Hemakovichの半永久的平坦な戦場

パニック不全神経症者が落ちてゆくカムフラージュ

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生きる事がすなわち表現する事に終わるのではないのか

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     一

 我々は創作者として活(はた)らく時、その創作の心理を観察するだけの余裕を持たない。我々はただ創作衝動を感ずる。内心に萌え出たある形象が漸次醗酵し成長して行くことを感ずる。そうして我々はハッキリつかみ、明確に表現しようと努力する。そこにさまざまの困難があり、困難との戦いがある。しかし創作の心理的経路については、何らの詳しい観察もない。創作の心理は要するに一つの秘密である。

 しかし我々は「生きている。」そうしてすべての謎とその解決とは「生きている」ことの内にひそんでいる。我々は生を凝視することによって恐らく知り難い秘密の啓示を恵まれる事もあるだろう。

 昨夜私は急用のために茂った松林の間の小径を半ば馳けながら通った。冷たい夜気が烈しく咽を刺激する。一つの坂をおりきった所で、私は息を切らして歩度を緩めた。前にはまたのぼるべきだらだら坂がある。――この時、突然私を捕えて私の心を急用から引き放すものがあった。私は坂の上に見える深い空をながめた。小径を両側から覆うている松の姿をながめた。何という微妙な光がすべての物を包んでいることだろう。私は急に目覚めた心持ちであたりを見回した。私の斜めうしろには暗い枝の間から五日ばかりの月が幽かにしかし鋭く光っている。私の頭の上にはオライオン星座が、讃歌を唱う天使の群れのようににぎやかに快活にまたたいている。人間を思わせる燈火、物音、その他のものはどこにも見えない。しかしすべてが生きている。静寂の内に充ちわたった愛と力。私は動悸の高まるのを覚えた。私は嬉しさに思わず両手を高くささげた。讃嘆の語が私の口からほとばしり出た。坂の途中までのぼった時には、私はこの喜びを愛する者に分かちたい欲望に強くつかまれていた。――

 私は思う、要するにこれが創作の心理ではないのか。生きる事がすなわち表現する事に終わるのではないのか。


     二

 生きるとは活動することである。生を高めるとは活動を高める事である。従って活動が高まるとともに生の価値も高まる。人格価値というのも畢竟この活動にほかならない。活動の高昇はすなわち人格価値の高昇である。(もとよりここにいう活動は外的活動の意味ではない。全存在的活動、あらゆる精神力、肉体力の統一的活動である。)

 ところでこの活動は同時にまた自己表現の活動である。私の心がある人の不幸に同情して興奮する、私は急いでその不幸を取り除くために駈け出す。私の心が自然の美に打たれて興奮する、私は喜びを現わさないではいられない。すなわち我々の生命活動は何らかの形で自己を表現することにほかならない。

 我々が意志を持つ、そうして努力する。これすなわち自己表現の努力である。
 我々が感情を持つ、そうして喜怒哀楽に動く。これもまた白己の表現である。
 芸術の創作は要するにこの自己表現の特殊の場合に過ぎない。


     三

 生命全体の活動が旺盛となり、人格価値が著しく高まって来ると、そこにこの沸騰せる生命を永遠の形において表現しようとする衝動が伴なう。あらゆる形象と心霊、官能と情緒、運動と思想、――すべてが象徴としてこの表現のためには使役される。そこに芸術家特有の創作が始まるのである。

 第一に高められたる生命がなくてはならぬ。生の充実、完全、強烈、――従って人格価値の優秀……生の意義が実現せられ、人類の生活がそのあるべき方に、その目標の方に導かれて行く所の、白熱せる本然生活がなくてはならぬ。ここに何ものを犠牲にしても自己を表現しないではいられない切迫した内的必然が伴なって来る。次にはこの深い精神内容をイキナリ象徴によって表現し得る素質がなければならぬ。象徴を捕える異様な敏感、自己を内より押し出そうとする(戦慄を伴なうほどの)内的緊張、あらゆる物と心の奥に没入し得る強度の同情心、見たものを手の先からほとばしらせる魔術のような能力。――これが芸術創作における最も特殊な点である。(ここに恐らく天分の意義がある。人がこの方法によって自己を表現しなければならないのは、その性格にひそむ宿命に強いられるのである。)

 しかし、いわゆる創作が必ず右のようなものであるかという事になると、私はつまずく。我々の眼の前には、そうでないらしく思われる創作の方が多いのである。第一、ほんとうに生きようとしていないノンキな似而非(えせ)芸術家が創作をやっている。それを「ほんとうに生き」たくない読者が喜んで読む。そこに彼らの仕事が何らか社会的の意義を持つような外観を呈してくるのである。で、彼らは乗り気になって、自分がある事を言いたいからではなく読者がある事を聞きたがっているゆえに、その事をおもしろおかしくしゃべり散らす。純然たる幇間である。またある人はただ創作のためにのみ創作する。彼らの内には、生を高めようとする熱欲も、高まった生の沸騰も、力の横溢もなんにもなく、ただ創作しようとする欲望と熱心だけがある、内部の充溢を投与しようとするのでなく、ただ投与という行為だけに執着しているのである。従って彼らの表現欲は内生が沈滞し、平凡をきわめているに比べて、滑稽なほど不釣合に烈しい。

 表現を迫る内生とその表現の方法との間にかくのごとき虚偽や不釣合があり得るとすれば、私が芸術創作について言った事は一般には通じない事になる。すなわち我々はいわゆる創作と呼ばれるものの内に、真の創作と偽りの創作とを区別しなければならない。そうしてただ正直な高貴な創作をのみ真の創作として取り扱わなければならない。この貴族主義的な考え方は近代の心理学的方法とは背馳するが、しかし創作の事については実際やむを得ないのである。

 しからば何によって創作の真偽、貴賤、正直、不正直を分かつか。生きる事が自己を表現することであり、その表現が創作であるならば、いかなる創作も虚偽であり卑賤であるとは言えないはずではないか。

 それはただ表現を迫る生命とその表現方法との関係において(その関係の正不正において)、見るほかはない。人間には感心しない物を感心したらしく詠嘆する能力がある。少しく感心したものをひどく感心したらしく言い現わす能力もある。人によれば自分の感じたことをわざと抹殺しようとする習慣をさえ持っている。あるいはほとんど無意識に自分の感じた事の真相から眼をそむける人もある。これらの事実は表現の虚偽をひき起こさないではやまない。

 表現を迫る内生はそれにピッタリと合う表現方法を持っている。この関係を最も適切に言い現わすため、私はかつて創作の心理を姙娠と産出とに喩えたことがある。実際生命によって姙まれたもののみが生きて産まれるのである。我々は創作に際して手細工に土人形をこさえるような自由を持っていない。我々はむしろ姙まれたものに駆使されその要求する所に無条件に服従するほかないのである。

 特に芸術のごとき複雑困難な表現手段を必然的に必要とする内生は、非常に高められたものであるとともにまたきわめて繊細なものである。その表現に際して虚偽を絶対に避けるためには、姙まれたものに対する極度の誠実と愛と配慮とがなくてはならぬ。――もともと姙まない者が、すなわち高い深い内生を、生命の沸騰を、持っていない者がそれを持っている者のごとくふるまい表現しようとするごときは、頭から問題にならない。しかし何事かを姙んだ者が、ただその産出の手ぎわと反響とのみに気をとられて、姙まれた物に対する正直と愛とをゆるがせにする事は、きわめて陥りやすい邪路として厳密に警戒されなければならぬ。ただ正直に、必然に従って、愛の力で産む、――そこにのみ真の創作があるのである。

 さらにまた芸術の創作については、大いなる者を姙むことが重大である。すなわち自己の生命をより高くより深く築いて行くことが、創作の価値をより高からしめるためには必須の条件である。人は偉大な作品を創(つく)りたいという気をきわめて起こしやすい。しかし偉大な表現はただ偉大な内生あって初めて可能になるのである。何を創作したいという事よりも、まずいかに生きたいという欲望が起こらなくてはならない。人は第一に生きている。表現はその外形である。我々のなすべき第一の事は、決然として生の充実、完全、美の内に生きて行こうとする努力である。



     四

 我々はもういくらかの人生を見て来た、意欲して来た、戦って来た。その体験は今我々の現在の人格の内に渦巻きあるいは交響している。我々の眼や我々の意欲は、このオーケストラを伴奏としてさらに燃え、さらに躍動しようとする。そうしてこの心は自らを表現しないではやまない。たとえ我々の生命の沸騰が力弱く憐れなものであるにしても、我々はなお投与すべき力の横溢を感ずる。我々は不断に流れ行く自己の生命を結晶せしめ、我々のもろい生命に永遠の根をおろさなくてはならぬ。しかし我々はさらに昇るべき衝動を感ずる。我々はさらに見、さらに意欲し、さらに戦わねばならぬ。我々の表現すべき内生は真理の底に、生命の底に、まっしぐらに突進して行く奔流のごとき情熱である。岩壁に突き当たって跳ね返えされる痛苦を、歯を食いしばって忍耐する勇気である。我々の血は小さい心臓の内に沸き返っている。我々の筋肉は痛苦の刺激によって緊張を増す。この昇騰の努力を表現しようとする情熱こそは、我々が人類に対する愛の最も大きい仕事である。



和辻哲郎 『創作の心理について』 (改行の一部は引用者による)






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新しい動画をアップロードしました #11

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 新しい動画と言っても夏頃に完成していた作品で、自分の中では良い評価を下せないものなので、今までブログでお知らせせず、完全放置していた。
 だがもうすぐ今年も終わるので、ほったらかしに製作年が過ぎるのも良くないので、一応ご報告しておきたいと思う。

 今年の春ぐらいまで僕はInterPalsという海外のSNSで日本好きの外国人と交流していたが、その中に田村隆一の詩や今村昌平の映画とかエヴァンゲリオンが好きだという、映画専攻の大学生であるチュニジア人女性がいた。

 彼女はポエトリーリーディングが好きで、シルビア・プラスとか、大半が僕の知らない西洋の詩人の作品の朗読を録音して、音楽交流SNSにそれらをアップロードしていた。
 僕と出会ったとき、彼女は日本語詩のリーディングに幾つか、初めて挑戦したのだが、その一つがエヴァンゲリオンの登場人物だとかいうレイの詩的内容の台詞だった(このアニメ、嫌いなので僕は全然何も知らない)。
 
 その「レイの詩」をリーディングした録音、彼女の声だけのファイルを僕がいろいろエフェクトしたり音楽や効果音を付けて切り貼りしたりといった編集を加えて、作品作りに協力した。
 結果的にその編集音源は彼女に採用されることはなかったが、僕は自サイトにアップロードしてブログで紹介した(その音源公開ページがこちら)。 

 僕は自分が編集したチュニジア人女性のリーディング音源をサントラにして、一つの映像作品を作ろうと思った。そういう経緯で製作に至ったのが今回紹介する動画である。

 この辺の経緯のもっとつっこんだ詳細については、過去のブログ記事に書いてある。

 ネットを信頼する人間ほど信頼できない相手はいない - 2014年5月22日
 エヴァンゲリオンに横たわる解離性障害的なもの - 2014年6月1日

 動画作品の構成としては、
 「チュニジア人のリーディング音声」 + 「僕の詩のテロップと静止画」 という重なりにして、2つの詩が一つの動画の中に同居混在するような、そういう作品内容に努めた。

 その結果が下記の動画である。





この動画をYouTubeサイト内で見るにはこちら
大きい画面で見るにはこちら


Facebookにアップロードした同作品を見るにはこちら
(Facebookをやってない人でも見れます。YouTubeより画質が綺麗であるという人もいます)



 この作品のタイトルは、『解離生活アカウントフェノミナ』である。
 英語タイトルまで考案したのだが、“This is the newest format called "you" that you want”と命名した。

 チュニジア人女性が関わったのは朗読音声のみで、他の作業は全部、僕が一人で数週間かけて製作し、7月に公開している。

 技術面の、やや専門めいた話だが、この動画はアドビ社のAdobe Premiereのみを使った初めての作品である。今までは旧ユーリード社のVideoStudioをメインで使っていて、Premiereは主に作品完成後のエンコード作業の部分で使用していた。
 今回はすべての作業をPremiereに初めて頼ったわけなので、わからないことだらけ、暗中模索で七転八倒するような作業であった。
 今までの作品と比較すると、クオリティが落ちているように見えるのは、すべて僕がPremiereに関して未熟な初心者であったことが原因だ。やりたいことはあっても、「出来ない」ので諦めたことがいっぱいある。

 また、この動画はテロップ(僕の詩)を表現のメインに据えるという手法を使った点においても、僕にとって初めての試みであった。
 詩の文字をどのように動画で具象化するか、またそれをどの程度Premiereで僕が表現できるか、そのどちらにおいても習熟度が足りないので、結果として面白みに乏しい作品になってしまった。僕がこの作品の存在を今まで封印し続けてきたのは、この理由に尽きる。

 なお、映像化した僕の詩は全文英語なのだが、これは以前、『私は私のなかに私でない人を感じる』というタイトルでブログに掲載している。
 ブログ掲載時に日本語訳を併記しなかったのは、比較的平明な英文であったから、また、英文だけの作品の雰囲気が「絵」として映えるような気がしたからである。
 後に、この詩の日本語訳を僕はブログに載せているけれども、このときに初めて『解離生活アカウントフェノミナ』というタイトルを使って、英文詩とは独立した別作品として扱っている。
 
 『私は私のなかに私でない人を感じる』と、『解離生活アカウントフェノミナ』は、文章の意味に若干の差異はあるが内容はまったく同じである。
 なのに、これらを別作品としたのは、文章が眼に入ってきたときのヴィジュアル感覚によって、受ける印象が変わる可能性があると考えたことによる。
 
 つまり、この動画は『私は私のなかに私でない人を感じる』という詩を動画化して、その日本語訳である詩の『解離生活アカウントフェノミナ』という題名を動画作品のタイトルにしたものだ、ということになる。
 なんか、ややこしい話であるが。

 
 最初に述べたように、この動画はチュニジア人女性が朗読した詩を音声として、僕の詩を視覚にして、2つの詩が作品内で同居するような形をとっている。
 視覚として使用した僕の詩は、彼女が朗読したエヴァンゲリオンの「レイの詩」の内容と、それを好んで朗読する彼女自身を「批評」したようなテーマ性を帯びている。

 では、その「批評」とかテーマ性とはどういうものなのか。
 それを説明すると拙くなるから映像で作品化したわけなので、野暮に説明はしない。

 ただ、映像や詩のタイトルに「現実生活と解離したアカウントに依存する現象」という意を付与したように、直言すればんターネットと現実との相関関係について作品である。
 数年前に英文で詩を書いていたときから、ずっと僕の関心にあるのは、アカウントと実在が乖離していく現在の諸相についての事柄である。

 外国人が朗読した日本語の詩を、動的表現する別の詩を交えながら1つの映像にするというコンセプトは実はだいぶ以前から持っていて、InterPalsで出会った日本語専攻のフランス人女性に交渉していた。 
 だがいろいろな経過をたどって、そのフランス人より日本語が上手いチュニジア人と知り合い、彼女がたまたまポエトリー・リーディングを得意としていた、という幸運な状況が生まれた。

 チュニジア人が「レイの詩」の朗読を聴かせてくれたとき、それを基にした映像製作の構想は浮かんだが、映像を作る以前に僕とチュニジア人の関係はすでに崩壊してしまっていた。
 だからこそ、動的表現をする別の詩は彼女のことを対象化したものが素材になったという経緯がある。

 映像に流した詩、その日本語訳で描いた人物とは、そのチュニジア人のことであり、僕の嫌いな僕の一部分のことでもあり、僕が憎悪する人々のことでもある。
 また、朗読される「レイの詩」の構成を為す何かのことでもある。

 僕はそれらを否定している。否定が作品の動機のすべてである。

 今まで短い尺度のビデオクリップ形式の作品は幾つか作ってきたが、これだけテーマ性をはっきり見定めて意味を込めて映像で語ろうとしたのは、これが初めてかもしれない。

 その割には、映像のクオリティ、表現の質は実に凡庸で面白くないものに留まってしまった。いや、返す返すも残念で仕方ない。


 
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「犯す前に犯すなんざ言わねえぜ」レジームのハーフタイム

Posted by Hemakovich category of Poetry on


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あちゃ~、      あちゃ~、       アチャー!!


ごめんなさい、    御免なさい、      誤面な妻!!




「ボクちゃん、わるくないもん!!」




神童並みの低脳は 神道のムスコで強硬派




七光りが三光りする弱い文明で




よってたかって三面紙の3Pが酸鼻を極めます 




格差バンザイ突撃で 華と散るなら




イチゴを半分こにする  バラエティ見ながら餓死します




オツムは薄いけど オムツが分厚いと評判です




ヤバイ  クスリ  ニ   バイヤー  クスリ(^^ゞ




20%カットの値札奴隷が 2%上昇のパンの耳にたちすくんで




不健康なユルキャラが 不健全なテレコンで 非常識  買ってます




気取った  無言民の  ニヒルな  アヒルの  真昼




慎太郎刈りだぜ  キルゴア中佐




キューピーちゃん と ヲタデブメガネ は 臭い仲




沿線沿いのアジ声鬼子 が 叫んで犯す 
   



みんなで   襲えば    ちびらない




みんなで   黙れば    こわくない




未来志向が  現在に  反復横飛び転進を指令します




電脳エイジが 未来の嬰児の 戦死メール受け取って 



アパートヘイトは  カレーぱんちゅで 灰燼に帰宅




ア、ホ~レ~♪   大東亜 ホ~レ~♪



          プロパガンダー!


                ぷろぱんがすだ~!


                     プロレがガンだ~!


                           俘虜はガンダ~ラ!   





いちご白書は髪を切っても 防衛白書がルンバして




巣鴨番外地以来のカタワが しがみついて離れません




やがて




故・げっぺるす師匠も感涙ハンカチ三枚熱演の集会で  シメられます




もう




「いやん!」




慰安シリコンの乳首の声も  赤色円形脱毛症です




いつまでも




極東の極道の報復をば  




させていただきましょう




はじまりのことを




あの夜の電話・・・・・・・・・・     




あの世からの電話・・・・・・・・・・




おかずに事欠く オガクズどもよ




まもなく  排便痢のラッパがなって




「犯す前に犯すなんざ言わねえぜ」レジームの  ハーフタイムが終わります。






まるで滝行でもやっているかのような無依存

Posted by Hemakovich category of Mind on


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 一日の最高気温が一桁になってから、冬季うつが一段とひどい状態になってきた。

 本当は鬱のことなどブログに書きたくないし、もっと他に書いておきたいことがあるのだが、思考力が落ちて混迷している頭では、気分を抜きにして物事を理性的に考えるのは困難である。

 最近は週に3~4日くらい抑うつに襲われるパターンが、2週間おきぐらいのペースで反復される。抑うつになるのは決まって週末である。
 今回の総選挙だが、13日から鬱が襲ってきたため、14日の投票には行けなかった。期日前投票を済ませてこなかったことが悔やまれる。選挙権を行使しなかったのは今回が初めてだ。

 
 今年を振り返ると、2014年は「孤独症」的傾向がより増加した一年であったように思う。

 「孤独症」というのは便宜的に名づけているのだが、要するに、人に会わないし連絡を取ろうともしない状態、そんなコミュニケーション不足の状況に自らを追い込もうとしてしまう、自虐的悪癖のことを指す。

 いわゆる「引きこもり」とは少しニュアンスが違う。用事があれば外出するし、自分に必要なことは自分でできるし、そのために必要な社会的コミュニケーションには何ら困るところはない。精神保健福祉的な言い方をすれば、SSTを必要としないだけのスキルはあるということだ。

 ただ、友達を求めようとしないし、旧交を温めることもしようとしない。ネットであっても「人を求める」ことをしない。

 むしろ、自ら率先して自分を孤独な状態に置いておこうとしてしまう、そんな自虐行為である。

 InterPalsのアカウントを消してから、ネット上の知人とは誰とも話さなくなったばかりか、リアルの友人とも一名を除いて交流しなくなった。その一名は病院の患者仲間で、通院日に必ず会うから話しているという消極的理由しかなく、家族以外の他人ではその患者仲間と主治医以外とは、対話といえる会話をしていない。
 
 旧友からメールが来ても数ヶ月ぐらい返事を出さない状態で、関係が自然消滅しそうでヒヤヒヤしているのだが、それでも返事を書こうとしない。
 メールでも出して近況を聞きたい人はいるのだが、こっちから全然メールを出さないから、相手からも来ない。

 なぜそういう「孤独症」に陥るかというと、自分が自分をそういう状態に置いておこうという意思が働いてることに他ならない。
 別にそうしようとする積極的な理由も欲求もないのだが、気がついたら、誰とも対話せずに数ヶ月経っている、結果的にダラダラとそういう状態で過ごしてしまった、そんな感じなのである。
 それに、交友関係を絶って「鎖国状態」に自らを置くことに対して、僕はまるで滝行でもやっているかのような、修行をしている感覚がある。それが美徳のように感じているわけではないが、苦しいときや寂しいときほど独りで耐えることが最善であるかのように頭にインプットされてるような節がある。


 僕は人間嫌いではないし、むしろ他の人の数倍くらい寂しがりやの性格である。それなのに「孤独症」に陥ってしまうのは、その原因もやはり鬱病がベースとなっている。

 元来は社交的で、友達関係を築くのが苦手というわけではない。むしろ、学生時代はたくさんの友人に恵まれたと思うし、大学以降も新しい環境ができれば、それなりに人間関係が自然と構築できてこれたと自負はある。

 ただ、学生のときに鬱病が発症して、その苦痛を他人に依存することで逃れようとして、さんざん多くの人に迷惑をかけた挙句、自殺未遂やら入院に至ってしまった。
 そのころの顛末がトラウマになって、自分から人を求めようとすることに怖気つくようになったといえるかもしれない。

 自分が一人でいて安定に努められているときはそのことが嬉しいと思ったりするし、鬱病で苦しいときは、苦しければ苦しいほど、ますます自分は一人で自分を救わなければいけないと思う。

 だが苦しいときに自分で自分を救うということと、一人でいようとするということは、本来無関係なことであるはずである。

 鬱病歴も長くなってくると、大抵のことは自分でケリをつけられるようにもなってくる。

 以前ならパニックのように発作的苦痛に襲われたら、必ず誰かに電話しようとした。だがそういう時に友人を頼りにする自分がだんだん嫌になってきて、一人で耐える方がマシであるように思うようになってきた。

 この2、3年、僕は人と電話で喋ったのは2回ぐらいだと思う。最後に電話で喋ったときは、ただの携帯電話だが、喋った後に端末の重さが原因で、翌日軽い筋肉痛になったぐらいだった。
 むかしはものすごい電話魔で、夜の9時ぐらいから翌朝まで話したりすることは頻繁にあった。通話料も最高で一ヶ月に18万円に達したこともある。

 そんなことも手伝って、人と電話で話すことが危険なことのように感じるに至っているのかもしれない。


 父の従兄弟が孤独死(餓死)で死んだとき、僕は自分の将来を見る思いでそれを受け止めた。

 そのおじさんのような死に方が存在することは、ある意味社会全体が病んでいる兆候であるとも思うし、そういう社会の質的貧しさを僕は絶対に肯定することはできない。

 しかし、僕はあまりにも多くの、長く精神病を患った人の孤独な終末の迎え方を見過ぎてきた。

 そして、自分を否定させないためと自分を覚悟させるために、孤独な終わり方をして逝ってしまった人の生に尊厳を見つけようとして、あらゆる生の形に結果としての肯定を付与していこうと思い続けてきた。

 そういう話をずっと前の彼女に話したら、「あなたの考え方は死に向かってる考え方だ」と言われて、今でもそう言われたことを腹立たしく思っているけれど、悲観に過ぎると思えば、たしかに僕の考え方は実際そうかもしれない。

 
 僕が患ってる気分変調症の一般的な傾向として、自分にとって特別な人間関係に関して常にカタストロフィックな際に立って気分が流されて、諦観・厭世的な思考となって反映されるという部分はある。

 だが、自分が把握している現実の悲観的諸相がまったく事実と相反しているとは、どちらかといえばリアリストの僕にはそうとは思わない。

 おおざっぱに表現して、「世界は哀しすぎる」ものだと、基軸でそう捉えて、そこからいつも僕の感性が始まっている。





それは一種のエレベーターのようなものかもしれない

Posted by Hemakovich category of Quote on


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 百貨店のひどく込み合う時刻に、第一階の昇降機入り口におおぜい詰めかけて待っている。

 昇降箱が到着して扉(とびら)が開くと先を争って押し合いへし合いながら乗り込む。そうしてそれが二階へ来ると、もうさっさと出てしまう人が時々ある。出るときにはやはりすしづめの人々を押し分けて出なければならないのである。わずかに一階を上がるだけならば、何もわざわざ満員の昇降機によらなくても、各自持ち合わせの二本の足で上がったらよさそうにも思われる。自分の窮屈は自分で我慢すればそれでいいとしても、他の乗客の窮屈さに少しでも貢献することを遠慮したほうがよさそうにも思われる。

 それほど満員でない時に、たとえば三階四階間の上下にわざわざ昇降機を呼び止めて利用する人もある。この場合には自分のわずかな時間と労力の節約のために他の同乗者のおのおのから数十秒ずつの時間を強要し消費することになるのである。これも遠慮したほうがよさそうに思われる。

 しかし、昇降機のほうから言えば何階で止まるも止まらぬのもたいした動力のちがいはないであろうし、それが違ったところで百貨店の損益にも電力会社の経営にも格別重大な影響を及ぼす気づかいはないであろう。また運転嬢の労力にしたところで二階で出る人のために扉(とびら)を開閉するのも二階ではいる人のために扉を開閉するのも同じであるからこれも別に問題にはならない。

 同乗客の側から言っても、他の便利のために少しの窮屈や時間の消費を我慢するくらいなことは当然な相互扶助の義務であろうから、なんの遠慮もいらないわけである。押し込まれるだけ押し込んでただ一階でも半階でも好きな所で乗って好きな所でおりればいいのである。また押し合いへし合うことのきらいな人間は遠慮なく昇降機を割愛して階段を昇降すればよい。それで問題はないのである。

 ただ問題になるのはこの昇降機というもののメンタルテストの前に人間が二色に区別されることである。

 何事でも人の寄る所へは押し寄せて行って群集を押し分けて先を争わないと気の済まない人と、そういう所はなるべく避けて少々の便宜は犠牲にしても人をわずらわさず人にわずらわされない自由の境地を愛する人とがある。この甲型の人の目から見ると乙型の人間は消極的退嬰的(たいえいてき)な利己主義者に見える。しかし乙はその自由のためにかえって甲の先をくぐって積極的に進出する事もあるし、自分の自由を尊重すると同時に人の自由を尊重するという意味では利他的である。反対に乙型の人間から見れば甲型の人々は積極的なようではあるが、また無用な勢力の浪費者であり、人の迷惑を顧みない我利我利亡者(がりがりもうじゃ)のように見える。しかし甲はまたある場合に臨んで利害を打算せず自他の区別を立てないためにたのもしくあたたかい人間味の持ち主であることもありうるであろう。それはとにかくこの二つの型が満員昇降機のテストによってふるい分けられるように見えるところに興味がある。

 それとはまた別のことであるが昇降機の二つ三つ並んでいる前に立って、扉(とびら)の上にあるダイアルに示された各機の時々刻々の位置の分布を注意して見ていると一つの顕著な事実に気がつく。それは、多くの場合に二つか三つの昇降機がほとんど並んで相(あい)角逐(かくちく)しながら動いている場合が多いということである。理想的には、たとえば三つの内の一つが一階にいるときに他の二つはそれぞれ八階と四階のへんにいるほうがよさそうに思われる。換言すれば週期的運動の位相がほぼ等分にちがっているほうが乗客の待ち合わせる時間を均等にし従って乗客の数を均等に分布する点で便利であろうと思われる。しかし実際には三つがほぼ同時に同じ階を同じ方向に通過する場合が多いように思われる。もっともそういう場合だけに注意を引かれ、そうでない場合は特に注意しないために、匆卒(そうそつ)な結論をしてはいけないと思って、ある日試みに某百貨店で半時間ぐらい実地の観測を行なってみた。観測の方法は、鉛筆と手帳をもって、数秒ごとに四つの昇降機のダイアルの示す数字を書き取るだけである。この観測の結果を調べた結果はやはり実際に予想どおりの傾向を示している。

 こういう現象の起こる原因は割合に簡単であって、ちょうど電車が幾台もつながってあるくようになるのとほぼ同様な原因によるらしい。すなわち、偶然二つが接近して同方向に動くようになるとそれからは、いつでも先へ立つほうが乗客の多いために時間をとってあとのを待ち合わせるような結果になるからである。これも結局は、多くの人間がただ眼前のことだけを見てその一つ先に来るものを見ようとしないことを示す一例に過ぎないであろう。これと似たことが人生行路にもありはしないかと思う。

 それはとにかく、先を争うて押し合う心理も昇降機の場合にはたいした恐ろしい結果は生じない。定員人数の制限を守りさえすれば墜落の恐れはめったにない。しかしこの同じ心理が恐るべき惨害をかもす直接原因となりうるのは劇場や百貨店などの火事の場合である。その場合に前述の甲型の人間が多いと、階段や非常口が一時に押し寄せる人波のために閉塞(へいそく)して、大量的殺人現象が発生するのである。

 しかし、また一方、この同じ心理がたとえば戦時における祖国愛と敵愾心(てきがいしん)とによって善導されればそれによって国難を救い戦勝の栄冠を獲得せしめることにもなるであろう。

 しかしまた、同じような考え方からすれば、結局ナポレオンも、レーニンも、ムソリニも、ヒトラーも、やはり一種のエレベーターのようなものかもしれないのである。



寺田寅彦 『蒸発皿』 「二 エレベーター」 (改行の一部は引用者による)






「反射的」な人間はバカをみるかもしれない

Posted by Hemakovich category of Diary on


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 数週間前から、新聞を読むのを一切やめた。

 冬季うつに入ってから、新聞の見出しの文字を見るだけで憂鬱になるようになった。見出しの一行の言葉にすら、そこには気分を一気に塞ぎ込ませるだけの強度があり、厭世的な世界がすべてを圧倒するかのごとく、映し出されている。

 たまには「幸福」を模った記事を一面に持ってくることもあるのだが、世間の「幸福」と僕にとっての切実さは合致しないことが多くあるらしい。
 ノーベル賞の授与式なんて、なんであれがあんなに喜ばれることとして騒がれるのか、まったく理解できない。あれを観て冬季うつから解放されるなら幾らでも観るだろうが。

 新聞を読むのをやめると同時に、政治的な話題をブログに書くのも抑制するようにしている。

 文句を言いたいことはたくさんある。だが陰気に思ってることをブログに書き散らすのは負荷を自分に背負わせることでしかない。
 ただ、ブログには書かない代わりに、家族が政治的な話題を団欒の場に持ち込むと、途端に亡霊のように攻撃的な精神に切り替わる自分が存在している。

 「なんでこれだけ物価が上がってきているのに自民党政権を支持する人が減らないのか、理解できない」と、先日母がぼやいていたので、

 「まあ、自民党政権を生き延びさせて、とことん生活が苦しくなって、国民が自分の首を自分で絞めるような具合になった方がええんちゃう? この際。行くところまで行ったらええんや」

 「日本人はとことん塗炭の苦しみを味わんかったら、物事が分からへんのとちゃうか? 前の戦争やって同じやん。今は戦争反対とかみんな言うてるけど、もしアメリカと戦争して原爆まで落とされたりされへんかったら、戦争反対とか言わへんかったと思うで。南京陥落したときは提灯行列ができたぐらい喜んどったんやしな。 結果として言うなら原爆落とされても仕方なかったと言えるかもしれへんで」

 こんな具合でヤケクソのように前から思ってたことを話したら、「被爆者の人のこと、考えや!!」と、激しく叱られた。

 だが叱られたとしても、自分がそれほど間違った理屈を披瀝したようには思えず、理屈としては理にかなってるという感覚が自分のなかにあったので、「でも誰にも理解されへんやろな」という無力感だけが残った。

 原爆を落とされたことは悲劇であるが、原爆を落とされるまで政府や軍部に戦争を続けさせたのは国民であって、あれだけひどい目に遭いながら、幾ら強権的な時代であったとはいえ、革命どころか暴動も起こらなかったというのは、ちょっと常軌を逸脱した国民性と感じられなくもないということを、いつごろからか考えるようになった。
 そういう異常な従順さが数十年で変わったふうにも感じられず、とどのつまり、経済的失政をうすうす感じつつ、それでもなお今の異常な極右的政権を支持する異常な国民性は、戦時期にみられたそれと同根のものではないかと思えてならない。

 それはともかく、上記のように激しい論調でものを言うと、きまって母に言われるのが、

 「インターネットやらやってる人間はみんな人を不愉快にさせることを言うんが好きなんやな。従兄弟の健史くんとあんた、おんなじやわ」

 ということなのだが、それを言われると僕はいつもどうにも腹が立って仕方なくなるのである。

 まず、母の中で「インターネットをやってる人」というものに負のイメージがあって、それをなんでもかんでも十把一絡げにまとめて括る傾向があり、それが僕には不愉快なのだ。

 そして、それ以上に耐え難いのは、従兄弟の健史くんと同じ人間のように看做されることであり、これが一番我慢ならない。
 健史くんというのは僕よりずっと年長で独身の、東海地方の旧帝大出身というプチエリートなのだが、あまり働かなくて、パソコンを開けば「ネットしかやらない」人である。
 彼は「ネトウヨ」にも「ヲタ」にも一括りに分類できない人だが、スピリチュアルとか陰謀論が大好きな人で、そういう意味では「ネットをやってる人」にありがちなタイプなのだ。
 米軍は地震兵器を持っていて時折日本で「実践使用」してるだとか、2012年(は、もう過ぎたが)にはカタストロフィが起こって、自分みたいな霊性の優れた人間しか生き残れない、そういうことを考える人だ。だからその手の陰謀論や選民意識の話をさんざん聞かされて、母のなかで健史くんの評価が定まったわけである。

 だが母は「健史くんと話していると嫌な気分がある」という感覚を持ってはいても、「どうして嫌な気分になるのか」という理由を詰めて考えたりはしない。
 それゆえに僕が母にとって不愉快な話をすると、「ネットをやってる」という括りだけを持ち出して短絡的に「健史くんと同じ」という評定を故意に下して、僕に反撃するわけなのだ。
 そのレッテル張りの威力は僕にとっては凄まじく、「健史くんと同じ」と言われると論理的に話す上からの気丈さを一撃でぶっ壊される。

 僕がもし健史くんのようにネットをやっていて万能感を覚えるような人間であれば、母に不愉快と思われようとも逆にそれが「自分が偉い」ことの証明のように働いて、むしろ気分が良くなったりするんだろう。

 だが僕の場合、「ネットによって何でも知ってる」と思い込んでる人間であるかのように誤解されることは、単なる愚弄でしかない。

 僕は「なにかを知っている」という価値だけ単独で物事を評価することはまったく意味がないと常々思っている。ゆえに一番大事なことは、どういう筋道で物事を評価しているか、自分の考え方をどういうふうに工夫しているか(または表明しているか)、そういうことなのである。
 だがそこに力点を置きすぎていると、時々エキセントリックになって、そのことが僕の母のように反射的な感じ方が常識的だと思ってる人に「不愉快」と感じさせてしまうようである。

 そういう場合、考え方の筋道を訊いてもらえる段階まで至らないので、それゆえ僕の結論はいつも極端としか思われない。

 「正直者はバカをみる」という格言は嘘が言えないことは損だということを示唆しているとは思わない。

 正直にディティールを細かく明かすという行為が、いかに報われない結果に終わるか、そういうことを言ってるように僕には思える。

 人は誰でも細かいディティールの経過を経て結果を導き出しているはずなのだが、その経過に目をやることに関して怠惰であり、経過なんぞに意味を見いだそうとすることなどバカバカしいと、常識的にはそう考えられている。

 だがそういう方法を取ることは決してエキセントリックでも、特別な人間がやることでもない。誰でもできることだし、誰もが本当は持っていることなのだ。

 むしろ「反射的な人間はバカをみる」ということの方が真実としては頻繁にありがちなことのような気がする。新聞やTVなんて、反射的人間を大量生産する最骨頂ではないだろうか。

 反射の対象にのみ生かされるような貶められた人間こそが、とことん塗炭を舐める苦しみを経ない限り従順にバカであり続ける結果に向かう、そういうことになるんであろうか。





あなたは いま、わたしの運命の鉄筋コンクリートさんですか

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あなたは いま、

わたしの 運命の鉄筋コンクリートさん ですか?

あなたは いま、 あなたは いま。



あなたは いま、

わたしの 運命のヒキガエルちゃん なの?

あなたは いま、 あなたは いま、

あなたは いま・・・・・・
   


   

電報息子が銀河系から帰ってきて

ホット・ラヴについて語ったよ。

そりゃあ ホットな愛だった、

そりゃもう 戦車みたいによく燃える愛だった。

惑星女王は 宇宙舞踏を舞いながら、

「人生なんて たかがガソリンよ」

 と泣いた。

そうさ 彼女は ただ全焼するしかなかったんだ。


   
   

マンボに揺れる お日さまが、

恋わずらいの ウサギ戦士をからかった。

 「おお ベイビーちゃん、 なんててめえはストレンジなんだ!」

 「ああ ベイビーちゃん、おまえの人生はなんてディープなんだ!」

地下世界の無職紳士は ベイビーちゃんに求愛のブーメランを投げた。

スライダーで投げたのに チェンジアップだと言われちまった、

そうさ、奴は生まれたときから ボークだったんだ。

   


  
電気兵士が 宇宙船モノリスに乗って 火星に行った。

火星には 新装開店の ダイアモンドの牧場があるんだという。

ああ そこにはスリムなオメコの電気牝山羊が 生まれるらしい、

そこでは毎日 白鳥が牝山羊に跨がる愛の季節が 流れるらしい。

しかし火星に行っても 牧場も山羊も 愛の季節もなかった。

人面石のハイウェイをジープバスで疾走する 革命幼稚園児たちがいた。

子供ちゃんたちはジープスクールバスを走らせながら、

どこまでも 逃げていくのみだった。

そうさ 逃げなきゃならなかった、 

だって もはや生きてなかったのだから。


   

   
復讐のスペースボールに追われて ここまで逃げのびた おれは、

いま 生まれたてのブギーで あばずれ女のきみについて 歌っている。

ああ どこにもなくなった昔の話さ、

そう 美しい星になった死体のことだ。

激しく爆発して 素粒子へと消えゆく寸前のきみの唇が現れて、

残り火を灯すように 囁く。



  「歌ってよ、

   結末を 飲みほす前に、

   狂っちゃう前に、葬る前に。

   あの日の言葉、

   お願い、

   もう一度」



 だからおれは、

 もう一度あの歌を歌ってる、


   
   

あなたは いま

わたしの 運命のメランコリー だから。

あなたは いま、 あなたは いま、



あなたは いま

わたしの 運命の人 なのだから。

あなただけが、 あなたひとりが、


わたしには 

いま・・・・・・






『南極物語』を観て、2時間近く泣き続ける

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 ここのところTVは、ずっと高倉健の追悼映画上映週間みたいになっているが、TVは嫌いだが高倉健は好きだ。だから『南極物語』と『あ・うん』を観た。


 『南極物語』のことは先日ブログでもちょこっと触れたが、上映時間の3分の2くらいは、ずっとぼろぼろ泣いていた。あんまり泣きすぎて、しゃっくりと鼻水が出るほどだったのだけど、こんなのは初めて。

 多くの視聴者の例に洩れず、僕もこの映画を子供のときに映画館で観た世代である。初見のときも心を揺さぶられたのは間違いないのだが、泣くほどでもなかったんだがな。

 案外この作品は歳をとってから見た方が激しく情動に訴えかけられるのかもしれない。

 いろんな人間のいろんな死に様みたいなのを数多く見てきた齢の者たちにすれば、あの残留放棄されて南極の大地に投げ出された犬たちの運命は、まさに自分たちが見てきた人たちや、自分自身のこれまでやこの先を投影する象徴のように映るのかもしれない。少なくとも、僕はそんなふうに観ていたように思う。

 ネットに書き込まれたレビューを見ていると、多くの人たちが自分自身の愛犬の喪失体験を挙げていたが、僕はむしろ、あの犬たちのなかに自分自身を見る思いがしていた。

 20代の頃、ガンに罹った犬を相当長い期間をかけて看取ったことがある。

 末期のころになると本当に見ていられなくて、精神的にかなり思い詰めていた。犬の苦しみを楽にして死なせてあげるために獣医から安楽死を提案されたこともあった。
 家族のほとんどは安楽死の方に心が動かされつつあったのだが、一番看病する機会の少ない姉だけが倫理的に反するという立場で反論していた。現実を見ずに上っ面で物を言ってるように感じられて、僕は姉を殴った。
 そんなふうに家族の精神的きつさが頂点に達して関係に亀裂が走るほどにまで至った日のこと、犬は未明に息を引き取った。

 犬が死んだときに理解したのは、どうにも取り去ってやれなかった犬の末期の苦しみのなかに、同じ生き物として僕は自分自身がいつか迎えなければならない末路の姿を空想して苦悩したのだということだった。

 親鸞の説いた「他力本願」やキルケゴールが唱えた「宗教的実存」の意味を本当に理解した気がしたのは、その犬の死を看取ったときからだったように思う。
 自分の理知や賢明な努めによっても、自分の心を自分でどうにも救えないことが本当にあるんだと、如実に理解させられ、「おまかせするしかない」運命の開き方をも志向させられるようになったのは、それからだった。

 映画の中で、人間が残していったピース缶を力なく静かに舐めながら、鮮血に染まった身体を静かに横たえて死んでいった犬の場面なんかは相当に堪えた。

 だから実のところ、タローとジローが人間たちと再会した場面は、泣いていたけど、感動というのはなかったような気がする。
 感動というのとはちょっと違う、苦しみの最先端まで行き着いたときに訪れるような、哀しみを根源とする情動に突き動かされて泣かされたラストとして僕は見ていたように思う。

 今回、『南極物語』に大いに泣かされて気づいたのだが、僕の場合、感動して泣くことはないのだということだった。

 もっと明確に説明すると、喜びを根源とした感情で、「泣く」というような表現の形で情動が揺り動かされることなど、僕にはないのではないか、そういうことだった。

 今まで映画を観て泣いたり、実生活で感極まって「泣く」という表現の形を取ったときは、いつも僕は他者の哀しみに自分の感情が同化させられたり、ずっと苦しんできたことが堰を切って流れ出すように表面に溢れ出したときにだけ、泣いて来たような気がする。
 つまり、哀しみを根源とした感情と向き合っているときにだけ、僕には涙が必要とされるのだ。

 だから、
 「感動して泣くって、世間の人たち的にはどういうことなんだろう?」
 「感動したから泣く、ってどういうこと?」
 そんなことを少しだけ考え込んだりしてしまった。

 喜びとか解放感、美しいものや素晴らしいものを感じたときに、情動が動かされて、生きてるのが楽しくなるような、そんな文句なしになにもかもが嬉しすぎるときはあるし、そういうのが感動なんだってことは分かってる。

 でもそれが「泣く」要素になるってことは、「なにか違う」というのが僕のなかにはある。

 前に泣いたのはNHKのETV特集で、永山則夫を取り上げた番組だったな。あれはまったく「感動」とは程遠い番組だった。

 なんか『南極物語』の感想とかには全然なっていないのだが。

 感動っていう意味では、ヴァンゲリスのサントラがこんなに良いものだとは今まで感じたことはなかったので、再見して一番再評価させられたのは音楽だったかもしれない。
 映画を観終わった後で、ネットでサントラを探して全部聴いていたのだが、なんか、音楽だけでもとても奥行きのある広がりの映えた世界観を感じ取れるような、そんなすごい感動があった。

 誉めすぎと言われるかもしれないけど、『2001年宇宙の旅』とか『惑星ソラリス』のOSTを聴いているのと同種のテーマ性を持った音楽に触れてる印象があった。

 もしかしたら『南極物語』の話の肝というのは犬たちが極限の世界に直面する部分が重要なのであって、人間との再会というのは「おまけ」程度のものなのかもしれない。
 極限の世界が立ち現れることによって生の本質が浮かび上がってくるというふうな主題を設定してみたら、あれは犬であっても構わないが、犬を擬人化させた人間自身の物語を見ているような錯覚が起こってもおかしくない気がする。

 もしヴァンゲリスが『南極物語』のシノプシスのなかにそういうものをも受け取っていたんだとすると、当然その音楽は『宇宙の旅』だとか『ソラリス』のそれと同種の印象を刺激させられるものへと昇華させられるってことは十分にありうることだ。


 『あ・うん』についても書きたかったのだが、『南極物語』のくだりだけで文章量が膨らんでしまった。

 だから『あ・うん』の感想は、また今度、気が向いたらって、ことにしておく。





貧乏をなくす方法

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その日
学校では不安なざわめきが感ぜられ
私はいくつかのあわれなささやきに耳をいためた

つと立ち寄り
じっとその子の瞳をみていると
うちしずみものかなしいうったえるような色を浮べて
じっとみかえす

お前もか!
お前もか!
私は
うったえる瞳の奥にひろがる貧しい生活を思い浮べ
黙って生きてゆかねばならない
曇った運命をかなしんだ

先生!
蓄膿病ってなおるでしょうか?
淋巴腺、アデノイド、扁桃腺、中耳炎
みんなきりつめた様子で私をみつめるのだ
四十人中三十名
ものかなしい瞳の色が 今日
どうしてぬぐわれよう

朗々としみるような声が
くすぐるようにうつろにかわり
一節よんでは、はなをすすり始め
一句よんではとぎれ始め
だんだんとしわがれてくる
「もういい 代って」
そう言ったが
がばとうつぶし すすりなきにくれる
級長とその子
教室にたちこめてくる冷たい冷たい
涙のちんもくよ
私はかきむしられる心にむちうって立ち上った
そうして
子供たちに病気をなおす方法をとききかした



かんたんな塩のうがい法と

もひとつ

貧乏をなくす方法について



倉橋潤一郎 『身体検査日』 (改行の一部は引用者による)






安楽死自殺の公表という死のイベントプレエ

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 ずっと感じていた違和感がいったい何であったのかを明確に認識することができた。

 脳腫瘍のため余命半年を宣告された29歳米国人女性が、11月1日に医師から処方された薬を使って「安楽死」した事件についてのことである。

 世界に衝撃、米29歳女性の「安楽死」 - J-CASTニュース 14/11/4


 彼女は今年4月に余命宣告を受けてからその死までの間、フェイスブックやYouTubeを使って自分が安楽死することを公に宣言してきた。
 その、公に自殺を宣言してきたという部分が、どうにも受け入れ難いこととして僕に違和感をもたらしたのである。

 いわゆるターミナルケア(終末期医療)はより良く進めていくべきだと思うが、この女性が選んだような自然死を途中で回避した形での安楽死は、僕個人が同じ場面に遭遇したとしても僕は絶対にそれを選択しない。
 ただ、個人の意見としては安楽死は絶対悪だとは思わないし、そういう自殺行為を手伝ってくれる国や地域があったとしても、それが問題だというふうには考えない。

 ただ、安楽自殺したい人間は勝手に死んでいてくれていいから、どうか世間に意見など表明せずに静かにひっそりと自殺していって欲しいと願っている。

 29歳米国人女性はその点で完全なペナルティを犯して死んでいった。

 彼女が世界に向かって自分の安楽自殺をSNSを使って広めたことの中に、利他的要素は皆無であり、あれは彼女が自己満足と他者への一方的な承認要請を押し付ける動機からなされた行為だと僕は考える。
 たぶん彼女にとってSNSで自死をあのように公言することは、彼女のなかでは限られた範囲の人々に知らせる程度のライトな感覚であったのだろうと推測する。
 だがインターネット以前を知る僕のような世代にとっての「限られた範囲」は、29歳女性にとっては世界規模と言って過言ではない広さまで無尽蔵に拡大し、彼らにとってそれはちっとも怖いことではない。
 その無尽蔵な広さに驚愕や恐れを感じられないのは、技術に比例して、人間の知性が賢明になったわけでは全然ないからである。

 迷惑極まりない。自己の死に対する美意識を赤の他人に関わらせる構図へ誘導するのは、自己愛のエゴイズムでしかありえない。
 「許せない」とすら思う。

 自分の死を家族だけに共有してもらうことだけでは満足しきれなかったのか。

 SNSを駆使してまで安楽自殺を見知らぬ他人に共有してもらわなければ、その孤独さや恐怖を克服することができなかったのか。だったら彼女が自殺など最初から選ばなかった方が、他人にとってはマシだったはずである。

 もし自殺が彼女の自己愛の延長線上にある美的イベントの軽さしかなかったとすれば、そんなバカにSNSという手段を安易に利用できるようにした世界の商業性に問題があったとも言わなければならない。
 バカは決して一人ではないのだから、これからもこのような「告知プレエ」を楽しみながら、死をイベント化して、他人に不健全な感化を擦り付けながら自殺してゆく連中はきっと現れ続けるだろう。

 このニュースに最初に触れた瞬間に最初に感じた不健全の不快さは、園子温監督の映画『自殺サークル』を見たときの反吐を催したときの感じ、あれと似たようなものだった。

 これからは大手メディアが自殺報道を自粛し続けていくにしても、こういう自分がやっている行為の罪深さを自覚できないような連中によって、他人が簡単に人生の主題を短絡化させられる危険に吸い込まれる時代となるのだろう。

 

 僕の父の従兄弟は50歳半ばで誰にも看取られることなきまま、独居のアパートで、おにぎり2つ残して、数年前に餓死した。
 彼はフェイスブックやYouTubeなど縁がなかったばかりではなく、新聞のおくやみ欄にすら載せられず彼の死は親族によって伏せられた。
 いま現在、無縁仏として、そのおじさんは祀られていて、おじさんの死を省みる機会と場面すら剥奪されている状態である。

 僕がどれほど頭で思い描いたとしても、イメージのなかで僕が掘り起こそうとするおじさんの死は、あまりにも痛ましく、彼がたった一人で迎えようとしたその瞬間の孤独や恐怖、無念さは、どんなに時間を経たとしても、僕はそれを絶対に感情としては受け留められることなどこの先もありえないことだろう。

 だが理性においてはそれはまた別だと言い切れるかもしれない。そんなふうに考えられるようにもなってきた。

 先日、TVで観た映画『南極物語』で、放棄された樺太犬が痛々しく鮮血を流しながら、飼い主たちが極地に残していったピース缶を力なく、ちろちろと舐めつつ息を引き取るシーンを見た。

 それを涙をいっぱい流しながら見て、思い出していたのは餓死したおじさんのことだった。

 どんなに哀しみが大きすぎて受け入れられないとしても、そこには、きちんと尊厳があって、死の姿によって変わることなど決してない終わりの尊さを誠実に教えてくれているように、僕はそういうふうに理解した。

 死の瞬間に向かおうとする経緯のなかにこそ、見届けて学ぶべき姿を伝えてくれているんだと、何度も何度も反芻した。

 何度も繰り返すが、哀しみが癒されることが生あるものの気持ちとして迎えられないのだとしても、悲しみの悲惨には、きちんとした意味がそこにあるのだ。
 その意味を一生涯ずっと反復していくことが、生きているものが死へ向かうまでの、唯一つの貴重な使命なのだと、僕は自分の知性に訴えかけながら、自分の終わりを一つ一つ用意していくようにして、いまここにいる自らを認識する。

 僕の場合は、そんなところだ。

 だから僕の終わりに安楽自殺など当然ありうるべくもない。


 自分が死ぬということだけは、どんなにたくさんのアカウントによる「いいね!」に囲まれたとしても、それによって括られて通過されるような矮小なものであってはならない。
 そんな事態は、決して許容される時代であってはならない。





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