を作り合ふじやありませんか。
 貴方は文科へ行つてゐらつしやるのだから定めし詩や歌をお作りになることがお上手でせう。
 私なんか、どうもただ下手の横好で……ちよつと待つて下さい――ええと、
 ひとつ出来ました。
 まあこんなものですが、見て下さい。」

「……ウム。こりや、うまい、ほんとにうまい、実によく整つてゐますね。」俺にはとてもこんなに巧みに歌ふことは出来ない、と私は思ひました。

「さあ今度は貴方の番です。」
「私は出来さうもありません。」と私は自分の心の儘を云ひました。
「戯談(じようだん)じやありませんよ。謙遜されては私が困つて仕舞ひます。」
「謙遜? ハツハハハ、それや恐れ入つた。」
「私には、まあそれは謙遜とより他に思へませんもの、だつて、
 貴方は朝からこうして、黙つて海ばかり眺めて暮してゐるじやありませんか。
 それは歌でなければなりません。詩でなければなりません。――もういい時分です。歌が出来上つた時分です、さあお聞かせ下さい。」

 ――何と云はれても出来なければ仕方がない。

 成程俺は今朝から海ばかり眺めてゐる、その間には多少、詩になりさうな気持も浮むで来ないでもない……然し俺にはそんな気持はどうしても書き現すことは出来ない、俺は、
「最後のものを歌ひ度い。」――美しい、と思つた瞬間、悲しいと思つた瞬間、それは俺にとつて「最後のものだ。」それが書ければ文句はないのだが……俺は常にその刹那に出遇つた時、ふとある空虚を感ずる、何といふ悲惨なことだらう……悲しい、と感じた瞬間には、俺は、「余り悲しくない」と思つてしまふ――と、笑ひたくさへなつてしまふ――俺は「恍惚」に浸る夢心地をもつことが出来ないのだ、ああ俺はもう今、俺の想ひは、この人に責められてゐるといふことから全々離れてしまつた――。

 私はこんな事を考へて居りました。

「さあ、もうお出来になつたでせう。」
「――――」
「一体貴方はこの美しい海を、どんな気持で眺めていらつしやるのですか。」その人の句調には大分私の芸術的感覚を疑ふやうな色が見へて参りました。

「――――」
「それに答へられないといふのは何といふ怪し気なことでせう。」
「僕は……別になんにも考へてゐませんよ。」
「どうか正直な事を云つて下さい。あの美しい空の色を何と歌はうとしてゐるか、とか、あの紺碧の水を渡る白鳥について、とかと、ね、貴方の眼に写つた儘でも……それが貴方の詩となり歌とならなければならないのです、ですから――貴方の今の瞬間の気持をどうか正直に云つて下さい。」
「僕は、今頼むだ子供が早く煙草を買つて来て呉れればいいと思つてゐます。」私は、思つてゐる事を正直に云へと云はれましたので、正直に答へました。
「へえ」その人は大変に驚いた。と云ふ顔付をしました。

「貴方は芸術家にならむがために文科へ通つてゐらつしやるのでせう。」その人は親のやうな威厳を示して云ひました。
「まあ……そんなやうなつもりで。」私は心から恥入つて――仕方がなく、ニヤニヤ笑ひながら答へました。
「貴方は詩人じやないのですね。」その人は勝ち誇つたやうに云ひました。
「……まあ、そうですかね。」私は悲しい気持(?)になつて答へました。

「私は貴方のやうな非芸術的な――似非詩人とは絶交します。」その人は行つてしまひました。

 私は砂をはらつて立ち上りました。浜風がそよそよと吹いてゐましたので、私はうまく煙草に火がつけばいゝが、と思ひながらマツチをすりました。舌がピリピリしたので、ペツと唾を吐きました。



牧野信一 『I Am Not A Poet, But I Am A Poet.』 (改行の一部は引用者による)






どうでもよいが辟易させられる年賀状とフェイスブックの共通点

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 先週の金曜日から、毎年恒例の「年末年始激鬱祭り」が始まっている。

 ただでさえ冬季うつが2週に1、2回のペースで起こっているのに、年末年始の鬱は症状が重く、状態も普段より長引く。しかもどういうわけか、毎年この時期になると、必ず激しい発作が訪れる。

 鬱病患者にはよくある話だが、行事だとか節目の時期になると思わぬ形でひょっこり病がやってくるというケースは非常に多い。僕にとってそのパターンは年末年始が当てはまる。
 なぜそれが年末年始なのか、直接的な理由は自分でもよく分からない。
 だが間接的な理由を考えれば、昔から年末年始には自分が嫌ってきたアイテムが集中しているから、ということが考えられる。
 紅白歌合戦だとか、年賀状とか。おせち料理とか。
 特段、「おめでたい」という理由が個人的に持ち合わせているわけでもないのに、世間からの同調圧力で「おめでたい」時期なのだということを受け入れさせられる。
 そういうのが昔から嫌で嫌で仕方なかった。

 だが、そういう嫌悪感を「世間が勝手に騒いでいること」として理解することで大人としての克服が出来るようになってからも、身体的には結果として毎年やはりこの時期には重い鬱が反復的に襲ってくるのである。

 大嫌いな紅白は見なければ済む。だが、おせちと年賀状というアイテムは逃れようがない。

 鬱病患者仲間の一人はある年から徹底して返事を書かないようにしたら、まったく賀状が来なくなって「気が楽だ」という。だが義理とかしがらみを妙に大事にしてしまう僕には、まだそこまでするほどの勇気はない。

 しかし実際のところ、自分の子供を写したテンプレのような年賀状を、激鬱状態のときに見ることほど苦痛なことはない。子供を見せて、何を思えというのか。ああいう賀状の意味は子供を持たない僕にはどうにも理解しがたい。あれって、やっぱ、自慢めいた心情が働いているのか?

 僕のことをほとんど知らない人は仕方ない。でも、ルサンチマンと言われたって構わないが、僕の生活状態をうすうす理解していながら、妻子のいない僕に子供を大写しにした年賀状よこすのって、「俺を自殺させたいのか???」という被害妄想が起こるほど、不条理極まりないものなのだ(だいたいそういう賀状に限って手書きの添え書きなどがない)。
 そりゃあ、普通は年賀状のテンプレを一つに統一して出すものかもしれないけどね。俺は出す相手の個別な事情に配慮してデザインとか変えたりしてたけどね。

 だいたいさあ、俺は年賀状をくれる相手と関係性があるんであって、その子供だとか配偶者とかどうでもいんだよね。なのに絶対子供の写真付けて送ってくるのって、あれ、フェイスブックに自分が食べたものの写真をアップする自己満足と同じだよね。

 人並みのことをしていないと不安になる人って、友達にしたくないタイプなんだけど、どいつもこいつも子供が出来たら僕に見せたくなるんだから、うんざりだね、ったく。

 あと、うちの親父なんかもそうだけど、手書きを入れない程度の相手ばかりなのにやたら大量に賀状を出すのも、SNSで友達の数を競う心理と似てるよね。
 親父なんか退職してもう10年近いのに、いまだに100枚ぐらい刷ってるよ。ええかげんにしろや。


 
 大晦日に上姉とつかみ合いの大喧嘩をする。

 姉の言葉の暴力に完全に切れてしまい、2、3発平手でしばいて、髪の毛を掴んで振りまわした。姉は110番したが、母が電話を代わって、留置所に入らずに済んだ。
 仲直りどころか、あの日以来、まだ姉の姿すら見ていない。

 喧嘩の理由なんて具体的なことは大したものでもないが、要するに積年の憤りが年末にメガトン級の大爆発を起こしたのである。
 母や次姉から暴力を責められたけれど、だいたい女なんてのは言葉の暴力がどれだけ人を傷つけるか意識せずに肉体の暴力だけを問題視する。だから女たちは、いつまで経ってもねちっこい動物のまま、進化しないのだ。

 親たちが死んだら、姉どもによって家から追い出されて、医療保護入院か生活保護の暮らしに追いやられるかもしれない。

 それまでにネットに詩を全部アップして、作りかけの自主映画を完成させて、あとは気楽に野垂れ死にしよう。

 葬式では『お富さん』を友人に流してもらって、「死んだはずだよ、ひまこさん♪」てな感じで、にぎやかに見送ってもらおう。





単独者

Posted by Hemakovich category of Poetry on


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In this instant, we ignore the die uselessly in vain of somebody
intentionally just now.

In spite of apathy to you, are there really people needing your place
after your death?




た   と

世   え

界   や

の   僕

幾   つ

が   か

今   に

こ   も

の   瞬

に   間

後   ろ

き   向

に   唐

な   突

終   わ

を   り

迎   え

も   て

か   ま

し   や

な   い






When the truth keeps silent, all the entities engineers to liquidate you
except an inner voice in you.

While remaining silent about the truth, you will have to keep alive
in front of God as den Enkelte all alone.








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