Hemakovichの半永久的平坦な戦場

パニック不全神経症者が落ちてゆくカムフラージュ

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Out of body bag since 1937

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People say the quantity of the number is equivalent.


People say that the history is offset by past and present.





But,



"I have never passed each other anybody of them yet."







数字は等価だと人は言う。


歴史は相殺されるとも人は言う。





しかし



「わたしはまだその中の誰一人ともすれ違ってはいないのです」





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music : Laurie Anderson - From The Air (Dan the Automator Remix)



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反知性主義がすべてを無理心中の巻き添えにする悪夢

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 極論かもしれないが、佐村河内氏の代作事件、NHK経営委員らの妄言、アベゴミクズ政権の稚拙外交、これらの問題の根っこにあるものは共通していて、それは思考の非科学性とか、リアリズムに対する脆弱性、そういったもので根拠が連なっているように思う。

 それら、思考の非科学性とかリアリズムに対する脆弱性という共通項を一つの言葉で表すと、それは「反知性主義」というべきものではないだろうか。


 では、「反知性主義」とはいったいなんなのか。

 先日の朝日新聞で反知性主義に関する記事があって、幾つかの学者らがそれに対する定義を述べていた。

 「実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度」だと佐藤氏(引用者註・佐藤優のこと)は述べる。新しい知見や他者との関係性を直視しながら自身と世界を見直していく作業を拒み、「自分に都合の良い物語」の中に閉じこもる姿勢だ。
 とりわけ問題になるのは、その物語を使う者がときに「他者へ何らかの行動を要求する」からだという。
(中略)
 異なる意見を持つ他者との公共的対話を軽視し、独りよがりな「決断」を重視する姿勢がそこにあると氏は見た。


 これを読んだとき、「ああ、そういうことなのか」と胃の腑に落ちるような説得力を感じた。

 同じ記事では、社会学者の竹内洋が反知性主義の特徴を「知的な生き方およびそれを代表するとされる人びとにたいする憤りと疑惑」と指摘している。
 僕の反知性主義に関する理解はもっぱら竹内氏と同じ脈略であった。要するにエリートやら知識人に対する憎悪であり、アメリカのティーパーティーを指示するような人々が示すような典型的なキャラとして認識していた。

 だが佐藤優の定義付けに沿うならば、反知性主義とは思考停止と現実無視の態度に他ならない。

 これは佐村河内に心酔していたような人々のスピリチュアルな側面だとか、長谷川三千子のオカルティックな売文やら、アベゴミクズの稚拙外交に見受けられる心情主義といったものは、まさに佐藤優が定義する反知性主義に当てはめると理解が容易になる。

 そして、反知性主義とは歴史認識の場面においても昨今大いに跋扈している。

 極右の知識人たちが己らのナショナリスティックな歴史認識を「自由主義史観」と称し、通常の実証的な歴史研究者が日本の戦争犯罪に言及することを「自虐史観」と呼んでいるわけだが、歴史学というのは実証的な社会科学によるアプローチ以外の、自分が理解したいような世界像を持った「物語」を歴史とは呼ばない。
 歴史が単独の事実のみを検証する以上、「史観」などという「物語志向」の言葉を使う連中は、自分で自分を非科学的で学問など関係ないと公言しているに過ぎない(ついでに言えば歴史「認識」などという表現も実証的史学に忠実であろうとすれば歴史とは本来無関係なものであるはずだ)。


 問題は反知性主義的な人たちに限って、自分たちの考えに沿って「他者へ何らかの行動を要求する」欲求が非常に強い、ということである。

 バカは一人いるだけなら場を和ますかもしれないが、みんなが志向停止の非科学的バカになれば、勝ち目のない無茶苦茶な戦争だって勝手に始めようとしてしまう。



 佐村河内の事件に関してどのような見解を持っているのか関心があって、オウム事件のキーパーソンの一人だった滝本太郎弁護士のブログを読んだ。

 だが佐村河内に関してはあまり関心を費やしてはいないようで、むしろ世間が佐村河内やオリンピックに没頭しているドサクサに、集団的自衛権の憲法解釈を変更しようとするアベゴミクズの独裁っぷりの方に滝本さんは危惧しているようだ。

 一方、安倍内閣、意外に短いかもしれない。中国・韓国との付き合い方のみならず、米国との付き合い方も分からなさすぎる。NHKの新会長や経営委員の発言対応を含め、下手に過ぎるから。早くまともな「保守」に戻らないかな。
1-安倍さんは、まさに保守ではなく「反動」、それも不勉強に過ぎる「反動」なんじゃないかな。勉強している反動ならば、靖国とかにこだわらず「文化」面を前面に出すと思うんだが。
2-さらに、安倍さんは日本が今後、中国の国力(GNP、人口、軍事、外交とくにインド対応の外交など)を超えることはないことを認識しておらず、日本がまともに生き残る道を決定的に間違えているんじゃないかな、危なさすぎる、と思う。

安倍内閣-これが問題かと」- 『日常生活を愛する人は?』-某弁護士日記 


 最近、日本と中国が本当に戦争を起こしてしまうんじゃないか、と心配する知識人の見解をよく目にする。

 ほんの少し前なら一笑に付していたけれど、僕も最近心配になってきた。

 もし起こるとするならば、尖閣諸島近辺での偶発的衝突から始まる紛争レベルで、たぶん中共首脳部の意思の届かないところで緊張状態がエスカレートした挙句、勝手に現場の人間たちが起こしてしまう軍事衝突、というのはありうるかもしれない。

 だが最近のアベゴミクズのワンマンぶりを見ていると、「こいつはむしろ戦争を願っていて意図的に中韓を挑発しているんじゃないか」と思うときがある。具体的にそういうシナリオがあるわけではなく、下痢首相のぼんやりとした願望の中に第二次日中戦争への渇望があるのではないか、と僕は感じるのだ。

 だって、鳴り物入りの「下痢のミックス」経済対策だってついにメッキが剥げてゆきつつある。円安に誘導しても貿易で儲からない、GDPが上がるわけでもない。物価が値上がりしても賃金は上がらない、雇用体系も変わらない。
 もはや単なるインフレなんじゃないのか、下手すりゃスタグフレーションさえも起こりかねない。

 なのに下痢首相の強気は本気である。強気だけが先行して、だんだん現実認識さえも薄れつつあるのではないか。

 経済で失敗したところで戦争でも起これば愚民は政権を支持するし、支持せざるを得ない状況も作ることができる。あの我儘下痢坊ちゃんがそれぐらいのことを考えていたとしても、全然不思議ではない。


 今の状況を過去の歴史に喩えるなら、日米開戦前夜のようにすら見えたりもする。戦っても勝てる見込みが全然ない相手と精神主義一本槍で戦争に突き進む、そんな状態。

 はっきりしているのは、いまの中国と戦うということは1941年にアメリカと開戦した状態とほとんど同じだということ、日本と中国のエスカレートを心配するアメリカも、いざ開戦となれば、日本と共に戦ってくれないんじゃないかと思えること。

 反中の片棒を担ぐ日本メディアが「中国軍は一人っ子で我儘に育った者たちで構成されているので自衛隊より弱い」などという、非科学的どころか売文目当てのアホな妄想を記事にしたりする。
 過去の日米戦争開戦前だって、日本人はアメリカに対してこれと似たようなアホな妄想を下して非科学的なきちがいになっていた時期もある。たとえばアメリカ人は椅子を使う暮らしをしているから、畳に座る日本人より足腰が弱く、白兵戦に弱い、だから竹槍で突っ込めば勝算がある、だとか。


 なんだかアベゴミクズの反知性的な現実無視の情緒に引っ張られるように、無理矢理戦争に引っ張り込まれるような不安が消えず、非常に怖い。

 
 アベゴミクズが下痢で倒閣してしまうことを、本気で願わずにはいられないこの頃である。

 戦争するんだったら、下痢野郎を代議士に選んだ旧長州、山口県民だけでやってくれ。お前らが直接的に悪いんだからな。

 俺を巻き込まないでくれ。





すでに地上では次の荒廃が準備されているのではないか

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 僕は外食に出掛けて行くため裏通りを歩いている。

 ある角を曲って二三歩行ったかと思うと僕の視線は何気なく四五米先の二階の窓の方に漂う。反射的に立ちどまる。

 空間をたち切って突然、黒い一箇の塊りが墜落して行く。二階の窓際で遊んでいた子供なのだ。子供の体はどしんとアスフアルトに衝突する。ざくっという音響がきこえる。僕の体のなかにも、ずしんと何か音がひびく。僕はびっくりして立留まっている。

 しーんとしたなかに風のようなものが走る。跣足のまま飛出した中年の婦人が黒い塊に飛びついて横がかえにすると夢中で駆け出していく。医院の方へ行くのだ。その後姿が僕の眼にはっきり映る。横がかえにされてぐんなりと頭を垂れている子供、斜横に姿勢を張って突き進もうとする婦人。

 惨劇のなかに置かれた人間の表情とリズムがずきずきと僕のなかで疼きだす。僕の眼には広島の惨劇の世界がすぐ見えてくるのだ。


 僕は寝れない夜々、鶏の声に脅かされている。

 道路に面した僕の部屋は深夜の街の音響がつぎつぎに飛込み、僕の部屋の窓は僕の寝つけない鼓膜になってしまう。

 一つのもの音から次のもの音の間に横たわっている静謐もその次にはじまるもののために重苦しく身悶えしている。そういう身悶えが鶏のはばたきで破られると、あの声が始まりだす。一羽が終ったかと思うと、もうすぐ次の一羽が待ちかまえて啼きだす。その声々は睡れない僕を滅茶苦茶に掻きむしる。啼きやんで静謐が戻って来ても、僕はもうその次に用意されているあの羽撃きのために脅えつづける。

 そういう時、僕にはあの広島の廃墟の姿がぼんやりと浮んでくるのだ。

 あそこも今ではかなり家が建並んで地上らしくなっているのを僕は知っているはずだ。

 だが、僕の眼に見えてくるのは、やはり原爆直後のあの何ともいいようない不思議な姿だ。


 先日「日本敗れたれど」という映画を見て、僕はまた何ともいいようのないものを煽られた気持がした。

 廃墟はまだ人の心の隅々にも日常生活のいたるところにも存在しているはずだが、それがまだほとんど回復しないうちに、既に地上では次の荒廃が準備されているのではないか、この無気味な予感が僕を重く苦しめる。

 そして原子力の投げる最も陰鬱な影はそれを人類が統制する力をもっていないのではないかという一点にある。


原民喜 『悪夢』 (改行は一部引用者による)






マンボではなくタンゴ

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 かつて、僕には「育ての親」と呼ぶべき存在の人たちがいた。


 といっても、別に実の親が早くに他界したとか、養子として育てられたとか、そういう類の話ではない。ただ単に、親が共稼ぎでいろいろ事情があったから、生後数か月である老夫婦にお守りして育てられた、それだけのことである。


 当時、乳幼児保育のようなものがすでにあったのかどうかはわからないが、僕は母親の実家近くに住んでいた、母方の祖母の友人であった女性の家庭で、保育所に行くまで母の勤務が終わるまで預けられて育った。

 うちの家にはまだその頃は母にとっては姑である祖母が元気に顕在してたから、姉たちは祖母の手によって育てられて、いわゆる「お祖母ちゃん子」として育った。だが僕に限っては母は祖母に面倒を頼まず、自分の知人の手で育てられることを望んだのだった。

 母と祖母は、祖母が死ぬ数ヶ月前までずっと仲が悪く、子供の頃から僕は彼女たちの喧嘩を日常のように眺めながら育った。成人してから聞いた話だが、母からすればたった一人の息子である僕までが「お祖母ちゃん子」になってしまっては堪らない、との思いで、その知人の老夫婦にお守りしてもらうことを決めたようだ。


 「育ての親」の老夫婦は善良な人たちで、信仰心に厚く、物事の道理を折り目正しく歩もうとする非常に温和なおじさんとおばさんであった。しつけには厳しかったらしいが、彼らに叱られた記憶はまったくない。小さいときから内向的だった僕は物静かで手がかからず、賢かったから怒る必要もなかったと、長じてから何度もそのおばさんに言われた。

 結果的には母の目論見どおり、僕は「お祖母ちゃん子」にはならず、分離不安で悩まされるほど強度な「お母さん子」として成長した。だが保育所に上がる前までは、母よりも「育ての親」の夫婦になついてしまったようで、仕事帰りに母が迎えに来ても帰るのを嫌がって、おじさんおばさんの家に泊まったことが何度もあったのだという。


 「育ての親」のおばさんは平凡な主婦であったけれど、実に手先の器用な女性だった。着物の端切れを使って貼り絵のような要領で、パッチワークではなく額に収めるような人形の絵を作品として創るような人であった。

 よくおばさんに、ウルトラマンだとか仮面ライダーのお面を描いて作ってもらった。刀みたいなのもダンボールで作ってもらった記憶がある。
 おばさんの作るお面は絵のデッサンがとても上手かったので、子供心に「本物」だと喜んでいたように思う。
 子供の頃のアルバムを見ると、おばさんが作ったウルトラセブンのお面をかぶって遊園地の車に乗っている写真があるぐらいだから、どこに行くにも愛用するくらい大層気に入ってたのだろう。


 実際にお守りをしてもらっていた頃は完全に「おばさん子」だったのだが、成長して、高校ぐらいになって彼らのところに遊びに行くようになった頃は、おばさんよりも、おじさんとよく話すようになった。
 おじさんは病気で言語障害があったから聴き取り難かったけど、彼との会話は楽しかった。おばさんとおじさんは仲が悪かったから、おじさんと話していないときは、「何を言ってるか分からないのに話して楽しいか?」と、よくおばさんに嫉妬された。

 おじさんの生業は電気工事屋だったが、仕事よりも趣味に生きる人で、僕はこの点において完全におじさんの影響を諸に受け継いでいる。音楽や小説、映画が好きな人で、たくさん蔵書やレコードがあった。

 僕が今も持っている、かまやつひろしの『我が良き友よ』のシングル盤は、幼児だった僕におじさんが聴かせると大変喜んで踊ったりしてたようだ。アニメのレコード全集なんてのも買ってもらった。
 ルパン三世のテーマのBGMの方ではなく、ボーカル入りのバージョンの方がお気に入りである理由は、おじさんがそのレコードを買ってくれて、小さい頃から刷り込みのように何度も聴いたからである。

 
 高校の頃からどっぷり映画にハマった僕だったが、当時うちの家にあったビデオデッキは壊れていて、「実の父母」は新しいのを買い換えてくれなかった。勉強に差し支えて大学に行けなくなる、という理由からだった。

 仕方がないので、レンタルしたビデオソフトを持って「育ての父母」の家に通って、おじさんのビデオデッキで見せてもらったことは数知れない。僕の生涯を決めるに至ったレオス・カラックスの『汚れた血』も、おじさんと一緒に見た。
 そのうちにおじさんの映画の好みにも影響されて、薦められて『アリババと四十人の盗賊』とかジャン・ギャヴァンの『望郷』などを観た(「ペペ・ル・モコ」という言葉の響きはたぶん一生忘れない)。おじさんのコレクションの中にあったカトリーヌ・ドヌーブの『昼顔』を観たことが、フランス映画に関心を持つきっかけとなった。

 本や音楽に関しても同様で、ポール・モーリアとPPMを聴くようになったのはおじさんの好みのためであり、僕の蔵書の中に戦前に出版された茶色に染みた小説や数学書は、高校のときにぜんぶおじさんからもらったものである(ほとんど読んでいないのだが……)。


 おじさんは若かった頃大阪に住んでいたので、京阪の繁華街の街の名は彼に聞かせられて覚えたもので、おじさんは青春時代の放蕩話を幸せそうな顔でよく語ってくれた。

 戦争で兵隊に引っ張られた話も何度も聞かせてくれた。「二等兵やいうもんはカスみたいなもんじゃ。糞みたいな存在や」というのが口癖だったせいで、旧陸軍の内務班に僕が関心を示したのも、案外その口癖の影響だったかもしれない。


 ロック以外はほとんど洋楽好みで、ジャズでもフォークでもクラシックでもなんでも聴いていた印象があるのだが、あるとき、「おっちゃんって、ほんまは何が一番好きなん?」と尋ねると、タンゴだと答えた。

 タンゴを当時知らなかったから、僕の頭にそのとき浮かんだのは「ウーーーーーッ、マンボぉ!」だったので、「そうか、おじさんはあの曲がむちゃくちゃ好きやねんな」と誤解した。
 その誤解は相当長く続いて、例の「マンボNo.5」がTVなんかで流れると「おっちゃんが好きだった曲」として思い出していた。

 タンゴがマンボとは全然違う音楽であることを生まれて初めて認知したのは、大学を卒業してずっと後、、アストル・ピアソラを知ってからのことである。

 そのときには、もうおじさんはこの世を去っていた。



 なぜ、「育ての親」に関する記事を書こうと思い至ったかというと、おじさんが「マンボではなくタンゴ」が好きだったことを、グレイス・ジョーンズによるリベルタンゴのカヴァーを聴きながら思い出したからである。

 ロマン・ポランスキーの『フランティック』で、エマニエル・セイエがハリソン・フォードと踊っているのを観て、僕はリベルタンゴに魅せられた。でもこれが実はカバー曲であり、ピアソラというタンゴの巨匠による作品だと知った頃には三十歳近くになっていた。

 タンゴがどのような音楽であるか、実に魅惑と官能に満ちたこのジャンルをおじさんが愛していたのだと、誤解がついに解けたのはこのときだった。

 そして僕は、ピアソラとリベルタンゴをこよなく愛しながら、今へと至っている。


 これを書きながらウィキペディアで調べて驚いたのだが、リベルタンゴが発表されたのは僕の生まれた年だった。他愛のないことだが、おじさんのことといい、なんとなく小さな縁のようなものを感じる。

Libertangoという単語は、「自由」 libertad と「タンゴ」tango と合わせて作った造語による。オラシオ・フェレール(Horacio Ferrer)による歌詞付きの楽曲もある。フアン・ペロンが大統領に返り咲くようなアルゼンチンの雰囲気に嫌気をさして、イタリアで演奏活動していたときの作品。

ウィキペディア - リベルタンゴ


 ウィキペディアの記述を信じる限り、この曲の持つ独特の抑鬱感はこういった時代背景に支配されていたらしい。まさに、アベゴミクズの圧政に苦悩する僕のための曲である。


 「カス」のような二等兵出身のおじさんは、ピアソラを聴いたことがあるのだろうか。リベルタンゴを彼は知っていたのだろうか。今となっては確かめる由もない。

 だが「ペペ・ル・モコ」をあれほど愛したおじさんなのだから、きっとリベルタンゴを聴かせたら、「これ、こういうの、好きなんや。やっとわかってくれたか」と嬉しそうな顔をするような、そんな気がするのである。

 しかしながら、「ウーーーーーッ、マンボぉ!」を聞いたら、「マンボではなくタンゴ」なのではあるが、やはり今後もおじさんのことを思い出すような気がして、なんとかこのイメージを振り払いたいと思いつつ、無力を感じるのであった。





『南京!南京!』を観る

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 友人のメイ・ティンに薦められた勢いで、ついに『南京!南京!』を観る。

 予想以上に凄い映画だった。正直、感動した。


 『鬼が来た!』がインテリジェンスな映画とすれば、『南京!南京!』は詩情の映画だと思う。
 出演のオファーを断った香川照之が、どのようにこの映画を批判していたか忘れてしまったが、彼は自らが出演した『ジョン・ラーベ』に関しては「静謐な映画」と評していた。

 しかしどちらも観た僕の感覚から言わせると、『南京!南京!』の方がよほど静謐だと感じた。売国者呼ばわりまでされながら朝香宮鳩彦王を熱演した香川の勇気には大変敬服する。
 だが南京事件を描いたということと、映画自体の芸術性のレベル、諸々の総合的なものを評価したとしても、残念ながら『ジョン・ラーベ』は『南京!南京!』の足許にも及ばない、というのが辛辣ではあるが僕の正直な感想である。


 まず役者の演技が凄すぎ。特にこの映画で日本兵を演じた日本人俳優の、演技への没入っぷりに敬意を表する。

 この映画で日本兵を演じるというのは非常に困難で苦しい作業だったと想像する。それは日本軍がただ単純な悪だったからではなく、戦争という日常の中で、人間らしさと鬼畜の如き部分が同居している、大変に複雑な群像として監督が演出しているからである。
 たぶん、普通に極悪非道を演じるよりも、難しかったと思う。自分の中の触れ難いようなものを呼び起こすような、非常に内面的な要素と向き合わねばならなかったかもしれない。

 中国人俳優の演技も素晴らしかった。特に女優陣の動きや佇まいが大変印象に残った。

 あまり比較するのは良くないと思うが、『ジョン・ラーベ』においては中国人俳優の演技が単調だった。女優も男優も、どこか模範的な人物に収まっているというか、あっさり言ってしまえば、ハリウッド映画レベルの造形しかなかった。

 『南京!南京!』の女優陣は凄まじい。特に高圓圓という人と、ラーベの中国人秘書の妻を演じた人、かなり印象に残った。

 上手く演じようという感じを受けなかったのが好感を持てた。日本人が日本兵を演じるのと同じくらい、この映画で中国人女性を演じるということは女優陣には大変だったと思う。観客の評価を度外視するような完全な入り込み方が半端ではなかった。

 監督の演出方針が最初から観客の目を度外視させるようなやり方で一貫していたのだと思う。『南京!南京!』においては単純な悪人もステレオタイプに哀れな被害者もいなかった。俳優全員が最初から「当事者」を生み出そうとする気概と才気が読み取れる思いがした。

 この映画をあからさまな「抗日」で染めてしまおうとするような「模範解答」の映画作りを、まず最初にきっぱりと放棄していたのだと僕は想像する。

 たとえば、比較的善良な存在として描かれる日本兵の角川(中泉英雄)が慰安所に訪れて、初めての女性であり自分の妻のように愛している百合子(宫本裕子)に、新年の挨拶と共に自分の慰問袋を渡すシーン。

 角川から送られたキャンディーを舐めながら「内地の匂いがする」とすっかり心が打ち解けた感じになるのだけど、ふっと我に返って慰問袋を枕の後ろにおいて、「仕事」として角川をいつものように迎えようとする。

 行為の最中に思いをこめて角川はキスをするのだけども、その瞬間に百合子は感情をこめないふうに「終わりましたか?」と静かに訊く。

 実に人間描写が複雑で多様である。観客が思い描くようなところへすっきり着地することは全くない。

 
 捕虜の虐殺だとか強姦だとかがはっきりと描かれているのだけれど、『南京!南京!』の中での物事の善悪はそれほど簡単なものとして扱われていないように、僕には受け取れた。

 殺したり犯したりしながらも、非戦闘中にのんびりと過ごす日本兵の休暇のシーンは牧歌的に見える。安全区の中で女たちがマージャンに興じながら日本語を覚えあったりしているかと思えば、階下で悲鳴が起こって同胞が犯されていたりする。

 「当事者の日常」を、何の前提もなく最初から再現しようという試みをそこに感じたりする。再現ではあるのだが、ほとんどの人たちが「名もなき民」なのだから、実質的には最初から造形しているような印象がある。
 実際、ラーベやらヴォートリンといった南京事件の国際委員会側の実在の証人や、日本軍にも名のある将校やら外交官が出てくるのだけど、彼らの描かれ方にはほとんど比重が置かれていない。
 あくまでも、あの歴史的な事件を普通の我々の日常的な営みの延長にあるかのごとく、底辺から、日記を書くように、丁寧に紡ぎ出そうとしている。そういう演出に、ありがちなものを生むまいとするスタッフや俳優、監督たちの良心を感じた。



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 カメラのアングルだとか音響にしても、いろいろ工夫がなされていて良かった。

 アングルで言うなら、ラーベの秘書とその妻が別離するシーン、南京にとどまったその秘書が射殺されるシーンが印象的だった。射殺される男を遠くに映しながら、射殺を命じた将校が決して男を見ようとしない場面など、相当に人の感情の細やかさを決して逃さないようにしようとするような意図が感じられた。

 戦争映画であるので、銃撃や砲弾の音がやたらにリアルで臨場感が在るのだが、同時に急に静けさが訪れたり、わざと消え行くような声で台詞を発声させたりするメリハリが感じられる。その辺に詩情であったり、静謐さを見受けられたりする。


 香川照之がなぜオファーを受けて断った『南京!南京!』に対して、ことさらに批判を試みようとしたのか、真意が読み取れない。
 僕は香川の批判を真に受けていたから、そんなに評価に値するような映画ではないのかと今までずっと思ってきた。

 ところが実際に観てみると、前述したとおり香川が『ジョン・ラーベ』を批評した「静謐」との評価はまさに『南京!南京!』にこそ当てはまるし、芸術性も比べようがなくこちらのほうが上だと思った。

 僕の勘繰りでしかないが、香川は『鬼が来た!』と同じような役柄のオファーを伝えられて、気を悪くしたのかもしれない。

 メイ・ティンに薦められたとき、「面白くない映画だったら、なんて観想を言えばいいだろうか……」と心配していたのだが、観始めてみれば映画を批評する隙間もないほど鑑賞に没頭できた。2時間以上の尺があるが、まったく退屈しなかった。

 ラストが冗長でメッセージ過剰な『シンドラーのリスト』がアカデミー作品賞を獲れるぐらいなら、この映画はカンヌでパルム・ドールを受賞してもおかしくないほどである。中国映画の芸術的水準の高さをまたしても思い知らされた。

 それと同時に、この映画に対する中国人からの評価が芳しくないというメイ・ティンの言葉もよく分かるような気がした。
 だいたい、中国のTVドラマが描くような勧善懲悪の「抗日」ドラマ(新聞などで伝え聞くだけで見たことはないが)ほどに分かりやすくもないし、娯楽性もない。芸術とか哲学性の方に完全にシフトしている映画なのだから。

 この映画で描かれた日本軍の蛮行に関しては、描かれ方は過剰とも矮小とも思わなかった。自分が南京市民や日本兵といった「当事者」の目線に立つとすれば、自分から見えてくる事実の範囲はあれぐらいなものだろうと想像したからだ。

 ただ、日本兵側の主人公である角川の描き方は、少し理想化されているように思えたが、だからといってあの事件の救いのなさが軽減されている訳でもないし、彼のような理想化された人物を日本軍側に敢えて置くことによって、日本兵一人一人の人間性を見つめる視野を留めおくことを可能にしたとも言える。

 映画のラストに関しては、百家争鳴と言い得るほどの受け取り方が出来ると思う。割り切れない部分もあるが、結果的に自由で多様的な見方を最後に残したと思う。
 僕個人的には、安全区国際委員会の一人であった米国人女性、ミニー・ヴォートリンがなぜ自殺してしまったのか、その理由がそこに見出せるように思えるラストだった。

 南京事件の手記やら慰安婦の証言を読んできたときの、僕の偽らざる感情が角川の最後の台詞に同じものとして在るように、僕は思った。


 最後に一言、くだらないことを言う。

 中国や韓国が作った芸術作品や歴史研究に関して、そこに「反日」の有無やら度合いを計ってレッテルを貼るようなくだらない嗜癖は、もういいかげんやめてしまえばいいのにと思う。

 確かにプロパガンダはどこの国にも存在するが、日本が中韓に対して指摘するような「反日」は「なんでこの程度のことが……」と絶句させられるようなレベルで、不寛容極まりない。
 だいたい、日本が過去にやった戦争犯罪を歴史として伝えようとすれば、極右のバカどもにとっては、正しいこともぜんぶ「反日」になる。
 過去の戦争で日本が悪いことをしたのは事実であり、なぜそれを認めることが「自虐」になるのか。自らの過ちは過ちとしてはっきりと認める、認めた上でより良い現在を未来に残そうと方法を考える、それこそが普通の大人の態度である。ちょっとしたことで「自虐」だとか「反日」だとかいちいち言いがかりをつけるのは、極右の幼児性であり、クソガキの如き中二病でしかない。

 われわれが『はだしのゲン』をアメリカ人に見てもらったときに、「これは反米だ」だと言われたとしたら、「そんな単純なものでもないし矮小な意図で見せているんじゃない」と反発心が起こると思う。だったら日本の戦争犯罪に対する歴史的継承にいちゃもんをつけるのは、日本人がいかにも矮小で単細胞だと見られてもおかしくはなく、自分で自分のレベルを下げているのである。

 南京事件はなかったとほざき、都知事選で相手候補を「人間のくず」呼ばわりしたバカ作家がいたが、まさに彼こそがクズで幼稚で子供じみた計算でしか物を考えないアホである。
 前にも言ったが、もし中国と戦争になって日本が占領されたとしよう。あの「人間のくず」作家は必ず今までのスタンスを豹変させて中共マンセイの言辞を垂れ流すだろう。クソガキは世の中の流れに従うことしか出来ない、信念のない連中である。

 「くず」呼ばわりなんか気にしてないという下痢糞首相がいるが、僕からしてみれば、彼の言うような他国の「反日」以上に、彼の存在が今現在、この国で一番最強の「反日」的状態だと思う。
 他国を挑発して戦争すら厭わないような亡国下痢野郎こそ、「反日」であり、「くず」である。


 さっさと腸炎が悪化して、首相職を放り投げてもらって、嫁にオムツを替えてもらう生活に戻ってくれることを、僕は愛国の立場から強く希望してやまない。





愛の煉獄ライブ中継

Posted by Hemakovich category of Poetry on


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シスターは


列車に乗って


巡業している。




彼女の出し物は90分


TVでも 夜中の十時から見られる。




亭主たちは 日が暮れるのを待ちかねる


女房たちは おっぱいを丹念に井戸端で手入れする。




今夜も子供たちは サイレース入りのシチューを飲んでいる



だけど来年のクリスマスには あの人たちもあの子たちも ここにはいない。








とても美味しそうなあなた。



揚子江



赤い岸壁の畔。




マティ-ニの中で 泳ぐ。




「どこから帰ってきたの?」


トラックの荷台から 顔の膨れた彼女が尋ねる




「僕は あちら いや、こちらだった、かな・・・・・・」


カスタニアンの樹の下で リン酸カルシウムの彼が答える。








あの晩秋が来るたびに



あの人は



ライ麦を植えるのだろうか。



今年のマリアは



何リットルの ミルクを出したの?








「そんな目を見てたら忘れられない顔を思い出すよ」



「もしかして、あたしって、ファムファタル?」



「うん、たぶんもう会えないから」



「泣いたらだめよ。そんな寂しいうしろ姿、雑踏の中で消えちゃうから」





ぼくはメイ・ティンから視線を外して、コップの中に言葉を詰めた。




愛してるから。自分の国なんかよりずっと、とても。君の国の敵になっても 爆弾で吹っ飛ぶまで愛すから。たとえどんなに 秘密警察の拷問やコミュニストの銃殺刑が恐ろしくても。





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music : Rita Mitsouko - Le Petit Train



我的宝贝宝贝,给你一点甜甜

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 最近、日本が嫌で嫌で仕方がない。

 数年前に、リサというフランス人と知り合った。彼女は日本がとても好きな女の子で、中学生のときから将来日本語を勉強して、日本人になろうと決心したのだという。

 彼女はいま、ストラスブールの大学で日本語を勉強している。戦前の日本で作られたアニメなどを授業で見ているらしいのだが、タイトルを聞いても検索でヒットしない。


 リサが日本人になりたいという理由は、日本が好きであるというのもあるけれど、思春期のときにフランスやフランス人が嫌で嫌で仕方なくなったからだという。

 だがしょせん若いから、日本語もまだあまり分からないし、日本のことだってほとんど何も知ってはいない。昨今、この国に排他的な状況が幅を利かせていて、レイシズムが跋扈していることだってあまり理解していない。

 彼女が日本を好きになった端緒の一つは、辻仁成の小説を読んだことがきっかけである。他にも村上春樹や村上龍の作品の話もするけれど、辻仁成の話をしているときの彼女は実にピュアな感じである。
 リサの話を聞いていると、彼女はほとんど辻仁成の小説世界を想像して日本を感じ取ろうとしているだけなのではないかと思ったりする。
 だが辻はずっと長い間フランスに住んでいるのだけれど。


 今年の夏、リサは一ヶ月ほど日本に滞在することが決まったという。
 
 「ようやく、ようやく、ようやく、ようやく、日本に行けることになりました」と英語のメールをもらったのだけど、リサのその自身の感動の言葉を聞いてから、彼女とコミュニケイトするのが苦痛になってきた。
 もう一ヶ月以上、メールの返事を送ってない。

 理由は簡単である。日本が嫌で嫌でたまらないのに、日本のことをほとんど知っていない人から日本に行ける喜びを伝えられたところで、それは僕にとって苦痛でしかないからである。

 
 リサは日本について、ほとんど手放しで賞賛をして、日本人になりたいというけれど、彼女が日本人になったら、中国や韓国を他の日本人と同調して憎み始めたりするのだろうか。

 中国や韓国を敵視することがメインストリーム(とされている)である日本の潮流に従い、彼女もレイシストに変わるのだろうか。

 だいたい、彼女が知っている日本の姿の中には、歴史問題だとか政治状況に関する知識なんてない。そして彼女は日本人がどういう者かなんて、まだ全然知らないようなものである。

 なのに、なぜ、「日本人になりたい。フランスは嫌だ」って安直な答えのなるのだろう。彼女はまだ二十歳である。

 自分の国を誉められると、普通は嬉しいものだと思う。だが最近の僕は、日本の上っ面だけを見て賞賛されたりする外国人の表現を見ると、いま日本人であることの塗炭の絶望感を理解されていないように思えて、彼ら自身に対してさえ、腹立たしい気持ちになってしまう。

 こんなふうに僕が思っていることを、僕はリサには伝えていない。

 昨夜、リタ・ミツコのカトリーヌ・リンジェのソロライブをYouTubeで観ながら、こんなに素晴らしい文化を持ちながら、なぜリサは安直に「フランスは嫌いだ」と言うのだろうと思った。アラフォーの僕が日本を嫌悪するのとはまた嫌悪の質が異なると思うのだが。

 いまは冬季うつで苦しい状態だからあまりメールを出すことをしていないけど、僕はこのままリサと友人で居続けられるかどうか、あまり自信がない。




 香港のメイ・ティンに『鬼が来た!』に感動した旨を報告すると、まだその映画は見ていないが『南京!南京!』はもっと良い作品だと思うから観てくれと返事が来た。

 『南京!南京!』について、メイ・ティンは、

「より日本の残虐性が強調されているけれど、ヒューマニティが存在するし、一部の日本人たちの間に起こるcontradictoriness(訳せない)も描かれている。すべての日本人が悪いわけではない」
 「だけど中国人の多くはこの映画を嫌っている。彼らが見たいのは日本の悪だけが表現されているような映画だ」と言っている。


 『南京!南京!』は何度か観ようと思いながら、なんとなく観るのが怖くて避け続けてきた。

 香川照之は、やはり南京事件を描いたドイツ映画『ジョン・ラーベ』に朝香宮鳩彦王の役で出演している。ネット内の情報によれば、香川が演じる朝香宮鳩彦王が南京事件と深く関わったエピソードとしてあまりに強調されているので、皇室タブーによって現在まで日本公開がなされていない、という噂がある。

 香川は『ジョン・ラーベ』には出演したが、同時にオファーがあった『南京!南京!』に関しては作品自体に批判的であったためにこれを断ったという。このエピソードを知ったことが、今まで僕がこの作品を観ようとしなかった動機に強く作用している。

 『ジョン・ラーベ』がソフト化されているのかどうか知らないけれど、僕はこの映画の中国語版をYouTubeで観た。南京事件の史学的知識、特に難民区国際委員会についての予備知識さえあれば、外国語版でもそれなりに理解して鑑賞できる。

 『シンドラーのリスト』のドイツ映画版、とまで評価されたこともある『ジョン・ラーベ』だけど、僕はそれほど凄い映画だとは思わなかった。実際の虐殺や暴行がどの程度のものだったのかは想像しがたいが、この映画での南京事件は直接的な描写が少なすぎると思う。
 それは事件を矮小化しているという意味ではなく、腫れ物に触れるような描き方しかしていないということだ。

 たかがこれしきの映画が日本で上映されないのは、単純に朝香宮鳩彦王の位置づけが問題化されただけではないかと僕は思う。


 メイ・ティンが紹介してくれたDeserts Xuanという台湾女性ミュージシャンの、“Bao Bei”という曲にハマっている。Bao Beiというのは英語のBabyというのと同じような意味らしい。

 時々これを聞きながら、うっとりしたり癒されたりしている。

 中国や韓国を憎悪するなんて、自分の人生のキャパシティを狭量にして、心を貧しくさせているだけであり、勿体無いことだと思う。

 考えたり感じたりすることは、もっと別のところにあるというのに。





レトロエクスタシー襲撃

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JISマークの入った手馴れたおしゃぶりと、




外資系証券経由の弓なりにのけぞる腰ふりは、




原理グラビア・フェティストの根拠地中枢を攻略した。





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残党の掃討作戦はよく冷えたオイルがまんべんなく使用され、




敗残兵は次々とモーテルのシーツに連行されている模様。







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レトロな脚線美とグラマラスへの回顧主義が、脆弱な規格品崩れのヴァーチャル不全症候群のインポたちを今に解放するとウィルヘルム・ライヒは1954年にきっと予告している。







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music : Anton Webern - Variations for Piano



これは一種の「内部告発」事件なのだろう

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 某サイトでNHKスペシャル『魂の旋律~音を失った作曲家~』を見た。


 僕は佐村河内守という人のことはまったく知らなかった。だから音楽も今まで聴いたことがなかった。

 ただし、たとえ今回の代作問題が明らかにならなかったとしても、僕はこの番組を評価することはなかっただろうし、第一、最初から見なかったと思う。

 よくこんな問題の多い番組を作れたなと思う。視聴者からのクレームやらBPOから問題視されることがなかったことが不思議だと感じるほどだ。
 ブログで取り上げることすらバカバカしすぎる番組なのだが、思ったことを書いておかないと、どうもこの問題に引っ張られて容易に抜け出すことができないので、私見を述べておくことにする。
 (なお、今回の事件は「代作問題」という言葉で語られるべきであって、新垣氏が「ゴーストライター」と喩えたとしても、後者の言葉では問題の本筋から逸脱させられる可能性がある)


 まず佐村河内さんのキャラについてだが、このNHKスペシャルを見るのと見ないのとでは人物像の受け取り方が全く違ってくるように思う。
 正直に白状すると、今回の代作問題が明るみになった当初、僕は佐村河内氏に対して何とも思わなかったのだが、この番組を見ることで一気に嫌悪感が増大した。

 一言で言うと、なんか、怪しすぎるのである。写真や文章で窺える人物像と、実際の彼の振る舞いや言動を見るのとではかなりの隔たりがある。この番組を見ることで彼に好感を持った人もいるのだろうが、僕が放映当時にこれを見たとしても「詐欺師くさい」「なんかスピリチュアルみたいで気持ち悪い」と思っただろうと、確信を持って言える。

 個人的な話だが、ずっと昔、佐村河内さんとよく似たキャラの友人がいた。その彼の喋り方が佐村河内さんのそれとが実によく似ていたのでびっくりした。

 友人だったその男は物事を誇張して話したり、自分の知識を他人に話すときにその知識に誤りがあって指摘したりすると、絶対に自説を検討したりすることなく、「いや、でも、それ違うって」とこちらが食い下がると激しく切れて、ついには泣き出すような奴だった。
 佐村河内氏が震災で親を亡くした女の子と初めて会う場面とか、学校の教室で話してて、突然声を潤ませるシーンがあるのだが、僕のかつての友人とほぼそっくりだった。

 むろん、僕のかつての友人と佐村河内氏は別々の人間である。だがなんとなく、佐村河内氏の性格みたいなのが推し量れるような感じがした。


 『魂の旋律』では、学説的常識と相反する事柄や、これはあまりにも非科学的なんじゃないかと受け取れる描写が、かなり散見する。この番組の問題点は専らその辺りのことで批判を受けるべきだと思う。

 全聾であるはずの佐村河内氏に作曲を可能にさせた「絶対音感」について、何度か繰り返し番組での説明に耳を傾けたのだが、どうも絶対音感に関する通常の知識とまったく関係のない自論を展開しているように思えてならない。
 僕の知りうる限りでは、絶対音感というのは耳で聞き取った音をドレミなどのどの音であるかが判別できるというものだと思うのだが、そのことがどうして全聾での作曲に貢献できるのか、番組の説明を聞いても理解できない。
 また、佐村河内氏はラ音の轟音が頭の中で起こっている中から、記憶していた音を拾い出す、というようなことを述べているが、ある一定の音量を超えた騒音が起こると、たとえ絶対音感を持っていても音の判別は出来なくなる、というのが通常の学説だったと思う。

 また氏は手話と同時に読唇術によって相手の言葉を解読することが出来るというが、読唇術とは元来それによって言葉を判別できる正解率は30~40%だといわれ、また後天的に聴力疾患に陥った人が読唇術を獲得するのはかなり厳しいともいわれる。
 だが番組内での彼は、新垣隆氏が指摘するとおり、ほとんど通常の聴力で問題なく他者と会話しているようにしか見えないのだ。このことは動画サイトでの検証動画など見なくても、誰でもそう見えると思う。

 一番非科学的に思えたのは、佐村河内氏がTVのスピーカーや演奏されているヴァイオリンに指で触れたりすることで音を聞き取ることが出来る、というエピソードである。
 かのベートーヴェンはピアノの鍵盤と自分の耳との間に管を通すことによって、振動によって音を聞き取ったなどという逸話がネット内に見られたが、いくらなんでも指先から受ける振動で音を聞き取るなんて今までそんな話を聞いたことはない。

 これらの非科学的エピソードは、番組内ではさらっと字幕表記で説明されるだけなのだが、こういう描写を見て科学に反すると思った人はいなかったのだろうか。

 佐村河内氏が住んでいるマンション内の一種異様な居住空間に驚愕した人は多いと思うが、僕がとりわけ異様に思ったのは彼が飲んでるという多量の錠剤についてである。
 ナレーションでは氏が気分変調症であることが説明される。多量の錠剤とか失禁用のオムツだとか、あれは全部“演じる”ための「小道具」に過ぎないのだと思うが、それにしてもあの多量の向精神薬らしき錠剤は異様である。
 番組後半、佐村河内氏が曲を作れない苦悩のために多量の薬を飲んで立てなくなったという描写が撮られているのだが、患者が多量に飲んで立てなくなるほど向精神薬を処方するような医者などはっきり言ってヤブである。
 ベンゾジアゼピン系の薬を専門医でもない医者がクリニックで簡単に処方することで患者が依存症に陥ってしまうという問題は、公共放送局なら知ってて当たり前である。
 煙草のCMすら流さなくなったこのご時勢で、なぜあのようなオーバードーズを肯定しないまでも黙認するような描写をTVで流すのか。これは完全に問題だと思う。この一件だけ取り上げてでも、あの番組の問題性は指摘されてしかるべきだった。

 
 番組本筋の情緒的でおセンチな内容は、下らないの一言に尽きる。

 佐村河内氏が東北の震災で母親を亡くした女の子のために鎮魂のレクイエムを作曲することを約束するのだが、なかなか作曲できない氏は苦悶する。それは書けない五線紙を破り捨てるとか、ピアノの鍵盤を激しく叩くとか、そういう陳腐な苦悶ではなくて、なんのことはない、真夜中に公園やら港やらを黙々と徘徊するだけなのである。

 真実が分かった今となっては、「一笑に付す」としか言いようがない。

 「偽ベートーベン」の彼は震災孤児の女の子に約束した作曲ついて、

 「自分にできることはまずは彼女の、そして彼女のママの魂を救う」
 「僕はひとりしか救えませんよ……」

 などと自己陶酔しながらのたまうのだが、僕はこの台詞を聞いて「気持ち悪いスピリチュアル迎合番組だな」と悟るに至った。

 
 新垣氏の会見のとき、NHKのアホ記者が「広島の被爆者に対してどう思うのか?」と質問したことがあった。

 実に姑息な質問である。クソNHKは「東北の被災者に対してどう思うのか?」という質問は絶対しない。なぜなら自分たちの「佐村河内プロパガンダスペシャル」を放送した件によって被災者の人たちに対して「加害者」であり、「自称音楽家の詐欺の片棒を担いだ」という罪責がある。
 自分たちも佐村河内に「一杯喰わされた被害者」だとしておきたいために、「広島の被爆者」に対して罪責があると糾弾するような質問を新垣氏に向けたのである。
 (ただしNHKアホ記者のこの質問ほど間抜けで明らかに的外れなものはない。新垣氏の告白を信用するなら、『現代典礼』を勝手に『HIROSHIMA』と改題して世に出したのは佐村河内であり、新垣氏の預かり知るところではなかったからだ。ちなみにこの下劣なアホ記者は新垣氏を犯罪扱いするように生年月日の照会まで質問している)


 「音楽とは別に、広島の被爆者の方々に対する思いはございます。それを音楽で表現をするということもあるかもしれません。あるいは、被爆された方への思いが、もしかしたら音楽に与える影響もあるかもしれません。でもそれは非常にあいまいです。はっきりメッセージ性を持たせて作るというやり方は私自身はあまり、自分の名前で出すときは取っておりません」


 このコメントから、僕は新垣氏の芸術に対するスタンスの明確さと、彼の容貌からは窺い知れない意志の強さを感じ取った。

 レベルの低いアホNHK記者の攻撃的な質問に意趣返しをしたのでもあるまいが、結果的にこのコメントがNHKのスピリチュアル発信番組に対する皮肉のような形になっている。
 
 つまり『魂の旋律~音を失った作曲家~』という番組は詰まるところ、安易で陳腐なメッセージ物語、安い感動の涙を叩き売りするような内容でしかなかったのである。

 被災者や障害者をダシに利用しながら、非科学的な嘘や倫理から逸脱した描写を垂れ流し、挙句の果ては詐欺師のCDや書籍の販促に手を貸したのだから、NHKの罪は重い。

 NHKもまた詐欺の共犯者だといわざるを得ない。一回通り一遍に謝罪してアナウンサーに頭を下げさせたくらいで、彼らが免責されるとは思わない。

 
 そして、NHKは今回が「初犯」ではない。

 2002年4月28日にNHKスペシャルで放送されたドキュメンタリー番組、『奇跡の詩人〜11歳 脳障害時のメッセージ〜』でも、非科学的な嘘を垂れ流して、詐欺まがいの商法を販促するような問題番組を放送している。

 「奇跡の詩人」で検索すればすぐにヒットするから内容は割愛するが、僕は今回の代作問題に関連した動画を探していて偶然にこの番組の動画を見つけた。
 これなども実に「安い感動の涙の叩き売り」スペシャルだったらしかったのだが、僕は放映当時これを見てなかった。まったくひどい内容である。単なる児童虐待にしか見えない。さすがにこの放送は放映時から即座に問題視されて、NHKは「ぬるい」検証番組なども作ったそうである。


 今回の『魂の旋律』は、NHKはすべての動画サイトから削除しまくって痕跡を隠蔽し、たった一回の謝罪で、自らもまた被害者面をしたまま、オリンピックの騒擾の合間にこの問題を葬り去ることだろう。

 文春の報道では、NHKの番組のために佐村河内氏は知人と一緒に被災地のピアノ教室に電話をかけまくって、わざわざ放送内容向けの震災孤児を探したのだという。
 僕は一連の佐村河内氏の詐欺行為は彼一人の力でやり遂げたとは思ってない。少なくとも所属事務所は彼の虚構を知っていたと考えた方が分かりやすいし、、レコード会社や彼を取り上げた放送局は彼の嘘に見て見ぬ振りをして加担した可能性も高い。

 だが報道としては終わりの方向に持っていきながら、佐村河内氏一人の詐欺行為として彼を社会的に抹殺することで口を封じ、メディアは自らの責任を負わないまま、被害者面を決め込んで逃げ果せるだろう。


 日本のメディアが互いに負の隠蔽のために連帯する以上、この国にはこれ以上自浄能力は期待できないだろう。

 伊集院光が喩えていたが、これは一種の「内部告発事件」だったのかもしれない。しかも本来それを明るみにする役割のメディア全体を敵に回した「暴露クーデター」みたいなものだったのかもしれない。

 新垣氏がもし言わなかったら、NHKやTBSは隠し通しただろう。バカワイドショーがコメンテーターに言わせているように「ゴーストはゴーストに徹すべき。墓場まで持っていけ」というのが佐村河内守を作り上げた大半のメディアの本音であろう(だが新垣氏はその言葉の意味通りのゴーストライターではない。「ゴーストライター」事件として称するのは最初からメディアの作為を感じる)。

 
 僕らは、自分の感覚に信念をおきながら、多様性の中から自らに必要なものだけを見つけるしかない。





右翼の処世術とか陳腐な障害者像とか

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 どうでもいいことに、2つほど触れる。


 長谷川とかいう大学教授兼NHK経営委員が書いた野村秋介に関する文章を読んだ。

 なぜこんな極右の提灯持ちみたいな売文書いてるやつの肩書きが「哲学者」なのか、それが不思議。官房長官は彼女を「日本を代表する思想家」とか評したらしいが、え?これが思想?、ってのが僕の評価。

 野村が死んだぐらいでなぜ天皇が神になるのか。

 哲学とか思想というのは「論理の科学」である。誰かが死んだから誰かが神になるなんて、科学でもなんでもない。これは占いとか予言と同じ類の「エンターテイメント」でしかない。

 もしこの「自称」哲学者・長谷川女史が自分の書いた「エンターテイメント」の作文を科学的な心理であると思い込んでいるなら、狂人であるので病院に行った方がいい。だが自分を宗教家だと規定するならば、NHKの経営委員を即刻辞職すべきである(あの作文がもし「詩」であるなら話は別だ)。

 普通の頭で考える合理性を持っているならば、右翼のバカタレが他人が居住する場所で自殺するなんて迷惑極まりない行為をしたことで天皇が神になる、なんて誰も考えないはずである。
 それでも「本当にそうなのだ」と誰かに主張するならば、それは他人に虚言を振りまいてることになる。だって、科学的にありえないことを「ある」と言うのは狂人か嘘つきしかやらないはずだからである。

 長谷川某は、自分の言ってることが明らかに嘘であることを分かっているはずである(病んでいなければ)。

 他人に平気で嘘を言う者に限って、時と場所が変われば、今度は以前に自分が言った嘘と正反対の嘘を言い始めるのだ。

 たとえば近い将来日本と中国が戦争になって、日本が負けて、この国が中国共産党の支配下に入ったとしよう。たぶん、長谷川某のような人間はまっさきに中共の歓心を買うような非科学的な「エンターテイメント」を口にするはずである。たとえば「天皇が処刑されて習近平さまは日本の現人神になった」とか言い出すかもしれない。

 長谷川が書いた文章なんて、しょせんは「日本が危なくなったら神風が吹くんじゃ」みたいな、ファシストのパシリに堕ちた知識人が言っていたようなことと、同列のレベルの「扇動エンターテイメント」である。教養とか知性とかあったものではない。

 最近になって『永遠の0」とかいう小説を書いた売文家やら、長谷川某やらが右寄りエンターテイメントの発言をやらかして大いに笑わしてくれるけど、彼らが自分の言っていることを彼ら自身で本当に信じていることを発言しているとは、僕はまったく思ってない。

 野村秋介が死んで天皇が神になったとかいうのは、彼女の想像でも妄想でもないし、信念を持ってそれを言っているのではない。

 長谷川の戯言や虚言のすべては、彼女の処世術に過ぎない。




 新垣隆さんの件について。


 新垣さんのインタビュー動画を見ていたのだが、「メッセージ性をもたせて作品を作るというやり方は、私自身の作品の中では取っていない」、「被爆者への思いが音楽に与える影響はあると思う。しかしそれは曖昧なもの」と答えてるのを聴いて、「それはそうだよね」と異の腑に落ちる思いがした。

 芸術が結果的に何かに貢献することはあるかもしれないけど、芸術は何かに貢献するのがその役割だと思って捉える考え方には同意できない。


 ウィキペディアで新垣氏の項を引くと、彼がゴーストライターとして手がけた曲をなにやら名前の知られた音楽家たちが過去に絶賛した発言を多く目にする。彼らは「現代のベートーベン」という属性(どうやら嘘のようだが)を抜きにして、新垣氏の作品を心から誉めていたのだろうか。

 佐村河内氏が詐称していたらしい属性に共感したりTV番組の効果に促されてCDを買った人もいるはずで、「じゃあ聴覚障害がない人が作った音楽を日頃からきちんと評価できるのか」という疑問を世間の尺度の中に感じたりする。

 「障害者が障害を乗り越えて創造したものだから」という尺度で評価する態度は、昔からありきたりな差別のように思えて、僕は良い印象を持たない。
 未だにある種の障害を持つ人たちに対して色眼鏡の先入観を持ち込む世間が存在するが、障害者にとって何が一番嫌かと言えば、障害者に対して勝手に善良性のイメージを持ち込んでくることである。

 佐村河内氏の件で怒ってる人たちの心性の中には、佐村河内氏が障害者に対して世間が抱いてる善良性を利用したから、というのもあるかもしれない。

 だが精神障害者である僕からすれば、障害者の作品だから素晴らしいと思っていた心性があったのだとすれば、それは十分障害者を差別してるのと同じことだと思ってる。
 
 それゆえに、佐村河内氏に対してどうしても許せないと僕が思っている点は、義手の少女に作品を献呈したエピソードにある。もし佐村河内氏が聴覚障害をキャラ作りとして装っていたならば、ハンディキャップを持つ人間をわざわざ選んだ彼の行為には、障害者の善良性というイメージを利用しようとする明確な意図が露骨に浮かび上がるからである。


 YouTubeで「無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌ」という新垣氏の作曲作品を聴いたけど、なかなか良い曲だと思った。音楽的評価としてどうなのかは知らないが、聴いていて心地よかったのは確かだ。

 新垣氏が代作を続けてきた行為に問題があるのは確かだが、結果的に作られてしまった作品にはまったく罪はないだろう。それを聴いて自分が心地よいと思ったら、その感覚まで他人に否定されることはないと思う。





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