Hemakovichの半永久的平坦な戦場

パニック不全神経症者が落ちてゆくカムフラージュ

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「私はかくてこの物のために生き抜いて来たのです」

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 堀辰雄氏から「牧歌」といふ署名入りの美しい本を送つて頂いた。

 私は堀さんを遠くから敬愛するばかりで、まだ一度もお目にかかつたことはないのだが、これは荒涼としたなかに咲いてゐる花のやうにおもはれた。この小作品集を読んでゐると、ふと文体について私は考へさせられた。

 明るく静かに澄んで懐しい文体、少しは甘えてゐるやうでありながら、きびしく深いものを湛へてゐる文体、夢のやうに美しいが現実のやうにたしかな文体……私はこんな文体に憧れてゐる。

 だが結局、文体はそれをつくりだす心の反映でしかないのだらう。

 私には四、五人の読者があればいゝと考えてゐる。

 だが、はたして私自身は私の読者なのだらうか、

 さう思ひながら、以前書いた作品を読み返してみた。心をこめて書いたものはやはり自分を感動させることができるやうだつた。

 私は自分で自分に感動できる人間になりたい。リルケは最後の「悲歌」を書上げたときかう云つてゐる。

 「私はかくてこの物のために生き抜いて来たのです、すべてに堪へて。すべてに。そして必要だつたのは、これだつたのです。ただしこれだけだつたのです。でも、もうそれはあるのです。あるのですアーメン」

 かういふことがいへる日が来たら、どんなにいいだらうか。私も……。

 私は私の書きたいものだけ書き上げたら早くあの世に行きたい。

  と、こんなことを友人に話したところ、奥野信太郎さんから電話がかかつて来た。

 「死んではいけませんよ、死んでは。元気を出しなさい」

 私が自殺でもするのかと気づかはれたのだが、私についてそんなに心配して頂けたのはうれしかつた。

 「私はまるでどことも知れぬ所へゆく為に、無限の孤独のなかを横切つてゐる様な気がします。私自身が沙漠であり、同時に旅人であり、駱駝なのです」と、作品を書くことのほかに何も人生から期待してゐないフローベールの手紙は私の心を鞭打つ。

 昔から、逞しい作家や偉い作家なら、ありあまるほどゐるやうだ。だが、私にとつて、心惹かれる懐しい作家はだんだん少くなつて行くやうだ。

 私が流転のなかで持ち歩いてゐる「マルテの手記」の余白に、近頃かう書き込んでおいた。

 昭和廿四年秋、私の途は既に決定されてゐるのではあるまいか。

 荒涼に耐へて、一すぢ懐しいものを滲じますことができれば何も望むところはなささうだ。



原民喜 『沙漠の花』 (改行は一部引用者による)






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ネットの本質的な作用はゲームに依拠している

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 海外のメル友探しSNSのInterPalsのアカウントを消去した。

 もう二度とやらないつもりで、完全に足を洗った。

 mixiやTwitterもかなり以前にやめてしまったし、Facebook以外のSNSは全部やめてしまったことになる。
 Facebookも全然利用していないのだが、アップロードした動画を自サイトに埋め込んでストリーミングしているので、一応アカウントだけは残してある。
 僕の感覚では、Facebookの動画エンコードはYouTubeより綺麗な気がする。それさえなければ本当はFacebookも僕には要らない。

 InterPalsをやっていると、時々自分が陳列された商品みたいな存在になって、他のユーザーから品定めされたり、気に入らなかったら捨てられたりするような、そういう「物」に貶められたような気分に陥っていく。

 ずいぶん前からそういう感覚に気づいていたのだけれど、なかなかやめることができなかった。

 一度、InterPalsで知り合った韓国人と会うためにプサンに旅行したことがある。そのたった一度の楽しい「成功体験」があったがために、またそういう機会が得られないだろうかと思って続けていた。

 だがここ最近、InterPals絡みで対人関係にトラブルが頻発して、抑鬱が起こりやすいようになってきていた。「このサイトは僕にとってよくないんじゃないか」と思い始めていた。

 先日、かなり思い詰めた気分のときに、InterPalsで知り合って間もない韓国人とスカイプでチャットしていたのだが、相手の言い方が気に障って、スカイプとInterPalsの両方で相手のアカウントをブロックした。
 翌日サイトを開くと、なんとその人は新しいアカウントを作ってまでして僕を非難するメールを送り、その後アカウントを消すという、なんとも言い難い嫌がらせを受けた。

 相手の言葉が気に障って何も言うことなくブロックした僕の唐突な行動にも瑕疵はあるが、そのような仕返しをされたことは初めてだったので、結構ショックを受けた。
 その韓国人は日本語が出来る人だったので、日本語で非難されたことも痛かったのかもしれない。

 そのことがきっかけになって、InterPalsなんぞやめてやる、という踏ん切りがついた。

 それにしてもアカウントを頻繁に作っては即座に消したり、そういう一種のスパムみたいなことをやりながらも、真剣に「友達探し」に励んでいるSNS依存症のような人間もいるみたいだが、彼らのそういう感覚が僕には理解できない。

 ゲームをリセットするのと同じような感覚で、人間選びをやっているわけである。


 前に精神科の診察に行ったときに、柳田邦男の『壊れる日本人―ケータイ・ネット依存症への告別』を見つけて、少しだけ読んだ。

 アマゾンでレビューを見るとかなり辛辣に批判されている著書のようだ。
 だがネットに依存することによって、「虚構の全能感に陥ってしまう」、「現実と仮想が逆転して認識されてしまう」、「ネットと現実の解離によって人格が多重に構成されてしまう」などといった柳田の指摘は当たっている。

 しかし、ネットの黎明期では当たり前に言われていたようなネットに対する批判的評価は、もはや誰も口にする人がいなくなるほど、ネットが生活の中で当たり前に消費される時代になってしまった。

 たとえばこの本の中で、いわゆる「ゲーム脳」みたいなものを柳田は危惧しているのだが、今では「ゲーム脳」とやらを存在するものとして論じる人の数は僅かである。

 でもつい先日、僕に仕返しするためにだけアカウントを作るような行動を取る人と現実に遭遇すると、ゲーム感覚の方法で他人に作用を与えるようなものは、まさしく「ゲーム脳」と呼びうる思考や動態を証明しているではないかと思えてしまう。

 ヤフコメで「共感する」ポイントを稼ぐような仕組みは、まさにゲームを由来とする発想であって、その中でだけ誰かをやっつけたり執拗に排撃したりするような人間の頭には、ゲームをやってるときの全能感と同じ感覚があるとしか感じられないのだが。

 そのヤフコメも普段はまったく見ないのだが、二、三日前に千葉で女子高生の連れ去り未遂事件が起こったとき、「在日南鮮人の仕業だ! 通り名ではなく本名で報道しろ!」などというコメントを見て、とんでもなく驚いてしまった。

 釣りなのか本気なのかよく分からないけれど、少なくともこういう邪悪な空間に常に身をさらしている状態でいると、釣りと本気が混濁してしまって現実と仮想がひっくり返るなんてことが、簡単に起こりうるように思った。

 ヤフコメに限らず、いろんなSNSに言えることだと思うけど、会ったこともない人間と好感的な交流を持ち続けていると、現実の人間関係よりネットのそれの方が切実なものに感じられてしまう場面などはよくある。

 でもネットというのは相手も自分も「理想的な自分」を演出してる(また、演出できる)わけだから、相手から受ける自分の評価なんてものは「演出の上手さを誉めてもらってる」というものでしかない。

 現実で誰かと時と場所を共有してる場合の相手からの評価こそが、客観的な意味では妥当であって本物である。

 しかし「自分の演出を誉めてもらってるだけ」でしかないことを忘れてしまうから、ネット上の人からの非現実の無責任な甘言に酔ってしまって、そこに本当の自分があるように思えてしまうようになってゆく。

 そういう具合で自分の中に現実と仮想が逆転してしまう状態が訪れたとき、それは本当に哀れな人間に自分がなってしまったのだと悟らなければ、廃人の知性でしか生きられなくなるような危機がそこにあると言えるだろう。


 そこまで分かったから、SNSを僕はやめた。





She took over my remain

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 She carries me through days of apathy.


 She washes over me.


 She saved my life in a manner of speaking.


 When she gave me back the power to believe.







 ただひとりのことを思い出していた。



 始まりと、いつかの終わり までを、すべて決めてしまった過程、その最初に起こった感情。



 一番美しかったセックスと、一番醜悪な自分に駆られた日の衝動。



 人生の極限の一瞬を、 開かない窓の隔離室から見える月を眺めて思い出していた。





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 She carried me through days of addiction.


 She took over my remain.


 She stole my life in a manner of speaking.


 When she gave me back from the despair to believe.







 詩を読みながら、死に損なったあの日の延長でしかなかった瑣末の現況を知る。



 歌を聴きながら、あの時潜った限界の悲惨を無限に再現し続けた連鎖を気づく。



 あなただけは確かに愛し、あなたひとりのことが、僕が照射できる歌と詩のすべてだった。



 唯一だったあなたの事実がコーダを奏でて、この人生が無に等しく緩慢に終わろうとしている。







Maybe she just wants somebody to wait for her

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 先日、ロシア人の女子高校生とメールのやりとりをしていたときのこと。


 前にブログにも書いたが、チュニジア人女性との関係が破綻した件について、僕はロシア人に説明していた。

 スカイプの約束を自分から取り付けることを望むのに、約束の時間を全然守れないこと。それも1時間や3時間なら良い方で、6時間や8時間も待たされたりしていたこと。
 時間の約束を守れないことをすべて自分の躁鬱病のせいにすること。自分から去っていった人間のことを「病気を決して理解してくれなかった」と言っていたこと。

 6時間や8時間も待たせてしまう可能性を自覚できるなら、なんで最初から約束するのをやめないのか。だいたいそんな感じのことをロシア人に伝えた。

 ロシア人からの短い返答には、こう書かれていた。

 “Maybe she just wants somebody to wait for her. I feel sorry for her.”

 ほんの短いセンテンスではあるが、電流が身体を貫くような思いがした。

 これを読んで、僕は初めて、ロシア人高校生が抱いたのと同じように、あのチュニジア人女性が哀れであるように感じ始めた。

 この件の詳細はもっといろんな事柄が交じり合っていて、破綻の理由にはもっと複雑に入り組んだ理由があった。そのほとんどを僕はいちいち細かく誰かに話しているわけではない。

 だが、“Maybe she just wants somebody to wait for her.”という、短い一節の中に一番大事なことを端的に言い表したロシア人の感性に、僕は敬服せざるをえなかった。

 こういう言い表し方で真実を述べる人と、たまに出会うことがある。

 こういう冷静さで物事を眺めて直射できる人たちの多くは、たいてい生易しくない意味での孤独とか寂しさを感じた経験をもつ人たちであるような、そんな印象を僕は持っている。




 相変わらずキング・クリムゾンを聴きまくっているのであるが、最近になって80年代以前や、90年代以降のクリムゾンも聴き始めるに至った。

 70年代クリムゾンは、『ポセイドンのめざめ』とか『アイランド』なんかまでは全然ダメなのだが、『太陽と戦慄』、『暗黒の世界』、『レッド』の3作は何回も聴いている。
 ジョン・ウェットンのボーカルもいいが、どうやら僕はビル・ブルーフォードのドラミングが好きであるらしい。リムショットを多用したり繊細にリズムを刻み込むようなドラマーが、総じて僕の好みであるようだ。

 80年代バージョンではない“太陽と戦慄パート2”を一回聴いただけで、映画『エマニエル夫人』のサントラとそっくりなクリムゾンの曲というのがこれであることがすぐに分かった。
 デヴィッド・クロスのストリングスに集中していれば、『エマニエル夫人』に夢中になったことがある人なら誰でも気づくだろう。

 エマニエルがタイに着いた直後、単身赴任の外交官である夫と真っ昼間から濃厚に絡み合うシーン、あの部分のOSTと完全に似ている。“太陽と戦慄パート2”のオリジナルを初めて聴いたとき、すぐにあのシーンを思い出してムラムラしてしまった僕は、その後『エマニエル夫人』を久々に見てしまったくらいだ。

 むかしの彼女に貸してもらった大槻ケンヂの本に、「エマニエル夫人を見て興奮した挙句に、ロバート・フリップが思わずこの曲を書いてしまったのではないか」と面白く書いていたが、どうやら『エマニエル夫人』側の盗作であるらしい。

 
 90年代以降のクリムゾンは、『ザ・パワー・トゥ・ビリーヴ』なんかはちょっと重たく聴こえるけれど、『スラック』は完全に僕の好みの中の範疇だ。
 やはりエイドリアン・ブリューのボーカル曲、“ピープル”とか“セックス、スリープ、イート、ドリンク、ドリーム”は佳曲である。80年代より声がウェットになって、上手くなってるように思う。

 重たいと表現した『ザ・パワー・トゥ・ビリーヴ』にしても、静かに危機的な切迫感を伝えてくる“デンジャラス・カーヴス”のようなシリアスな曲など、アルバムの出来はさすがにすごいと思う。
 個人的には“ザ・パワー・トゥ・ビリーヴ2”の祈りと癒しへの希求に満ちた美しさにやられてしまった。

 ブリューが歌詞を描くクリムゾンは、なにか現実に直接根ざした危機感や精神の飢餓感のようなものをストレートに表現する音になってるような気がする。

 デビッド・ボウイの“ヒーローズ”を歌ったライブ曲も聴いたけど、正直、ブリューの方が歌が上手いし、率直な感じで歌の印象を受け取ることができるように思えた。なんかボウイの方は高音の部分になると単純にエキセントリックに聴こえてしまって、その部分が僕にとってこれを「名曲」とする評価の妨げになっている。

 そりゃ、ボウイの低音ボーカルは渋いけどね。

 ブリューが歌っちゃうと素直に歌ってるし声も綺麗なので、歌のイメージとかメッセージ性みたいな部分がダイレクトに伝わってきて、「名曲だなあ」と、淡々と味わえるのである。


 最近、フリップとデビッド・シルヴィアンのコラボユニット曲の幾つかを聴いた。

 完璧である。フリップのファンキーな音楽性とシルヴィアンのニヒルな美声の混じり具合が、完璧すぎるのである。ジャパンの頃にこういうことをやっていたら、シルヴィアンのキャリアは今とは変わっていたと思う。

 だがクリムゾンにもしシルヴィアンが入ったとすればどうかとなると、僕は断然ブリューの方に肩入れしたくなる。

 実際にフリップからクリムゾン加入のオファーがあってシルヴィアンが断った、というエピソードを読んだりした。シルヴィアンとフリップの音楽的相性は的確であるけれど、「なんかちがう」とも思うのである。すごく美しいクリムゾンが出来上がりそうだけど、なんかちがう。

 その理由は言葉で意識しにくいけど、僕がブリュー在籍のクリムゾンを一番評価している理由の根拠と関係しているように思う。
 1stのグレッグ・レイクから始まって、歴代のクリムゾンのボーカリストはシルヴィアンと似たタイプの「耽美派」が多いと思うけれど、彼らが歌う音楽のイメージをあまり僕が好まない、という理由に関係する。

 安直に言ってしまうと、「耽美派」ボーカリストが歌った時期のクリムゾンのプログレ色が好きではないのである。

 ブリューとトニー・レヴィンが加入してからの、ファンキーで「わかりやすい」クリムゾンの方が感情移入しやすいのだ。

 一括りにはできないけど、よくプログレにあるような形而上的なポエジーとか壮大さとか、僕はそういうのをロックに求めない。
 生きている現実に僕がリアルな衝動や心的飢餓感を感じている以上、直截でストレートな現実感で現在を批評しているような、そういう先鋭さを僕は一番に評価する。

 『ビート』の収録曲である“ニール・アンド・ジャック・アンド・ミー”、ああいう感じのロマンチシズムに僕はリアルを感じる。

 “Absent lovers”なんていう言葉は、もうそれだけで最高だ。





解離生活アカウントフェノミナ

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“ 初期化 ”







新シイ フォーマット ノ「君」ヲ  タッタ今 君ハ手ニ入レタバカリ。



新シイ フォーマット ノ「君ノ人格」ハ  君ニヨッテ擬人化サレル。



新シク フォーマット サレタ「君ノ経験」ヲ  君ハ経験シタツモリ。



新シク フォーマット サレル「君ノ時間」デ  別人ヲ演ジル君。



新シイ フォーマット ニヨル「君ノ顔」ニハ  君ノ思惑ガ透ケテ見エル。



フォーマット サレタ「君ノオ気ニ入リ」ニハ パラノイアノ ヨウニ誇示スル君ダケド、



フォーマット サレタ「君ノ憎悪スルモノ」ヲ思ウトキ  一瞬、意識ガ飛ンデシマウ。



最新 フォーマット デ現レタ「君ノ恋人」ヲ  マズ最初ニ 君ハ欺クシ、



最新 フォーマット デ計上サレタ「君ノ友ダチ」ハ  ミンナ、君ノコト、嫌ッテル。



フォーマット デ新シクナッタ「君ノ孤立」ハ  君ノ罪ヲ覆イ隠スノニ トテモ便利ダケド、



フォーマット デ改変サレタ「君ノ物語」ハ 君ガ一時的ニ頼ル、ショボイ言イ訳。



タッタイマ 君ハアラユル物語ヲ調整スルタメニ 「君ノ過去」ヲ フォーマット シタバカリ。



君ハ 都合ヨク忘レタフリ ヲ スルタメニ  「君ノ思イ出」ヲ フォーマット シテ、



君ハ タイミングヨク ソレヲ思イ出スタメニ 「君ノ記憶」ヲ フォーマット シタノサ。



「君ノ未来」ハ  君ニ粉飾サレ続ケルタメニ 今カラ始マッテイク。



「君ノ身体」ハ 交換サレ続ケテイク「君」ヲ溜メトクタメノ容レ物ニ過ギナイ。



ダケド君ハ ドレダケ フォーマット シテモ 「君ノ人生」ヲ決シテ否定デキナイ。



繰リ返サレル「君ノ真実」ノ フォーマット ノタメニ 君ハダンダン、君ニ直面デキナクナッテイク。





タッタイマ 君ハ最終 フォーマット ノ「君」ヲ 消去シタバカリ。



新シク フォーマット サレタ「君ノ欲望」デアル僕ハ イツカ君ヲ憎ミ始メルダロウ。







「わたしって  なに?」




「あたしは  たぶん、あなた」







同じ日本人として話すことが大変な相手

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 最近知り合った韓国の女性と、日韓の近代史についてスカイプで話した。

 従軍慰安婦についての話題になったので、僕が知ってることなどをいろいろ話してみると、「そういう話を日本人として話すのは大変ではないか? 日本人同士で話したりして嫌われることはないか?」というようなことを言われた。

 自分の国が犯した過ちを明確に認めて、実証的に考えることが、本当に愛国心を持つ者の責務ではないか。
 刑事犯が罪を認めて裁きを受けて、刑を科せられながら自らの罪と向き合い続ける。そういうのと同じことで、それが国家の領域まで話が拡大しても、方法は変わらないだろう。

 愛国心、といっても、愛国心なんて知性とか実証主義で認識できるものではない。愛国心は「感情」であって、理性の対象ではない。


 「朝鮮人の女はレイプしてもいいんです!」みたいなヘイトスピーチをやってる輩は、感情だけの畜生同然である。知性とか微塵もない。もっとも劣化した種類の生き物だ。
 
 そのような生き物たちの掲げる「愛国心」なんて、ストーカーのストーキングの欲望みたいなものでしかない。知性がそれを対象化しようとしても、畜生と人間は会話できない。

 よく言われる喩えだけど、「国を愛せ」という強制力には強制性ゆえに反発を抱かざるをえない。

 人を愛するのと同じで、愛情というのは自然に自ずから現れる主体的な感情である。ろくでもない糞野郎が「俺のこと愛せよな」と念押しされて、愛そうとするバカがいるだろうか。

 愛国心の強要と依存の関係は、DV夫やアル中夫に対する妻の共依存感情による関係に似ている。自分を大事にする気持ちがどこにもない。


 日本人は太平洋戦争末期に空襲を受けたり、原爆を落とされたりしているので、戦争に対するイメージが、とかく被害者的な側面から映りやすい。
 だがそういう側面から過去の戦争を語ろうとする人々は、どこまで日本人の加害者的事実の直射に耐え続けることができるだろうか。

 僕はその部分に大きな懐疑を抱いている。だからたとえば、広島・長崎なんかの、平和運動の思想中枢にも時折懐疑的な感情を持ってしまうこともある。
 ある被爆者運動の担い手である人は広島のことを「非暴力の象徴」というように喩えていた話を聞いたことがある。だが被爆の悲惨さを物語る思考と平行した直線の中に、戦場で置き去りにされて梅毒に苦しみながら死んでいった慰安婦の人々への想像力は存在するか?

 戦争を被害者的側面から多くを語り続けた代償として、現在の日本ではびこる極右思考への対抗的なものが打ち出せない、そういう問題があるように思う。
 加害者的事実を直視し、それに対する思想の研鑽があまりにもお粗末であったから、ヘイトスピーチのような加害に対して排除できるだけの思想的深みがなかったのだ。

 最初に戻って、「そういう話を日本人として話すのは大変ではないか?」に関するもっとも「大変な」対象というのは、被害者的思考にのみ沈殿した反戦思想こそ、「大変」な相手であるかもしれない。

 ヘイトスピーチをやるような連中は劣った生き物に過ぎない。生き物ならば調教して矯正することもできる。

 だが、太平洋戦争に限定された被害者的思考に凝り固まった人々が、慰安婦とか南京戦の悲惨さをもたらした加害者的立場を、被害者的思考と同列に直視しようとするのはなかなか難しいことなのではないかと思う。

 日中戦争に対する視点が、そういった人々の中になんとなく欠落してしまっていること、それをもっと深く考えようとしてこなかったことが、一番の問題の端緒だろう。

 日中戦争は反戦を考える上で非常に多くの示唆をわれわれに与えてくれた事例だったと思う。

 昨今の集団的自衛権の話題のカラクリがいかに虚構じみた観点を人々に強要しているか、日中戦争を考えれば大体のことは論破できるように感じる。
 盧溝橋事件一つ取ってみても、力による抑止こそが実は一番危険な火薬と化してしまうことを、十分に汲み取ることができるエピソードである。

 なのに、なぜ反戦運動家たちはこのようなせっかくの反省的好材料を生かすことができず、知識に怠惰であるのか。非常にもったいない、というか、ある意味、ヘイトスピーチの精神構造と同じような知性の劣化を感じざるをえない要素もある。

 反戦というのは戦争に対する嫌悪の感情でのみ、戦えるものではない。実証的に解き明かして、虚構じみた観点を適切な論点で打破するようなものだ。


 結局のところ、「感情でものを言う」というような比喩に一致する部分を、僕は一貫して嫌悪している。ただそれだけのことなのだが。

 戦争やレイシズムに反発する立場の中にも、もちろん感情はあって、持つべき感情はあると思う。

 だが、それがどんなもので、どう名づけうるものなのか、ちょっと容易には思いつかない。





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かわいいんだ、





     見てないふりをする  眼差しが



     太腿をふわっと包む  巻き毛が



     息を吹きかけたら小さく揺れるピアスのついた  耳が



     唇の動きに細やかに応えてくれる  頬とこめかみが



     もたれかけたくなる、ふっきれたような  気丈夫さが



     買い物袋を三角に折って置いてくれる  遠まわしな愛情が



     会えなくなった母さんや姉さんの話をするときの  哀しげな思い遣りが 



     生きていく知恵のような、したたかな  ユーモアのセンスが



     時々あたふたさせて、ひとを迷子みたいにさせる  気の強さが



     じっと押し黙って、言いたいことを明かさない  プライドが



     みんなといるときに、机の下で隠れて手を握ってくる  あどけなさが



     いつか前触れもなく、終わりの日の夕方に見せてくれた  泣き顔が。






かわいかったんだ。




                 とにかく   夢中だった。







80年代キング・クリムゾンはトーキング・ヘッズに似ているのか?

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 ここ一ヶ月ほど、ずっと80年代キング・クリムゾンを聴き続けている。

 
 高校生のときに初めて買ったクリムゾンのアルバムは“Compact King Crimson”である。この一枚以外は今に至るまで何一つ買っていない。
 
 衝動的なジャケ買いであったこのアルバムだが、1stの『クリムゾン・キングの宮殿』と80年代クリムゾンアルバムからの選曲という、誰が何のために作ったのか、まったく意図不明の不思議なベストアルバムである。

 このアルバムのおかげで、僕は80年代結成期のキング・クリムゾンしか聴かない偏愛的なクリムゾンファンになってしまった。
 “Red”とか、“Island”を友達から聴かされたけれども、まったく関心を示さなかった。

 “Discipline”から“Beat”、“Three of a Perfect Pair”へと至る80年代3部作は何回聴いても飽きない。僕にとってキング・クリムゾンはエイドリアン・ブリューのボーカルであり、トニー・レヴィンのベースであり、ビル・ブルーフォードのドラムしかありえないのである。


The Compact King CrimsonThe Compact King Crimson
(2000/01/01)
King Crimson

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 長いこと抱えてきた素朴な疑問がある。80年代キング・クリムゾンを「トーキング・ヘッズに似ている」と言い出したのは、いったい誰なのか?

 外国のジャーナリズムはどうだかは知らない。だが日本の当時のバイヤーズ・ガイドなどを読んでみると、すでに“Discipline”の時点から「トーキング・ヘッズ色が強い」などと、普通に平気で書かれてある。

 どちらも好きなバンドだが、似ているのか? なんか「全然違う」としか思えないのだが。

 試しに実際聴き比べてみたのだが、クリムゾンにハマってる状態のときにトーキング・ヘッズを聴いてみると、全然違う感じがして、違和感しか生じない。
唯一、"I ZIMBRA"は"Discipline"のギターのアルペジオと似ていなくもないと思うが、ロバート・フリップがゲストに名前を連ねている。

 少なくとも“Fear of Music”までのヘッズはクリムゾンに似ているとは思えない。理由は簡単で、ヘッズの方が演奏が下手すぎるからである。

 では“Remain in Light”はどうか。

 僕の単純な聴覚比較では"Listening Wind"のエキゾチックな雰囲気は"The shertaling sky"を彷彿とさせる感じもする。だが、このアルバムでもエイドリアン・ブリューが参加しているから、「似ている」とかいうより、同じギタリストが参加していれば相似点がない方がおかしい、ということになる。

  よく、“Remain in Light”や80年代クリムゾンが批評されるときに「ポリリズム」という言葉が使われるけど、僕はこの「ポリリズム」というのが何のことなのか、全然分かってない。

 ウィキペディアで「ポリリズム」を調べてみると、やはり何のことだか全然分からないのだが、「ポリリズムが使われた楽曲の例」を見てみると、クリムゾンに限らず、サティやドビュッシーやショパン、ビートルズや円広志の名前が出てきて、Perfumeなんかは『ポリリズム』というタイトルの歌まである。

 とりあえず、「ポリリズム」というのが、ヘッズとクリムゾンを直線で結ぶような特殊な代物ではないことは、とりあえず確認できる。


 視点を変えてみる。どういう人たちがトーキング・ヘッズと80年代キング・クリムゾンを「似ている」と言っているのか。

 僕が昔読んだバイヤーズ・ガイドの例では“Discipline”を「トーキング・ヘッズ色が強い」と書いてあったのを見たが、その著者はヘッズのファンの人であって、パンク・ニューウェイブを「プログレッシヴ・ロックやフュージョンなどで硬直化された商業ロックを解体した」という、よくある教科書じみた定説を頑なに信奉する人であった。
 だからこの場合の「トーキング・ヘッズ色が強い」という批評は、プログレの雄たるクリムゾンを最初から揶揄する意図が存在するのであり、ヘッズの音楽性をクリムゾンに当て嵌めてみたという立場での批評でしかない。

 ここでいきなり結論に至ってしまうならば、ヘッズとクリムゾンが似ていると指摘する人々というのは、要するにヘッズの愛好者の場合が多いのであって、ヘッズはよく聴いているけど、クリムゾンを聴き込んだとは到底思えない、そういうパターンが一番顕著であるように思えるのである。

 実際、かつての僕がそうであった。

 トーキング・ヘッズからニューウェイブを入門した者の感覚からすれば、いきなり“Discipline”が「なんとなく」耳に入ってくると、どうしても「似ている」と思ってしまう。
 では、そんなにトーキング・ヘッズが特別な存在なのかと言えば、そこにまったく根拠はないような気がする。“Discipline”を最初に聴き込んだ人間が"I ZIMBRA"を耳にすると、「クリムゾンのパクリやん」ということになってしまうと思う。

 そしてポリスを一番よく聴き込んでる人が初めて"I ZIMBRA"や"Discipline"を聴いたとするなら、「こげん音楽ば、まるでシンクロニシティと同じばい」という感想を持つようにも思えるのである。

 相対的な観点に立てば、とどのつまり、この時代の演奏技術の優れたミュージシャンたちは同じような音楽性を競い合うように創作したのであって、それぞれの楽曲群の一部分が重なり合うものとして聴こえるのは当然の結果と言わざるをえない、というところに落ち着く。


 そういう論理の流れを経て、もう一度「80年代キング・クリムゾンはトーキングヘッズに似ている」という表現の妥当性を確認してみる。
 そこには「最初にトーキング・ヘッズありき」という結論があって、「だからキング・クリムゾンはトーキング・ヘッズの模倣である」という、ヘッズを絶対的前提とした見方が作用しているに過ぎない。
 どちらかを優位において、どちらかをその派生と看做しているだけであって、内実を重視しているわけではない。だから妥当ではない、というシンプルな結果に終わってしまう。

 つまり、あまり意味のある大した命題でもなんでもないのだ。“Discipline”を「トーキング・ヘッズ色が強い」と言ってしまうのは、クリムゾンファンに対して失礼な話、というまったくどうでもいいことだったことだけが分かる。


 僕はトーキング・ヘッズも80年代キング・クリムゾンも、どちらも好きだ。

 だがヘッズを優位に立てる見方からクリムゾンを「模倣」のような言われ方をすると、クリムゾンの肩を持つ方に偏ってしまう。

 渋谷陽一が“Remain in Light”を「黒人ミュージシャンを使って実力以上にファンキーになった」みたいなことをよく言ってたのは有名な話だ。
 確かにゲストミュージシャンを揃えまくった大所帯編成期のトーキング・ヘッズと比べると、たった4人のプレーヤーだけであんなにすごい演奏が出来てしまう80年代クリムゾンの方に優位性を置きたい情に駆られる。

 ヘッズばっかり聴きまくってる間は、デビッド・バーンのステージ・パフォーマンスは他の追随を許さない天才的な変態だと感じられる。

 でもクリムゾンを偏愛している時期に思うのは、似たような変態に見えてもエイドリアン・ブリュ-って声が綺麗で、実は歌がすごく上手いんだなと再確認して、バーンなんてエキセントリックなだけじゃん、という思いになる。


 今は80年代クリムゾンばっかり聴いてるわけだけど、ブリューのボーカリストとしての特性は過小評価されすぎのように思う。

 ロバート・フリップは80年代クリムゾンについて、「保守化した聴衆やメディアから理解・賛同され難いのを承知の上で、偶像調和に反抗して厳しく断ち切り、敢えてなお知性の限界に挑戦するまだ若き熱情」があった、みたいなことを言ってるらしい。

 もし本当にそうだとするならば、僕は一般的なパンク・ニューウェイヴのバンドを愛するのと同じ気持ちの延長で、80年代キング・クリムゾンを愛していたのだ、それがこの頃になってようやく分かった。



 


「私は私のなかに私でない人を感じる」

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" initialize "




This is the newest format called "you" that you want.


This is the newest format called "your personality" that you personify.


This is the newest format called "your experience" that you pretend to have experienced.


This is the newest format called "your time" that you act different man.


This is the newest format called "your face" blurs your purpose.


This is the newest format called "your favorite" that you cling as paranoia.


This is the newest format called "your pet aversion" that you're blotted out of conscious existence.


This is the newest format called "your lover" that you deceive at first.


This is the newest format called "your friends" who dislike you.


This is the newest format called "your isolation" conceals your guilt.


This is the newest format called "your story" that you depend temporary.


This is the newest format called "your past" that you've just formated.


This is the newest format called "your remembrance" that you might have forgotten fortunately.


This is the newest format called "your recollection" that you may recall conveniently.


This is the newest format called "your future" that you will make up from now on.


This is the newest format called "your body" that you replace "you".


This is the newest format called "your life" never deny your facts.


This is the newest format called "your truth" that you can't face up your reality.





This is the latest format called "you" that you've already thrown just now.


I am a newest format called "your stuff" that I will begin to hate some day.




What am I?




I am you.







エヴァンゲリオンに横たわる解離性障害的なもの

Posted by Hemakovich category of Music on


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 先日、海外SNSで知り合ったチュニジア人女性との関係がぶっ壊れた話を書いた。

 関係はぶっ壊れたが、唯一、生産的な作業を彼女と共有して残すことはできた。
 彼女のポエトリー・リーディングの編集に、僕が携わったことである。


 チュニジア人女性は英語が堪能で、自分が朗読したものをmpg3などに録音し、音楽をミックスして、SoundCloudという音楽共有サイトにアップロードしていた。
 彼女が朗読に選んだのはシルヴィア・プラスとか、僕の知らない英語圏・フランス語圏の詩人の作品で、使われた音楽はショパンとかピアソラとか、そういう類の曲だった(ちなみにチュニジア人はフランス語を話せる人が多い)。

 僕と出会ってから、彼女は日本人の詩人の作品をポエトリー・リーディングすることを望み始めた。

 最初に彼女が素材に選んだのは田村隆一の『帰途』だったが、あまりに男性的な作品なので、日本語がある程度得意だとしてもチュニジア人女性の声とマッチする感覚を僕は見出すことはできなかった。

 その次に彼女がファイル転送した朗読ファイルが、エヴァンゲリオンの『レイの詩』と題されたものだった。僕はまったく知らないのだが、レイという登場人物のあるセリフの部分をリーディングしたものであったようだ。

 送られてきたテキストを読むと、いかにも今の日本にありがちというか、少し陳腐な感じもしたのだが、これを外国人女性が拙い日本語で表現することによる違和感に芸術性を見出すことができるように思えた。
 また、彼女のポエトリー・リーディングを素材にして、それをサントラにした自分自身の映像作品を作ろうという思惑もあった。

 そういう経緯で僕は彼女がリーディングした『レイの詩』を、加工・編集する作業にのめり込んだ。

 その成果を下記のウェブサイトに整理して残してある。

 Rei's Poem


 また、チュニジア人女性が最終的にSoundCroudにアップロードした作品は、こちらで聴くことができる。


 彼女が最初に吹き込んだ音楽なし・朗読のみの作品は下記のようなものである。

  No music, no editing version







 そして、僕がさまざまな加工・編集の限りを尽くして、最終的に「完成形」にした作品は次のようなもの。

  music : Pascal Comelade - Un portrait de Catherine I







 この完成バージョンに至るまでの間、あらゆる試行錯誤を繰り返して数パターンの録音を作ってみたのだが、それらを全部、上述のサイトで聴けるようにした。
 また、『レイの詩』のテキスト本文も、上述のサイトで読むことができる。


 結果を先に言えば、チュニジア人女性は僕が彼女のリーディング・ファイルを本格的に編集作業していることを認識しておらず、単純に音楽を重ね合わせたものを先にアップロードした。
 「実はいろいろ加工してみた」ということで僕が完成バージョンを聴かせたのは、彼女がSoundCroudにアップロードし終えた直後だった。
 「わたしもこういうのを作りたかったけど、できなかった」と、彼女は僕の作品を認めてくれた。

 当初、チュニジア人女性は『レイの詩』の朗読に、エヴァンゲリオンのサントラをミックスさせようと思っていて、それを聴かされた。オーケストラ演奏の、仰々しくやかましい曲だったので「それはやめておけ」ということで、僕はドビュッシーのピアノ曲のようなものを使うことを代替案に提示した。

 「じゃあ、エリック・サティを検討する」と答えたのだが、まさか彼女があの有名すぎて陳腐さ漂うジムノペディ第一番を採用するとは思わなかった。

 彼女の提案に応じて僕はジムノペディ2番とかグノシエンヌをミックスしてみたのだが、嵌ることは嵌るけれども、サティ自体があまりに有名すぎるので、どうしても陳腐の印象から逃れられない。

 松村禎三の『とべない沈黙』なども合わせてみたのだが、最終的にパスカル・コムラートを採用することにし、これを基に加工・編集を幾つかのパターンで試してみることにした。

 加工・編集といっても、僕がやったのは、朗読音声に間を空けたり反復させたり、エフェクト・フィルターで変形させたり、音楽の長さの調整、ノイズの挿入、これぐらいのことだった。


 大学時代から今に至るまで、僕はエヴァンゲリオンを見たことがない。どういう話なのかも未だに理解していない。

 正確に言えば、大学の先輩の下宿でわずか数分ほど「眺めた」ことはある。その先輩はエヴァンゲリオンの映画版を見て、「二、三日、立ち直れなかった」と衝撃を受けていたが、まったく関心を持つことができなかった。

 だからチュニジア人から創作モチーフみたいなことを聞かされても、なにひとつ把握できるものはなかった。

 ただ、彼女が送ってきたリーディングのテキストを見て、「いかにもエヴァンゲリオンだよな」というぐらいの理解はできた。つまり、エヴァンゲリオンを知らないけれども、それを愛する人たちの心理はなんとなく分かっていた。

 『レイの詩』を一見して、「これは解離性障害の文化的産物だ」という印象を持った。実際に解離性人格障害の恋人がいた時期もあったので(その人もこのアニメが好きだった)、「解離性障害」というキーをなぞれば簡単にそれっぽいものができると確信できた。

 当初はアイデアの中になかった朗読音声のエフェクトも、「これをやらなきゃ解離性じゃないよな」と、ごく普通に思いついた。
 エヴァンゲリオンのサントラを却下したのも「そういうのは解離性じゃない」からであり、サティをやめたのも「あまりにコテコテの解離性すぎる」からで、音数が少なく、ミニマルの中に微小なファンタジーを物悲しく聴かせるコムラートは「解離性としては最適」だったから採用した。

 ノイズの挿入に関しては「やりすぎない」ことだけを頭におきながら、ファイルの破損と思われないように気をつけてバランスよく配置させることを目指した。上手くいったかどうかはわからない。

 朗読音声に間を空けたり、反復させるのも、言葉のそういう「運動」のようなものがメランコリーの操作のように感じられたゆえの演出だった。
 「私でない人を感じる」というセンテンスを最後に反復させたのも、これが一番、『レイの詩』とやらが、いやらしいほどまでに強調したがっている「病状」のように感じたからである。

 ちなみに、「間を空ける」という感性の中に多大な美意識を注ぎ込むのは日本人の特性かもしれない、というようなことを感じた。
 

 このようにして完成させたポエトリー・リーディングであるけれども、僕はこの『レイの詩』は好きではないし、自分の編集作品も、ほとんど愛着を感じることができない。

 チュニジア人女性は自分のことを「実存主義者だ」と表明していた。でも彼女のエヴァンゲリオンに対する愛着ぶりを散々聞かされると、彼女はニーチェが好きなだけであって、実存主義とは違う場所で苦しんでいる人のように思えた。
 同じく実存主義者を自称する僕の眼からすれば、エヴァンゲリオンを愛する人の心象のなかには、実存主義がもはや対応できなくなった、ネガティヴな意味でのポストモダンが横たわっている気がする。

 彼らの中にある心象を、強引に「解離性障害的な文化」と位置づけてみる。これに対して僕が卒論の対象にしたV.E.フランクルの実存分析をぶつけてみる(実存分析がイコール実存主義という簡単な話ではないけれど)。

 だが、「解離性障害的な文化」というのは実存分析がまったく適用できない。

 実存分析が「意味への問いかけ」の前提とする「主体」の存在が、「解離性障害的な文化」においてはぶっ壊れてしまっているのだ。「主体」が曖昧で、意味を成さないのがその本質だからである。

 だからといって、実存主義が今の日本ではもう無効なものなのか、と問われれば、いや、そんなことはない、実存主義的なものよりも解離性障害的なものが、人々の魅惑を誘いやすいだけなのだ、と僕は思う。

 この『レイの詩』をぼんやり眺めているとそれが分かる。

 「わたしはどこから来て、どこにいて、これからどこに行くのか」などというセンテンスは、いかにも暑苦しい。

 「私でない人を感じる」。こっちの方が実にクールだ。あんまりグダグダ考えなくて、センチなポエマーに相応しいじゃないか。


 エヴァンゲリオンにまったく関心を持てないのは『レイの詩』一つとっても面白くないからで、要するに僕が常に必要とする哲学性なんかが微塵もなさそうで、哲学のように見えるポエムの美学が無造作に散りばめられただけ、そういう匂いがして近づきたくないからかもしれない。

 こんなことを言うとたぶん怒られると思うけれど。

 エヴァンゲリオンが存在することはどうでもいいが、エヴァンゲリオンを愛する人たちがいかにそれを愛しているのか、それを語られるのは暑苦しすぎる。

 日本好きのチュニジア娘に、日本がそういうものだと理解されるのも、なんだか癪に障る。





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