Hemakovichの半永久的平坦な戦場

パニック不全神経症者が落ちてゆくカムフラージュ

スポンサーサイト

Posted by Hemakovich category of スポンサー広告 on

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

嫌になれば日本人をやめてやるんだ。それはそうなんだ

Posted by Hemakovich category of Music on


20130628hema.jpg



 政界が下痢でドロドロになって以来、政治経済に関する話題をブログに書くのが苦痛になっていた。それらのニュースを見るのもだんだん苦しくなり、最近は新聞すら読むのに苦悶になってきていた。

 今日、「これは絶対、もう許せない」と、怒り狂うようなニュースを目にした。

 朝日新聞投稿者に嫌がらせ ネットに個人情報、不審電話 - 朝日新聞デジタル 6月28日

 以前から大津のいじめ事件などでこういう傾向の事件は起こってはいたが、まさかたかが新聞の投書ごときで、ここまで陰湿かつ粘着的に卑怯な犯罪行為を犯す腐れ外道のウジムシが存在するとまでは思ってなかった。

 日本が、日本人が、ここまで戦前もどきの穢れたダニのごとくに劣化しているとは。

 絶対に許せない。


 下痢ドロ総理自身さえフェイスブックで民間人を個人攻撃するような時代だから当然といえば当然かもしれない。なにが「美しい日本」だ。下痢クソだらけの日本じゃないか。
 ダニウヨの連中はしょせん、自分が「日本人」だということでしか被承認欲求を満たせないようなクズでゴミでドロドロの下痢みたいな連中だから、まともに善良な倫理観を持った人たちをなにかといえば「在日のスパイ」だとか言ったりするのだ。

 そんな連中に日本人じゃないとかどうとか言われるような日本に、僕はもはや同化していたくない。日本人だからなんだっていうのだ。アメリカのパシリの日本がそんなに偉いのか。

 自分が日本人だという意識を、パトリズムを持っているからこそ、卑劣な日本人に腹が立って、自分が苦悩するのだ。

 こんな汚い劣化人間と同じ日本人という同列に位置するぐらいなら、「非国民」だとか「売国奴」と呼ばれる方がまだマシだ。

 というか、自分が「絶対に日本人でなければならない」という強迫観念を捨ててしまえばいいのだ。そんなアホな楔を持つから、日本人でなければ何も生きてる価値のない輩のアホが感染して、日本人として生きる余計な苦痛を味わうのだ。今日、それが分かった。

 僕は好きこのんで日本人になったわけでもなく、ただ単にこの国に放り込まれるように出生しただけに過ぎない。
 だからいざとなれば、日本人を辞めたらいいだけのことなのだ。

 日本人を辞めて、中国人でも韓国人でもインドネシア人でもフランス人でもドイツ人でも、好きなだけ、何回でも国籍を変えたらよい、それだけの話だ(アメリカだけは抵抗を感じるが)。

 日本人だということでしか社会で認めてもらえない下痢クズダニ野郎と同じレベルに下らなければならない理由など存在しない。


 嫌になったら日本人をやめる。僕は別に日本人でなくても生きていける、しっかりとした「個人」を持った人間だから。




 相変わらずリタ・ミツコを浴びるように聴いている。彼らの音楽を聴きながら午後の日差しを浴びて車に乗ってるときが一番幸せだから。

 最近よく聴いてるのは“セ・コム・サ(C'est Comme Ca)”。これを聴いてるとき、嫌なことが全部どうでもよくなって、元気になれる。僕が僕自身でいられる。

 ところで、高校のときにこの曲を聴いて以来、長い間、C'est Comme Caの意味が分からなかった。検索とかで訳しても、曖昧な翻訳しか出てこない。

 少し前に二人のフランス人にC'est Comme Caの意味を尋ねてみた。英語でやりとりしていた方のフランス人は語彙には触れず、ただ「これはセックスについての歌だ」と教えてくれたので、びっくりした。
 長い間、歌詞カードを見ながら聴いていたけど、和訳を見る限り、どう考えてもセックスを喩えているようなニュアンスは伝わってこない。

 日本語を4年勉強したというフランス人に訊くと、C'est Comme Caとは「それはそうなんだ」というような意味だという。歌詞は「けっこう暗示に満ちている」らしいが「愛なしのセックス」について歌っているのだという。

 そういう視点で歌詞を眺めてみると、なにやらそういう風にも思えてくる。
 
 たとえば、"Oh, oh, faut que j'moove"というフレーズを歌詞カードでは「ああ、ムーヴしなきゃ」とよく分からない訳詞をしているが、これは「(セックスの最中に)もっと(身体を)動かさなくちゃ」というような意味なのではないかと思ったり。

 まあでも、なんだっていいのだ。C'est Comme CaはC'est Comme Caだもん。「それはそうなんだ」から。

 かえって、セックスの歌だと聞いて、もっとこれが好きになった。だってこんなにも明るくて、つらい気持ちを解放させてくれる元気なセックスなんて、あんまりないじゃないか。

別れたくないの ねえ、あなた / 終わりにしたくないのよ わかるでしょ
このままでいたいとか 逃げ出したいとかじゃなくて / ただ気分を変えたいの



 こういうフレーズの部分が、僕はたまらなく好きだ。

 日本語を勉強したフランス人は「愛なしのセックス」と教えてくれたけど、もしかしたらこの歌は「あるときの恋人たちの愛なしのセックス」についての歌なのかもしれない。もしかしたら、愛しているのに誰かと愛なしのセックスをしている「浮気」をしているときの歌なのかもしれない(後者の仮説の方が濃厚である)。

 いずれにしろ、そういうような、日本人の感覚からすれば「しみったれてしまう」ような事柄を、こういう解き放たれた高揚感で歌えるのはすごいと思うし、それを熱狂的に受け入れたフランス人の感覚も、なんだか少し、羨ましく感じてしまう(ますます日本人をやめたくなる)。

 なにかと恋愛で悩み苦しんできた半生を送ってきたから、僕はこの歌の感覚に、切実に羨ましさを感じる。

 「しょせん、こんなもんだから、そんなに苦しまず、もっと人生楽しめよ」と言ってくれているように、聴こえてくる。



 C'est Comme CaのPVはYouTubeでたくさんアップロードされているけど、僕はリタ・ミツコがライヴで歌っているときのビデオの方が好きだ。

 とくに、下記に埋め込んだ、当時のTVライブで歌っている映像は一番好きである。画質はすごい悪いけど、もう何十回もくりかえし見ている。

 C'est Comme Caの動画を見つけるとき、コメント欄でフランス人が「ノスタルジックな80年代だ」とか書き込んでいると、羨ましくて仕方ない。


 この時代のフランスを、リタ・ミツコを、リアルに体験したかったと切実に思う。







スポンサーサイト

Retributive justice for the vicious anchorperson

Posted by Hemakovich category of Quote on


20130625hema.jpg




●プロパガンダを成功させる方法

1.ロジックは伏せ、結論だけを繰り返し言う
2.敵対者にレッテルを貼る
3.触れられたくない話題には関心が無いふりをする
4.社会的に地位の高い肩書き(医者・学者・法律家など)で威圧する
5.「わからない」「知らない」を絶対に言わない
6.敵対者の知的レベルが低いという前提で語る
7.たとえ話を活用する



○プロパガンダを失敗させる方法

1.ロジックを問いただす
2.レッテルの定義を拡大解釈し、曖昧にする
3.提示されている情報と伏せられている情報を洗い出し、整理する
4.同じ肩書きで反対の論者の意見を探してくる
5.専門的な知識と架空の専門知識の両方について質問する
  (嘘つきは両方「知っている」と答える)
6.相手の知的レベルが高いという前提で質問攻めにする
7.たとえ話は事実の説明にはならないことを指摘する


 ― 作者不詳 2chより ―



1. いかなる場合でも物事を簡略化する論調はプロパガンダである
2. 対話とプロパガンダの相違は対象に対する全否定の有無に示される
3. とりあえず下品な物言いが生じたらプロパガンダだなと思っておいてよい
4. プロパガンダとは「バカな奴の、バカな手法による、大勢のバカのための甘言」である
5. プロパガンダは故意に宥和を破壊する。絶対必ず「敵」を設定する
6. 真理は事実の積み上げであり、プロパガンダは積み上げられた事実への梯子崩しである
7. 大衆はプロパガンダが大好物なので、ゆえに単独者は厭世的にならざるをえない。

おまけ.
おぞましい犯罪的プロパガンダの経歴を持ちつつ、真実を削除するようなヘタレ遭難者のヘタレっぷりは記憶しておいた方がよい  → 辛坊氏がとるべき「自己責任」 - 秋原葉月


 ― By Hemakovich ―








「なんか稚拙な物言いだよな」

Posted by Hemakovich category of Politics on   0 comments   0 trackback


20130624hema.jpg



 たぶん、僕とは無縁な事柄だとは思うのだが。

 エドワード・スノーデンの内部告発を知ってから、Facebookに載せた個人情報から投稿に至るまで、少しずつデータを消している。たぶん自分は関係ないと思いながらも「なんとなく」そうしている。

 考えてみれば、Facebookの中で「政治観」とか「宗教」の項目に答えるのも、妙な話ではある(ちなみに僕は「社会民主主義者」で「仏教者」と、現在の職業は「I am a anarchist」と書いてた)。

 どんな本を読んでて、どんな思想が好きなのか、こんな事柄を堂々と自己申告してるのは普通「ヤバい」ことなんじゃないだろうか。そういうことを考えていると、Facebookに自分の志向を少しでも他人に垣間見せるものを残しておくのは「気持ち悪い」と思ったのである。

 スノーデン氏の告発によれば、アメリカ政府に個人情報を提供したのはFacebookだけでなく、グーグルやヤフー、マイクロソフトまで絡んでいる。もはやネットに接続している以上、自分がどんな人間であるかを完全に隠蔽するのは不可能というほかない。こんなブログを書いてる僕のことだって匿名性なんて絶対保てないのだから。

 僕が自分の情報を「出さない」ようにしたからって、Facebookに一矢を報いるわけでもないのだが、これからは何も投稿しないようにしようと思っている。

 出来ることならアカウントも消してやりたいくらいなのだが、YouTubeやFacebookのアカウントを消してしまったら動画配信できなくなってしまうので、それは我慢する。
 YouTubeはそれほど画質が良い訳でもないけど汎用性が高いし、Facebookはすべての動画配信サイトの中で一番と言ってもいいぐらい(悔しいことだが)画質が良いのだから仕方ない。


 スノーデン氏がなぜエクアドルを亡命先に選んだのかと考えていたが、どうやら下記のブログで書かれているような事情があるらしい。

 スノーデンはなぜ、エクアドルを選んだか - 八木啓代のひとりごと

 そうか、南米は反米左翼が多いのか。

 まるで、僕みたいなやつにとっては持ってこいの国じゃないか!

 もう少し若ければ、反米南米諸国巡りのバックパック・ツアーにでも出かけるんだがな。


 最近はすっかり右傾化ゲリノミックスが幅を利かす世の中になってしまったので、「左翼」の定義もまったく曖昧になってしまってる。

 別に「赤旗」読んでるわけでもないし、「九条」の名の付くコミュニティに加わってるわけでもなく、アナーキストが単純に「趣味」であって、政治的には「リベラル左派」だと自分では思ってるんだが、とにかく「リベラル」ってこと自体、「左翼」と呼ばれる存在らしい(片山さつきとか稲田朋美的にはそういうことらしい)。

 都議選の結果を見てもわかるように、株高と円安さえ達成すれば「なんとなく景気がいい」と思えて、日本人は極右イデオロギー集団と宗教カルトに投票しても構わないことらしい。


 こうやって書きながらも、「なんか稚拙な物言いだよな」と、自分が書くブログ記事を自虐的に嗤わざるをえないほど、僕自身の政治的言説がどんどん劣化していくのも、この国が小学生でも分かりやすいほど単純稚拙で一元的な潔癖モラルに塗り固められていっているからで。


 僕が分かりやすいってのは、あいつも分かりやすいせいで、だから、みんな分かりやすくって、バカでも分かりやすいってのは、分かりやすいバカのせいで、だから、だんだんバカになれらたらわかりやすいってことで。

 
 分かりやすい、ということは、大抵の場合、「怖い」ことへの初めの一歩ってことで。





筋肉バカと学力ファシズム養成高校と僕が闘っていた頃のこと

Posted by Hemakovich category of Diary on   0 comments   0 trackback


20130622hema.jpg



 中学生の甥が学校に行かなくなっている。

 いじめというか、仲間はずれみたいなのに遭っているらしい。母親(姉)はすっかりうろたえて、このごろよく泣いている。

 自分の小中学・高校時代を思い出すと、僕はいじめられたこともあるし、いじめたこともある。後者の場合は小学校のとき、貧困家庭の同級生の女子をいじめていた。
 幸いというか、その当時の担任はとてもしっかりした女性教諭だったし、僕がいじめてしまった女の子もとても気が強い子だったから、いじめは陰湿なものへと移行する前に解決されるに至った。

 中学のときは一時期僕がいじめられる側になっていた。

 逆子で生まれた僕はおそらくその影響だと思うのだが、斜頸という「後遺症」を伴って生まれた。そのために僕の後頭部は歪な形になってしまい、中学のときは丸刈りを強制されたから、頭の形について多くのクラスメートから冷やかされた。
 あまりにも多くの同級生から冷やかされたから、僕は一種の醜形恐怖みたいな神経症を病んでしまった。これは大学の頃まで引きずった。

 だがいま思い返してみて、中学時代はそういうことがあったにも関わらず、あまり嫌な時代として認識してはいない。
 確かにいじめはあったけれど、普通の公立中学だったから、嫌な奴もたくさんいたけど仲良くなれた友達もたくさんいた。勉強が出来ない子もいれば、優等生みたいな子もいたし、不良と呼ばれるような奴もいれば、不良と優等生の中間みたいな僕のような奴もいた。
 人間の種類にバラエティがあるところはコミュニティとして健常な社会といえる。そういうコミュニティでは案外、自分と全然タイプが異なる者たちと知らない間に仲良しになったりできるものだ。最初は「嫌な奴」と思っていたクラスメートで、卒業するまでに分かり合えて仲良くなれた奴はいっぱいいた。だから中学時代は総体として楽しかった。

 もっとも、上記のようなことを僕が強く認識することができたのは、県下有数の進学校で体育会系で目覚しい活動を生む高校に入学したから、というのもある。

 授業中に寝てたり遊んでたりするような奴がいるのが当たり前だった中学時代と激変して、進学校の高校ではみんなが授業中は熱心にノートをとっていたのだが、僕はそういう雰囲気がとても気持ち悪くて馴染めなかった。
 性格の悪い奴はいっぱいいたけど、授業中はそういう連中も真面目だったし、スポーツも勉強も出来る奴は性格が悪くても讃えられていたから、ある意味、狡猾な人間が寄り集まった学校のように思えた。

 中学時代のような雰囲気が「当たり前」と思っていた僕は、高校の校風に徹底的に反抗した。授業中はわざと寝ていたし、遅刻も故意に繰り返した。週に一回あるテストも勉強しなかったから毎週赤点だった。二年生のときのほんの一回を除いて、僕はすべての理数系の科目を3年間ずっと赤点で通した。

 そんな僕がとても気に喰わなかったのか、一年のときは複数のクラスメートから毎日殴られていた。殴られた理由は全然覚えていない。とにかく僕の次元の低い反抗っぷりがどうしても許せない潔癖なバカが多くいたのだろう。とにかく毎日殴られて、僕を殴る連中は僕よりスポーツも勉強もよく出来る奴らだった。

 クラスメートだけでなくて、体育教師からも僕は見下され悪罵の対象になっていた。当時二十代ぐらいのモハメド・アリが大好きという体育教師からは「この学年で一番体力がない奴はSだ」と、名指しで僕のことをすべてのクラスの体育授業で罵られたりした。今なら普通に人権問題になるような話だが。

 実力のある部活を持った体育会系の高校だったから、どこかの部が全国大会に出場するともなれば、わざわざ授業時間を潰してまでして、全生徒を集めて「壮行会」みたいなのをやっていた。
 どんなに性格の悪い奴でもスポーツで実績を挙げれば、「壮行会」で模範生徒みたいに讃えられるのである。そんな筋肉バカみたいな校風のおかげで、僕はスポーツに対して散々醜悪なイメージを植えつけられた。オリンピックやらワールドカップがあれば、日本が負けることをネガティヴに楽しみにするようになったのは、筋肉バカの学校に行ったおかげだと思う。

 同じような種類の人間を集めて多様性のない教育で強要される進学校時代を味わったおかげで、「いくら勉強が出来ても人格がチンカスならすべてチンカスである」という反学歴主義の価値観を持つに至った。勉強が出来ないことをコンプレックスにしたり、貧困のために勉強したくても十分にできないような人たちを理解したり同情できるようになれたのも、僕が「学力ファシズム」の高校に行ったおかげである。


 高校時代のいじめや屈辱から僕が耐えられて克服できたのは、映画とか洋楽に出会えたからである。

 授業中にノートにドアーズの訳詞を殴り書きしまくったり、セックス・ピストルズの伝記を常に携帯していて読むことで、「もっと大きな物と対峙すること」を考えることで、筋肉バカとか学力ファシズムの奴隷とは絶縁して生きられた。
 「Sがセックスの本持ってきとるで」と冷やかされても、僕はピストルズの本を読みながら「fascist regimeの阿呆どもが稚拙に騒いでる」と思ってスルーしていた。

 実際、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』だとか、ルー・リードの歌詞に耽溺していれば、筋肉バカの幼児性とか学力ファシストの奴隷根性などは、「次元の低い」話だった。
 だからあの典型的なチンカス高校に行ったおかげで、僕は映画や音楽という好きなものに出会えたと思ってる。チンカス高校の強迫性が反面教師になったから、僕は反骨的精神を適切に学ぶことができた。


 自分が生きてる現実を越えた世界に視野を置くこと、好きなものに没入することで、いじめなんか簡単に脱することが出来る。僕は本気でそのように思っている。

 但し、現実を超えた世界と言っても選択するものを間違えてしまえば、とんでもないことになってしまう危険性もあると思っている。
 十数年前に神戸でサカキバラの事件が起こって犯人が思春期の子供だと知ったとき、僕は彼は選ぶものを間違えたのだと思った。
 動機がいじめではなかったにしろ、何かしら現実に圧縮される思いの中で、彼は現実を越えるものを探したのだろう。僕の場合は文学や芸術だったが、彼は反社会的なものを選んでしまったのではないか、そんなことをあの頃頻繁に考えたものだ。


 話を最初に戻して甥のことなんだが、実は彼が通ってる学校は僕の母校である筋肉バカと学力ファシズム養成学校なのである。最近になって中高一貫の学校になって、ますます人間を選別し尽くした悪しきコミュニティを広げようとしている。

 甥が小学六年のとき、普通の校区内の中学ではなく、僕の母校を受験することになったとき、僕は高校時代の経験を元にして反対した。
 だが姉は「不良のいる中学には行かせたくない」と言い、父は孫には「勉強に集中できる環境が必要」だと言っていた。
 しょせん、甥の人生の話であるし、僕が体験したことをそのまま甥が引き継ぐなんていう考え方もアホらしいと思ったので、僕はそれ以上何も言わなかった。


 だが今頃になって甥が部活の問題から始まった仲間はずれに遭い、不登校みたいになってしまった。姉は部活の同級生(僕の言葉で言えば筋肉バカ)を不良のように罵って、父は「勉強偏重で子供を集めるような校風が問題だ」などと、以前僕が受験を反対した理由と同じ理屈で学校を批判している。


 皮肉な話ではあるが、僕の老婆心のような警告が当たってしまったことを、僕は複雑な気持ちで受けとめている。







苦悩もまた、生きがいであるはずなのだから

Posted by Hemakovich category of Diary on   0 comments   0 trackback


20130619hema.jpg



 「これはひどい」とタグ打ちしたくなるような今日の朝刊の一面ニュース。

 動物体内でヒト臓器、研究容認へ 移植用、倫理面で課題 - 朝日新聞 6月19日付

 最初に思ったのは「ブタがかわいそう」だということだ。人間の臓器を作るためだけに利用されて、出来上がったら摘出されて殺されるのだ。

 「そこまでして、生きたいか?」としか言いようがない。

 臓器移植意思表示カードは持ってないが、つねづね家族には「脳死になっても絶対に移植させないようにしてくれ」と言ってある。もし移植コーディネーターの甘言に負けて移植されたら「死後三年のうちに必ずレシピエントを呪い殺すから」とも言ったりするから、家族に怒られたりもする。

 僕は脳死移植に反対である。理由は明確で、医学界等の移植推進派の専門家たちの人間性をまったく信用していない。いわゆる「和田移植事件」から彼らのスタンスはほとんど変わっていないと思ってる。

 反対しているから、僕はレシピエントの側にも絶対に立たない。移植しなければ死ぬということになっても「それが寿命」と思って死を受け入れる心構えへと向かう。
 人間の生命の根本機能である免疫を薬で抑制してまで生きようとは思わない。

 たとえ幼児が早世したとしても、その命の長さがたとえ数ヶ月であったとしても、生きたことと死んだことのその両方にはちゃんと意味が備わっている(他人に殺される場合は別である)。そういう死生観からすれば人間の欲望のためにブタの命までも反自然的に収奪してまで命を永らえようとするのは、生命に対する傲慢だと思う。



 中学生の甥の子育てに関して、母や姉たちがかなり悩んでいたから「この世の事はこの世でカタがつくんや。そう考えとったらええやないか」と言ったら、「久しぶりに良いこという」と言われた。

 「この世の事はこの世でカタがつく」という言葉は『はだしのゲン』を読んでいて頻繁にセリフとして出てくるから覚えた言葉である。

 中沢啓治さんが死んだ後、彼の自伝『はだしのゲン 自伝』を購入した。それによると、この言葉は中沢さんの叔父さん(彼の父の弟)の口癖だった、として紹介されている。

 中沢さんの叔父は原爆投下のとき、広島市の己斐というところで被曝して身体の左半面に熱線を受けて吹き飛ばされたが奇跡的に助かった。しかし爆心直下の自宅にいた奥さんは一瞬に消え、遺骨も見つからなかったのだという。

 父が思想犯として拘置されたおり、身元引受人として連れ出してくれたのはH叔父だった。楽天的で「この世のことはこの世で終わるんじゃ・・・・・・」が口癖で、鼓を打ち、歌い、舞い踊り、人生を楽しむ人であった。

 ― 『はだしのゲン 自伝』 P115 ―



 意味はまったく異なるが、僕の叔母さん(母の姉)も同様の人生に対する「格言」の口癖があって、

 「神さまはその人が必ず乗り越えられる試練だけを与えてくれる。だから人生に乗り越えられないことなんてない」というようなことを言っている。

 数年前、叔母さんは東京に住んでいた娘を自殺で失ってしまった。それでも健気に明るく頑張っている。

 今はわが子のことで苦悩している姉だが、何年も前に僕が失恋によって無茶苦茶に苦しんでいたとき、「絶対大丈夫やで、心配せんとき。人間ずっとおんなじ気持ちが永久に続くなんていうことはないんやからな」と言ってくれた。


 若いときは何が何でも問題とぶち当たって、絶対に自分はそのうち自殺するんだとか、そんなふうに極端な運命論の中で、もがき苦しんで生きていた。

 今なら、叔母や姉が言っていたような言葉がサラッと受け入れられる。


 生き急がなければならないことなんて、一つもないのである。

 だから今のこの意味ある命に満足できるようにゆっくり充足して、大いに試練を楽しめばいいのだ。

 苦悩もまた、生きがいであるはずなのだから。





ありふれてしまった暴力が正気に満ちた静謐となるとき

Posted by Hemakovich category of Movie on   0 comments   0 trackback


20130617hema.jpg



 僕は芸人・オピニオンリーダーとしてのビートたけしは反吐が出るほど大嫌いだし、映画監督としての北野武もまったく評価していない。北野武の映画は1作を除いて全部駄作だと思っている。

 その唯一僕が面白い映画だと不承不承に認めている作品は、彼の処女作である『その男、凶暴につき』である。

 昨夜、検索してみたら見つかったので、中学生以来、この映画を再見した。やっぱり面白いと言わざるを得なかった。

 この映画が初めてTV放映されたとき、たしか北野氏本人がゲストに呼ばれてた。彼が自作について口にした言葉の中に「戦前の憲兵(特高警察だったかもしれない)」を引き合いに出したことは強く印象に残っている。
 だから僕はこの作品を「暴力の根源をテーマにした映画」だと当時は認識していた。だがそれは誤りであって、北野映画は「暴力」を「作風」として平凡に多用する作品がずっと連なっていった。もし「暴力」を描いたのが『この男、凶暴につき』の一作限りであったならば、僕はこの映画に対する今現在の評価以上に絶賛していたと思う。

 北野氏の作品を総称するような言葉をして「北野ブルー」なんていうのがあったと思う。だが僕に言わせればこんなのはジャン・ジャック・ベネックスや村川透が既にやってることであって、後出しの小賢しい装飾としか思えない。僕は彼の映画の何が一番嫌いかって、既に誰かがやってるような小賢しい装飾(その多くがストーリーにとってあまり必然的なものとはいえない)がパクられてて、なのにスノビッシュな白人どもがそれを絶賛してたりするような現象に最も辟易している。

 だが『その男、凶暴につき』に関しては小賢しい無意味な演出がまったくない。

 たとえば、銃の発砲でまったく無関係な人間が殺傷されたりとか、刑事と容疑者がスローモーションの画面で格闘していてバットで刑事が殴られる瞬間に正常なスピードに切り替わったり、こういうのが一々ストーリーからの必然性を納得させられるのだ。
 無駄な映像美なんてものが全然ない。骨格だけの描写が最初から終りまで完全に連なっている。だから多くの北野映画とは例外的に退屈する場面がなくラストまで面白く見ていられる。

 『その男、凶暴につき』の一作限りを取り出して「暴力の根源」を主題にした映画として鑑賞するなら、これはかなりの佳作だと思う。映画冒頭、ホームレスが子供に襲撃され、その子供に対して主人公が最初から平然と暴力を浴びせる描写、あの辺りにそういうテーマ性が露骨に象徴されている。

 僕が一番興味深く観た場面は、ディスコ(って死語か?)のトイレで刑事がシャブの売人を吐かせようと平手で殴り続けるシーンである。
 刑事と売人を真横のローアングルから捉えて、延々30秒以上、ワンカットで殴り続けさせる。「どこからシャブを手に入れたんだ」「しらねえよ」、セリフも平手打ちと同じように延々反復されるのみである。この場面に「暴力」の根源的な光景を最も見せつけられているような気がする。

 「じゃあ、暴力の根源ってなんだよ?」って突っ込まれたら、実は僕は何とも説明仕様がないのである。だから映画で黙々と描写されてるんだよ、としか言いようがない。
 ただ、あのシーンを見ていると大阪の高校での体罰による自殺事件を僕は連想する。
 試合でミスをするたびに顧問から何度も体罰を浴びせられ、自殺した生徒は試合後に帰宅して「数十回ぐらい殴られた」と話したという。まさに映画のワンカット平手打ちの「暴力」の反復は、実際の日常場面でありそうな要素の特徴を上手い具合に抽出して描写している。

 つまり、現実世界のありふれた「暴力の日常性」をありふれていない演出でフレームアップしているからこそ、「暴力の根源」を見つめさせらている思いになる。


20111222015941.jpg  



 主人公が違法逮捕した容疑者を隠れて署内で暴行し続けるシーンも興味深い。

 殴っている場面を直接に見せるのではなく、音と、血まみれの容疑者の姿のカット挿入だけで暴力を描写する。上手い技量だとも思うし、現実世界の日常的な暴力なんてのは、無関係の非当事者からしてみれば、あんなふうに静謐で、あんなふうに可視化され得ないものだろう。まるでサントラに使われたエリック・サティと同じぐらいのあまりにも整理された静謐。

 親のDVで子供が殺される事件を引き合いにするなら随分納得させられる暴力描写である。親のDVだとかいじめのリンチだとか、それ自体は大変痛ましいものだが、暴力とは相対的に無関係に日常を生きてる者にとっては、あのシーンで血糊が塗られたカットが静かに挿し込まれるのと同じ程度ぐらいにしか、われわれは暴力を想像することができない。

 あの映画では「いかれてる」とか「きちがい」という言葉がセリフに乱発されている。宣伝のキャッチコピーの中にも「狂気」という言葉が使われてたりする。だが僕はあの映画で「きちがい」だとか「狂気」が描かれているとは、まったく思ってない。

 暴力がありふれたところでの人が暴力に駆り立てられる衝動とか、暴力行為そのもの以上に理不尽な暴力の動機が、われわれの日常でわれわれがどのように受けとめているかも含めて、デフォルメされてきちんと正確に言い表されている映画だと思う。

 『その男、凶暴につき』というタイトルそのものが滑稽なぐらい、あの映画での暴力はちゃんと説明可能な程度にありふれて正気に満ちたものである。そもそも暴力って、無関係に生きてる人間にとってはとことん理不尽だし「凶暴」としか言いようがないほど理解不能なものである。だが暴力と日常的に並行して生きる場面においては、暴力はすべてが説明可能なほどきちんと根拠がある。『その男、凶暴につき』という前提を置くような言い回しは、まるで暴力を単純に「狂気」としてしか片付けられない人たちへのアイロニーのようでさえある。
 
 このようにこの映画について考えているからこそ、北野映画の後続作品がことごとく「作風としての暴力」に固執して、バイオレンスがアクセサリーみたいになっていったことは、つくづく残念だと思っている。東映のヤクザ映画みたいに陳腐だし、ドラマがなくて殺しの場面だけ賑やかな後期必殺シリーズを見ているように退屈である。

 『この男、凶暴につき』の欠点を一つだけ挙げよう。
 主人公が死んだ後、彼に付いてまわってた新米刑事がヤクの横流しに手を染め始めるところで終わるラストである。なぜあの新米刑事が「悪人」に変わるのか、すごく唐突で脈絡がなさすぎなのである。いきなり訳分かんないオチで終わらせる。北野映画にありがちな「ストーリーの欠陥」が見事に処女作で表れている。北野映画はほとんどすべてが拙いラストシーンで終わってしまい、せっかくのラストまでのいい流れをぶち壊す。そもそもはなっからストーリーを重視していないから、終わらせ方が分かっていないのだと思う。

 ただし『その男、凶暴につき』のラストのストップモーションだけは正しい終わらせ方のように思える。あの秘書の女性のストップモーションとともにロールテロップが流れるのは、中学のときに見たときもものすごく印象的に残った。

 あれはなぜかすごく悲愴で絶望的なイメージだと思う。主人公が妹を射殺する直前の絶望的な表情とよく対照しあってるように感じる。





「クソ左翼」は「実体も虚像も曖昧な多様性に対する悪罵」だろうか

Posted by Hemakovich category of Diary on   0 comments   0 trackback


20130616hema.jpg



 作業所を休止してから積極的に家事手伝いにいそしんでいる。今日は午後から母と梅干の下漬けをした。生まれて初めてだ。

 うちの家は畑に梅の木があるらしく(いまだに何処の畑なのか見たことがない)、ここ近年、大量に収穫がある。一昨年前ぐらいから僕はあまりにも猛暑の疲れがひどくて、試しに毎日梅干を食べるようになったら疲労回復にかなり効果があって、以来、猛暑をなんとも思わずに迎えられるようになり、毎年夏が来たら梅干は必須の天然サプリメントになっている。

 収穫してきた梅をまず丹念に洗って干しておく。水分が取れたら下漬けが始まる。

 まず漬物用の大きな樽みたいな容器に底が見えなくなるくらい塩を入れておく。手拭いで一個ずつ磨きながら梅を平たく並べるように置いていく。容器の底いっぱいに梅が並んだら、カビを防ぐために30度以上の焼酎を霧吹きでまんべんなく放散する。それからまた塩を半カップほど振り撒く。そしてまたその上から梅を並べていく。

 梅を並べて、焼酎を浴びせて塩を振り撒く。この行程を容器いっぱいになるまで何度も続ける。

 容器満杯になると更に上から大量に塩を撒く。だいたい漬けておく梅の重量の18%ぐらいの塩を入れておく換算。その上に焼酎でよく殺菌しておいた落し蓋を載せ、容器に入れた梅の重量に応じた漬物石を置く。ここまでが下漬けの全工程である。

 下漬けは梅干作りの全工程のほんの一部に過ぎない。たぶん今年の夏は梅干作りの全作業を僕は体験することになるだろう。


 ずいぶん前に読んだ檀一雄の『檀流クッキング』にも梅干の作り方が紹介されているが、あの頃はまだ自家製で梅干を作る家庭も多かったのだろうか。
 あの本を時折読むたびに、現在の日本の家庭は年にどれぐらいの頻度で自炊しているのだろうかと想像する。というのも、友人たちと話していると外食の話が多いので、外食なんて一年に一回あるかないかのような僕にとっては、みんな自炊なんてあんまりやらないのかと不思議に思ったりする。
 うちは農家だし、退職した父が有機農業の野菜作りに熱心で、そのおかげで菜食中心の自炊生活を営めているわけなのだが。


 今日の朝刊でも朝日のバカ記者(TPP問題で佐伯啓思と論戦してボロ負けして「TPPは中国牽制の外交カードに使える」などと負け惜しみしたチンカス野郎)が相変わらず農業の規制緩和・大規模集約化を経済コラムに書いていたが、たぶんあのチンカス記者は農業をまったく知らずに論説を書ける立場に至った不幸なバカなのだろう。

 食糧は工場のラインで製造するように、計算どおりに決まった量を得られるような製品ではない。天候や土壌に大きく左右されるし、産業の中では永久に生産の不確実性がつきまとう分野である。

 零細ではあっても熱心でやる気のある百姓を潰して、株式会社が参入して大規模化するということは、日本の農業の多様性が失われ、食糧自給のリスクが一本化されてしまうということである。極論して言い換えれば、一つや二つの会社が危なくなったら、一気に食糧供給の危機にさらされるということである。

 電力会社に置き換えて考えてみれば、多様性のない産業がどれほど腐敗し硬直化して効率が悪くなるか理解できるだろうに。朝日のバカ記者は原発事故から何も学んではいない。

 食糧と言うのは多種多様な自然の中で雑多に様々な種類の収穫が得られるからこそ、食糧危機のリスクが少なくて済むのである。大きな会社が同じような肥料と同じような農薬を使ってモノカルチャーのように生産をしていると、水や土壌の特色が均一化されてしまい、雑多な収穫が狭められる。つまり、国土から得られる食べ物を故意に少なくしていくようなものである。

 とりあえず、たかが俺にさえチンカス呼ばわりされるような無知な朝日記者は、国を危うくするよる低脳プロパガンダを垂れ流すより、会社から下放して一年ぐらい農業やってみてはどうか。



 共同通信系の地方紙の読書欄を読んでたら、絲山秋子って人の『忘れられたワルツ』って小説が紹介されていたんだが、書評している杉本真維子って人の何気ない表現にビクッとなってしまった。

 登場人物たちの心でざわめくのは「ふつう」から零れ落ちた感覚だ。フェイスブックで披露される他人の食事に興味が持てないこと。痒みはどんなにつらくても同情されず、笑いの対象にすらなること。阻害が強いる沈黙の中で彼らの心は問う。「ふつう」とは何か。実体のないマジョリティーの呼称ではないのか―。



 SNSで「今日の夕食なう」とか写真載せてたりすることって、うんざりするぐらいあるけど、あれって本当にどうでもいいというか、自己満足の極致だよな。一回でもそういうことやったことある人って、なんとなく漠然とした「羞恥心」のようなものを感じたことってなかったんだろうか。

 「実体のないマジョリティーの呼称」って表現がすごく新鮮に感じた。これって言い換えたら「ふつうなんて基準はない」っていうような表現と同義だけど、より「正体を暴く」ようなこういう正鵠を得た表現もあるんだ。何気ない表現だけど、コロンブスの卵みたいで、自分ならこういうフレーズをサラッと書けないだろうなと思って、感心させられた。


 「ふつう」が「実体のないマジョリティーの呼称」ならば、「クソ左翼」は「実体も形態も曖昧な多様性に対する悪罵」だろうか。





Pople are kept alive by the story nature of their life.

Posted by Hemakovich category of Quote on   0 comments   0 trackback


20130614hema.jpg




 重くのしかかる空しさこそ、多くの人を苦しめるものである。

 この空しさは教養がなく知性もわずかな人の多くにさえも感じられる。

 その身分のため、その空しさがどのようなものであるかを知らない人々は、一生涯それに耐えつづけている人々の行動を公正に判断することはできない。
 そのために死ぬ人はいないだろうが、それはおそらく飢えと同じくらいつらいものだ。あるいはそれ以上かもしれぬ。パンよりもこの苦しみの救済手段の方が必要だと言うことは、おそらく文字どおり真実であるだろう。


 その救済手段には選択の余地はない。ただ一つしかないのだ。ただ一つのものだけがあの単調さを耐えられるものにするのだが、それは永遠に光を与えてくれるもの、美である。


 魂の欲求が、存在しうるものあるいは存在するだろうものに向かうのではなく、現に存在しているものに向かうことを、人間の本性が耐えられる場合はただ一つしかない。

 その唯一の場合とは美である。

 美しいものはすべて欲求の対象となるが、人はそれが別のものになるのを望まないし、何かがそれを変えることを望まず、現にあるそれそのものを望むのである。
 晴れわたった夜の星空を人が欲求をもって眺めるとき、人が欲求するのは、現に所有している光景だけなのである。


 民衆はみずからの欲求のすべてを自分たちがすでに所有しているものに向けるしかないので、美は民衆に相応(ふさわ)しく、民衆は美に相応しい。

 詩は、他の社会的境遇にいる者にとっては賛沢の一種である。民衆はパンと同じくらい詩を必要としている。

 言葉のなかに閉じこめられた詩のことではない。そのような詩は、それだけでは、民衆にとって何らかの役に立つことはできない。


 民衆は、自分の人生の日常的な実体そのものが詩となることを必要としているのである。



  ― シモーヌ・ヴェイユ 『奴隷的でない労働の第一の条件』より ―







思考停止が基調の日々を生きてしまっているこのごろ

Posted by Hemakovich category of Diary on   0 comments   0 trackback


20130612hema.jpg



 ブログとHPを合体させたサイトを作るべく、WordPressに挑戦している。

 以前も何度か挑戦したのだが何回も中途で放り出して、僕のWordPressのサイトは4つぐらい放置されて残されている。
 一番悩むのはテンプレート選びである。この時点でいろいろ迷って悩んでしまって、そのうちにサイト作成そのものが煩わしくなる。こういったパターンが続いている。

 今回はあまり外観を気にしないようにして、ともかく完成させようと思っている。

 

 作業所に行かなくなってから、面倒なことはほとんど思考停止させる習慣がついてしまった。

 そのことは僕の抑鬱の観点からいえばある意味好ましい状態ではある。だが政治だとか経済だとか社会に対していろいろ思考することすら減退させてしまっている。
 だから先月に入ってから、ブログに書くネタが激減してしまっている。

 先日、ヘイトスピーチだとか元従軍慰安婦にレイシズムCDを送りつけたチンカスどもについて考えていた。そのことについてブログに何か書こうと思っていたのだが、考えれば考えるほど泥沼しかないような、まったく無意味なこととしか感じられず、ブログで文字にすることにどうしても抵抗を感じざるを得なかった。

 それで仕方なく、オーウェルの言葉を引用することで、僕の思考を「代替」させる記事を書いた。

 それで、その極右バンドがFC2を利用していることを先日知った。そのことがきっかけでWordPressを利用しようと思ったわけだ。

 長い間このブログを利用させてもらっているので、あまり批判めいたことは書きたくないのだが、極右バンドの反社会的扇動の根城に使われたり、FC2には正直なところ、だんだん嫌気が差してしまってきている。

 かなり前だが、初めてFC2動画のアダルトを見たのだが、「これはどう考えてもどんなゆるい良識からしても問題があるだろう」というようなアップロードを見てしまった。僕が春先のころからこのブログの記事をメインサイトにバックアップを取り始めたきっかけはそれであって、「そのうちFC2はいろいろとやばいことになるんじゃないか」と思い始めたことに拠る。

 まあ、そういいつつも、今日も今日とてFC2にこうやってブログを書いているんだが。







レイシストの売名行為に加担しないための本質的命題

Posted by Hemakovich category of Quote on   0 comments   0 trackback


20130610hema.jpg




 私が「ナショナリズム」と言う場合に真っ先に考えるものは、人間が昆虫と同じように分類できるものであり、何百万、何千万という人間の集団全体に自信をもって「善」とか「悪」とかのレッテルが貼れるものと決めてかかる考え方である。

 その次に考えるのは、この方がずっと重要なのだが――、自己をひとつの国家あるいはこれに似たなんらかの組織と同一視して、それを善悪を超越した次元に置き、その利益を推進すること以外の義務は一切認めない考え方である。

 ナショナリズムと愛国心ははっきり違うのだ。

 私が「愛国心」と呼ぶのは、特定の場所と特定の生活様式に対する献身的愛情であって、その場所や生活様式は世界一だと信じてはいるが、それを他人にまで押し付けようとは考えないものである。愛国心は、軍事的にも文化的にも、本来防御的なのだ。

 ところがナショナリズムの場合は、権力志向とかたく結びついている。ナショナリストたるものは、つねに、より強大な権力、より強大な権威を獲得することを目指す。それも自分のためでなく、個人としての自分を捨てて、その中に自分を埋没させる対象として選んだ国家や、それに類する組織の為なのである。

 国家とか、もっと曖昧な組織、つまりカトリック教会やプロレタリアートのようなものまでが、普通に個人のようにみなされて、「彼女」などの代名詞を当てられることが多い。「ドイツは生来の裏切り者である」というような明らかに馬鹿げた文句は、新聞を開けば必ず目に入るし、ほとんど誰もが国民性についても無茶な一般論、「スペイン人は生まれながらの貴族である」とか「英国人は全て偽善者である」とかいうたぐいを口にする。こういう一般論に根拠がないことは、ときどき思い出したように指摘はされるのだが、やはりその癖は抜けきれず、トルストイやバーナード・ショーのような自他ともに認める国際的視野の持ち主さえ、よくこの誤りを犯すのである。

(中略)

 くりかえして言えば、ここでナショナリズムというのは、ほかにうまい言葉がないからで、私の考えている広い意味でのナショナリズムには、共産主義、政治的カトリシズム、シオニズム、反ユダヤ主義、トロツキズム、平和主義と言った運動や風潮も含むのである。

 それらは必ずしも一政府一国家への忠誠心であるとは限らず、ましてや自分の祖国への忠誠心である必要もない。それどころか、その対象になる組織が、必ずしも現実に存在する必要はないのである。具体的な例をいくつか挙げるなら、ユダヤ世界、イスラム世界、キリスト教世界、プロレタリアート、白人種といったものも、全て熱烈にナショナリスティックな感情の対象になるのであって、こういうものが実在するかどうかは大いに疑わしく、どれをとっても万人が認める定義など存在しないのである。

(中略)

 ナショナリストとは、威信競争という観点からしか考えない、少なくともまずそれを考える人間なのである。積極的な場合もあれば消極的な場合もある――つまり後押しするために精神的エネルギーを使うこともあれば、引きずりおろすことに使うこともあるわけだが、いずれにしてもその考えはつねに勝利か敗北か、栄光か屈辱かという思想を軸に回転する

 ナショナリストは歴史を、それも特に現代史を、大きな勢力の果てしない興亡として捉える。そして彼の眼には、あらゆる事件が、自分の陣営は上り坂にあり、憎むべき敵は下り坂にある証拠だと見えるのである

 最後に、もう一つ重要な点は、ナショナリズムを単なる成功礼讃と混同してはならないということである。ナショナリズムは、一番強いものの味方をするという単純な原理は取らない。逆に、いったん自分の立場を決めた後は、それが事実一番強いのだと自分に言い聞かせて、客観的情勢がどれだけ圧倒的に非であろうと、この信念を固守することができるのである。

 ナショナリズムとは自己欺瞞を含む権力願望なのだ。ナショナリストたるもの例外なく、どんな目にあまる不誠実な行為でもやってのけるが――自分より大きなものに殉じているという意識があるために――自分は絶対正しいという不動の信念を持つことができるのである。

(中略)

 あるいは、偏向のない見方などありえない、全ての信条はひとしく嘘と愚かさと野蛮さが潜んでいる、という主張もでてこよう。そしてこれはしばしば、政治には一切関わらないとすることの言い訳に使われるのである。

 だが、現代の世界では、知識人と言えるほどの人間なら政治には無関心ではいられず、結局は政治に関わりを持たざるを得ないという点で、私はこの主張を認めることはできない。

 我々は――広い意味での――政治に関与すべきであり、自己の選択を明らかにしなければならないのではないか。つまり、たとえ手段(政治)が悪であることに変わりはなくても――客観的に見て優れている主義とそうではない主義があることは、認めるべきなのである。

 私が取り上げたナショナリスティックな愛憎の念は、好むと好まざるとに関わらず、ほとんど全ての人間の気質の一部になっている。これが除去できるかどうかは分からないが、これに抵抗することは可能なのであって、それこそが本当の道徳的努力だと私は信じる

 そのためにはまず、自分の本当の姿、本当の感情を知り、その上で逃れられない偏向を認めることである。もしソビエトを憎み、恐れているとして、もしアメリカの富と力を嫉妬しているとして、もしユダヤ人を軽蔑しているとして、もし英国の支配階級に劣等感を抱いているとして、ただ考えているだけではこういう感情を除去することはできない。

 だが、少なくとも自分にそういう感情があることを認識し、それによって思考過程が歪むのを防止することはできるはずである。誰もが逃れられない、そしてあるいは政治行動には不可欠なのかもしれない感情的衝動には、同時に現実認識が伴わなくてはならない。だが、くりかえして言えば、これには道徳的努力を必要とする。



 ― ジョージ・オーウェル 『ナショナリズムについて』 ―







PAGE TOP

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。