Hemakovichの半永久的平坦な戦場

パニック不全神経症者が落ちてゆくカムフラージュ

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こどもちゃんの こどもちゃんの こどもちゃんたちへ

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「しょうじきちゃん?」


「ううん、ぶるーちゃんだよ」

   

   

  

「・・・・・・いいこちゃんね」


「・・・・・・ふしょうじきちゃんだってばあ」

   

   

  

「いま、たつのおとしごちゃんになった?」


「うまれたときから はまぐりちゃんだよ」

   

   

  

「すてきな、のはらの ぐらじおらすちゃんだよ」


「ちがう、たぶん げきついされたゆーふぉーちゃんだ」

   

   

  

「ひざまくらちゃん、する・・・・・・?」


「いいよ、ここでたいいくずわりちゃんしてるから・・・・・・」

   

   

  

「なによ!、おしいれにとじこもったおこりんぼうちゃん!!」


「ほっといてよ!、そんなふじんけいかんのぱとかーちゃん!!」

   

   

  

「ごめんね、ぶーつのかかとすりきれちゃん」


「ごめんよ、しろくてちっちゃいおっぱいちゃん」

   

   

  

「こうやって・・・・・・いつまでも・・・・・・・やせがまんちゃん、つづけるつもり?」


「ちがうよ・・・・ちがう・・・・本当は・・・・・・ただ、やせぽちの、なみだちゃんなだけ」






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歴史の真実は個人の根底で生き延びる

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 よくわからないが、乙武洋匡氏と鈴木宗男氏がベビーシッター事件のことで言い争っているらしい。

 鈴木宗男「乙武さんの人間性を疑います」 ベビーシッター事件めぐりブログで激突 - J-CASTニュース 3月25日(火)18時11分配信

 相手と感情的に喧嘩してしまうくらいなら、ツイッターとかブログとかやるのは、やめたほうがいい。

 特にツイッターで発言するときは、どうしても言葉足らずにならざるをえない側面がある。相手を挑発させてしまう可能性を感じるなら何も言わないほうがいい。
 ツイッターで相手を批判するのは半分喧嘩を売っているようなものだと思う。そういうのをやるのも嫌だし見るのも嫌だから僕はツイッターをやめた。
 
 J-CASTに煽られた暇なヤフコメ民が乙武氏を叩きまくっているので、ウィキペディアで彼の項目を見たのだが、乙武氏を初めてメディアに取り上げたのはNHKなんだってね。そんでもって『五体不満足』の版元が講談社ってのも今頃になって初めて知った。

 NHKって、「奇跡の詩人」や佐村河内より昔からこういう障害者の「美談」を売り物にするような番組を作ってたんだね、しかも公共放送なのに講談社とメディアミックスしちゃって。

 乙武氏の件で世間が異様に盛り上がったもんだから、味を占めたNHKと講談社繋がりは、その後の「奇跡の詩人」and佐村河内事件でとんでもないポカを繰り返してしまったんだろうか。


 『五体不満足』が書店で平積みされてたころ、僕はあのときの空気がなんか嫌だった。だから未だに読んでもいない。

 生まれてこの方、僕はああいう類のものに一度も感動させられたりしたこともないし、むしろ避けて通るように生きてきた。

 僕自身が幼年期から病弱だったり体質の異常を持って生きてきて、そのこと自体が別にどういうものでもなく、単純に平凡極まりない相対的な属性のように考えて育った。
 別に何か特別なものが「そこ」にあると考えて生きてはこなかった。

 人とは違うものを先天的に持ってはいても、僕自身は自分のことを「ごく普通に嫌な奴だ」みたいに思いながらずっと生きてきた。

 だから障害という属性がいわゆる「美談」みたいになるのは、初めの一歩で間違えてる、嘘くさい、そういうふうに思ってしまう癖がついてしまった。

 乙武氏がどうとか、そういうことじゃなくて、単に彼に特別な関心を向ける人たちの思いが僕には理解不能だった、それだけに過ぎないのだけれど。




 キム・ヘギョンさんだかウンギョンさんだかよく分かんないけど、拉致被害者家族の横田夫妻がモンゴルで彼女とその子供に会ったって話、あれなんだけど、僕はすごく基本の部分で疑問を持っている。

 あのキム・ヘギョンさんって人は、本当に横田めぐみさんの娘なんだろうか。

 そういう疑念を持ってるのは僕だけかと思っていたら、ヤフコメ民の中にもそういう疑いを持ってる人間がいることを見つけて、ああ、それって変なことじゃないんだと思った。

 数年前、横田めぐみさんの娘とされるヘギョンさんの存在が示されたころ、横田夫妻があっさりと自分たちの孫だと思い込んでしまったことに、あの当時僕は違和感を感じざるを得なかった。

 北朝鮮が公開した30代だか40代の頃のめぐみさんの写真に関しては、たしか「ニセモノだ」とか、敢然と否定していたと思うが、なぜめぐみさんの娘だという絶対的な証拠がない女の子を孫だと認めてしまえるのか、それが不思議でならなかった。

(あの頃、北朝鮮が送ってきた火葬されためぐみさんの遺骨を、帝京大の医学者が偽物だと断言して、英国のネイチャーが「火葬された骨からどうやってDNA鑑定できたのか」と問われて、何の説明もなく転職してしまった事件があった。あれは結局、どういうことだったのだろうか)

 だがあの当時は僕の違和感がそれ以上の疑念に発展することはなかった。

 つい先日、数年前にヘギョンさんが横田夫妻に北朝鮮まで会いに来てくれと頼んだというビデオ映像をTVで見たんだけど、そのときに「偽者なんじゃないのか?」という思いがふと頭によぎった。

 なんとなく、感覚でしかないけど、ビデオ映像の中の女児が「演技」しているような、そういう雰囲気を僕が勝手に感じ取ったからである。

(北朝鮮から提供されたヘギョンさんの血液を元に、DNA型判定で彼女がめぐみさんの娘であることが証明されたという。だが先ほど述べた帝京大の学者の一件にもあるように、僕は日本政府に対して信頼性を抱いていない。そもそもDNA型鑑定そのものが世間の人々が考えているほどに高度な確実性を帯びた代物とは言い切れないことを知っておく必要がある)

 
 キム・ヘギョンさんなる女性が横田めぐみさんの娘であることを完全に証明する証しがないのと同様に、娘ではないと否定できるような材料も勿論ないわけである。

 だが、北朝鮮の政治体制やそのやり口を知ってしまっている以上、ヘギョンさんがめぐみさんの娘だという北朝鮮の主張をまるごと鵜呑みにできる感覚が僕の中にはない。

 めぐみさんに関するあらゆる情報を把握しているわけなのだから、その娘を「偽装」することだって結構簡単にやれてしまうように思えるし、また、そういうことをやりかねない国だろう。

 めぐみさんに似てるって言うけれど、同じモンゴロイドなんだから似てる人なんて存在しても不思議ではない。似てるようにするために整形を加えることだって可能だし。

 ある一人の国民に偽りの人物として一生を生きるように命じるようなことが行われても、それが人権侵害でもなんでもない、北朝鮮はそういう国なのである。


 自民党にしても民主党にしても、政権浮揚や人気取りの道具として過去に何度も拉致問題を利用してきた。

 中韓との関係が最悪で、しかもアメリカの意思にも反発して外交的に孤立している状態で、日朝の劇的な歩み寄りを見せ付けることで東アジア情勢に突破口を開きたいとの思惑を、アベゴミクズとジョンウンが互いに共有しあうというような展開は、だいたい予見できそうな話でもある。

 今度のことだって、横田夫妻が結果的に北朝鮮と日本双方の外交的思惑に利用されたってオチになったとしても、そういうことをやりかねない為政者たちだというのが僕の評価である。


 むしろ、ヘギョンさんという女性が本当に横田めぐみさんの娘だと、誰も彼もが信じ込んでいるとしたら、あまりに自己欺瞞というかお人好しというか、僕にはそっちの方が信じ難い。

 こういう言い方は反発を受けるかもしれないが、慰安婦や強制連行の事実が歴史の闇の中に消されていったのと同じように、拉致問題が解決するようなことはなさそうに僕には思える。

 あらゆる国家的犯罪は国家が罪責を相対化し、最終的には歴史から抹殺するものであるからである。

 そして、あらゆる形而上的な国益というものを信奉する作用が国家を形成する限り、祖国さえもが信頼するに値しないものであることは、国家と自己を一体化させるようなナイーブな幼稚さを持ち合わせていなければ当たり前に了解済みな事項と言えるだろう。


 個人とはそのようにして骨の髄まで翻弄され尽くされる存在だ。


 だが歴史の真実は、個人の記憶の中に根底を持つものだからこそ、どんなに否定尽くされても、それは永遠に揺るがない。





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晴れた空の朝を ようやくみつけて


山の上の古寺まで 君の車で走った。




枯山水の庭に臨んで


押し黙ったまま 静寂を護るように眺める 比叡の山




縁側に座っている君の背中を 不安に思いながら


敷き詰められた紅葉の つづれ折りの上に


一枚 落ちる


冬へと沈みゆく 木の葉




一瞬向きなおった君からこぼれる微笑が


変わらない平穏を 僕に教えて


ありきたりな杞憂が 数秒だけ溶ける


昨日の夜の優しさが ずっと繋がり続けてゆくことを知る。 




  疑いもなく


  この何気ない人生に対して


  とりあえず 一回だけ  呟く。




    「これでいいんだ」  


               と。






他にどんな人生が在りえたというのか

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 自分の病気に関してブログに書いたりするのは、他人からしてみればどうでもいいことだろうと思うので、あまりこの話題に触れないようにしている。

 だがネットサーフィンをしていて、今日思いがけない「発見」をしたので、備忘録代わりにそれを書き留めておきたいと思う。


 僕の精神障害は「うつ病」ではあるが、うつ病と一口で言ってもいろいろな分類がある。

 主治医からは、もう何年も前から言われてることだけど、ICD-10(疾病及び関連保健問題の国際統計分類)に照らし合わせるならば、僕の正式な病名は「気分変調症」である。

 気分変調症というのをネットで検索すると「ディスチミア親和型」だとかいう言葉が現れて、生来わがまま勝手な人間が罹るような、いわゆる「新型うつ病」として説明されていることが多い。
 だがそれらは悪質なデマであり、不当な貶めであるので、気分障害を知らない人はこれらの情報を信用しないようにして頂きたい。

 「新型うつ病」とか「現代型うつ病」というのは一部の精神科医が提唱しているものであって、精神医学界で認められた疾病ではない。ICD-10にもDSM-5(アメリカ精神医学界のガイドライン)にもそのような定義は存在しない。海外で広く見受けられるような病態でもない。

 まずそのことをはっきり断言しておきたい。


 では、気分変調症とはどういうようなうつ病なのか。

 説明するのは非常に難しい。明確に言えるのは、普通の一般的なイメージとしてある「うつ病」とは違う、それだけのことしか言い表せない。

 昨夜ふと何かの拍子になんとなく久々に自分の病名を検索してみたら、「まさに自分自身のことを言ってるんじゃないか」というぐらい的確にそれを述べられているサイトを発見した。


 性格と間違われやすい「慢性のうつ病(気分変調性障害)」について - 対人関係療法による治療

 まさにこのサイトのタイトルが、この病気の事実の半分ぐらいを端的に説明している。

 よくうつ病に対して「こころの風邪」という比喩が用いられるけれど、気分変調症というのは僕に言わせれば、「こころの糖尿病」だと思う。
 つまり、病名そのものが具体的な病状を示しているわけではないが、慢性的な疾病であり、他の直接的な病気を併発しやすいリスクを抱えたものであり、気分変調症というのはそういう意味で糖尿病みたいなもんだと感じている。

 そして普通のうつ病と完全に異なるのは、劇的に病気が始まるわけではないということ。

 思春期だとかにひっそりと発症するもので、それが成人になっても持続してゆくものだから、多くの場合、「病気ではなくて性格の問題」ではないかという受け取られ方をされたり、人格障害と「誤診」されてしまったりすることがある。

 うつ病というのは病気前と病気後では「自分が変わった」というのは顕著に分かるらしいが、僕にはそういうものがあまり明確に感じられない。「憂鬱な気分」とか「不安」だとかいうものが切れ目なく、ずっと続いてきて、それのどこまでが「性格」で、どこからが「病気」なのか、それが判別できない。

 けれどこのサイトによると、気分変調症は性格ではなく、治療可能な病気であるらしい。

 詳細なことはこのサイトに全部書かれてあるけれど、僕が今回新鮮な情報として取り分け目を引いたのは、次のような事柄である。

『慢性うつ病の精神療法』の著者であるマカロウは、慢性うつに陥っている人に特徴的な現象として、対人的認知に関わる思考が、通常の因果的系列を構成しないことを指摘しています。たとえば、慢性うつ病(気分変調性障害)の人はある出来事から、読唇術的に他人の思惑を勝手に読み取り、"自分が特別に否定されるべき存在だ"というような客観的視点からかけ離れた結論を導き出す傾向にあるといいます。
マカロウは、このような特徴をピアジェのいう『前操作的段階』、つまり他者の視点・立場から物事を考えることが難しい、客観的根拠のない直観的思考の段階にとどまっているといいます。

このような『前操作的理論』と関連しているのが、慢性うつ病の人に特有の認知の枠組みで、常にそれを通して世界を見る「すりガラス」のように、頑迷に保持していると言われています。その結果、さまざまな出来事は、結局この「すりガラス」の正しさを裏づけるものとして彼らの前に立ち現れることになります。それどころか、彼らは、実際の対人関係がこの「すりガラス」を裏づけることになるように自己と他者にひそかに圧力を加えてさえいるといいます。

慢性うつ病の患者は、常に抑うつ的なわけではありません。あたかも非連続的な段差が存在しているかのように急に深い抑うつの中に陥ったかと思うと、いつの間にか元の状態に戻る、という変動を繰り返しています。このような変動が、双極性に見えなくもないわけです。

周囲の出来事や彼ら自身の思考が独特な認知の枠組みに関わる内容(=「すりガラス」)に触れたときに、カタストロフィックな変化が生じ、「前操作的」思考と抑うつ状態が現れると推測されています。


 対人的認知の中で、読唇術的に他人の思惑を勝手に読み取り、カタストロフィックな変化が生じる。

 この「カタストロフィックな変化」というのは、まさに言い得て妙である。この言葉を目にしたとき、「俺の人生のすべてではないか」という感じで、言葉の写実の力を久しぶりに思い知らされた。

 じゃあ、具体的にはどういうことなのか。

たとえば。
ある女性Aさんは、最近太ったのではないか?と一日に何度も体重計に乗っていました。
体重は正常でも日内変動がありますけど、体重計の針が朝より増えていたとき、Aさんは愕然として、彼氏のBくんに聞きました。

A「私、太ったでしょ?」
B「そうかなぁ?変わらないけど。」
A「うそっ!太ったでしょ?!」
B「見た目は全然変わってないよ。」
A「だって体重が増えてたのよ!」
B「ほんの少しだろ?太ってないってば。」
A「でも体重が増えたってことは太ったってことよ。」
B「うるさいなぁ。太ったって言って欲しいの?」
A「やっぱり太ったんだ。。。私、もう死にたい。。。」


独特な認知の枠組みである「すりガラス」の正しさを裏づけることと、対人操作という圧力ってこんな感じです。わりとよくある話と思いませんか?

却説(さて)、このような認知の枠組み(すりガラス)と社会的同一性の獲得には関係があり、彼らの独特の世界観が、社会的同一性の獲得・維持を押しとどめていたり、阻害していたりする場合が少なくないといわれています。


 ちょっと例が大雑把過ぎる印象は拭えないが、大体まあこんな感じなのである。僕はこれまでの人生で、このような類の思考パターンでもって恋愛を幾つも自滅的に破壊してきて今に至っている。

 気分変調症の人たちには、僕のように疾病が関係して独身であり続ける人も多いらしい。


 「カタストロフィックな変化」という表現に僕が反応させられたことには、単純な理由が存在する。大学時代に自主映画を作っていたころの作品の一つに『カタストロフィ』と名付けた映画があったからだ。

 そのタイトルは詩人の伊藤比呂美の作品名から拝借したものなのだが、僕がこの言葉を自分の映画のタイトルに引用したのは、当時の僕の日常における、僕の心理的な風景のパターンとそれによる結果のすべてを総称しているような、そういう決定的な意味合いがこの言葉から感じられたからである。

 『カタストロフィ』という映画は幾つかの自作の中で、一番気に入っている映画なのだけれど、それは僕がそれまで辿ってきた乗り越え難い「隔絶」のようなものを、露骨な骨組みのままで曝け出した作品であったからだろう。

 「難解な映画だ」といろんな人から言われたりもしたけれど、それは僕が自分の乗り越え難いものを「説明」せずに「造形」したからである。
 変な言い方だけど、この『カタストロフィ』を見れば、僕のことが全部分かってしまう、それぐらいシンプルな作品だと思っている。


 それで今回上記のサイトを見て思ったのだけれども、僕はその『カタストロフィ』という映画の中で、まったく意図して造ったわけではないが、これは「気分変調症患者の人生」を描いたような自作だったのではないだろうかということだった。

 あの当時、僕は自分自身に起こっていることを全然客観的に理解することが出来ずに、盲目的にもがき苦しんでいたけれど、あれはぜんぶ、気分変調症の表れのすべてであったのではないか。
 僕はそれを客観的な概念として識ることはできなかったけど、僕は自分の気分変調症が織り成す世界観を、病に振り回されながらも必死で言い表そうと詩や映画を作っていたのではないか。

 そんなことに思い至ったわけなのである。


 長い年月の結果として、僕は自分なりのペシミスティックな世界観や、人生に対する自分なりの諦観を築いて、ここまでの現在に至っている。

 僕はそれを自分の性格に由来するものだと考えたことは一度もない。

 いろんな人と出会って、いろんなものを見てきて、その結果として僕が辿りついた結論、相対的な真理の一つのようなものと考えている。

 でも、もしその世界観や諦観が一つの疾病によって導き出されたものであるならば、僕はこれまでの人生のいろんな場面を検証し直して、軌道修正すべき部分を必要とするのだろうか。

 もし、いつの日か、僕の疾病が僕自身の客観的な考証によって翻されるべき結論が生じてきたとするならば、そのとき僕にはどんなものが見えてくるというのだろうか。


 たとえ、僕が長い時間をかけて考えてきたことには疾病の影が彩られていたのが事実だとしても、僕は今まで見てきた自分以外の姿を想像できそうにない。

 他にどんな自分が在り得たのだろうか。

 そんな本質的な問いを、悩まない程度に想像してみたい、そんなことをこの人生で初めて思ってみたのが昨夜の出来事だった。





言動に階級をつけること

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    幸ありて

 昨年の暮、一寸風邪をひいて欧氏管(おうしかん)を悪くした。普通の人ならたいして問題にすまいこのことが、九つの年に失明を宣言されたその時の悲しみにも増して、私の心を暗くした。もし耳がこのまま聞こえなくなったら、その時は自殺するよりほかはないと思った。音の世界にのみ生きて来た私が、いま耳を奪われたとしたら、どうして一日の生活にも耐え得られようかと思った。幸い何のこともなく全治したが、兎に角今の私には、耳のあることが一番嬉しくまた有難い。
 私は、生れて二百日くらいから眼の色が違っていたそうであるが、それが七つの頃から段々見えなくなった。その為に学校に上れなかったが、それが当時の私には何より残念だった。めくらといわれるのがどうにも口惜しくてならなかった。それで無理に見えるふりをして歩いて、馬力につき当ったり泥溝に落ちたりして怪我をしたものである。が、結局諦めねばならなかったので、九つの六月から箏を習いはじめた。音楽は元来非常に好きだったので、間さえあれば箏に向っていた。しかしその頃は――そしてずっと後年まで、やはり時には、眼が見えたらなあと寂しく思うようなこともないではなかった。
 だが、しかし今日では、年も取ったせいであろうが、眼の見えぬことを苦にしなくなった。時々自分が眼の悪いということを忘れていることさえある。「ああ、そうそう、自分は眼が見えなかったんだな」と気がつくようなことがしばしばある。というのは、物事は慣れてしまうと、案外不自由がないものだから、私なども家の中のことなら大抵、人の手を借りることなしにやれる。それだけにまた一しお、この耳とそして手の感触をありがたいものに思うのである。
 私は、眼で見る力を失ったかわりに、耳で聞くことが、殊更鋭敏になったのであろう。普通の人には聞こえぬような遠い音も、またかすかな音も聞きとることができる。そして、そこに複雑にして微妙な音の世界が展開されるので、光や色に触れぬ淋しさを充分に満足させることができる。そこに私の住む音の世界を見出して、安住しているのである。

    声を見る

 まるで見当違いの場合もないわけではないが、その人の風体を見ることのできぬ私どもは、その音声によってその人の職業を判断して滅多に誤ることがない。
 弁護士の声、お医者さんの声、坊さんの声、学校の先生の声、各々その生活の色が声音の中ににじみ出てくる。偉い人の声と普通の人の声とは響きが違う。やはり大将とか大臣とかいうような人の声は、どこか重味がある。
 年齢もだが、その人の性格なども大抵声と一致しているもので、穏やかな人は穏やかな声を出す。ははあ、この人は神経衰弱に罹っているなとか、この人は頭脳のいい人だなというようなことも直ぐわかる。概して頭を使う人の声は濁るようである。それは心がらだとか不純だとかいうのでなく、つまり疲れの現れとでもいうべきもので、思索的な学者の講演に判りよいのが少く、何か言語不明瞭なのが多いのがこの為ではないかと思う。
 同じ人でも、何か心配事のある時、何か心境に変化のある時には、声が曇ってくるから表面いかに快活に話していても直ぐにそれとわかる。初めてのお客であっても、一言か二言きけば、この人は何の用事で来たか、いい話を持って来たのかそれとも悪い話を持って来たか、何か苦いことをいいに来たかというようなことはよくわかるものである。また肥った人か痩せた人かの判断も、その声によって容易である。例えば高く優しくとも肥った人の声は、やはりどこかに力があるものだ。
 声ばかりではない、歩く足音でそれが誰であるかということがよくわかる。家の者が外出から帰って来たのか、客であるか、弟子であるか、弟子の誰であるか、大抵その足音でわかる。道を歩いていても、それが男であるか女であるかは勿論、その女は美人であるかどうかもやはり足音でわかる。殊に神楽坂などという粋な筋を通っていると、その下駄の音であれは半玉だな、ということまでわかる。それは不思議なくらいよくわかる。ところが、この間道を通る人の靴音をきいて、傍の家人に今のはお巡りさんかと尋ねてみたら、「いいえ女学校生です」とのことであった。この頃の女学生は活発な歩き方をするので、私の耳も判断に迷うことがある。

    騒音もまた愉し

 それから、ふだんは普通の人には勿論、私どもにさえも聞こえないような電車の音やいろいろな街の雑音が聞こえてくることがしばしばある。それは丁度、海岸で遠い波の音を聞くようにかすかに低いものであるが、それを私どもの耳ははっきりと聞くのである。すると不思議なことに、それから二三日中の間に必ず天気が変わる。つまり私どもの耳は天気予報の役目も務めるわけで、近頃は警視庁なんかでも、騒音ということを非常に喧ましく取締っているようだが、また事実騒音も聞き方によっては非常に癪に障るものであるが、しかし音の世界に生きる私どもは、波の音を聞く感じを以て電車の音を聞く時、街の騒音にもそこに一脈の愛(いと)しさを覚えずにはいられないのである。
 やがては、誰しも騒音も何も聞こえぬ所へ行かねばならぬのだから、せめて生きている間は、騒音でも何でも聞こえることに感謝しなければならぬと思う。
 それが、音の世界に生きる私共の――少くとも私の「こころ」である。

 先天的の失明でなかったから、私には色というものの記憶が少しはあって、作曲するにはやはりその色を思い出す。はっきりは出ないが、何かやはり眼に浮かんで来るものがある。それと音とが一緒になるのである。どうといって具体的にはいえないが、音にもやはり色はあるもので、あの西洋の作家なんかでも、ドレミファをそれぞれ自分の頭の中でいろいろ勝手に色を出している人があるそうだし、極く普通に黄色い声などというのもそれであると思う。
 自然の音は、私共にとって最も親しいものである。風の音、雨の音、虫の音、小鳥の囀る声、何一つとして楽しくないものはなく、面白くないものはない。
 同じ風でも、松風の音、木枯の音、また撫でるような柳の風、さらさらと音のする笹の葉など、一つ一つに異った趣きのあるものである。
 私は雨の音が殊に好きである。とりわけ春の雨はよいもので、軒から落ちる雨だれの音などきいていると、身も心も引き入れられてしまうような感じがする。
 虫の音にも、まつむし、鈴虫、くつわむし、それぞれ趣きがあってよい。秋の夜長を楽しませてくれるこれ等の小音楽師達に、私は心からの感謝を捧げたく思う。
 私はまた、小鳥が好きで、都会の中に住んでいると、自然の森や林で自由に囀る鳥の音を聞かれぬことは淋しい。私は作曲に感興が湧いて、自然の音にひたりたいと思う時などは、いても立ってもいられない程、懐しい思いがする。
 自然の音はまったく、どれもこれも音楽でないものはない、月並な詩や音楽に現わすよりも、自然の音に耳をかたむける方が、どれだけ勝(すぐ)れた感興を覚えるか知れない。私たちがどんなに努力しても、あの一つにも勝れたものは出来ないであろう。

    音に生きる

 私は子供の時には非常に負嫌いで、喧嘩しても議論しても負けるのが何より厭だった。それがこうして音の世界に生きるようになってからは、不思議に気持が落著いて来て、負嫌いどころか負けることが好きなくらいになった。大概のことは人に勝たしてあげたいと思うのである。
 時にはそれを卑怯のようにも思うけれども、決して人と争わぬ。人の意見に反対しない。若い頃には直ぐ怒ったものであるが、この頃はどうしたものか、腹が立たなくなった。時に、弟子に対して怒ったふりをすることはあるが、心から怒るということはない。
 芸に就いても、かつては他流の人とでも弾く時には、何か一種の競争意識というか、戦闘気分といったようなものに支配されたものであるが、今日はそうでない。誰とやっても静かな気持である。先ず人を立ててその中に自分自らも生きようと希う気持だけである。
 私が一番苦々しく思うことは、相手の人によって言動に階級をつけることである。人間はどうしてああいうことをせねば気がすまぬのか。それは偉い人には敬意を表さねばならぬのは勿論だが、目下の者だから、貧しい者だからといって何故威張らねばならぬのか。私にはそういう気持がわからない。それでよく弟子達に、「先生は誰にでも頭を下げるから威厳がない」と叱られたりするが、しかし私は自分の値打を自分で拵えて人に見せようというような気持にはなれない。
 これは何も私が修養が出来ているかのように仄かすのではない。およそ音の世界に生きる者のすべてが自然に持つ、一つの悟りとでもいうべき心境であろう。有難いと思う。私はいま別に信仰というものはないが、強いていえば、私にとって音楽は一つの宗教である。



宮城道雄 『音の世界に生きる






君の口があまりに情熱的だったので

Posted by Hemakovich category of Poetry on


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君の口が,


あまりに情熱的だったので,


午後の天気予報が外れて,


突然スコールが降り始めた。







彼女は僕から搾り出した情熱を、地球に優しい環境のための買い物用ビニール袋に入れてキッチンの引き出しへ秘密に隠し置いた。


   


   

秘密に隠し置かれた情熱はちっとも冷却されず、キッチンの引き出しは加熱されて、あまりの燃え上がるさまに、ついにモーテルの営業に着手した。


   


   

以来、キッチンの引き出しはご休憩3500円~・ご宿泊7500円~(土日祝祭日料金別途有)のモーテルを細々と切り盛りしている。


   


   

僕はときどきホテル「キッチンの引き出しの情熱」にある秘密のパーキングから、緩やかにハンドルを切って放出されていく車を眺めながら幸福に思う。


   


   

きっとあのコルベットに乗ったクールな見てくれのカップルも、僕と同じ秘密の情熱に出会って、ハッピーなお猿さんになったことは間違いないからである。






Untitled work 52214991

Posted by Hemakovich category of Poetry on


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もう一つのところへ

もう一つのところへ

もう一つしかないところへ



    なにが残ってる?

    なにが残ってる?

    なにが横たわってる?



  あたしは もう一度 出かけるだろう

  あたしは もう一度 出かけるだろう

  あたしは もう一度だけ 出かけるだろう



              あなたは どこまで 行った?



     どのくらい 得られたらいい?

     どれくらい 奪っていけば 満たされる?



                   欲張りな  ほんの子供




    まだ 見たことがないんだ

    まだ 見たことがないんだ

    まだ 見つけていないから



好きなだけ 交じり合った


                   気が向いて  気がついたら



       きっと いつか 終われるよ

       きっと いつか 終われるよ

       きっと いつか 終わりに知る



         彼は かつて 彼女だった、

           彼女は いつだって 彼女自身だった、



            引き取りに行く、


              だれかの未来に支払われなかった、

              だれかの過去に死んだ、



              あたしの遺体。



        


真実じゃない自分を同時に視るということ

Posted by Hemakovich category of Diary on


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 僕はなぜブログを書いたり、詩作やコラージュ、動画をネットにアップしているのか。

 それはただ単純に、「自分のため」でしかない。


 ネットの中では基本的に、他人と繋がらないようにしている。繋がると頭がくらくらして吐き気がするから。

 会ったこともない人間の自意識に接触するのは吐き気を催すような行為である。だってそうでしょ、誰だって、いろんな意味で装飾された自己演出しかやってないわけでしょ。

 ネットの中で誰かに触れるということは、真実じゃない自分を同時に視るということ。

 だから嘔吐しそうになる。

 僕はインターネットを、自分の創作のデータベースだとしか思ってない。

 ネットの中に、自分が死んでいくまでの、自分の存在を蓄積していく倉庫のようなものと考えている。だからネットをやってるんであって、誰かに見られるために僕は表現を晒しているんじゃない。

 僕の蓄積された遺言は、僕が死んだ後に開封されるべきものだと思っている。

 だから自分のためにせっせとネットでこうやって、いろいろ書き物をしたりしているんであって、知らない誰かとコミュニケーションを持つのは自傷行為をやるようなものなのである。


 だが、ここ数日、「現代のベートーベン」だとか「リケジョ」やらのニュースがあんまり面白すぎるので、日頃は全く閲覧したりすることのない2ちゃんねるやら、ヤフコメやら、他人のツイートやら、気持ち悪いものを、いっぱい見てしまった。

 最初はサムラゴーチやらオボカタの壊れっぷりを観ることに苦痛を感じているのかと思っていたが、そうではなかった。2ちゃんやらツイッターを覗くことで、他人とネットで繋がってしまったからこんなに気分が悪いのだ。それを今日になって自覚した。


 ある女性のツイートを見てその人物のプロフを読んだら「現代詩人」だと称していた。

 気になって彼女のサイトを覗いたんだが、あまりの自意識過剰・自己顕示欲の自爆加減に激しく吐き気を催した。

 詩集を出版しているようなのだが、タイトルは『かわいいホロコースト』。なんとも気持ち悪い過剰な自己顕示欲。

 「アウシュビッツ以降は詩を書くことは野蛮だ」という誰かの言葉に因んでつけた書名らしいが、よく、まあ、こんな慙愧に耐えないタイトルを挑発的に考えたもんだよ、むかつくんだよ。

 どうせなら、『かわいい南京大虐殺』ってタイトルにした方がまだ信念が感じられるかもしれないが、所詮知性も品性も勇気も信念も空っぽだから、ユダヤ人を傷つけるような、厚顔無恥のふざけた書名で他人の気を引こうとしたんだろ。


 かくのごとく、ネット内で他人と繋がってしまうと、奇を衒った自分キャラ捏造病者と遭遇してしまい、自分の貴重な時間がぽろぽろと零れ落ちて失われてしまうのである。

 ツイッターなんかやってて、よく正気でいられるなと感心する。

 僕にはネット内コミュニケーションというのはアディクションを孕んだディスオーダーとしか思えない。





それでいいのか、それでいいのか

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 右腕の神経痛が始まつたので、私はここ数日床の中で朝夕を送り迎へてゐる。

 神経痛といつても私のはごく軽微なものであるが、それでも夜間など、一睡も出来ないまま夜を明かすこともある。これは気温の高低に非常に敏感で、そのため夜になつてあたりの温度が下つて来ると激しい痛みが襲つて来るのである。丁度筋肉と骨の間に、煮滾つた熱湯を流し込まれるやうな感じで、ひどい時には痛む腕を根本(ねもと)から断(き)り除(と)つてしまつたらどんなによからうと思ふ。

 それでも明け方になり、徐々に温かくなつて来ると少しずつ激痛は納まつて、とろとろと浅い眠りに入ることが出来る。昼間は夜に較べるとずつと痛みが弱く、見舞ひに来た友人などと話してゐると、どうにか気をまぎらはしてゐられる程度である。勿論、ひどくやられると夜も昼もあつたものではない。さうなると重病室へ這入つて静養するのであるが、私の神経痛などまだたかが知れてゐた。

 私はアスピリンを服用し、蒲団の中から首だけを出して毎日を過すのであるが、昼間はそんなに苦しいとも思はない。眠れなかつた翌日はうつらうつらと半睡状態で過し、どうにか眠れた翌日は窓の外を終日仰いで時を送つた。

 まだ八月の下旬に入つたばかりであるが、それでも窓外はすつかり秋めき、夜になると部屋の中へスイッチョが忍び込んで啼いたりする。

≪日あしは日毎に短くなつて≫

≪ひるがへる紙の白さに秋がたはむれ≫

≪空は湖≫

≪きれぎれに流れる雲に乗つて≫

≪風は冷気をつつんでゐる≫

≪あのふるさとの潮鳴りが≫

≪湖(みづうみ)に奔騰する雲の泡≫

 秩序も連絡もなく、退屈になるとそんなことを口から出まかせに呟く。

 しかしさういふことを呟いてゐる自分を考へ出すと、私はいひやうもない侘しさに襲はれる。

 床に就てゐるため気が弱くなつたのであらうが、旅愁にも似たものを覚え、やがては、かうした小さな世界に隔離されたまま生涯を埋めて行く自分が思はれて、堪らなくなつて来るのだ。

 自分は何のために生れて来たのだらう、ただ病んで苦しんで腐つて行くために生れて来たのだらうか。

 幼稚な疑問と思はれるかも知れないが、かういふ疑問が執拗にからみついて来るのである。勿論このことに就いては既に考へ抜いて来たつもりでゐるし、また考へもしたのであるが、それでゐて、この疑問が襲つて来る度に以前の考へが変に白々しく感ぜられ、それでいいのか、それでいいのかと、自分の考へを嘲笑するやうに迫つて来るのである。



北條民雄 『烙印をおされて』 (改行は一部引用者による)






ぎこちなく 孤立テスト

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 ぎこちなく   孤立テスト


 かたくなに   浣腸


 臆病なカリ首   世界を拒む


 ぞうさん   姦通する


 むこうみずに   黄昏時   マジノ線


 あの女に向かって   宿命   ぜんぶ  嘔吐




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 電話が約束を破って   


    女友達のテオドールで  廃人ごっこ


 テープレコーダーが密告して


    オナニーは  実存の喪失




       彼と彼女は   交わらない


       手がかりも諍いも  アパートメントで今夜消える




    飲み込む  言葉   


    仕向けられて   なにがみえる?




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    たくさんの優しいシリコンドール  ゆっくり通り過ぎたあとで


    もう一度   


    あなたが  


      わたしを  選ぶ




    彼と彼女は    交わらない


    あなたも わたしも


    正午の地獄に落ちながら   


          救いようもなく   無知で蒙昧。




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music : Fishmans - Passing each other on the club



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