Hemakovichの半永久的平坦な戦場

パニック不全神経症者が落ちてゆくカムフラージュ

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カウンターカルチャーがなくマジョリティが怖い国

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vogue 69



いつの世でもマジョリティとはもともとファナティックな訳で右寄りになると民主国家では目立つだけ。
ネトウヨなんてものはそれが突出して顕在化したものだ。

ネトウヨは一杯いるけど街宣右翼なんて少数派である。だから僕はネトウヨは右翼だと思わない。日和見的なサイレントマジョリティの典型が右巻きになると目立つだけだろう。時代の兆候が変れば一億総ボリシェビキなんてこともあるだろう。そういう時に真っ先に槍玉に上がるのが先鋭化した人たちで、そういう人たちはマイノリティである。

だから僕は基本的に街宣車に乗ってる人や赤旗の配達をやってるような「末端」の人たちはネットで罵詈雑言を書くような人達とは種類が違うと思ってる。勝ち馬に乗りたいような人間はセクト化しない。
むしろ赤旗配ったり街宣車に乗ったりする人たちは既存のセクトにスポイルされることで安心できる人たちであり、真面目で純粋かもしれないが独創性が乏しいかもしれない。
独創性も純真さも曖昧な大勢の人たちはネットの書き込みしかしない。そしてセクト化された人をを軽蔑しているのだ。

どんなに民主的な憲法を持っててもワイマールからナチスに変ったように、時代の空気が悪ければ憎悪がマジョリティを支配する。
今はどれほど平均的な人達でも陰険になりかねない時代だと思う。
為政者が頑張ってもなるようにしかならない。為政者が何をやっても裏目に出る。
今はマジョリティが怖い時代。
そしてマジョリティがより狡猾な為政者に乗り回される時代。

僕がそう思えるのはボーイ・ジョージの"No Clause 28"の歌詞を15年ぶりに読んだから。
英国はサッチャーの時代にネオリベの洗礼を受けてるから今の日本とよく似てる。彼の歌詞を読んでると憎悪が排斥を牽引することの凡庸な空気がよく伝わる。
15年前は何も思わなかったけど今はとてもよく分かる。

ただ思うのは英国がサッチャーの時代にセックス・ピストルズやクラッシュみたいなカウンターカルチャーを生んだのと違って、この国はエグい猿とやらが安穏と聴かれるだけなのだ。
ボーイジョージすら放送禁止の歌があるってところに日本にはないイギリスの救いを感じるのは日本人として自虐的だろうか。


僕の近所には自民党員で「新しい歴史教科書を作る会」に入ってる人がいる。もう70代そこそこの老人で、ごく普通の農家だ。
にこやかに挨拶してくれるいい人ですごくまともだ。まともという表現が偏見のように感じるほど特殊性を感じない。ネットで流布されそうな排他的な印象はない。

だから右傾化とかネトウヨとか言うけどマジョリティが一番怖いんだよ。平均化されたマスが一番過激なんだよ。後はカリスマ的な力のある人が煽ってるだけ。





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When you desert someone at Timeline

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以下の文章は全てここ最近の私がTwitterに日を跨いで連続投稿したものである。
一つの投稿文を示すために引用形式で区切った。

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自意識が過剰なツイートはmixiの日記のそれより遥かに引いちゃうな。



もうすぐ映像ソフトが来るみたいだ。まもなく自分の長年の作品に向き合わざるを得なくなる。長編に取り組むことが出来るのは幸せな筈なのだけど、急き立てられているような思いになるのは僕が単純に愚直にしか人生を考えられないからだろう。それでいいのだ。



タイムラインの袋小路で現を抜かすよりも、愚直で凡庸な魂を一つ背負って彷徨うのが僕にふさわしい。今年こそは映像に取り組むと決めてからまだ三月だ。今年のうちにどれだけかのことをやれればよい。詩も書いてるし、それでいい。幸福感を得られなくてもそれでいい。背中を向けずに生きられれば。



昔からスノッブが苦手なのは今より若い頃からスノッブな友人が多かったからだろうな。背景が透けて見えてしまうから。こんなに愚直になってしまったのは1000床もある精神病院を見たからだろうな。収容されたホームレスとか身寄りのない女郎とかの終の棲家だった。粉飾が一切ない世界だった。



F・K・ディックが似たようなことを言ってたのを見て本質以外は貧弱な粉飾だと思った。だから粉飾に粉飾を上塗りするようなものは何も作れなくなった。スノッブは貴族趣味の自己顕示でそれが光の子供でも闇の子供でも自己顕示以外に目的がない。つまり言辞に本質がない。トリッキーな廃品回収なのだ。



スノッブが概してエキセントリックなのはノーマルを意識しているからだ。だけど初めから変な人はノーマルすら意識できないから石を投げられ追われる。それが分ればスノッブってのはモガとかマルクスボーイみたいな極めてスマートな自意識の振幅だと言うことが分る。だが僕が関心を持つのはそこではない。



初めから世界に向かう意識を剥奪された存在、統合失調症の人なんかは鬱病の僕が大嫌いなTVを熱心に見る。あれって、世界の内に存在している意識を取り戻そうとする無辜な営みだと僕は思っている。不幸を意識できる人は幸せなのだ。本当に不幸なのは自分が不幸であることを意識する力も失った人達だ。



だから僕は自意識とか関心のベクトルには非常な注意を向ける。それがどれだけ本質を救おうとしているかどうかにはもっと大きな注意を払う。愚直と思われて笑われてもいい。これからだって悪もスノッブも爛れた退廃も僕はたくさん通過するだろう。僕は風景を通過する。そして決意して生きるだけだ。




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通院してる病院の理事長夫人は病院では経理の肩書きでまだ30代なのだが若い頃にモデルをやっていたらしい。日頃心を病んだ人達が思い体を引きずってやってくる病院でモード雑誌から飛び出してきたような衣装で堂々と病院玄関から入ってくる唯一の病院職員でもある。



その彼女がある日入院患者の運動会でジャージ姿で現れた。日頃がモード雑誌だからそのギャップに驚いた。運動会の後にケースワーカーに理事長夫人がジャージを着ていたと話すと、ワーカーは嫌らしい笑みを含んでこう言った。「あの人は形から入るから」



格言でもないが「セレブとスノビズムの相似点、それは形から入ることだ」。



昔スノッブを写真に撮ったような先輩がいて、柄谷行人を読んでゲンズブールを聴きジタンを吸って居酒屋で臆面もなくワインをオーダーするような人だった。「僕はいつも変ってると言われて困ってるんです」。ある時彼にそう相談したことがある。何もかもが変ってるに収束されて僕は本当に悩んでいた。



「お前が変ってるんじゃない。お前の言い方が変ってるんだよ」。スノッブ先輩はそう言った。彼の言葉は15年経っても忘れない。それ以降、変ってると言われても何も苦痛ではなくなった。何故かと言えば、振る舞いに注意したから。それでも変ってるならそれは僕の本性だろう。俗物根性とは関係ないから。





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ネットが文字ではなく姿の対面空間が広がればスノビズムもショーヴィニスムも激減するのではないか。虚飾も粉飾も無意味になるからだ。しかしこの二者が大手を振ってネットを徘徊している以上、 webカメラで公的に交流するようなサービスは絶対に生まれない。文字ってのは化けの皮で今は皆が化けの皮。



書くことってのは自虐や自己否定ですら自己顕示のポーズであり正当化だ。それを破壊できるのはルックスを晒すってことだ。なぜなら目に見える仕草を制御できる才能はマスにはないからだ。ネットは仕草が見えないからマスにとって都合がいいのだ。仕草こそが言辞の俗物性を正確に明らかにする。



老いは醜く障害は晒し者と化すし不細工はこれ以上ない破綻だ。僕がそう思っていると言いたいのではなく、斜に構えてノーマルとの距離を精密に測るような世話しない不安こそが最もそれを恐れているのだ。



タイピングしてブログやツイートを打つよりも、簡素化されたwebカメラで言葉を吐いてアップロード出来るエントリー機能が開発されれば実に楽な筈なのだ。140字なんてセコイことを推し進めなくてもね。そんなものは絶対に流行らない。そんな恐ろしいことは誰も参加する勇気がない。リスクだけだ。



匿名性が消えるリスクではない。居所を簡単に教えるようなツールに興じても、化けの皮が剥れることが彼らのリスクなのだ。メモリが発達してどんどん写真はUpできても対面可能な動画だけは無理だろう。ボイスブログだって流行っていない。誰も如実な物を求めていない。ネットは実に如実を恐れている。



僕はwebカメラを買ってからスカイプをやっているが文字ってのが実に人を反映していないことをまざまざと感じた。簡単にエキセントリックを破壊する。人を知るには人が必要だが文字ではなく音声やモニターから現れる姿だ。スカイプって言うのは如実という篩にかけて粉飾を落とすツールかもしれない。



逆にスカイプを使って文字以上に親しみを感じた人もいる。というかそもそもそれが人格との対面なのだ。文通がツールであった時は誰もそれが対面だとは誰も思わなかった筈だ。しかしブログや SNSという繋がりで人格と対面しているかのように錯覚する出来事は仮想では現実の主流なのだ。




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スノビズムやショーヴィニスムが俗物人格の切ない玩具であるうちは嘲笑でそれを笑える。だが実際にファッショを招くのは現実とは一歩手前のメディアであり、そのメディアを支えているのは如実を恐れる貧弱な精神なのだ。そもそもが貧弱だからモガモボはポーズを決めている間に易々と取り込まれたのだ。



僕の本質を救うという喩えは如実から経験するということに繋がるかもしれない。少なくとも粉飾を上塗りして人格を虚像化して貧弱をカムフラージュする自己乖離の破綻を遠ざけることにはなるかもしれない。しかしそんなことは5年程前から気が付いていた。だが僕は易々とツールを支えてしまっている。



過剰な自意識に溺れたロジックというのは取るに足らないものだ。馬鹿はそんなものは放たない。指摘されなくても必然的に淘汰される。だからサブカルチャーも含めた文化的権威をスタイルに纏うのだ。引用とは俗物が携帯するアクセサリーである。生活が引用の山であることも少なくはない。



スノビズムとショーヴィニスムが双子の兄弟であることはそれらが引用が本質を追い抜いて補強されていることからも分る。そしてショーヴィニスムが梯子崩しの論理の点で空疎であるように、スノビズムは詩的表現の濫用において空疎でもある。どちらも人に伝えることより人を煙に撒くことが主眼なのだ。



煙に撒くのは人格の如実に触れさせないためである。奇妙なようだが詩的表現が目的ではなくそれが人格模造のための手段になることは有り得る。だからスノビズムの究極的目標が人格模造であることもまた有り得るのだ。なぜ人格を模造するのか。それはリアルの痛みに嘘を糊塗するためである。



ショーヴィニスムの世界に「リア充」という天敵がいるように、スノビズムも寒い現実を裏返すように絶え間ない引用と爛れたロジックをネットに放射する。引用的な生活のみを書けばいいのだ。それだけで寒い如実は他人の目を瞑らせる。だが自分の目を瞑ることは出来ない。だから現実は二極化分裂する。



二極化した生活と分裂した喜怒哀楽。それを邁進してネットを器用に渡ることは不幸である。二極化と分裂に際して神経症的な不安を露呈させられることは良心からの尋問である。良心とはこの場合他人に対するものではない。自分を裏切ることへの自分に対する良心である。良心でなければ真実と言い換えよう。



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ネットにある真実はどこまでも仮定的な真実だ。なぜならネットで言動する人間が真実を吐いてる確証が仮定的であるからだ。僕が140字のSNSに敵意を抱くのはそれが人を幸福にするとは思えないからだ。他人に幸福をもたらすとも思えない。僕がこう書くことすら猜疑心の山を築くに違いないだろう。



リアルを知ることと伝わること。それが相手を安堵させることもあるが、この二つを徹底して排除することがたとえ独善的でもその者の幸福であることも存在する。それがネットのもたらす相対性である。そして今こうしていてもネットは幸福観を揺るがす強度を送り込んで僕達に更新を迫る、不安にさせる。



だがネットを支えているのが如実を恐れる僕達の貧弱な精神である限り、ネットは価値を相対化し続けるだろう。スノビズムとショーヴィニスムはその積極的な加担であるというだけである。積極的な加担とはリアルの寒さに裏打ちされ、その循環がどんどん自身の現実との乖離を進める。救いなきスパイラルだ。



もはや誰も現実の幸福に期待せず望まなくなるかもしれない。ネットで見られることによる自分の優越感の尺度が現実の幸福に取って代わるかもしれない。優越感が尺度であるうちは誰も他者を省みないだろう。ファッショはその分断を油断なく狙っている。ファッショは誰もが幸福を期待しないときに現れる。



ここまで考えて実はネットのインフラこそがファッショの前兆かもしれないと僕は思ってみる。何れにしろネットで仮想的に幸福であることが我々の安堵なら、これは価値腐乱の相当な病だ。ネットに関与することでネットの全体的価値に加担しているならここはオーウェル的世界だ。偉大な兄弟はツイッターだ。




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どちらにしても僕の言葉が本質を救うことに叶ってるかどうか分らない。検証する暇もなく流されるのがTLだ。本質であっても消滅する。誰かが死にたいとツイートしてもTLで拾われない。そういった言葉があっさり流れるのもTLの特徴だ。TLは人が増えるほど体面を気にさせる。TLは全体性なのだ。



mixiの日記と比べてみればよく分かる筈だ。ここは個人の響きよりも全体の流れが優先される。だから自殺志願者の声すら瞬時に押し流す。フォローフォロワーが増えるほど全体的体面を個人に強いるのだ。空気を読めなければ流されるのだ。これはもう立派なファシズムではないか。僕もまた加担している。



僕が言ってるのは喩えでも仮定でもなんでもない。実際に助けを言い含んだと見られるツイートを見た。その時にまさしく僕が全体的な流れに逆らえずそれをTL上で無視した張本人なのだ。その時に全体性をまざまざと体感したから苦い思いでこれを書いているのだ。だからこそ僕はTLの本質を無視しない。



僕が体験した苦い思いはこれは隠しようのないリアルで、体感した苦痛の感覚は僕の加担的事実を証明した。だが本質を救うということは自分に露呈されたものをありのままに書くしかない。爛れたロジックも引用の虚飾もない。そして敢えてTLの場を壊す。空気を潰す。疎まれても構わない。孤高に立とう。



スノッブから始まったものだが、スノッブが体面を繕う自己欺瞞であるからこそ人を救わないしネットと親和性が高いのだ。ネット的にラジカルなツールはしょせん人の弱さを暴くだけだ。だから逆説的に僕はこれを学ぶ。そこから人を鎖から解き放つものを探す。気の利いたウィットの場なぞクソ食らえだ。



それでも何事もなかったかのようにTL は続いていく。そうやって孤独に上塗りされた改竄された自分を人々は放射する。洗練されたやり取りの流れを、尋問される自分の鏡像が死体のようにTLを流れてゆく。ベルトコンベアに負けないアレゴリーな比喩がTLだ。でも比喩で終われない。確実にそこにある。




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140字とは絶妙な数字だ。断片的な言葉しか書けない。書き連ねて主張したり系統立てた思考を育むには連続ツイートしかない。だがそうすればTLの流れが加速する。他人の言葉を追いやる。自分の言葉を追いやる。つまり誰かに迷惑を及ぼす。個が埋没して全体の調和を乱す。つまり全体を優位に置く。



ツイッターロンガーは読まれないに等しい。ブログを持たなければTLは無害な言葉しか残らない。言うな、考えさせるな、と警告しているように。その代わり怪しげな短文が怪しげなところには誘導できる。剥き出しの何かが此処にある。それは我々が生きている世界の限りない危険を構造的に示している。



危うさが存在することは危ういことではない。しかし誰も危うさを認識できず無関心であることや、危うさに反応することすら自ら放棄することが本当に危ういのだ。痛まない内面で痛んだ他者を見下ろして自嘲や自分を卑下することは我々をとことん酔わせてくれるだろう。見られることへのスマートさに。



自分の荒みをスタイルにすることで格好はつくだろう。だが誰にも理解されない不幸を招くことを誓約しているようなものだ。言葉はどこまでも爛れた退廃を美味のロジックに変換してくれるだろう。だが一人で死ぬ時に本当にそれで耐えられるだろうか。乖離した自分は訂正しようがなく、嘘を吐き続ける。



そういう時代に生きている。僕はこの風景を見ている。この風景を通過する。新しいところへ絶えず進み続ける。そして覚悟と決意を固めていく。愚直だと笑って欲しい。そういう風にしか生きられないから。




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music : Cliff Martinez - Don't Blow It



Search for light blue of the Dr. White

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There is not Dr. White in his house.
Because cold wintry wind blew, he goes out.

Dr. White is careful with a mailbox.
Parent and child of the squirrel stay remain there.

A father of the squirrels is busy.
Because it is the work of the daddy to look for a nut.



まっしろ博士はおうちにいません。
こがらしふいて お出かけ中。

まっしろ博士のゆうびんポストは
リスの親子がおるすばん。

リスのおとうさん
木の実さがしていそがしい。




There is one piece of photograph in the room of Dr. White.
A girl biting a lemon appears in it.

A big darkness.
Small bucket and snowman.

While roll over and over between there,
I am lost, make a night journey.


まっしろ博士のおへやには
レモンをかじる女の子の写真が一枚。

大きなまっくらやみと
小さなバケツ 雪だるま。

そのまんなかで ぼく
ころころ迷子の よみちゆく。



Dr. White is a teacher drawing a picture.
The moon dances in the page of the encyclopedia.
There is not all the light blue world.


まっしろ博士は おえかき先生です。
百科事典のページ お月さまはダンスします。
みずいろの世界は みんないません。




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Dr. White is going out.
He plays truant from searching for light blue today.
And he surely flies in that sky.



まっしろ博士はお出かけ中です。
みずいろ探し きょうもさぼって
あのそら きっと とんでいます。




Many boys are crazy about magic in the room.
Girls are crazy about the making of magic.

Birthday card that doesn't reach.
Dress of the hand-me-downs that are the color of the acorn.

By a corner of talking people,
I hold a kompeitoh carefully.



おおぜいの男の子たち おへやの魔法に夢中です。
女の子たち 魔法づくりに夢中です。

とどかないバースデーカード。
どんぐりの色をしたお下がりのドレス。

おしゃべりの すみっこで
あたし こんぺいとうを だっこする。



There is not Dr. White in his house.
Parent and child of the squirrel moved.
There is Dr. White with a light blue parasol somewhere.

Nobody knows,
 the search for light blue.



まっしろ博士は おうちにいません。
リスの親子は ひっこして
まっしろ博士はみずいろのパラソルで お出かけ中。

みずいろさがしは
 だれもしりません。





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music : Seri - frotterge

動画をアップロードしました。#6

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最近知り合った若い美人女性に「Shopのお兄さんみたい」と言われて意識しまくってるHemakovichです。

またYouTubeに動画を2つアップロードしました。
今回は全く同じ動画です。カットも音楽もほぼ同じ。
ただ画質や色合い、エフェクト処理が異なります。
今回の作品はこれまでにストリーミングで公開したことは全くありません。
ただ例のごとく、僕の他のビデオクリップ作品にソースを頻繁に使いまわしています。




ご面倒でなければYouTubeの広い画面でご鑑賞下さい。
こちらをクリック




こちらをクリック


お願い:YouTubeでご鑑賞される場合はスクリーン下部に「480p」とか「360p」というボタンがありますが、PCで通常のブロードバンド(ADSLなど)でご鑑賞される場合は「480p」にしておいてください。


この動画は1995年~1997年頃に撮影されたもので、パソコンでノンリニア編集を行ったのは2002年です。
S-VHSで撮影したものをDVビデオにフォーマットしています。再生デッキが古かったのでノイズが多く見られます。
PC編集したものとしては3作目のクリップで、Twilight zone を完成させた直後に作ったものです。製作期間も割と早く1週間ぐらいで完成させたように思います。

前回も触れましたが、1997年頃に初めての自主ビデオ映画『カタストロフィ』を作りましたが、このクリップはその作品の一部を抜粋したものです。
だから前回upした catastrophe と同じカットが多く含まれます。ノンリニア編集での製作時期はそれよりも一年ほど早いですが。
このビデオクリップに関しては、いろんな他の作品にシークエンスを抜粋・引用していますが、元々はすべてこのクリップから派生したもので、同じシークエンスを扱ったものの中で最も早く製作した作品です。

今回YouTubeにupするにあたって、最近再編集を行ない明るさやコントラスト、各種エフェクトを施しました。それが Brazil です。
ただ再編集を行っていない2002年に作成した状態のままの方と、果たしてどちらが見る側にとってベターであるか迷いました。だから再編集を行ったものと、2002年に編集した状態のままのものと、両方をupしたわけです。後者の再編集なしのクリップが Brazil 2nd ver です。

主な再編集の要点は明るさ・コントラストの画質です。
2002年に製作した段階では僕のPCディスプレイはブラウン管(CRT)でした。その翌々年ぐらいに液晶パネルをモニターに使うようになったわけですが、ブラウン管と液晶パネルの画質の違いは動画編集においても画質の差に影響を蒙るわけです。
具体的には、ブラウン管で編集したものを液晶パネルで見ると映像が薄暗くコントラストがぼんやりと見えます。絵のきめ細かさに欠けシャープが甘い。
今回はこの点を再編集で重点的に改変しました。

あともう一つ、今回のクリップでは8ミリフィルムで撮影した映像があるのですが、そこにかなりのエフェクトを加えました。
電車内の場面で8ミリカラーフィルムの映像が出てきますが、これらはフィルムカメラで撮影したものを映写機で投影し、それをビデオカメラで撮影したものです。
ブラウン管画面だと8ミリフィルムの映像は馴染みやすく違和感が少ないのですが、液晶パネルだと色合いが滲み、画像の輪郭が崩れて相性が悪いように感じられます。
だからエフェクトにおいてもシャープを多くかけたり、ノイズを除去するような映像処理を多く使用しました。
ただ、YouTubeにupする段階でDV映像をMPG圧縮するのですが、mpg4にエンコードした際にこれらのエフェクトはあまり目立たなくなりました。


2002年に3度目のノンリニア編集の練習素材としてこれを作った時、僕はそれまでよりも多くの編集ソフトを使用しました。
具体的にはAdobeのソフトを使い始めたわけで、Adobe Photoshop、Adobe Premiere、Adobe After Effectsなど、専門的なヴィジュアルソフトを使い始めました。
特にAfter Effectsは画像の合成には欠かせないソフトで、この作品では主に後半のシークエンスで、男性の顔に多くの文字がスクロールするカットなどで初歩的に使っています。ただしPhotoshop以外のAdobeソフトは全てwindow95時代の頃の旧版でしたが。


このビデオクリップを作る以前は、ただノンリニアでカット編集したものに音楽を載せて雰囲気をつけるという作り方でしたが、この作品は最初からMusic PVのイメージを作る目的で製作しました。
だからコーネリアスの同曲はPVとして作りやすいものとして動画編集より先にサントラを決め、すべて音楽とシンクロするように作りました。

ただ、コンセプチュアルな要素は今回のクリップには全くありません。すべては手持ちの映像で曲のイメージに合致すると主観的に考えたものを選んだに過ぎません。
だからテロップで漢字が現れたりするわけですが、それは多分当時の私がこの曲にオリエンタルな雰囲気を感じ取ったから用いたわけで、あまり深い意味はないです。


何度も申し上げた通り、このビデオクリップは僕のビデオ映画の抜粋ではあるのですが、実際には映画本編で使用しなかったカット、NGカットやロケ撮影の合間に遊びで取ったOFFショットが多く含まれているんですね。
例えば2分53秒辺りからクリップ内の女性がカメラを直視しているカットが現れますが、これらなんかはロケ撮影を終えてから皆で喫茶店に入ったときに店内で気まぐれに彼女を撮影したものなんですね。
だから他のシークエンスとは全く違って笑みがこぼれるリラックスした表情であるわけです。
こういうソースは残しておくと後でいろんな使い道が出来るわけで、実際僕がこのノンリニア練習用ビデオクリップに使ったりしてるわけですが。

僕は実際に本編で使ったものよりも、日常場面に帰するところで撮影したこういう素材を割りと好んだりします。
なぜなら出演してくれる人たちは素人ながらそれなりに一生懸命イメージを凝らして表現をしてくれるわけですが、彼ら自身の印象深い動きや仕草ってのは演技というものをしていない場面で不意に現れたりするように思うからです。
そこらへんが演じ手のプロと素人の違いなのかもしれないですが。
こういういわゆる自主映画なんかに立ち会ってくれる人たちというのはモチベーションが高い人たちが多いわけです。だから彼らは撮影の場面でもいろんな自分の中のものを出してきてくれる。
ただモチベーションの高い人たちがテンションの高い撮影という時間の中にいると、その合間の日常的なひとこまの中でもその余韻が残り続けているわけなんですね。
だから不意にカメラを向けられても大胆な気持ちがカメラに向かってくるというか、そういうものが現れる。

いろいろな種類の映像を人間に関して撮影していると、映像というのはどのような用途であれ、すでに様々な意味でのシークエンスを構成しているんじゃないかと僕は思ったりします。それが例えば運動会のビデオであったとしても。




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Sad love song wearing shade of resignation

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彼の歌を聴きたくなる時は決まって僕の中に諦念が帯びてくる。
自分の心が大きな振幅に振り回されそうになるときほど、僕の中で彼は僕自身を生きるためのより良きイメージだ。
そのイメージを思って、僕は振幅を通過しようとする。
だけど、大抵は彼の歌のように足を掬い取られて、より良きダメージに叩きつけられるんだけれども。


カルチャークラブの "Time" を検索してたら先日発見。

Senri's Tapestry 洋楽訳詞集 Time★Culture Club

かなり秀抜な訳詞。英語詩を書くようになった今だから思うのかも。こういう言い換えが全くあざとく感じない。曲の取り方が変った。



Culture Club - Time (Clock Of The Heart)



ボーイ・ジョージは自分の書いた歌は小学生のラブソングみたいだと言ってたけど、僕は恋愛していない時でも "Time" を聴くと切なくなるのは自分に似た諦念に近いようなことを歌うから。
この訳詞は女性的な目線から割りと大人の言葉で書いてるけど今まで彼の歌をこういう角度で描かれなかったから新鮮。

例えば、

"This could be the best place yet. But you must overcome your fears"



この部分を、

「いい逃げ場所だったでしょう 今度はあなた自身を見つめる番 」



なんて訳され方は今までなかった。
ボーイ・ジョージは常にぬいぐるみ的なマスコットとして消費されてきたから。
この部分は

「僕はこんな気分を味わったことがない
 でも君は自分の悲しみを乗り越えなきゃダメだよ」

みたいに、ナイーヴな男の子っぽい立場から訳されることが多かった。
でも実際にどちらの訳詞でも意味は叶う英語。

それに、

"Touch we touch was the heat too much, I felt I lost you from the start "



「触れ合う感触が あまりに熱すぎたから 
はじめからあなたを失ったって 感じてたわ」



このような露骨に性的な色を滲ませた訳され方は殆ど禁忌だったと思う。ジョージはぬいぐるみだったから。
でもこの部分は誰かが禁忌を破って初めて分かるけど、性的なニュアンスから素朴に吐露された思い以外なにものでもない。

思えばボーイ・ジョージがゲイであることを公言したのはずっと後のことで、サッチャー政権時代はゲイを社会的に拘束する動き(同性愛を称揚する活動はすべて禁止するという、地方自治体法案第28節)が現れてソロになってからのジョージが "No clause28" と歌ったりしてた訳で、ジョージのゲイセクシャリティは自己同一化されなかったしそれを許さない形で彼は大人しく消費されていたのだ。
だから "Time" ってのはジョージの立場からすればかなりギリギリのところで自己表明を薄っすらと伝えていた官能的な哀切だったのかもしれない。彼はゲイを公言した時に正直に告白したのは、

「バイであると嘘を言っていたのは苦しかった。でもゲイだと本当のこと言うのはもっとつらかった」

そういうようなことだった。


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ネイティヴではない僕は幾つものバリアを通してこの歌を聴いていたのだけど、単純に切ないメロディと歌詞が気に入ってたのだけど、ジョージのソロも含めてもこれがフェイバリットソングなのはsexのアイデンティティを越えても普遍的なことを率直に表現してるから好きだった。
それにウェットというか、凄く「濡れてる」感じが好きだった。それは精神的な包容感と拒絶というせめぎ合いの意味でもあるし、ジョージのルックスに通ずるなにかマテリアルな幻惑でもあり、彼ののボーカルスタイルでもある。
"Sink me in a river of tears"(涙の川に沈む)という表現は言葉以上の響きをとても感じる。ジョージのマイノリティな立場も含む哀切感を僕が直感的に感じ取っていたとは思わないけど。

ボーイ・ジョージがゲイ公言のきっかけとなった "Crying game" なんかは同名映画の内容もあって、かなり彼の立場に沿った受け取り方を我々はしていたと思うけれど、これはオールディーズのカバー。
1998年にカルチャークラブがTV番組で "Time" を再演しているのを見て僕は金縛りに近いほどの感動を強く受けた。







ジョージは相変わらず綺麗だったしアレンジが変ったわけでもない。
でも歌ってるジョージの表情がとても印象的だったのは、彼がこの曲を初めて歌った頃のような自己存在の縛りから解き放たれて自分の歌を自分らしく歌ってるような感じを受けたから。
以前よりもずっとハスキーなトーンで渋みがあって、ゆったり落ち着いて歌ってるんだけど、ずいぶん聞き手に幾分挑発的な衝動感を伴って "Time" が歌われてるような気がした。

最初に戻って、僕がwebで見つけた訳詞を秀抜だと思ったのは、まさにそういう自己存在の縛りから解き放たれたジョージが彼自身の人生を彼の言葉で歌っているようなイメージからの眼差しを感じたからだ。直情的な投げ返しを愛する者にしてしまう、ウェットに流される官能的歓びが強ければそれほど相手を喪失してしまう予感を抱いて自分になりきれないまま別け隔てられてしまう、そういう恋に対する憤りに似た哀切感を上手く説明している気がした。

それはボーイ・ジョージがゲイであることからくる阻害や哀しみから歌われるとは必ずしも思わない。
だってそれはゲイという括りから生まれる他者的・社会的な阻害を歌ってるんじゃないと思う。
自分自身のどうしようもない感情によって自分が阻害された哀しみを歌っているのだと思うから。

そしてギリギリの立場から描かれた表現と言うのはいつも縛りを持っているけど、だからこそ普遍的な色合いを帯びて多くの感動で迎えられることは少なくないと思う。

普遍的な色合いを持つということは常に開かれた扉から迎えられるとは思わない。

人は自分が日頃感じているほど自分が自由ではない。
僕は恋愛の局面でそれを多く感じる。

あり余る自由の中の選択によって、僕らは寂しさを知って、寂しさに裏打ちされた孤独の不自由を憶える。
僕らは物事を決定していくことで何かを生むけれども、
同時進行で確実に何かを失っていく顛末を幾度も見てきている筈なのだ。


"もっと沢山のことが出来たはずなのに 私達の「時」には 何もありはしない"




こういう諦念が自分でも驚くほど揺るがなくなった時、僕はその諦念への実直な表明に肩を寄せたい気持ちを静かに感じる。



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動画をアップロードしました。#5

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最近Facebookでインドネシア人との国際親善に励んでいるHemakovichです。
また動画をYouTubeにアップロードしたのでお知らせします。
今回は日を置いてUpした動画2作分です。
以前の私のストリーミングサイトをご存知の方なら見て頂いたこともあると思いますし、
私の全動画に頻繁に使い回しているシーンが多く含まれています。

まずはこちら。





ご面倒でなければYouTubeの広い画面でご鑑賞下さい。
こちらをクリック

YouTubeでご鑑賞される場合はスクリーン下部に「480p」とか「360p」というボタンがありますが、PCで通常のブロードバンド(ADSLなど)でご鑑賞される場合は「480p」にしておいてください。


この動画は1995年から1997年の間に撮影したものです。PCでのデジタル編集を行ったのは2002年です。
画質はS-VHSからのものですが、字幕の画面などはPCで直接製作しました。

僕は大学生だった1997年頃に初めての自主制作長編のビデオ映画を作りました(それ以前に8ミリフィルムで長編を作っていますが)。その映画のタイトルが『Catastrophe カタストロフィ』。この動画はそのビデオ映画から抜き出したものであり、映画のタイトルが現れる前の冒頭部分のシーンの一部であり、それを編集したものです。

2000年代初頭にパソコンを買ってノンリニア編集が出来る環境を整えた時、僕はアナログビデオによるかつての自主制作映画を全カット全シーンをデジタル化して新たに一から再編集して、作品のデジタル化を行おうと考えていました。
そのために幾つかのPV風のビデオ作品をノンリニア編集の練習用に製作しました。その幾つかを既にYouTubeで皆さんにお見せした訳です。
幾つかのPVを製作後にようやく自主制作長編の再編集に取り掛かったわけですが、プライベートな諸事情により頓挫して休止していました。
今回Upした動画は頓挫する前に出来上がっていた再編集の一部です。つまりタイトルが現れる部分と後の数分程度まで再編集が仕上がっていたわけです。

YouTubeにUpするにあたって、動画冒頭の外国人の女性のカットは新たに作って付け加えました。
また作品内でナレーションのような音声がありますが、これは僕がポエトリーリーディングしているんですが、再生時間を早くしたりエフェクトを施しました(だから実際の声とは結構違います)。
ナレーションが語られる部分でBGMが流れますが、これは今回付け加えたもので、ピグミー族の声楽です。エコーなどを効かせて音域を広げてあります。

この女の子が走り回ってる映像ですが、僕は今までに作ったPV作品にかなり頻繁に使いまわしています。Perspective of life などがその一例ですね。
この映像は元々Hi8かなにかの8ミリビデオテープで撮影したもので、それを暗闇のTV画面に再生させてS-VHSのカメラで高感度撮影を行ったもので、いわば手動でエフェクトしたものです。
『Catastrophe』を公園でロケ撮影していたとき、たまたまそこで遊んでいて居合わせた女の子を偶然撮影した映像です。
この女の子が走り回って喜んでいるのは生まれて初めて「自分の影」に気づいたからなんですね。走ったり身体をくねらせたりどんな動きをしても自分の影に反映されることを知って喜んでいた、という光景なのです。付き添っていたこの子のお祖母さんがそう教えてくれたのですが。この子も今は中高生ぐらいの女性になっているわけですね。

また列車の車両内みたいなカットの場面に出てくる男性は、以前ご紹介した "For wedding ceremonies" に出てくる男性と同一人物です。大学時代の友人ですが、この人が私の自主制作映画『Catastrophe』の主演なのですね。8ミリフィルムで作った処女長編にも主演で出てもらいました。
また相方の女性も主演であるわけなのですが、この人を撮った映像も Perspective of life を始め、いろんな作品に引用してます。なんていうか、個人的にフォトジェニックなルックスをなさっていたんですね。

なお私がナレーションで使った詩はリチャード・ブローティガンの一篇です。少し改変したかもしれませんがほぼ同じ訳詩を朗読しています。

余談ながら。
この作品はPV風の練習ビデオ作品を4~5作品作り終えた頃に編集しているのですが、単なるカット編集だけでなく、映像やサウンドのエフェクトや、アニメーションっぽい動画製作も出来るようになっていました。当初はVaioのオモチャみたいな編集ソフトで始まっていたんですが、これはAdobeのAfter Effectを使っています。これはかなりの部分で映像表現に飛躍をもたらしました。ただ僕が使っていたのはwindows95ぐらいのバージョンでしたが……。



それで次にご紹介するのがこの動画ですが。




YouTubeで見るにはこちら


ご覧頂ければお分かりになられると思いますが、この動画のソースは先程ご紹介した"catastrophe"です。
ただ、女の子のカット・列車内の男女のカット・タイトルと日本語テロップ・最終カット以外はほぼ全て今週私が新たに作成した動画です。

この作品は以前私の動画サイトでストリーミング配信させていたものを基にしています。ただし今回のYouTubeへのUpのためにほとんどバラバラに再編集し直しました。先程述べた映像カットと一番最初のBGMの音だけがストリーミング配信していた頃の構成部分です。

先程ご紹介した動画は『Catastrophe』という映画の一部分という意味での作品であったわけですが、今回の動画は"Catastrophe"(破滅)という語彙から膨らませた私の感性のイメージをそれなりに忠実に具現化したという意味での作品です。

私のツイッター友達であるashさんが、あるときこのような短文をツイートされたのですね。

「世界の破滅、そろそろかな」
「そうかもしれないわね」
「それまでに、裏庭の壊れたテレビ、燃えないゴミに出しとかなきゃな」
「そうね。それより私、破滅のとき、何着ようかしら」
「この前、法事に着ていったドレス、あれでいいじゃないか」
「いやだ辛気くさい」



これが今回作品をリライトする発端になったわけです。
このashさんの短文を英訳して映像化した部分が、この動画の冒頭部分であるわけです。ただ「燃えないゴミ」という部分が外国のゴミ事情も含めて英訳し切れなかったりして、多少私なりにアレンジして改変しています。

この「破滅を向える会話」に添って散りばめたスチールカットは、ほぼ私の直感的な感覚に沿って連ねています。

私たち人類総体としては破滅を迎えたことが未だに無いわけですが、個々の民族・個々の集団としての破滅というのは繰り返し迎えられてきた訳ですね。例えばネイティヴ・アメリカンの部族の全滅とか1944年のサイパンにおけるバンザイクリフとかね。
そういう破滅の経験というのは語られない。なぜなら破滅した人たちは破滅ゆえに何も記憶を残せなかったから。ただし、破滅した人間たちへの生きてる私たちのイメージの想起が破滅を間接的に語り得るかもしれない。
そういうようなことを池澤夏樹氏が『楽しい終末』って本で書いてたわけです。
だから最初は1945年の沖縄や1937年の南京だとかそういうハードなスチールをグーグル検索で探していたわけです。ですが、私の作品は歴史的な事柄を主題にしているわけではなく、破滅という語彙から発生する私的なイメージを主体にしているわけなんですよね。
ですから、ソンミ村とか人民寺院の写真も出てきますけど、ボニー&クライドだとか性交写真も挿入しました。特にセックスというのは僕の中で破滅と近いところで現れる付帯的な行動だという感じがするんですね、個人的に。

女の子と列車の男女のシークエンスで使われている音楽は、某国の現大統領を称える歌を使用しています。これは実際に動画サイト等で流されたものであり、某国でも偶像崇拝に当たると批判された歌です。いろんなバージョンがあるみたいなんですが、これを学校で子供たちに授業で歌わせたことが問題になったようです。
これは私が以前にYouTubeでダウンロードしたものをエフェクト処理したノイズ音と合成させて作ったサウンドです。
以前、某大統領を皮肉る詩を書いた時にブログにも載せました。

今回これを再使用したことについては政治的な意味合いは全くありません。
ただ、私の個人的な感性が「破滅」というイメージと符合しただけに過ぎません。それはタイトルの中に"Timeline"という言葉を用いた理由と同じ程度の符号です。
某大統領に関する歌と共に出てくる英語テロップも彼とは直接的に全く無関係のもので、これは私がツイッターを批判した隠喩的言葉の断片に過ぎません。
ですが私のイメージの中では互いに無関係なこれらが「破滅」という連想の連なりの中で互いに符合し合って関係してくるものなのです。

一言で言えば、私にとって私の存在を何らかの予感で脅かす「空気」なんですね。こういうイメージってのは。


最後の方に出てくる核爆発っぽい映像ってのはオチのつもりではないんだけれども、どうしてもこれを配置したくなってしまったんですね。
破滅のイメージのオチではなく、作品の流れのオチみたいな感じというかな。
破滅ってのは頭の中ではいろんなケース・バイ・ケースがあって、予想される多様な破滅を知ってはいるんだけど、実際に起承転結にしたら結びの一番は核ってことに見せ場として決まっちゃう。というか、破滅の終局的イメージってなかなかこういうショート・ムービーで描くことには想像力が足りないんですよね。

破滅ってのは結びで決まるんじゃなくて、初めから破滅を描いていかないといけないと思うんですよね。破滅の過程ってのは既に始まってるから破滅であって、破滅は劇的でもなく、劇的な何かの後も衰えていくのが破滅の怖さだと思うんですね。

僕なんかは全面核戦争みたいなイメージが強烈に焼き付けられて、なかなかそういう曖昧だけど確実な終わりをイメージし難いのかもしれません。

最後にピグミーの歌を持ってきたわけだけど、これが僕の中で作品における唯一の自己主張であるような気がします。

本当は核爆発カットとともに爆発音を挿入してたんですけど、さすがにベタベタなので差し替えました。
このバージョンのピグミーの声楽はかなり有名なようなのですね。ヴィム・ヴェンダースの映画『夢の涯てまでも』にも出てきますし、坂本龍一の『Tainai Kaiki』にも使われてます。



今回Upした二つの動画は自分の中ではPV的な感じで作ったんだけど、全くPVではないんですよね。
こういう類の表現的な小品はなかなか思いついて作れるものではないんですね、自分としては。
長編映画の一部分だからこそ作れたものであって。
でもこういうのも作れるとなかなか面白い。

またこういうのが作れたらなと思っていますが、なかなか難しそうです。




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