Hemakovichの半永久的平坦な戦場

パニック不全神経症者が落ちてゆくカムフラージュ

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「下痢のミックス」政権の魂胆は国民から天皇への「主権奉還」である

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 三流大卒の首相が「戦後レジーム」というインテリめいた語句を使いたがるのは単純に自分がバカだと思われたくないためだけではなくて、レジーム(体制)という言葉の使用にそれ相応の意味があることがだんだん分かってきた。要するに、彼は「戦後」が日本にとって本来の日本ではない状態だと見なしているわけである。

 リベラルな人たちにとって日本国憲法下の現在の日本と比較して、戦前・戦中の軍国主義国家が「本来あるべきではなかった負の国家」だと考えるように、極右のちんカスどもにとっては旧憲法下の戦前・戦中と比べて現在の日本は「あってはならない異端な国家の状態」のようなものなのだ。「どっちがまともな国なのか」を二項対立的に論じ合って、相手が支持する時間軸の国家像を完全否定してしまいたい意図があるのだ。簡単に言えば下痢首相にとって今の日本は「普通でない」のだ。僕にとって戦前ファシズムが狂気の時代だと考えるのと同じように。

 現在の憲法を改正したい理由は「アメリカに押しつけられた」からではない。戦後に出来たものはなにもかも否定したいだけなのだ。突き詰めるとカタワの首相は「王政復古」を目指してるのであって、単純に昔に戻したいわけなのだ。学制を変えることまで主張しているのは、学校の式典で教育勅語が読まれるような過去の日本を復旧したいだけなのだ。

 現在も未来も無いのだ。過去だけ、それだけなのだ。「下痢のミックス」政権の目論見は国民から天皇への「大政奉還」、それだけなのである。

 ただ、下痢坊が"system"という分かりやすい単語を使わずに、わざわざフランス語を語源とする"regime"なんて一般ピープルに無縁な言葉を使いたがるのは、「ボク、バカじゃないもん!」てな具合に低学歴を必死でカバーしたい三流大卒バカ首相の哀しい劣等感が作用してるのかもしれない。




 以前メールのやり取りをしていたギリシャ人女子大生、レディオヘッドやビョークが大好きな彼女に、Beckの"Modern Guilt"のPVを紹介したのに完全スルーされたことを時折思い出していたのだが、今日偶然あるブログ記事を読んでその理由がはっきり分かったような気がした。

 ディスクレビュー Beck / Modern Guilt: FREAKS FREAXX

 「現代に生きることの両義性」といったようなテーマをモチーフに音楽を作るなら、レディオヘッドの場合「哀しみと優しさ」で表現するらしい。というか、たぶんレディオヘッドの音楽はそういうナイーブなものらしい。だがBeckの場合は「軽やかさと曖昧さ」などであり、「極めて平熱で、しかしディープに表現」するのが彼の作品の基調なのだ。
 Beckにあってレディオヘッドにないのは「諧謔」だろう。簡単に言えばレディオヘッドのディープなファンにとって、Beckは「ふざけてる」ように見えるのだ。たぶんそういうことなのだろう。音楽はレディオヘッドで文学は村上春樹がお気に入り、なんて人に結構たくさん会ってきたが、自己愛が強すぎて自虐ジョークを理解しない輩が多かった。

 「現代の罪」なんてシリアスなタイトルの歌に、あんなチープでお馬鹿でシュールでコメディのPVをぶつけるBeck。僕はそういう人だからこそ彼が好きで、トム・ヨークのナルシズム過剰の辛気臭さには耐えられない。




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7時のニュースと食卓と、僕や彼らの汚辱大通り

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 「下痢のミックス」政権が生活保護費を削減するニュースを家族で見ていたとき、うちの両親が生活保護受給者を当たり前のように悪く言うのを聞いて今日も憂鬱になった。

 沖縄と生活保護の話になると僕と両親の考え方は完全に割れる。両親はそれらの当事者に対して本当に冷酷である。因みに僕の父母は両方とも元教師であり父は神道の信者でもある。僕がもし同和地区の人への罵詈雑言を言おうもの(言わないが)なら母は僕を叱り飛ばすだろう。「人権教育」という言葉は我が家では月に一回くらいは耳にする言葉だ。なのに沖縄の基地問題の話題になれば、「中国があんなふうにやってるのに沖縄が何か言う権利などない」と平気で言うし、「生活保護受給者はうちらより贅沢している」と世間のデマコギーそのままを口にする。被差別部落には人権をかざす両親も、日本への中国人研修生に対する偏見を隠さない。

 他人なら諦めもつくが家族にそういう差別者がいることは時折本当に耐え難く感じる。両親も別個の人格を持った他人だと規定すれば、悩む必要もない話なのかもしれないがそれで片付いて良いことなのか。両親と同居したり別居したりとかで交わす程度の問題なのだろうか。時々両親を一喝して考えの誤りを指摘したくなる時もあるのだが。

 僕が沖縄のことに当事者性を感じるのは僕が政治的マイノリティであるのが理由かもしれない。だが生活保護受給者や在日外国人に関しては僕の周辺にはその当事者がかなり前から多くいたから僕は彼らへの侮蔑が許せないのだ。大学に入ってからかれこれ10年近い年月を僕は京都や大阪、名古屋で暮らしてきた。そして民間病院の精神科に入院したり作業所にボランティアに行ったり、今は自分自身が作業所に通っている。貧窮者の悪口を聞くことは最早僕にとっては僕自身を否定されるのと同義に聞こえる。それが僕の両親には分からないのだ。

 いずれ親が死ねば、僕も生活保護を受給するかもしれない。そのような可能性を両親は考える機会もないらしい。数年前、父の従兄弟が病気で働けなくて生活保護を申請に行って不当に追い返された折、父らは彼に50万円を貸したが母は遠回しに彼をタカリのように言っていた。生活保護が叶って親族がアパートを訪ねた時、既に父の叔父は衰弱して死んでいた。彼の遺骨は彼の実家のお墓にも入れてもえらず、いずれ無縁仏のようになる形で寺に預けられている。彼の名誉のために言っておくが、餓死した父の従兄弟は生前悪人であった訳でもなんでもない。

 僕の両親は生活保護のニュースを聞くたびに父の従兄弟のことを思い出さないのだろうか。僕はいつも独りで寂しく死を迎えた彼のことを考えて苦しくなる。自分の死がいずれは彼の死と似た形になるのではないかと想像することが当たり前のような時代に自分が生きている自覚がある。




ジュリー・クルーズの物憂いデカダンス

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 ツイッターを使わなくなって良くなった点は、自分がユーザーとして存在することでツイッターの存在を支えずに済む実感を得られていることだ。逆にツイッターをやめて損なわれる点はブログ更新はやはりツイッターの利便さと比べれば簡易性が落ちること、そしてブログを使うと文章がやたらと長くなってしまうことだ。

 小学生の頃から文章が長く簡潔さに欠ける短所を僕はずっと持ってきた。ツイッターを始めて自分の言いたいことをもっと簡潔に述べる手法があることを発見した。連呼される短いフレーズの危険性はよく分っているが、僕の場合は長すぎるのである。自分の文章に無駄な要素が結構多いことはツイッターを始めてから気づくようになった。
 先日までのように日記としてツイッターを使うことをやめる決意はいささかも変わっていない。ただサイトの更新履歴を記した埋め込みウィジェットとして僕のHPに貼り付ける使い方で、新しくアカウントは作った。その程度の使い方が本当のツイッターの存在価値であって、デマやオピニオンリーダーの誘導や効率的なプロパガンダの道具として使用される危険性がある故に、ツイッターを公的なメディアとして看做すのは誤りだと今も思っている。




 長い間聴きたかったジュリー・クルーズの"In your world of blue"をYouTubeで見つけることが出来た。以前はイントロ数秒の部分だけのオフィシャルビデオしか見ることが出来なかった。イントロの数秒だけでこの曲は僕の好みだと分かって長い間CDも買わずに探していた。

 ジュリー・クルーズを有名にした、今では誰も覚えていなくなったようなカルトアメドラ「ツイン・ピークス」を僕は見てなかった。同じく今では誰もが忘れているかもしれないヴィム・ヴェンダースの映画「夢の涯てまでも」のサントラで僕は彼女を知った。プレスリーの曲"Summer Kisses Winter Tears"を物憂いデカダンスの雰囲気で歌う彼女の声に「ああ、これは僕とお友達になれそうな人だ」と即座に実感した。彼女のリメイク以来、中国の歌手なんかが似たような感じでこのプレスリーの曲を歌ってるが、"Summer Kisses Winter Tears"を歌って許されるのはプレスリーとジュリー・クルーズだけだと勝手に思っている。「夢の涯てまでも」は駄作だったが主人公がこの歌を口ずさみながら車を走らせるシーンは、美しいアンニュイを感じて好きだった。




猫好きに悪い人はいないと勝手に思っている

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 僕は猫好きである。我が家では猫を9匹飼っている。最近になって庭に居ついたノラ猫が加わったので実質合計10匹ということになる。餌やりと猫のトイレ掃除は全部僕の仕事である。

 我が家の猫たちは全部ノラ猫出身である。友人は僕の家を「猫屋敷」とからかう。僕が小学生の頃、家族がノラ猫を拾ってから延々20数年以上、代が変わりながら飼い続けている。大学生の時も下宿のアパートで餌をやってたら仲良くなった猫がいて大家に見つからないように飼っていて、卒業した時に実家に連れて帰った。15年ぐらい天寿を全うして3年ほど前に亡くしたが、部屋に骨壷を置いている。母は、庭にでも埋めろというのだが・・・・・・。

 猫というのは人間に非常に身近な動物であるのだが、犬と比べるとそれほど人気のある動物ではないらしいと感じる。犬に関する知識はよく知られているけれど、猫の生態や習性に関しては案外世間の人たちに周知されていないんだなと思うことが多いからである。

 秋田の佐竹敬久県知事がロシアのプーチン大統領に秋田犬を贈ったお礼にシベリア猫を贈られたというニュースを聞いた。

 秋田県知事、ロシアからのネコにメロメロ 「もう、猫ちゃんよりは先に死なれない」 - 2013/1/20 J-CASTニュース

 佐竹知事は無類の猫好きらしいのだが、その愛着の強さはかなり一貫していると思う。かなり猫の習性に詳しく議会や知事会見で飼い猫の知識披露しているのだが、その真面目な熱弁ぶりが記者や議員にはユーモラスに見えるようでYouTubeでその様子が映されている。







 
 知事が「熱く語る」猫の知識はいちいちもっともである。よく分っている。佐竹氏は7匹飼ってるそうだが、複数の猫を集団で飼ってる人にしか分らないことを熟知している。猫を大量に飼う人はどんなに金がかかっても細やかに世話するものである。
 視聴者にとっては猫に対する彼の熱心で朴訥とした話しぶりが可笑しいのではあるが、僕はこれを見てかなり佐竹知事に共感した。プーチンがわざわざ贈ってきたという背景と、それ以上に知事の猫への個人的な愛着振りが見事にかみ合っていないところがまた良い。

 「猫は人の恩を三日で忘れる」というが、あれは虚構だと思う。また、猫の中には犬みたいにじゃれてくる子だっているのだが、そういうのもあまり知られてない。猫は案外寂しがりやで犬よりも甘えん坊だと僕は思うのだが。

『八重の桜』ってタイトルの由来は、実は『同期の桜』だったりして・・・・・・

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 『八重の桜』には全く関心がなかった。

 だがテーマ曲を坂本龍一が担当してると聞いて驚愕した。坂本氏がNHK大河の音楽を手がけるなど絶対ないと思ってた。というか、NHK大河と坂本龍一って組み合わせを想像したことすらなかった。
 さっそく、YouTubeでテーマ曲を聴いてみて、これがまた、いかにも坂本!って感じの、もはや聴き慣れた甘ったるい凡庸な印象がして、予想(してなかったが)を裏切らなかった。この曲程度なら、前作『平清盛』の吉松隆のテーマ曲の方が僕は好きだ。あの「遊びをせんとや」のメロディが静謐なピアノの音で始まるミニマムなイントロ、あんな美しいイントロはこれまでの大河テーマ曲には殆ど聴かれなかった。坂本は吉松隆に嫉妬しなかったのだろうか?

 YouTubeの動画に張られた綾瀬はるかの、女新撰組みたいなポスター、最初はちょっと意表をつかれた感じがした。が、NHKの5分版の予告編でゲリラみたいな格好で鉄砲打ってる綾瀬を見て「どんなアニメのコスプレ?」と思うようなチープなマンガみたいに見えた。あの映像を見ると女新撰組みたいな綾瀬のポスターもますますコスプレみたいに見えてしょうがない。そういえば会津若松城を上から捉えた戦闘映像もなんかゲームのCGみたいだし。NHKはついにヲタにまで媚を売り始めたのか?

 「この時代、咲いてみようじゃないの(ハートマークつき)」なんて歯が浮くどころじゃなく居たたまれないコピーも実にチープだ。まったく思想性がない。綾瀬のコスプレとアーミーヲタ感涙モノの戦闘CGで魅せます!引っ張ります!といった趣の、歴代名作大河の名に泥塗りそうな妄想脳時代劇を予見する。

 いくら「原発事故の福島を応援します」的な意図があったとしてもなぜ山本八重?と思っていたが、ドラマ後半の明治になると京都が舞台になるし、ああやっぱりNHK大河は絶対京都にカネ落とさせる構造になってるのねと再確認。そんで山本八重が裏千家と強い繋がりがある史実からして「福島応援」大河ドラマが必然的に『八重の桜』に至った経緯がよく理解できる。なにせ裏千家は皇族のヨメを持ち前家元が極右団体「日本会議」の代表委員を務める、という単なる茶道流派に収まらない政治性の強い組織ですから。

 『八重の桜』のコスプレ綾瀬の戦闘シーンとやたら詳細なスペンサー銃の考証場面を見てると、どうしてもアニヲタの妄想する「美少女隊員」を想起させられる。それと同時にかつて日清カップヌードルが製作したが自主規制した外国人少年兵を描いたCMを思い出す。「ならぬものはならぬのです」なんて会津士魂を安っぽく披瀝しちゃって、アホなヤフコメ市民が誤解して感化されそうで、そのうち山口4区(長州)の首相がバカウヨに同調して「大河ドラマのレジームチェンジ」とか言い出したりしないだろうが・・・・・・海が汚かった『平清盛』の方が内容深かったよな。

 最初に戻って坂本龍一だけど、彼は脱原発やら日本未来の会やら下手糞に政治に関わり始めてから、なんだかだんだん小さく収まってしまってるように見える。大河の音楽引き受けたのは、やっぱりあれか? 綾瀬はるかに逆上せてしまったのか??

 ちなみに僕のマイフェバリットNHK大河は『太平記』(1991年)です。大人になってから再び見て、前よりももっと感動させられてしまった。あの頃の大河は思想も人生も雄弁に教えてくれていました。


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存在感埋没気味で半泣き市長のために、誰か「ハシシタが来る街」を作曲してやれ

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 橋下市長「変な音楽」島倉千代子の歌中止 - 2013年1月25日 日刊スポーツ

 島倉千代子の『小鳥が来る街』が「変な音楽」どうかは主観の問題としか言いようがない。
 しかしその代わりに「職員向けのスローガン」「職員に意識変革を訴えるアナウンス」が流されるようになったと聞いて、橋下氏のやってることがどれだけ奇異なことか、お笑い大阪市民の民度では判断不能だろうなと思った。
 故・見沢知廉の『天皇ごっこ』で見沢が北朝鮮を訪問した件があるけれど、あの国では街頭だろうが地下鉄だろうが街のいたるところで朝鮮労働党のプロパガンダ音楽が昼間延々と流れているらしい。朝鮮語を理解しない見沢もずっとそれを聞いてるとさすがに頭が痛くなったと述べている。大阪市役所の場合、メロディもなくスローガンだけだから、さぞかし職員は鬱な昼休みを満喫していることだろう。僕なら絶対こんな職場で働けない。気分障害の人間に最もダメージを与えやすい五感は聴覚だと思う。僕はTVはニュースと野球中継以外は見ないが、必要がなければ消音で見ている。

 大阪市を「エンタメ系の北朝鮮みたいな国の絶望都市」と言い表したのは芥川賞作家のモブノリオだが、なるほど、昼休みの役所にスローガンか、さすが大阪市は「エンタメ系の北朝鮮」度では群を抜いてるよね!! さすがは夜中に音楽で踊ってると警察が駆けつけて取り締まる街、大阪!! まさに「ポリが来る街」!! たぶん君が代以外は変な音楽なんだろう。

 ちなみに『小鳥が来る街』は大阪市の緑化PRソングとかだそうで、大阪清掃局が市民に「普通ごみの収集車が巡回していることを知らせるメロディ」で「ごみ収集の音楽」でもあるらしい。そして島倉千代子が市に48年間無償提供してきた曲でもあるらしく、最近やたら目立つのに必死の暴走市長がそういう経緯を全く知らず赤っ恥かいたのは無論言うまでもない。

 橋下市長、島倉千代子さんの曲を「変な音楽」 改革の象徴にしたい…経緯も知らず批判、スケープゴート - 2013.1.24 MSN産経ニュース




罪なき人の「電子前科者カード」

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 診察日だったので、医者にインターネットに関するアディクション(依存症)について質問したら、なんと精神医学の世界では酒と薬物以外、アディクションかどうかの線引きは存在しないのだという。ギャンブル依存すら依存症の定義は決められていないらしい。
 しかし、よく考えてみれば医学というのは内因的な疾病を扱うのが基本なのだから、人間の趣味・嗜好に関してパターナリスティックに制限を加えかねないことには慎重であるのが正常かもしれない。
 フェイスブックやInterPalsをやめてみて、寂しさを感じたのは確かで、それは昨夜の夢にまで出てきた。僕はSNSをやっていなければ、一生あらゆる人間関係の可能性が絶たれるかもしれないとまで考えた。
 だが、SNSを利用すれば出会いはあるかもしれないが、人間関係が潤滑にこなすスキルが生まれるかどうかは全く別問題である。人間関係に関する考え方そのものが変わってしまうかもしれない危惧があったのも、僕がSNSをやめた理由の一つである。

 人との距離感に関して、現在と昔では確実に価値観は変わっている。その変化が有用なものとは僕には思えない。

 フェイスブックに関してだけ言うなら、あれは自己申告の電子戸籍のようなものだと思う。匿名性の必要な場面もあるのに、ネットの悪意に対して無防備である。言い方が悪いが、罪なき人の「電子前科者カード」みたいに僕には見える。




 昨夜はフェイスブックの夢に加えて、日本ハムの糸井のことまで夢に出てきた。余程僕には衝撃だったのだろう。

糸井決別ハム!衝撃トレードでオリックス - 2013年1月24日 日刊スポーツ

 日刊スポーツの報道が確かで、糸井サイドがポスティングの確約orトレードの選択を迫ったなら、日ハムは糸井をトレードに出すしか仕方なかったと思う。但しトレード先からしっかり正遊撃手候補と右の先発投手を取ってるあたりは、したたかだと思うし、オリックスから大引を取るのはずいぶん前から既定方針で、それがここにきて糸井の件と合致したのだろう。
 糸井が抜けても日ハムは弱くならないだろう。去年だって田中賢介がシーズン後半に故障しても、若手を上手く使って優勝できた。
 日ハムは特定の選手が抜けて弱くなるチームではない。
 但し、オリックスに行って糸井が日ハム時代と同じ活躍ができるかどうかは疑問に思う。糸井はそこまで「自立」した選手ではない。
 その辺こそ日ハムが糸井に見切りをつけた本当の理由かもしれない。

 僕がこの件で他に思ったのは、ダルビッシュは明らかにツイッターのやりすぎだと感じたことで、その辺りは大阪市長とあんまり変わらない。

 だが一番僕が驚いたことは、あの日ハムが誇る天然筋肉脳お馬鹿キャラ最終兵器の宇宙人・糸井が、ついに全国レベルでニュースになったことである。


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Facebookで必要なのは整った顔立ちだけである

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 フェイスブックやツイッターにはある種の依存性があると思う。依存している状態というのは人は誰しもそれを否定するものだ。
 SNSにはサービスの方から見ればユーザーは商品としての数字であり、ユーザー同士はお互いを商品を見るのと同じ眼差しで選択して取捨する媒体である。どれだけ彼らが否定しても本質は出会い系サイトと変わらない。僕は今回SNSをやめるにあたって、今後も友人関係を続けたい人たちとはメールアドレスを交換した。そういった友人たちの多くはSNSで出会った人たちでリアルに関係はない。メールを交わしていて気づくのは、相手の写真がないことである。文章の中から相手をイメージしてメールを書かなければならない。そのイメージというのは無意識のうちに抱いていた相手を商品性として見る眼差しなのだと思う。



 
 日本ハムが糸井をトレードで放出したことは、多くのプロ野球ファンが全く想像もしてなかったことだろう。ダルビッシュもツイッターで否定的な見解を示したようだ。
 日本ハムファンとして、また糸井ファンとして、僕もまだ頭の整理がついていない。ただ日本ハムという球団は野球ファンの想像を覆すようなチームなので、安易な見通しで糸井を出したのではないと思う(ないと信じたい)。それなりに今シーズンを戦うビジョンがあってのことだと僕は解釈するのだが、さあ、どうなるか。

SNSから足を洗う

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 ツイッターとフェイスブックのアカウントを削除した。ついでに海外のメール友達を見つけていたInterPalsというサイトのアカウントも消した。

 昨日の夜、不意にSNSから足を洗おうと決意した。その理由の一部はフェイスブックに書いたのだが、備忘録としてここに転載しておく。

最近フェイスブックとツイッターのアカウントを消そうかと考えている。
YouTube以外の全てSNSから撤退しようかと真剣に考えている。
なんなんだ、この虚しいネット内の人との繋がりは。
ネット内で友達探しながら、街で人が困っていても助けない世界っておかしくないか?
結局さあ、俺がSNSから消えたところで、アカウント登録者の数字が1個消えるぐらいの意味しかないわけよ。
つまり数字一個の意味しかない訳だよ、俺の存在は。
そんなの、あってもなくても、どうだっていいことじゃないのか?

俺にとってはさあ、俺の映像作品や詩を読んでくれることが全てであって、無意味に、いてもいなくてもいいような、人間関係作るの、空虚でしかないんだよ。

後さあ、映像作品のリンク送っても全然感想寄越さないってどういうわけ?

フェイスブックで繋がるより、メールでもしてる方が百倍マシだよ。

俺は汚染される前に汚物から消える。




 以前からフェイスブックやツイッターを嫌悪してきたが、上記に書いた以外の理由を述べるなら、それはこういったSNSを儲けさせるためにアカウントを置くことが嫌になったから。それから、これらの存在意義そのものに対して以前から疑問視してきたから。

 YouTubeやタンブラーは利用価値があるので使い続けるが、それ以外のSNSをもはや僕は全て必要としない。サイトとブログがあれば十分だと思う。

 ツイッターに関しては自サイトのトップに「サイトの更新履歴」として使えるのではないかと気づいたので、検討してみるが、もう以前のように日記を書いたりすることはしない。

「殺害」がせいぜい言葉のみでしかない為政者たち 2013.1.19 tweet

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居住区から連行される人質の乗った車への無差別殺戮攻撃には全く躊躇しないアルジェリア政府も天然ガスプラントにいるテロリストには手出ししないんだ な。分りやすい鬼畜政府だ。アルジェの作戦をまっとうと評価した風見鶏腐婆には今後こういった事件があれば人質交換で死んでもらわないといかんな。
posted at 20:34:32


人命より天然ガスを大事にするアルジェリア政府の無差別殺戮を「まっとうな作戦」とツイートした阿婆擦れ腐臭の風見鶏糞婆には次のような箴言を捧げる「“やむをえぬ殺害”という言葉に注目してほしい。こんな言葉が書けるのは、殺害がせいぜい言葉でしかない人間だけである」byジョージ・オーウェル
posted at 21:02:14



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