Hemakovichの半永久的平坦な戦場

パニック不全神経症者が落ちてゆくカムフラージュ

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Desolation low

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vich20040714



デイケアに通う日々が続く。


肉体が疲労困憊している。僕の体は周期的な行動をするということを再学習している。


Bob Dylan の歌詞に“It takes one to know one.”(人を知るには人がいる)という記述が出てくるが、それをなぞるような日々のように感じる。

いろいろなことを考えて頭が四六時中フル稼働している。あまりにも考えすぎて、考えの断片だらけが廃棄物のように積もり、ドーパミンの流れる経路が塞がれてしまって発狂して死んでしまうんじゃないかと思うぐらい、考えている。



精神科医だとか、ソーシャルワーカーだとか、看護師なんかが権威的に振舞うとき、人間の最も弱い部分で苦しむ身の上に鞭打たれているような気分がして、彼らが一様に悪魔のような搾取者に思えるときがある。

「お前が神の息子なら石をパンに変えてみろ」とイエスを脅迫したような悪魔を連想する。鬱病だとか統合失調症という病気は、「なるほど、人間がパンのみで生きられるわけもないんだな」というカンジで病みながら、それなのに石ころだらけの荒涼とした場所で必死にパンを求めては探し続けるような認識を身体の苦痛によって知らしめさせられているような現実に出くわす思いがする。




「この搾取者めが!」とルサンチマンの拳を突き上げながら、誰かに衝突していきたいような不条理な怒りに駆られて、それにも疲れて、やがて悲しくなって夕方を過ごしていたりする。


だけど、自分よりも長く病みながら、静かにゆっくり何事もなかったかのように今までも生きてきてこれからも生きていくような、そういう隣人の姿を見ると、自分がまだ何も生きることから学んでいないような事実を思い知らされる気がする。





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狂った生き物

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vich20040712




泣いている赤ん坊は百人はいただろう。いつまでも、いつまでも泣いていた。生きるということ。そして死ぬということ。誰ひとりそこから逃れることはできない。私たちはこの世界にたった一人でやってきて、たった一人で去っていくのである。そのほとんどが寂しく、怯えて、人生の大半を無駄に送るのだ。……いまこうして生きていても、死はかならずやってくる。生まれたばかりのこの子供らだが、やがて憎しみをおぼえ、痴呆になったり、ノイローゼになったり、馬鹿になったり、弱虫になったり、人殺しになったりする。生きたって死んだって、どのみち無ではないか。……そんなことを思ったら、私はたとえようもない悲しみに襲われた。




C・Bukowski “Animal Crackers in My Soup”




愛なき福祉世界、そんな No Expectations

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今日からデイケアへの正式な通所が始まる。支援センターも平行して通い始めている。



いろいろと不満があってもやむをえないのである。これが唯一、お国が定めた精神障害者支援プログラムなのだから。少々文句があっても通い続けるほかない。この国には愛がない。愛がないから福祉があって、その福祉は社会の資本循環活動から事実として逸脱してしまった事に関し、いかなる事情にも鑑みず「このニートふぜいが!」と民百姓から石持て追われた子羊のために「ニート対策」を施してくれる。「ニート対策」の一環で「厚生施設」のようなコンクリートの箱もの利権をぶち建てて、老獪な高級役人の天下り先もしっかりGETされて一石二鳥、かくして来るべき機会・希望格差固定の階層社会に備えて、年金払えど貰えない大勢のブルーカラーの不満の掃き溜め的に、無産者階級は「ニートふぜいが!」のお役所プロパガンダによって「厚生施設」とういう名のゲットーに押し込められるんですね。いやあ、実にナイスな構造改革のディストピア青写真です。


ニートでもなんでもどうだっていいのですが、鬱病で動かなくなると、離人症が始まって、対人恐怖がますます激しくなります。そうなると、わたしが残りの半生で出会う予定の女性との交際にも著しく支障をきたすわけです。すなわち、わたしの残りの半生に遭遇するはずのセックスの回数だって必然的に下方修正を余儀なくされます。そういうのはとっても恐ろしい! 老化現象も早まりそうだし!

ですので、れっつ!!福祉w もはや、愛なき福祉は福祉サービスとは思いません、デイケアなんざ、病人が病気を治すために「通勤」する「病人のための職場」的に位置付けてがんばって皆勤するんです!



例の美人PSWはなんだかわたしへの態度がそっけなくなってしまった。

「オナニー、好きですか?」と質問したからではない。

おそらく、この前ここへ来た時に「若い女性のワーカーは緊張して苦手なんです」と年配のPSWに漏らした内容が、申し送りで彼女に伝わったのだろう。


ちょっと申し訳ないことをしたな・・・・と全く不必要な気遣いを働かせたわたしは、なんとなくこっちから話し掛けてみたのである。


「水島さん(美人PSWのこと、仮名)、どーでもいいんだけど・・・・・」

「なんですか?」

「・・・・・・水島さんはおいくつなんですか?」

「(微笑して)・・・・・あまりプライベートなことにはお答えできないんだけど。。。。」

「・・・・・・。」

「・・・・どうしました?」

「おいおい、ケチケチすんなよ、年ぐらい聞いてもいいじゃん、オネエちゃんよお! そんな上等なモンでもあるめえに、おらおら!!」と、おもむろにわたしは彼女のその真紅の上の唇にわたしの唇を押し当てて塞ぎ、舌を絡ませて奪い、いきなりソファーに押し倒してそのたわわに実りを熟したおっぱいをわしづかみにして揉みしだき、突如そばにあった電気コードで彼女を亀甲縛りに縛り上げ・・・・というカンジの団鬼六的シチュエーションはもちろん大嘘であり、そこのところを念を押して強調しておきたいのだが、結果、わたしは彼女のつれない答えに沈黙した。

いまこうやって暇つぶしに、ものの約3分で創作してみた三文・団鬼六的または若松孝二的(どっちでもいいんですが)シチュエーションとはむしろ逆、つうか、わたしは、その・・・・・・・あまりに、その美人の、教科書通りのソーシャルワーカーの模範たる官僚主義的隔たりを感じる冷ややかな応答に、想定内だったとはいえ、激しくショックを受け、なおかつ心の動揺を悟られないようにわたしは半分壊れたような卑屈な笑みを浮かべるのに精一杯であった、というのが真実だった・・・・・。



ただ、たわむれに彼女との線引きのない人間同士の関係で、些細な会話を愉しみ場を和ませたかったのだが(その必要性は全く求められてなかったのだが)、その機会を却下された後、わたしの気分はNASAに衛星をぶつけられた彗星のごとく粉砕され、奈落の底に、落ちた。

ストーンズの名曲“No Expectations”に歌われる、「真珠をもらい損ねた豚」にでもなったような無意味な劣等感を覚えた・・・・。

相手の「指導員」という属性と、「美人」という天性のなせるものである。


笑顔のフレッシュな美人の彼女は、恐らくPSWとしてはまだ新米のペーペーの部類の方なのであろう。

「ワーカーはクライエントに自身のプライベートな情報を与えない」という鉄則に関して味も色気もなく模範どおりの応答を切り返すぐらいなのだから。

こういう場合、年を聞かれた程度のことならば、せめて、

「さあーて、何歳でしょう? 何歳に見える?」

などと、あざとく挑発的に目を見つめて煙に巻いてみる、とか、

「心だけはピチピチの18歳ですよお☆」

などと、腰砕けのさむ~い自虐オチで終わらせてくれるとか、

わたしはそういう切り替えし方しか望んでいないのであり、真面目に年齢を聞きたいのではない。ボケをかますとか、そういう普通のやり取りがしたいだけなのである。せめてそういう交わし方してくれるのが、人情ってやつじゃない? わかってくれよ! オネエちゃん!!


んでもって、なにがむかつくって、彼女、自分の年齢を教えないくせに、彼女はわたしのプライベートの情報をしっかり熟知している指導員の立場をさりげなく誇示する(つもりはないんでしょうが。。。)かのように、その後でぬけぬけと「西條さん(わたしのこと、仮名)は確か30歳ですよね?」などと、かように余計なオチに持っていこうとしたことである。

福祉の世界で援助者が被援助者の情報を知らないと仕事が出来ないわけだが、被援助者は援助者の私的事柄には一切踏み込めない。これは到って当たり前に行使される関係の持ち方であるのだが、わたしは精神保健福祉士の学校に行ってる頃からいつもこのソーシャルワーク的常識によって、自然に営まれるべき人間関係に無用の権力装置を発生させるような構造の不自然を感じていた。不自然つうか、不公平じゃないか? こっちはそっちの住所は無論のこと年齢すら知らないのに、そっちはこっちの住所・年齢・電話番号は言うまでもなく休日の過ごし方から恋人の有無まで知りうることもできるわけで、たとえば「春になると持病の尿漏れがひどくなってパンツの換えが一日三枚は必要なのよ・・・涙」みたいな友達はおろかカレシ・カノジョにすらのどちんこが裂けても告げづらいこっぱずかしい極秘事項すら「援助-被援助」の力作用から聞き出すことだって可能なのである。こういう人間関係の不公平の不自然さはソーシャルワークそれ自体が生み出したものではなく、それ以前の精神分析だとかカウンセリングの方法論をそっくりそのまま適用したのであろう。誰なんだ、こういう医学モデルパターナリズムべったりの支配的関係を使って人の心をなんとかしてやろうなどと、こざかしくもおこがましい発想を生み出した患者との対人間性の格闘に臆病な心理療法者の始祖はあ??? フロイトか? ユングか? カール・ロジャーズかああ????


いつもこの辺でボルテージが高まってしまうのですが。。。。

わたしには向いてなかったんですね、こういうお仕事。。。(とほほ。。。プチ涙



・・・・ということで、今日はデイケアの他のメンバーさん(デイケア利用の患者さんの呼称)と丸一日、トランプで「大富豪」やってました。

「大富豪」って持ち札を決意して切るときの、あの瞬間が結構気分いいものですね。サンケイに市場で殴り込みをかけたホリエモンみたいな、そのプチ気分を楽しく安全に味わえる遊びですよね。大学時代、よくやりました。「大貧民」は座る位置が部屋の外、なんてローカルルール作って。あれで賭けをやって、わたしは下宿のアイロンを友達にくれてやってしまったこともありました。。。。。



それからなんだか事の成り行きで、県内の精神障害者社会復帰施設別対抗の卓球大会のメンバーに選ばれてしまいました。

メンツが一人足りない、ということで、いきなりそれだけでもって「やってくれ!!!」と初対面の年配のメンバーさんに頼まれて、速攻「わかりました!!!」と即答してしまいました。




明日は七夕ですね。


支援センターでは笹の葉に短冊をつるして玄関に飾っています。

むかし、クリスマスの頃に大学病院に入院したときは、病院の玄関にでっかいクリスマスツリー飾ってました。夜になって誰もいなくなった広い外来のスペースでひとり長椅子に座って、何十分も飽きずにツリーを眺めていたある年のイヴのことを思い出していました。



・・・・んで、短冊なんですが、美人PSWがなにか2枚ほど書いてくれというんで、しっかり書いてきましたよ!!!


現実的に可能な確率の高い願い事と低い願い事、おもいっきし両極端に書いて吊るしてきました。




短冊その1

「阪神・藤本の今シーズンの打率が3割達成しますように!!!!」


(もうすぐ子供が生まれるそうですね。。。。)



短冊その2

「いつか映画監督で大成して自作がアカデミー外国語映画賞にノミネートされたら、訪米の条件として『オレがてめえらからオスカーをもらってやる見返りは唯一つ、ユマ・サーマンにビバリーヒルズで一日付き合わせることだけだな』とハリウッドのエージェントに注文できるようなビッグなナイスガイになれますように!!!!!」


(タランティーノはキル・ビルの来日プロモーションと引き換えに大好きな梶芽衣子との対面が叶って、対談中30分間ずっと梶芽衣子の手を握っていたそうですね。。。。やらしいタラ。。。。ヲタなタラ。。。。)







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Uma Thurman


くそったれ!低気圧!! または 「ミクシィやめちゃいました」

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梅雨どきだと言うのに真夏並みの猛暑が続いて、スコールでも降ってくれよてなカンジで水不足が続いているここ最近だったのですが、先週末からまるで溜まりまくった精子みたいな勢いで大雨が昼夜を問わず続いて、すっかりわたしの神経は参ってしまいました。雨の日は基本的に鬱にはよくないみたいなんですが、連日の大雨にはかなりやられてしまって、おとといあたりから12時間以上寝込む日が続きました。


ベッドに塞ぎこみながらマイナス思考の自転を繰り返していたんですが、その勢いでついついミクシィを脱会しちゃったんですね。

以前からソーシャルネットワーキングには否定的な考え方だったし、それについては別のブログでいろいろといちゃもんつけたりしてたんですが。



精神科デイケアに行ったことで、なんだかいろいろ思うところが噴出した感じです。

つくづく思ったのが、「福祉って愛がないんだなあ」てなことなんです。PSW(精神科ソーシャルワーカー)はとっても親切で丁寧に接してくれるんですけど、PSWとクライエント(患者のことっすね)の間には供給者と需要者の線引きがはっきりと行われているんですね。そうじゃないと障害者を支援したり出来ないんですけど、線引きを感じちゃうと線引きじゃないものを求めたくなるんです。福祉って言うのは線引きの仕切り内で行われる博愛的利害行為だと思うんですが、それは愛じゃなくて、愛のある世界では福祉は必要じゃなくって、愛のない世界だから福祉の概念が引き出される必要があるんですよね。

もっとも、福祉に対してこういう歪んだ気持ちを抱いてしまうのは、わたしがPSWの養成学校に在籍したことがあって、なおかつ精神科病棟で暮らした経験もあって、わたしがひときわ自尊感情が強いためだと思います。


その自尊感情をこっぱみじんに砕かれたのがデイケア体験一日目だったような気がするのです。

比喩が適切かどうか分りませんが、デイケアってところは、精神科だろうが特養だろうがどこも同じなのかもしれませんが、「ヘルパーに促されてお遊戯のレクリエーションをやる気を伴わずにこなそうとする」ような感慨しか思いつかないプログラムばっかりなんです。具体的に言えば、手芸・園芸・ソフトバレー・カラオケ・クロスワードパズル・・・・etc。別にそういうのはどうでもいいんですが、そういうプログラムをデイケア利用者に促そうとする指導員てのは、自分が年寄りになって認知症とか患って特養老人ホームに家族に入れられたりしたときに、かつての自分と同じような若い指導員に同じような「お遊戯」を促される、そういう可能性としての未来を考えたことがあるんでしょうか。別に考えていなくてもいいんですが、どういうわけだかこういう「お遊戯」プログラムっての、自分が「カタワ」なんだっていう欠損感情やら非健常者の被ラベリング意識を推し進める働きが作用するんですね。

なんだか書きながらボルテージが高まって困るんですが。こんなこと書くからといってわたしが現状の精神保健福祉に批判的かといえば、全然そうではなく、ないよりはマシ、と思っています。。。。


デイケアによって勝手に自尊感情を粉砕した病的なわたしが辿りついた帰結と言うのが、ミクシィをやめる、ということだったってのが、しょぼすぎるんですが。。。。


ネット環境ってのはリアルの自分とはフレームのぶれた自分に関する様々な虚飾がついてまわるものです。そういう前提は理解できるんですが。ネット上に掲示した、自分のWEBサイトにアップした詩とか映像なんかの自分の創作物によって自分に関する虚飾が付随するのは当然のことだと思います。でも自分のパーソナリティに積極的に虚飾を装飾していくナルチシズムには手を下したくないと思うんです。ミクシィというのはどこまでいっても結局は自分が大好きな人間による際限のないプロフィール披瀝行為であって、ミクシィのコミュニティというのは「ゆるい2ちゃんねるの板」ともいうべきようなもので、ある一定の同意に基づかない偶発的対人衝突をはっきりと拒絶した環境に過ぎないわけなんですよね。他人がそれをやるのはまったくわたしに快も不快もないんですが。デイケアに行ってわたしの自尊感情が木っ端微塵に炸裂したときにわたしの頭に浮かんだことが、「ネットじゃインテリげんちゃんな詩なんか書いてるくせにリアルな俺ってば、ホント、イケてないよなあ泣」みたいなことだったわけです。創作物から派生する自分に関する虚飾はやむをえませんが、ネット上の自分のパーソナリティ自体とリアルの自分の実像が乖離しすぎるってことには耐えられません。かえってそこから不必要に「リアルの不毛感」をダメ出しする精神的不健康を生むような気がしちゃうんです。そんなことをあれこれベッドで鬱にのた打ち回りながら考えた結果がミクシィ脱会につながったわけですが。。。。。なんとも相変わらず情緒突出・結果極端のダメなわたしなんですね。



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先ほどの福祉における供給者と需要者の線引きの人間関係の話題なんですが。。。。 わたしの今のところの担当みたいなPSWが若い女性で、それでまた結構美人なんですね。そういう彼女の属性もあってか、なおさら「あたしはPSW、あなたはあたしのクライエント」みたいに線引きされた人間関係がわたしにはウザい権力装置のように感じられちゃうんです。

だからそのウザさを解消して、楽しくデイケアに通い、精神保健福祉の社会資源に対する賢いコンシューマー(購買者)でありうるためにも、少しでも愛のあるコミュニケイトをPSWの彼女との間に樹立しなければならない、などと妄想していました。愛のあるコミュニケイトを引き出すには、相手が女性で、かつ美人ある場合、方法としては「相手を見下す形で怒らせる」というリアクションが手っ取り早いんですね(相手が男性の場合、これをやると、愛が生まれるどころか刺されちゃったりする危険が生じますが)。わたしのなんちゃって人生の経験上、人にもよりますが、美人の女性の場合、相手の中で異性としての自分のウェイトを占めようとするとき、相手を「怒らせる」ことがとっかかりの糸口、始めの一歩としては有効だったりします。なぜなら美人にとって媚びる異性は元々「風景」に過ぎないわけですから、媚びないことを特異かつ最大限にやって見せるには「怒らせる」ことが対価が大きく得られやすいわけです(まあでもしくじりだらけのわたしの戯言なので、ここ、流してやってくださいね)。

どうやって怒らせるのがいいかなあ、と暇つぶしに考えて、女友達にメッセで相談したりしてたんです。その結果、わたしと女友達が思いついたのが、


わたしのアイデア:

デイケアに卓球台があるので、PSWの彼女をわたしの得意な卓球に誘って、圧倒的ハイスコアで打ち負かした後、「よわいですね」と爽やかに挑発的笑みを向ける
(しょぼい上に、いかにも男の子的に稚拙でイタイ発想ですね。。。)


女友達のアイデア:

PSWの彼女に一言、「オナニー、好きですか?」と質問してみる
(刺されそうですが。。。。)


念押すまでもなくやるわけないんですけど、こういう妄想ごっこでもやってないと、患者稼業はやってられないわけなんです。



病む者と治癒する者との愛のない線引きの関係について、さらに妄想の熟考を進めてみたんですが、『17歳のカルテ』って映画はこの線引きをぶち壊そうとする病む者の試みを見事に描いた作品ですよね。病む者と治癒する者の線引き、あるいは病む者とそれ以上に病む者との線引きをぶち壊す、さらにはぶち壊されるパラドックスのイタさまでもを網羅した映画です。

ウィノナ・ライダーが演じる主人公の少女は境界例人格障害なんですが、この病気はまさに線引きを破壊しようとするように精神医学や精神科ソーシャルワークの対人間性に関する倫理的妥当性に衝突していくようなトリッキーな症例のように思えるんですよね。ウィノナが自分をバスタブに放り込んだ看護師のウーピー・ゴールドバーグを罵り倒すときの、あのまくし立て方、形相、ああいうのは境界例の患者さんが示す、病気か正常か分らないところでの、ある種天才的に感じうる光景だったりするように見えたりするんですが。ああいうのをやるから境界例の患者さんを不当に忌避する精神科医がいたりするのかな、なんて、わたしは嫌らしい憶測をしてみたりしながら、境界例というトリッキーな病気の存在が精神医学に向かってシリアスな疑問の突きつけがなされているという観測を行うことによって、わたしには精神医学にはまだ救いの余地が残されているかもしれないと希望したりするのです。



人間が人間に対して客観的な批評対象でありうるか。

この永久普遍の命題を最初に論破しようとしたのがミシェル・フーコーの最大の業績であったと思います。

わたしがPSWになり損ねたのは、わたしが病む者であったことに加えて、フーコーをかじってしまった所以かもしれません。


フーコーがゲイであったことは周知の事実ですが、彼はもしかしたら境界例的パーソナリティを持っていたのかもしれません、というのはわたしの妄想の続きでしか有り得ないのですが、フーコーが人間科学にトリッキーな学者でありえたことの仮定的条件の推理としては面白いかもしれません。



ちなみにPSWに対して線引きを施されることに不快を感じながら、どうして主治医に対して不快を感じないのか。。。。このことを考えてみたのですが、不思議なことにこれに関しては自分でも説明不可能なんですね。どうしてなんでしょう。

医者と言うのがインテリジェンスのレベルにおいてわたしとは比較検討の対象外にある別次元の対象であることに対して、PSWは大卒であれば誰でもなれそうな権威主義的職業だと俗っぽく蔑視してるからかもしれません。

もしくはわたしを担当するPSWが美人で男性的であるという属性に対して、わたしの主治医はイケメンの男性で女性的しなやかさを持ち合わせた属性の人であるから、かもしれないと思ってみたりします。







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17歳のカルテ   2000年

監督: ジェームズ・マンゴールド
原作: スザンナ・ケイセン
音楽: マイケル・ダナ
出演: ウィノナ・ライダー、アンジェリーナ・ジョリー


アイデンティティ・クライシス

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誰にでも訪れる若い時代の詩的インスピレーションの時期を通り過ぎて、もはや、わたしが書くものは単なる現実のイケてなさに反比例しようとする自己顕示欲のなせる惰性的生産に過ぎなくなりました。

かといって、友人達と連れ立って、ジョージ・オーウェル並みの戦略的な社会時評のブログを仕掛けてみたりしていたのですが、どうも体の調子が良くなくって、それもいつしかぽしゃってしまいました。


唐突に大学時代の僕に優しかったダンティヒ(映画『ブリキの太鼓』の舞台となったところですね)生まれのドイツ人講師の言葉を思い出したりしていました。


「30に達したら言い表しようのないアイデンティティクライシスに襲われました。僕は非常にその時期が苦しかったんですよ」


ドイツ文化講座の教壇でそう教えてくれた彼が授業中に見せてくれた映画がヴェンダースの『都会のアリス』だったってことはもはや昔の思い出です。


主人公の30独身男フィリップがやたら自分のポートレイトをポラロイドカメラに映画各場面で撮り続けていますよね。若き日のヴェンダースのベタな方法論の一つに過ぎないってことなんですが、30を過ぎたわたしのアイデンティティ・クライシスは、あの映画のああいった雰囲気にカタルシスの波長が交錯できるような親和感を感じちゃったりする、そんな自分がこの頃ふっと通り過ぎ早に僕の背中を押していくような感覚です。


昨日は病院の精神障害者地域生活支援センターに4回目の通所をしてきました。デイケアにも参加したりしてみたのですが、なんだかよくわかんないんですけど、とっても切ない気持ちに浸りまくってしまいました。あんまり切ないものだから、PSW(精神保健福祉士)の女性にいろいろお話してたんですが、なんだか自分は自分が思っている以上に日頃の日常生活で自分に関するアイデンティティの片っ端みたいなの、ストイックなまでに無意識に沈めきっていたのかなあなんて思いました。


自分で言うのも粋じゃないですが、僕は自己顕示欲が比較的ゼロに近い人間なんですが、それは脆弱な自己愛ではない自分を博打的に信頼しようとする自尊感情が元々強いからなんですが、そういったものが僕の孤独に対する強さだったりします。


だけど、なんだか昨日の夜は、突き上げてくるような人恋しさと、ストイックに自主映画を作っていたような頃の野蛮な自分の過去への回想のめまいで、なんだかすっかりちょっと踵が擦り切れたような、心地よくて、ただただ切ない黄昏時を帰宅に向かいました。




いろいろな、なつかしくい人々の顔を思い出したりしていました。




でもきっと、こんな、感情は、前にも出会った、古い顔なじみに過ぎないんです。




このようなスクラップギリギリの文章を、こんなブログを、僕は、いったい、誰に向かって書いているんでしょうか。






「あなただ」

、という、

この思いだけは、

きっと、


僕の唯一の頑なな確信なのかもしれない、


なんて、甘い気分に足元をすくわれる、こんな、今朝からの雨にも、それだけでは救われたくない気持ち。






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都会のアリス  1973年

監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴィム・ヴェンダース、ファイト・フォン・フェルステンベルク
撮影:ロビー・ミュラー
音楽:CAN
出演:リュディガー・フォーグラー、イエラ・ロットレンダー



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