Hemakovichの半永久的平坦な戦場

パニック不全神経症者が落ちてゆくカムフラージュ

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Julia

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僕の住んでるところは保守的で閉鎖的な空気の強い田舎だ。

だから都会に住んでる人にはちょっと感覚が分かってもらえないかもしれないが、
「精神障害者」であるということをカミングアウトすることは非常に困難な土地なのである。



大学病院の精神科病棟に入院すると必ず以下の規則を厳守させられる。

「入院している間は一緒に入院している患者の住所・連絡先は尋ねてはならない」
「入院してる時は親しくしても退院したらお互い赤の他人。絶対に退院後に連絡しあったり会ってはならない」

ただ、精神科の病棟、特に大学病院の精神科というのは閉鎖病棟が多いわけで、
閉鎖病棟というのは「閉じ込められている」わけだから、他の診療科の病棟とは全く違った独特の空気が生まれる。

これを言葉で表現するのは難しいが、敢えて極言して言い表すならば、
閉鎖病棟の中で「小さな仮想社会」が出現する、ということだろうか。

閉じ込められている病棟の中で、
医者や看護師といった人間たちは「為政者」のようなもので、
患者というのは「囚人」とか「民衆」のようなもので、
出入り不自由な環境の中で必然的にこのような「役割」とか「階層」というのが仮想的に生まれ、そういう作られた「偽の現実」に沿って人々が行動して、その中で悲喜こもごもが起こる。
(「スタンフォード実験」というのをネットで調べてもらえば僕の言いたいことが伝わるかもしれない)。

退院して外に出れば本当の現実があるわけで、あくまで作られた環境が仕向ける仮想的な社会に過ぎない。

でも閉じられた環境の中だからこそ、人はその世界を実に実直に、切実に、その中で起こった出来事を一生忘れられないものとして受けとめることとして、出会う。





8年前に、とある大学病院の精神化閉鎖病棟に入院していた時、仲良くなった患者さんの一人にある女性がいた。
彼女は音大でピアノを専攻していたから、病棟のキーボードでよく僕の好きなドビュッシーを弾いてくれた。
閉鎖病棟で唯一金髪で、いつも派手な装いで病棟の中で目立っていたが、境界例人格障害を患う繊細な女性だった。
夜中に眠れない僕は病棟のデイルームで日記をよく書いていたが、同じく眠れない彼女は僕の隣で座ってただ黙ってそこにいた。
喫煙室で一緒に煙草を吸いながら、冗談を言って笑いあっていたけれど、笑っているのに泣いてるような目をしてるような、そういう儚い眼差しを見せる人だった。


僕のことを好きだったんじゃないかと思っていたけど、自惚れだったかも知れない。
でも「あなたの主治医はハンサムだけど、あの人よりもあなたの方が優しいと思う」と言ってくれたことは覚えている。


彼女が僕より先に退院した日のこと。

閉鎖病棟の施錠ドアの手前で彼女と仲の良かった患者たちが、みんなで彼女を見送った。

退院したら、それはもう「一生のお別れ」を意味する。

彼女は僕に病棟を出る前に見送ってとも特に言わなかったし、僕も見送るとは言っていなかった。
そういうのは絶対に寂しいに決まってるから、そういう約束は敢えてしないものなのだ。
だが、どういう気まぐれな気持ちが働いたのか、僕は彼女を見送りに施錠ドアのところに向ったのだ。

「元気でね」と、僕。
「ありがとうね」と、彼女。彼女は手を差し出して僕に握手しようとした。

握手した瞬間、彼女が手のひらに秘かにメモを隠し持っていることが分かったので、僕は彼女の手のひらを深く握り、看護師らに不自然を悟られないようにしながら、注意深くメモを受け取り、何気なく握手を終えるようにさっと手を引いた。

この一瞬に賭けた「秘密」を終えると彼女は僕を再び見ることはなく、開かれた施錠ドアを通り過ぎて、背中を向けたまま再び閉まるドアの向こう側へ、永遠に行ってしまった。


病棟のトイレの個室に入って僕はもらったばかりの四つ折のメモを開いた。

携帯の電話番号。

それと、

「一緒にいつか飲もうね」。







村上春樹が『1Q84』を書いて、ジョージ・オーウェルの『1984年』が最近再び脚光を浴びている。

『1984年』は恋愛の感情すら禁じられた全体社会の話であるわけだが、僕は主人公のウィンストンが恋に落ちる女性と初めて出会うシーンを思い出す。

赤の他人だった二人がすれ違った時、躓いて転んだ女性をウィンストンが助けようとして手を貸すのだが、「ありがとう、同志」と何気なく振舞いながら女はウィンストンの手のひらに紙切れを、見つからないようにそっと握り、渡す。

「あなたを愛してます」。ウィンストンはこの出会いをきっかけに監視の目を潜り抜けながら秘かに密会をして、当局に禁じられたセックスを彼女と繰り返すようになる。


ウィンストンが愛そうとする女性、ジュリアのことを考えるとき、僕は8年前の閉鎖病棟の彼女を思いだすのだ。


ジュリアは故意にウィンストンの前で転ぶ芝居を打って、ウィンストンに思いを伝えた。

だが、8年前のあの人は、退院の時に別れの見送りの約束もないまま、僕が彼女を閉鎖病棟の出入口に見送りにくることを信じて、事前にあのメモを用意しておいたのだろうか。

彼女は僕が見送りに来ようとも来るまいとも、どっちの「運命」であろうとも構わないつもりで、あのメモを忍ばせて僕が現れるかどうか、賭けたのだろうか。

僕が彼女の見送りを「寂しい」からやめていたら、あのメモは彼女一人だけの中で処分される顛末になる紙切れだった。
だがそんな運命上で、他者から絶対的な咎めを掻い潜り抜けて届けられようとした、秘かな「意思」のこもったメモだった。

僕にとって、書き綴られた電話番号の数字があれほど意味を持った「相手への言葉」となるという経験は、あれが最初で最後なのかもしれない。






まだ読んでいない村上春樹の『1Q84』だが、僕は大好きなオーウェルの代表作のタイトルをもじられるところに、独創性の怠惰を感じてあまりいい気がしないし、オーウェルが命を縮める覚悟で世界への永遠の警告を込めて残した『1984年』を、つまみ食い程度に美味しく引用拝借するような半端さを憶えるから、正直「んもうっ、ばっかじゃね~の~」と言いたい。

村上氏は、彼が常にレイモンド・カーヴァーやカポーティを敬愛するほどにはオーウェルにリスペクトしているわけでは絶対にない。だって、オーウェルを敬愛する僕にしてみれば、オーウェルは村上氏の趣味であるわけがないはずだから、そう分かるんだもん(オーウェルは「かっこ悪い」作家だから)。



『1Q84』の喧騒はどうでもよくて、僕は唐突に、8年前の、僕の出会った「ジュリア」を思い出した、昨日の午後。




僕は「ジュリア」の携帯に、ついに今日に至るまで8年間、電話していない。


だから、彼女が、いまどこの世界で生きているか、知る由もない。






僕が電話しなかったことについて、どのような理由を書いても嘘の羅列になるような気がするが、

心を病んでいた人間を、心を病んだ人間が、
「小さな仮想社会」での劇的な出来事に向って感情の向うままに、
「ただ向う」わけには、いかないから。

だって、
つまみ食い程度に美味しく甘受するような半端さで、本当の現実を生きられるわけがないじゃないか。



それが閉鎖病棟で、「閉じ込められた偽の現実」で出会った二人の生きる道。








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