Hemakovichの半永久的平坦な戦場

パニック不全神経症者が落ちてゆくカムフラージュ

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新しい動画をアップロードしました #11

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 新しい動画と言っても夏頃に完成していた作品で、自分の中では良い評価を下せないものなので、今までブログでお知らせせず、完全放置していた。
 だがもうすぐ今年も終わるので、ほったらかしに製作年が過ぎるのも良くないので、一応ご報告しておきたいと思う。

 今年の春ぐらいまで僕はInterPalsという海外のSNSで日本好きの外国人と交流していたが、その中に田村隆一の詩や今村昌平の映画とかエヴァンゲリオンが好きだという、映画専攻の大学生であるチュニジア人女性がいた。

 彼女はポエトリーリーディングが好きで、シルビア・プラスとか、大半が僕の知らない西洋の詩人の作品の朗読を録音して、音楽交流SNSにそれらをアップロードしていた。
 僕と出会ったとき、彼女は日本語詩のリーディングに幾つか、初めて挑戦したのだが、その一つがエヴァンゲリオンの登場人物だとかいうレイの詩的内容の台詞だった(このアニメ、嫌いなので僕は全然何も知らない)。
 
 その「レイの詩」をリーディングした録音、彼女の声だけのファイルを僕がいろいろエフェクトしたり音楽や効果音を付けて切り貼りしたりといった編集を加えて、作品作りに協力した。
 結果的にその編集音源は彼女に採用されることはなかったが、僕は自サイトにアップロードしてブログで紹介した(その音源公開ページがこちら)。 

 僕は自分が編集したチュニジア人女性のリーディング音源をサントラにして、一つの映像作品を作ろうと思った。そういう経緯で製作に至ったのが今回紹介する動画である。

 この辺の経緯のもっとつっこんだ詳細については、過去のブログ記事に書いてある。

 ネットを信頼する人間ほど信頼できない相手はいない - 2014年5月22日
 エヴァンゲリオンに横たわる解離性障害的なもの - 2014年6月1日

 動画作品の構成としては、
 「チュニジア人のリーディング音声」 + 「僕の詩のテロップと静止画」 という重なりにして、2つの詩が一つの動画の中に同居混在するような、そういう作品内容に努めた。

 その結果が下記の動画である。





この動画をYouTubeサイト内で見るにはこちら
大きい画面で見るにはこちら


Facebookにアップロードした同作品を見るにはこちら
(Facebookをやってない人でも見れます。YouTubeより画質が綺麗であるという人もいます)



 この作品のタイトルは、『解離生活アカウントフェノミナ』である。
 英語タイトルまで考案したのだが、“This is the newest format called "you" that you want”と命名した。

 チュニジア人女性が関わったのは朗読音声のみで、他の作業は全部、僕が一人で数週間かけて製作し、7月に公開している。

 技術面の、やや専門めいた話だが、この動画はアドビ社のAdobe Premiereのみを使った初めての作品である。今までは旧ユーリード社のVideoStudioをメインで使っていて、Premiereは主に作品完成後のエンコード作業の部分で使用していた。
 今回はすべての作業をPremiereに初めて頼ったわけなので、わからないことだらけ、暗中模索で七転八倒するような作業であった。
 今までの作品と比較すると、クオリティが落ちているように見えるのは、すべて僕がPremiereに関して未熟な初心者であったことが原因だ。やりたいことはあっても、「出来ない」ので諦めたことがいっぱいある。

 また、この動画はテロップ(僕の詩)を表現のメインに据えるという手法を使った点においても、僕にとって初めての試みであった。
 詩の文字をどのように動画で具象化するか、またそれをどの程度Premiereで僕が表現できるか、そのどちらにおいても習熟度が足りないので、結果として面白みに乏しい作品になってしまった。僕がこの作品の存在を今まで封印し続けてきたのは、この理由に尽きる。

 なお、映像化した僕の詩は全文英語なのだが、これは以前、『私は私のなかに私でない人を感じる』というタイトルでブログに掲載している。
 ブログ掲載時に日本語訳を併記しなかったのは、比較的平明な英文であったから、また、英文だけの作品の雰囲気が「絵」として映えるような気がしたからである。
 後に、この詩の日本語訳を僕はブログに載せているけれども、このときに初めて『解離生活アカウントフェノミナ』というタイトルを使って、英文詩とは独立した別作品として扱っている。
 
 『私は私のなかに私でない人を感じる』と、『解離生活アカウントフェノミナ』は、文章の意味に若干の差異はあるが内容はまったく同じである。
 なのに、これらを別作品としたのは、文章が眼に入ってきたときのヴィジュアル感覚によって、受ける印象が変わる可能性があると考えたことによる。
 
 つまり、この動画は『私は私のなかに私でない人を感じる』という詩を動画化して、その日本語訳である詩の『解離生活アカウントフェノミナ』という題名を動画作品のタイトルにしたものだ、ということになる。
 なんか、ややこしい話であるが。

 
 最初に述べたように、この動画はチュニジア人女性が朗読した詩を音声として、僕の詩を視覚にして、2つの詩が作品内で同居するような形をとっている。
 視覚として使用した僕の詩は、彼女が朗読したエヴァンゲリオンの「レイの詩」の内容と、それを好んで朗読する彼女自身を「批評」したようなテーマ性を帯びている。

 では、その「批評」とかテーマ性とはどういうものなのか。
 それを説明すると拙くなるから映像で作品化したわけなので、野暮に説明はしない。

 ただ、映像や詩のタイトルに「現実生活と解離したアカウントに依存する現象」という意を付与したように、直言すればんターネットと現実との相関関係について作品である。
 数年前に英文で詩を書いていたときから、ずっと僕の関心にあるのは、アカウントと実在が乖離していく現在の諸相についての事柄である。

 外国人が朗読した日本語の詩を、動的表現する別の詩を交えながら1つの映像にするというコンセプトは実はだいぶ以前から持っていて、InterPalsで出会った日本語専攻のフランス人女性に交渉していた。 
 だがいろいろな経過をたどって、そのフランス人より日本語が上手いチュニジア人と知り合い、彼女がたまたまポエトリー・リーディングを得意としていた、という幸運な状況が生まれた。

 チュニジア人が「レイの詩」の朗読を聴かせてくれたとき、それを基にした映像製作の構想は浮かんだが、映像を作る以前に僕とチュニジア人の関係はすでに崩壊してしまっていた。
 だからこそ、動的表現をする別の詩は彼女のことを対象化したものが素材になったという経緯がある。

 映像に流した詩、その日本語訳で描いた人物とは、そのチュニジア人のことであり、僕の嫌いな僕の一部分のことでもあり、僕が憎悪する人々のことでもある。
 また、朗読される「レイの詩」の構成を為す何かのことでもある。

 僕はそれらを否定している。否定が作品の動機のすべてである。

 今まで短い尺度のビデオクリップ形式の作品は幾つか作ってきたが、これだけテーマ性をはっきり見定めて意味を込めて映像で語ろうとしたのは、これが初めてかもしれない。

 その割には、映像のクオリティ、表現の質は実に凡庸で面白くないものに留まってしまった。いや、返す返すも残念で仕方ない。


 
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セックスが狡猾な行為と思えてきたら観る映画

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 YouTubeで、大島渚監督の1999年の映画『御法度』を観る。

 公開当初に映画館で観たのが最初で、それ以来だから15年ぶりということになるが、初見のときの印象とは異なり、とても面白く鑑賞した。

 昔から映画館に行くのが面倒くさかった僕がこの映画を劇場で観たのには、一つの忘れ難い理由がある。

 当時、友達以上恋人未満みたいに想っていた人がいて、彼女と一緒に誕生日を過ごしたいという念願から、僕はレオス・カラックスの映画『ポーラX』を観に行こうと誘った。
 僕が一番大好きだったカラックスの、『ポンヌフの恋人』以来の待望の復帰作であったがゆえに、特別に映画館で観たかったし、特別な人と一緒にそれを観たいと思った。彼女はカラックスの映画をまったく観たことがなかった。

 結果的には僕にとって『ポーラX』は予想を遥かに裏切る大駄作であって、カラックスファンの僕が面白くなかったぐらいだから、欧州映画に疎い彼女にとっては何とも理解しがたいクソ映画だった。
 映画館を出て、ドイツ料理専門のビアホールみたいなとこで二人飲んだのだが、「あのラスト、むちゃくちゃっていうか、激しすぎる映画だったよね」という彼女の苦笑を聞きながら、「とんでもない映画をデートに選んだものだ」と、後味の悪さと後悔ばかりで、7回コールドの惨敗みたいに大事な誕生日を潰してしまった思いで悪酔いした。

 彼女と別れた後、「大事な誕生日をこんな無惨さで終わらせたくない」という口惜しさから、映画館を梯子して「口直し」としてオールナイト上映を観ることにした。

 それが『御法度』だったのだが、ウィキペディアで調べてみると、封切り初日にこれを観たことに15年経って、いま気づいた。

 だがせっかく梯子して観に行った『御法度』も、全然面白くなかった。『ポーラX』と同じくらい失望させられた。

 最終的に明け方まで始発のバスを待ちながら、最悪の誕生日だったと腐りながら、明け方まで京都の河原町を「無念さ」とともに、ほっつき歩いた。


 それから15年経って、何の意味もなく暇つぶしにもう一度観たのだけど、予想外に面白かった。
 「こんなに面白い映画だったっけ?」といぶかしみながら、連続で2回観た。

 今から思うと、15年前、『戦場のメリークリスマス』を初めて観たときの感動を再現するような結果を、僕は『御法度』に期待していたのだろう。
 だが『御法度』は『戦メリ』みたいなスケールの広さがあるわけでもなく、小品的なタイプの作品で、終わり方もなんとも言えない後味の悪い濁りがあって、『戦メリ』でのたけしのアップみたいな清々しさとは対極にあるようなラストである。

 15年経って、清濁併せ呑むように生きてきたわけでもないけれど、僕の人生にも濁りというか陰りみたいなものを僕自身が意識するようになった。そのような現在だからこそ、普通に受け入れられたのであろう(『戦メリ』にも感動しなくなったし、『愛のコリーダ』も観たし)。

 あのラストの後味の悪い濁り加減、あれがいま観たら、すごく感情移入させられた。

 15年前は台詞の聴き取りづらい劇場で観たから謎だらけのラストだったけど、今回は英語の字幕付きで繰り返し見たからよく理解できた。

 あれは常識的に考えて沖田が加納を粛清するために中州へ戻ったのだろうけど、ネットでは「沖田が加納と契りに行った」という誤解とか、「ラストが謎だから美しい」と分かったつもりで悦に入るスノビッシュな向きも多い。
 でもあれは間違いなく沖田は加納を斬りに戻ったのだ。
 「沖田さん・・・・」という加納の声と斬った男の声、加納と田代が斬り合う前に土方の頭に去来するイメージ映像、あれらがその解答を示唆している。
 にもかかわらず、分かりやすいことをわざと分かりづらくしてるんだから、大島監督のシナリオってセコイよな。わざと謎かけみたいに終わらせたいもんだから、ラストでの土方の台詞が無惨にも、説明調で語らせざるをえなくなる。

 大島監督の映画ってそういうしょうもない欠如とかツッコミ入れたくなる箇所が、どの作品にも満遍なく収められてある。

 それでも『御法度』が、現在の僕には『戦メリ』よりも深い共感を寄せる理由は、ひとえに、あの映画全体の暗さ、救いのなさに拠るところが大きい。

 衆道を描いてるけどゲイムービーじゃない。人と人が結びつくときに生じるある種の絶望的な暗さを、特に性交によってより顕になるそれを、衆道という搦め手から取り上げてる。
 シンプルに愛情とか信じなくなって、セックスの中に狡猾さを見出してしまう、そういうふうに成り果てた齢からあの映画に接してみると、あの暗さがなんともいえない。
 「自分に将来なんてあるのか」という加納惣三郎の言葉通りに生きてるような感覚で生きてこそ、あの暗さに共感しうるようになる。

 新撰組映画、もしくは幕末物としての視点からあの映画を捉えても、実に興味深い作品で、大河ドラマを一年間延々欠かさず観るよりも、ほんの90分だけあの映画に陶酔する方が人生の選択としてベターだと思う。
 『龍馬伝』とか良いかもしれないけど、ああいう無暗な陽性は嘘っぽいしね。三谷幸喜の『新選組!』は考証とか研究熱心で面白かったけど、たかが90分の異端派的「新撰組」物語の『御法度』の方が妙に本物に思えてくる。

 武田真治の沖田は正攻法としても、たけしの土方、崔洋一の近藤とか、ミスキャストぎりぎりみたいなキャスティングだけど、大島さんは何気にツボを押さえてるんだよね(伊武さんの伊東甲子太郎も)。
 でも誰より抜きん出て武田真治の沖田役は良かった。あの映画の屋台骨は沖田の役割が支えてる部分が大きく、そのためのキャラ作りが的中してるんだよね。
 沖田総司ってのは子供に優しい爽やかな男だけど、隊士を粛清する仕事においては容赦なく斬る。そこんとこを押さえてる歴代の作品は多いけれど、じゃあどうしてそんなに容赦なく斬れたのか、その沖田の人物的な理由を描いたものはあまり無い気がする。

 でも『御法度』は、異端「新撰組」物語でありながら、そこを端的に示してる。

 土方 「総司、おまえ、惣三郎に嫉妬してるんじゃないだろうな?」

 沖田 「私は子供のときから近藤さんと土方さんの間で育ちました。私に嫉妬というものはありません。ところで、土方さんと近藤さんの間はどうなんです?」

 土方 「どういう意味だ?」

 沖田 「私にはお二人の間には誰も入れないという暗黙の了解があるような気がします。それが新撰組なのです。ところが時々そこへ誰かが入ろうとする。近藤さんが迂闊に入れようとする時もある。土方さんはそれを斬る」

 土方 「総司、黙れ!」


 僕は原作を読んでいないんだけど、こんな数行のやりとりの中に、新撰組での彼らの背景が見事に言い尽くされているのを今まで触れたことはない。

 平隊士の衆道というエキセントリックな案件が、沖田の指摘によって、一瞬で新撰組の根幹に関わる話へと一般化される。その一般化の一瞬で僕たちは「これは紛れもなく新撰組のドラマなんだ!」と意識させられ、新撰組の話の中に何度も投影されてきたこと、自分たちの人間関係に関する現実と違わない普遍性の真実を知る場所へと一瞬で移される。
 
 でもここで一番大事なのは、リアルに起こるその普遍的真実を誰が距離を置いて直視しているかということで、それが沖田総司その人なのである。
 加納惣三郎の一件について近藤や土方さえも手古摺りながら、まさかそこに自分たちが当事者として普段意識しない重要な問題が反映されているとは思いもよらず、巻き込まれてしまっている。だが沖田はそれを一番冷静に注視して理解している。だからこそ怜悧な粛清実行者となりうるのだ。
 子供に親しい爽やかさというのは、容易に巻き込まれない距離の置き方との裏返しなのかもしれない。

 こんなふうに『御法度』では、沖田が最大のキーパーソンであり、沖田による粛清によってすべてが収まるのだが、逆に言えば、彼の役割がなければ全体が破綻しかねない、実に危うすぎるカタストロフィへのぎりぎり寸前の事態を見透かさずに切り取ったのがこの作品であるわけだ。

 この破局寸前でぎりぎりに回避される現実の静かな危うさというのが、やけに見慣れた光景として自分の現実の中で繰り返し眺めてきたような、そんな既体験感をこのドラマから感じ取ったりしてしまう。
 それはたぶん普遍的なテーマとしてある僕たちの肉体の問題であって、手近なところで言えばセックスなのだと結んでしまえば教科書的な答えで、元も子もないのだが。

 惣三郎に惚れてしまった湯沢が散々セックスで惣三郎を貪りつくした挙句、絞殺するかのように彼の首を絞める場面がある。それは戯言に過ぎないのだが、『愛のコリーダ』では定は吉蔵をそのまま絞め殺してしまう。
 しかし僕はこのスキャンダラスな衆道の情景はしっかり目に焼きついていたのだが、性交の後に首を絞めるシークエンスを15年前にまったく記憶していなかった。
 たぶん、その仕草は15年前の僕にとっては、必要のない意味のないものだったのだろう。
 だがこの仕草の必然性が切なくなるほど完全に理解できる今となって、この映画は自分の現実に近い世界のものだと僕はついに意識することとなった。


 初見のときにも感じたのだが、坂本龍一の音楽が秀抜である。

 『戦メリ』とか『ラスト・エンペラー』での作曲を今となってはまったく評価していない僕なのだが、『御法度』のミニマルは耳に残りやすく、映画に投影されるような自分の現実的な諸事に似通った音として聴こえてくる感じがする。

 それはただ単純に自己愛を意味するものじゃなくて、「自分の壊れ方」ってこういう感じなんだよね、という感覚において似通ってるということ。
 もしくはカタストロフィの怖さとか、日々の危うさの実感とかそういうイメージにおいて。武満徹を聴くようになって分かるようになったけど、あれに近い感じで『御法度』での坂本の仕事を僕は評価する。


 大島渚の映画としては、今の時点では一番好きな作品かもしれない。

 僕はいつも思うんだけど、なぜ大島の映画が海外であんなに受け入れられるのか、理解に苦しむんだよね。だって、最初の方で言ったように、欠如した感じとかツッコミたくなるような部分満載だし、下手くそという意味で偏執的な描き方するし。
 第一、面白くない。面白くないのはたぶん、カタルシスがないから(カタルシスを作るのが出来ないんだと思う)。

 でも『御法度』が面白いのは、とても感情移入しやすいから。身近な現実のように思えるから。あと、新撰組の物語としては断然他を抜きん出ていると思う。
 海外でまったく評価されなかったという、その事実は今でも本当みたいだね。僕が観たYouTubeのコメントにもそういう意味の英文が幾つか見受けられた。それはやっぱり新撰組が理由なんだろうけど、そこが面白いんだけどね。

 NHK大河で繰り返し量産される幕末物って、なんであんなに支持されて、みんな見飽きないんだろうね。あんな幕末、嘘っぱちでしかないだろうに。
 坂本龍馬が日本国がなんとかかんとかアジるような、ああいう描写は、日常性からして嘘だと思う。
 『御法度』のなかで土方が「幕府がどうのこうのといつもいつも議論していたら本当に幕府が倒せる気になってしまう」という台詞があるけど、あれが本当で、志士なんてものは日常にフィクションを持ち込んだ新左翼みたいな嘘の連中でしかなかったんじゃないか。

 新撰組が遮二無二人を切っていく集団と土方が割り切ったように、加納惣三郎が「自分に将来なんてあるのか」と言いつつ人斬りに魅せられていったように、現実はもっと陰性だ。

 陰性な現実のなかで足元を掬われるように、危ういぎりぎりのところで、戸惑いながら、狂いながら、生きたり死んだりする。

 そういうふうに、われわれと似通った現実と違わないものとして幕末を切り取ったという意味で、『御法度』は黒木和雄の『竜馬暗殺』と同じ視点をもった作品と言えるかも知れない。

 そして『竜馬暗殺』が当時のセクト同士の内ゲバをなぞらえたと批評されたように、『御法度』を見ていると、僕はなんだか「酒鬼薔薇聖斗」以降の現在の時代感覚と相似する部分があるような側面を感じないでもない。





リフレックスとジョディ・フォスター

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 3錠飲んでいた抗鬱薬リフレックスを、先週から2年ぶりぐらいで2錠に減らしている。

 どうも気分がすっきりしない。なんというか、「まだら」模様のように薄くて小さい鬱が雨が振る前の曇り空のように立ち込めて、苦しくはないが、なんとなく不快な状態だ。


 用量を減らしたのは、リフレックスの副作用である過剰な食欲によって、胃腸薬を飲まされ続けることに抵抗を感じ始めたからである。


 リフレックスは催眠作用があるので必ず寝る前に服用しなければならない。だがリフレックスと睡眠導入剤を飲んですぐに眠気がやってくるわけではない。僕の場合、それらを飲んでから1時間から1時間半の間はまったく眠れる状態ではない。

 だが、ようやく眠気がやってきた頃に、眠気と同時に猛烈な食欲が起こり始めるのである。だから半分眠気に抗いながら、就寝前に食事を作り始めて、がむしゃらに大量の食事を摂ってしまう。
 腹一杯に食べた後にそのまま眠ってしまえば、当然ながら翌朝は強烈な胸焼けに襲われる。それを防止するために就寝前に胃腸薬も飲む。

 しかし数ヶ月前から就寝前の胃腸薬を飲んだとしても翌朝の胸焼けに襲われるほど、過剰に暴食してしまうようになり、異様な食欲に歯止めがかからなくなってしまってきた。それとともに就寝前の胃腸薬も増えてしまった。


 本来、人間に備わっているさまざまな欲望の中で、食欲とはほとんど無縁に生きてきたのがこれまでの僕の特徴だった。
 現に今でも、朝食と昼食は食べなくても平気であり、夕食にしても食べるのが面倒に感じられて、「薬を食べる」つもりで自分に負担を課す形で食べている。食事は僕にとって掃除とか洗濯と同じようなもので、「仕方なく食べている」義務のようなものなのだ。

 それなのにリフレックスの副作用による食欲というのは、明らかに僕の生態反応と逆行するもので、これを飲むと食べたくなくても食べなきゃ収まらないくらい、ありえないレベルの食欲を誘発させる。
 性欲にたとえれば、バイアグラを飲まされてペニスがカチンカチンに硬直して、何度射精しても収まってくれず、嫌でもセックスしなければ疲れて眠らせてくれないようなものと同じことである。

 
 そういう事情があったので、やむをえず、リフレックスを減量することに相成った。

 しかし、1錠減るだけで力価がかなり異なるのか、なんとなく、まだらのように鬱がやってくる。そして肝心の副作用も減退するどころか、相も変わらず結構な量を寝る前に食べ続けている。

 胃腸薬自体は飲み続けていても耐性が生じるものではないらしい。だが薬ばっかり飲んでるのも気持ちとしては嫌なものだ。

 


 ジョディ・フォスターが同性婚をしたらしい。

 高校の頃、かなりファンだった。彼女が出ている映画は結構見た方だと思う。

 『羊たちの沈黙』の試写会があったので応募してみたら見事当たった。でも彼女どころか友達もいなかったので、母と一緒に観に行ったのを覚えている。
 母はこの映画を見て、ジョディのファンになった。

 だが僕は、『羊たちの沈黙』を見たことで、ジョディに対する熱が薄れた。その後の出演作はまったく見ていない。

 さっきネットで調べて、「まだ51歳だったのか」と思ったほど、かなり老け込んでいるように見えるのだが、それでも美人であることには変わりない。
 だが若かった頃のジョディは、まさに“ファム・ファタル”という形容が一番ふさわしいと思えるほど、妖気に満ちた美貌で童貞高校生を狂わせるようなコケティッシュな魅力を持っていた。
 
 なんと表現したらいいか、言葉が足りなさ過ぎて自分が嫌になるほど形容が思い浮かばないのだが、とにかくリフレックスに誘発される抗いがたい食欲と同じくらい、一度好きになったら抗いがたい感情に襲われそうで、身近にこんな人がいなくてよかった、と思ってしまうほど、完璧な妖女といえるような存在だったと思う。

 ジョディの熱狂的なファンがストーカーみたいなことをした挙句、彼女に注目されたいがためにレーガン大統領を銃で撃った事件があった。僕はその犯人の感情がある程度理解できる。

 ジョディ・フォスターが一番魅力的に演出された映画を挙げろと言われたら、僕が選ぶのは『ホテル・ニューハンプシャー』と『シエスタ』である。
 どちらも彼女は主演格ではない。後者の映画に至っては知らない人がほとんどだと思う。

 だがどちらの映画も主演女優の存在感をさらってしまうほどに、ジョディの“ファム・ファタル”の妖気が冴え渡っている。『シエスタ』ではエレン・バーキンがどんなに濡れ場を演じても、ジョディのコケティッシュなワンカットの微笑の方が勝っている。
 『ホテル・ニューハンプシャー』では妖気と言えばこの人の右に出る者はいないというようなナスターシャ・キンスキー(僕は今でもこの人のファンである)も出演しているが、まさに「互角の勝負」で、二人の妖女の贅沢な競演が、本来なら低評価になりかねなかったこの映画のレベルを結果的に押し上げた。

 童貞高校生の頃の僕だったら、ジョディの妖気について語らせたらブログ十日分ぐらい語り倒せたに違いない。

 ではなぜ、『羊たちの沈黙』で僕が彼女から離れていくことになってしまったのか。

 映画があまりにも下らなさ過ぎたからである。あんな映画でオスカーを貰えてしまう世間のバカ評価に唖然としてしまったからである。
 あの映画を見なかったら、僕は今でもジョディのファンだったかもしれない。

 一方、『羊たちの沈黙』のような過剰評価のバカ映画などには縁がなかったもう一人の“ファム・ファタル”、ナスターシャ・キンスキーに関しては、僕は今でも昔と同じような情熱を持ち続けている。


 ジョディ・フォスターがゲイだったことにはあまり驚かなかった。ただ結婚して誰かにとっての特別な存在になってしまったことには、一抹の寂しさを感じた。
 だから潜在的には、無意識のうちに今でもむかし感じたファンの情熱を、うっすらと持ち続けていたのかもしれない。


 童貞高校生だった頃にいろんな映画を暴食するように貪って、あまりにも情熱的な感情を焼き尽くしたものだから、今はすっかり映画も見なくなって、女優の名前すら知らないのが普通となってしまった。


 僕の映画史的な初恋の人を問われたならば、それはジョディ・フォスターだった。そういうことだったのかもしれない。




『南京!南京!』を観る

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 友人のメイ・ティンに薦められた勢いで、ついに『南京!南京!』を観る。

 予想以上に凄い映画だった。正直、感動した。


 『鬼が来た!』がインテリジェンスな映画とすれば、『南京!南京!』は詩情の映画だと思う。
 出演のオファーを断った香川照之が、どのようにこの映画を批判していたか忘れてしまったが、彼は自らが出演した『ジョン・ラーベ』に関しては「静謐な映画」と評していた。

 しかしどちらも観た僕の感覚から言わせると、『南京!南京!』の方がよほど静謐だと感じた。売国者呼ばわりまでされながら朝香宮鳩彦王を熱演した香川の勇気には大変敬服する。
 だが南京事件を描いたということと、映画自体の芸術性のレベル、諸々の総合的なものを評価したとしても、残念ながら『ジョン・ラーベ』は『南京!南京!』の足許にも及ばない、というのが辛辣ではあるが僕の正直な感想である。


 まず役者の演技が凄すぎ。特にこの映画で日本兵を演じた日本人俳優の、演技への没入っぷりに敬意を表する。

 この映画で日本兵を演じるというのは非常に困難で苦しい作業だったと想像する。それは日本軍がただ単純な悪だったからではなく、戦争という日常の中で、人間らしさと鬼畜の如き部分が同居している、大変に複雑な群像として監督が演出しているからである。
 たぶん、普通に極悪非道を演じるよりも、難しかったと思う。自分の中の触れ難いようなものを呼び起こすような、非常に内面的な要素と向き合わねばならなかったかもしれない。

 中国人俳優の演技も素晴らしかった。特に女優陣の動きや佇まいが大変印象に残った。

 あまり比較するのは良くないと思うが、『ジョン・ラーベ』においては中国人俳優の演技が単調だった。女優も男優も、どこか模範的な人物に収まっているというか、あっさり言ってしまえば、ハリウッド映画レベルの造形しかなかった。

 『南京!南京!』の女優陣は凄まじい。特に高圓圓という人と、ラーベの中国人秘書の妻を演じた人、かなり印象に残った。

 上手く演じようという感じを受けなかったのが好感を持てた。日本人が日本兵を演じるのと同じくらい、この映画で中国人女性を演じるということは女優陣には大変だったと思う。観客の評価を度外視するような完全な入り込み方が半端ではなかった。

 監督の演出方針が最初から観客の目を度外視させるようなやり方で一貫していたのだと思う。『南京!南京!』においては単純な悪人もステレオタイプに哀れな被害者もいなかった。俳優全員が最初から「当事者」を生み出そうとする気概と才気が読み取れる思いがした。

 この映画をあからさまな「抗日」で染めてしまおうとするような「模範解答」の映画作りを、まず最初にきっぱりと放棄していたのだと僕は想像する。

 たとえば、比較的善良な存在として描かれる日本兵の角川(中泉英雄)が慰安所に訪れて、初めての女性であり自分の妻のように愛している百合子(宫本裕子)に、新年の挨拶と共に自分の慰問袋を渡すシーン。

 角川から送られたキャンディーを舐めながら「内地の匂いがする」とすっかり心が打ち解けた感じになるのだけど、ふっと我に返って慰問袋を枕の後ろにおいて、「仕事」として角川をいつものように迎えようとする。

 行為の最中に思いをこめて角川はキスをするのだけども、その瞬間に百合子は感情をこめないふうに「終わりましたか?」と静かに訊く。

 実に人間描写が複雑で多様である。観客が思い描くようなところへすっきり着地することは全くない。

 
 捕虜の虐殺だとか強姦だとかがはっきりと描かれているのだけれど、『南京!南京!』の中での物事の善悪はそれほど簡単なものとして扱われていないように、僕には受け取れた。

 殺したり犯したりしながらも、非戦闘中にのんびりと過ごす日本兵の休暇のシーンは牧歌的に見える。安全区の中で女たちがマージャンに興じながら日本語を覚えあったりしているかと思えば、階下で悲鳴が起こって同胞が犯されていたりする。

 「当事者の日常」を、何の前提もなく最初から再現しようという試みをそこに感じたりする。再現ではあるのだが、ほとんどの人たちが「名もなき民」なのだから、実質的には最初から造形しているような印象がある。
 実際、ラーベやらヴォートリンといった南京事件の国際委員会側の実在の証人や、日本軍にも名のある将校やら外交官が出てくるのだけど、彼らの描かれ方にはほとんど比重が置かれていない。
 あくまでも、あの歴史的な事件を普通の我々の日常的な営みの延長にあるかのごとく、底辺から、日記を書くように、丁寧に紡ぎ出そうとしている。そういう演出に、ありがちなものを生むまいとするスタッフや俳優、監督たちの良心を感じた。



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 カメラのアングルだとか音響にしても、いろいろ工夫がなされていて良かった。

 アングルで言うなら、ラーベの秘書とその妻が別離するシーン、南京にとどまったその秘書が射殺されるシーンが印象的だった。射殺される男を遠くに映しながら、射殺を命じた将校が決して男を見ようとしない場面など、相当に人の感情の細やかさを決して逃さないようにしようとするような意図が感じられた。

 戦争映画であるので、銃撃や砲弾の音がやたらにリアルで臨場感が在るのだが、同時に急に静けさが訪れたり、わざと消え行くような声で台詞を発声させたりするメリハリが感じられる。その辺に詩情であったり、静謐さを見受けられたりする。


 香川照之がなぜオファーを受けて断った『南京!南京!』に対して、ことさらに批判を試みようとしたのか、真意が読み取れない。
 僕は香川の批判を真に受けていたから、そんなに評価に値するような映画ではないのかと今までずっと思ってきた。

 ところが実際に観てみると、前述したとおり香川が『ジョン・ラーベ』を批評した「静謐」との評価はまさに『南京!南京!』にこそ当てはまるし、芸術性も比べようがなくこちらのほうが上だと思った。

 僕の勘繰りでしかないが、香川は『鬼が来た!』と同じような役柄のオファーを伝えられて、気を悪くしたのかもしれない。

 メイ・ティンに薦められたとき、「面白くない映画だったら、なんて観想を言えばいいだろうか……」と心配していたのだが、観始めてみれば映画を批評する隙間もないほど鑑賞に没頭できた。2時間以上の尺があるが、まったく退屈しなかった。

 ラストが冗長でメッセージ過剰な『シンドラーのリスト』がアカデミー作品賞を獲れるぐらいなら、この映画はカンヌでパルム・ドールを受賞してもおかしくないほどである。中国映画の芸術的水準の高さをまたしても思い知らされた。

 それと同時に、この映画に対する中国人からの評価が芳しくないというメイ・ティンの言葉もよく分かるような気がした。
 だいたい、中国のTVドラマが描くような勧善懲悪の「抗日」ドラマ(新聞などで伝え聞くだけで見たことはないが)ほどに分かりやすくもないし、娯楽性もない。芸術とか哲学性の方に完全にシフトしている映画なのだから。

 この映画で描かれた日本軍の蛮行に関しては、描かれ方は過剰とも矮小とも思わなかった。自分が南京市民や日本兵といった「当事者」の目線に立つとすれば、自分から見えてくる事実の範囲はあれぐらいなものだろうと想像したからだ。

 ただ、日本兵側の主人公である角川の描き方は、少し理想化されているように思えたが、だからといってあの事件の救いのなさが軽減されている訳でもないし、彼のような理想化された人物を日本軍側に敢えて置くことによって、日本兵一人一人の人間性を見つめる視野を留めおくことを可能にしたとも言える。

 映画のラストに関しては、百家争鳴と言い得るほどの受け取り方が出来ると思う。割り切れない部分もあるが、結果的に自由で多様的な見方を最後に残したと思う。
 僕個人的には、安全区国際委員会の一人であった米国人女性、ミニー・ヴォートリンがなぜ自殺してしまったのか、その理由がそこに見出せるように思えるラストだった。

 南京事件の手記やら慰安婦の証言を読んできたときの、僕の偽らざる感情が角川の最後の台詞に同じものとして在るように、僕は思った。


 最後に一言、くだらないことを言う。

 中国や韓国が作った芸術作品や歴史研究に関して、そこに「反日」の有無やら度合いを計ってレッテルを貼るようなくだらない嗜癖は、もういいかげんやめてしまえばいいのにと思う。

 確かにプロパガンダはどこの国にも存在するが、日本が中韓に対して指摘するような「反日」は「なんでこの程度のことが……」と絶句させられるようなレベルで、不寛容極まりない。
 だいたい、日本が過去にやった戦争犯罪を歴史として伝えようとすれば、極右のバカどもにとっては、正しいこともぜんぶ「反日」になる。
 過去の戦争で日本が悪いことをしたのは事実であり、なぜそれを認めることが「自虐」になるのか。自らの過ちは過ちとしてはっきりと認める、認めた上でより良い現在を未来に残そうと方法を考える、それこそが普通の大人の態度である。ちょっとしたことで「自虐」だとか「反日」だとかいちいち言いがかりをつけるのは、極右の幼児性であり、クソガキの如き中二病でしかない。

 われわれが『はだしのゲン』をアメリカ人に見てもらったときに、「これは反米だ」だと言われたとしたら、「そんな単純なものでもないし矮小な意図で見せているんじゃない」と反発心が起こると思う。だったら日本の戦争犯罪に対する歴史的継承にいちゃもんをつけるのは、日本人がいかにも矮小で単細胞だと見られてもおかしくはなく、自分で自分のレベルを下げているのである。

 南京事件はなかったとほざき、都知事選で相手候補を「人間のくず」呼ばわりしたバカ作家がいたが、まさに彼こそがクズで幼稚で子供じみた計算でしか物を考えないアホである。
 前にも言ったが、もし中国と戦争になって日本が占領されたとしよう。あの「人間のくず」作家は必ず今までのスタンスを豹変させて中共マンセイの言辞を垂れ流すだろう。クソガキは世の中の流れに従うことしか出来ない、信念のない連中である。

 「くず」呼ばわりなんか気にしてないという下痢糞首相がいるが、僕からしてみれば、彼の言うような他国の「反日」以上に、彼の存在が今現在、この国で一番最強の「反日」的状態だと思う。
 他国を挑発して戦争すら厭わないような亡国下痢野郎こそ、「反日」であり、「くず」である。


 さっさと腸炎が悪化して、首相職を放り投げてもらって、嫁にオムツを替えてもらう生活に戻ってくれることを、僕は愛国の立場から強く希望してやまない。





「反日」かどうかに固執する政治的背景にある意図

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 今日、目が覚めてから抑鬱の頭で思いついたことを二、三書いておきたい。


 映画『鬼が来た!』について、前回のブログで僕は、作品冒頭に「私」としか名乗らない男によって無理矢理日本兵らを預けられる場面を、カフカの『変身』になぞらえた。

 だが、どちらかというとあのシークエンスは『変身』ではなく、『審判』のニュアンスに近いように思う。

 そこまで考えてふと思いついたのだが、『鬼が来た!』のあの冒頭場面の不条理性を現実の世界に置き換えてみると、裁判員裁判の呼出状を送りつけられるような事態と、非常に意味合いが似ているのではないかということだった。

 というのも、映画の中で日本兵らを預けさせられるあの場面は、つまり「無理矢理『政治性』を庶民に投げ込まれた」というふうに僕が解釈しているからであり、預けさせられた日本兵の生殺与奪をめぐって主人公らが苦しめられるのも、無理矢理国家に裁判員に指名させられて、被告を殺すか生かすか審理に苦悩させられるのと似たようなものと思えたからである。


 映画タイトルの「鬼」とはいったい何を意味するか。いろんな人がいろんな解釈をしているけれど、僕は明確にそれは「政治性」のメタファーだと思う。「イデオロギー」と言い換えてもいいが、それとはちょっと違う気がする。

 『鬼が来た!』に関する多くのレビューを見ていると、「戦争の狂気」だとか、「他者との同一性の問題」といったような抽象的言辞で綴られたものが多く、それらに顕著なのは「日中戦争に限定されない」ものとしての戦争映画と捉える視点である。

 だが前回のブログで指摘したように、僕にとっては、あれはまさしく日中戦争を端的に言い表した歴史映画であり、「政治性」の暴力を暴き出した作品であり、だから物語での日本軍の突然の豹変も偶発的なものではなく、あれが日本軍の本質だったのだと、そういうふうに直接的な指摘で考えざるをえない。

 元来、僕は往々にして芸術作品の中に直接的な見方を下すことは作品の矮小化につながる危うさもあるので、それを自らに堅く禁じている。
 それでも多くのレビュアーのように「戦争の狂気」といったような抽象的で半ば安直にすら思える「哲学」したような見方では僕にとって収まりがつかないのは、映画の中の日本軍や相対する中国人の描かれ方が実にリアルに見え過ぎてしまうからなのである。

 日本人は対米戦争に関してはよく知っているとは思うけれど、日中戦争に対しては知識が少なすぎるし、これを扱った映画作品も全然足りな過ぎる。
 僕が十分知っているわけでもないけれど、日本軍の検問の場面だとか、従軍慰安婦が現れるところ、終戦後に中国人のマーに対して日本人だと名乗って女たちが近寄ってくる件などは、今まで本の中で推し量って想像するしかなかった光景が、ほとんど想像と違わずに映像表現されていることに僕は驚かずにはいられなかった。

 戦争中と終戦後とでは中国人の態度がまるで変わってしまう描写や、国民党による公開処刑を眺める民衆たちの態度、マーに襲撃されてからくも助かったときの花屋(香川照之)が中国兵に対して慇懃に頭を垂れる場面にしても、戦争を経て露呈した日本人と中国人双方の、全体的な民族レベルでの負の本質が象徴的に提示されているように思えてならない。
 その負の本質っていうのは重層的な意味があるのだけれど、日本人の側から言えば、戦争を終えたときにこの侵略戦争にどういう「落とし前」をつけたのか、ということだろう。


 いつも思ってることだけど、日中戦争というのは両国の為政者たちの思惑もあって、「悪いのは軍国主義の戦争指導者たちであって、日本人民もその犠牲者だった」という中国側の見解が成り立って、それに甘えてしまったがゆえに日本人は、あれほど残酷な戦争を仕掛けておきながら、日中戦争の歴史的解釈を見えなくさせてしまってるんだと思う。

 だから『鬼が来た!』に関しても「戦争の狂気」だとか「誰にでも潜むもの」だとか、戦争映画の批評にありがちな一般性で語ろうとする筋が多いけれども、そういうレビュアーの思いの中に「これは反日映画ではない」「日本人だけが批判されているわけではない」「日中戦争に特定されるテーマではない」というような、加害者の利己的な期待が背景に見受けられると看做すのは、意地の悪い見方だろうか。

 この映画が歴史的側面を忠実に描きこんでいるというのもあるけれど、僕がこの作品を「戦争の狂気」だとかいう歴史的見地を排した一般性に還元したくないのは、花屋軍曹や隊長の描かれ方や台詞の節々のなかに、今に至るまであの戦争を直視しようとしない日本人の無責任さ・臆病さといったものを痛烈に突きつけられた思いがしたからである。


 実際にこの映画は日中戦争に対する戦後処理の在り方の矛盾や不条理さに対するアイロニーを巧妙に描き込んでいる。そして、いま現在このように日中両国が不穏にいがみ合う時代だからこそ、民衆レベルにおける日本人の加害者性や歴史認識の甘さ、容易に政治性に取り込まれて相手が見えなくなってしまう事柄に関して、この映画の重層的な寓意の中から汲み取るべきものは多いと思うのだ。

 「反日映画」ではないから評価するというスタンスが透けて見える程度の感想ほど、無意味に抽象的な言葉で作品を一般性に還元してしまいたいとする、加害者の居直りの道理が明らかになってくる。

 この映画が「反日」かどうかは日本人にとってまったく意味のないことだが、この映画を「反日」であるかどうかに固執する日本人の意識の中には、映画の中にも描かれたように中国人が良民(日本軍の支配に甘んじる者)であるかどうかを検問していた日本軍の意識レベルと相似するところがあるような気がしたりもする。

 
 蛇足ながら、『鬼が来た!』を中国人は「抗日」映画として看做しているかどうか。僕の憶測でしかないが、そういう感想を持つ人たちはわずかであって、作品自体もまったく「抗日」として成り立ってもいない。(ただしこの映画を「反日ではない」という部分を強調してネット上で喧伝する日本人の思惑が多く見受けられるように、カンヌでグランプリを得たこの映画を「抗日」というラベリングによって評価したい中国人の意識も存在するかもしれない)

 後半の二人の中国人の処刑場面に示されているように、中国人の側にしてもこの映画はかつての自分たちの在り方が皮相に批評されている点において、苦々しい記憶を掘り起こす歴史映画としての評価を与えているのではないかと僕は想像する。処刑シーンが国民党によるものだとか、冒頭に現れる「私」が実は八路軍兵士だったのではないかというような些細な差異によって評価するスタンスがあるとすれば、「反日」かどうかに固執する日本人のスタンスと同根のものであろう。
 つまり、この作品の評価に政治性を持ち込んでいるのであり、この映画の主題で問われている者たちと同じ本質をまさに引き継いでいるのである。

 
 決して作り手が意図したことではないと思うが、この映画は政治的なるものの不条理を暴こうとしながら、同時にこの映画を見る側の人間の政治性への加担の度合いをも浮かび上がらせるような鋭さを持ち合わせている。

 過去の歴史の一側面を抉り出して、現在と過去との対比において、われわれがどう変わったのか、もしくはどのように変わらなかったのか、そのような厳しい問いを打ち立てることのできる重厚な寓意によって、この映画は過去と現在を往還しながら変わらざる人間の本質を継続して問い質す普遍性を持ち得たのであり、最大に評価すべき点はそこにあるのだと思う。


 もしこの映画を上映当時の14年前に見ていたら、僕はそれほど真面目に、厳格に、この作品の深いところまで見定めようとはしなかったと思う。

 「鬼」はなんだったのかと問われたら、それは政治性のことなのだとする直接的な見方もしなかったと思う。それが正しいのかどうかは別として。

 むかしベケットの『ゴドーを待ちながら』が刑務所で演じられたときに狂喜した囚人たちが、「ゴドーはシャバだ」と答えたというらしいが、まさにそれと同じような切実さで『鬼が来た!』の中に、僕自身の救いの手がかりを見出したような、それぐらい重くて大事な感じがした。





死ぬことでしか自由になれなかったもの

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 どういう思考の流れでそうなったのか、分からない。いつもの鬱に苛まれながら、名前は知っていたがまだ観ていなかった『鬼が来た!』をどうしても観たくて仕方なくなった。

 ネットでいろいろと探してみたら、日本語字幕版が見つかった。

 余計なことを全然考えることなく鑑賞に没頭できた。これは僕の最近の映画鑑賞歴の中ではまったく稀有なことなのだ。

 そして圧倒させられた。感動したというより、誰かにこの圧倒さ加減を伝えたいような、それでいてなんとも言い知れぬような、そんな深い感情に取り込まれてしまった。

 この映画の存在をほぼ上映当時から知っていながら、14年間も観ずに過ぎ去ってきたことを恥じた。

 思うに、上映された折の宣伝ポスターやソフトのパッケージが余りにもダサダサ過ぎて、今まで手に取ることが出来なかったように思う。アマゾンのレビューにも僕と同じ意見を持った人がいた。
 YouTubeで予告編を見た瞬間に、「これは絶対良い映画に違いない」と確信した。あの予告編動画をもっと早く観ていたら14年も放置することなど絶対なかっただろうに。

 久々に物凄い映画を観たという充実感でいっぱいになった。カンヌでグランプリを獲ったらしいが、なぜそれより上のパルム・ドールを獲れなかったのか? 当時の審査員がどんな連中だったのか、是非知りたいものだ。


 かなり直接的な主題を持っていながら、幾重にも厚い寓意に包んであって、どんな受け取り方も可能な作品だと思う。だから日中戦争というシリアスな素材を扱っていながらも、当事国の人間たちに激しい嫌悪や不満を植え付けさせないようなクッションが十分に備えられていて、ある意味したたかでもある。

 だが、寓意のクッションを一つ一つ取り除いてみれば、なんてことはない、実に単純明快なテーマについて率直に言及した極めてストレートな映画だと思う。

 簡単に言えば、この映画のテーマは「政治」である。

 ある日突如主人公の家に「私」としか名乗らない人物によって、日本人捕虜と日本軍に関与させられている中国人通訳の二人が投げ込まれる。つまり、政治という名の「不条理」が日常に投げ込まれたのである。ある朝起きてみたら一匹の虫になっていた、そういう筋立てで始まる不条理劇とまったく異なるところはない。

 ただカフカの不条理劇と明確に違うのは、不条理の正体がはっきりと「政治」だということが分かっている点にある。

 
 日本兵と中国の村人たちとの間で奇妙な友情が芽生える、そんなストーリーだと解釈している人が実に多いが、全然違う。

 この映画の香川照之は最後まで中国人に対して情を抱いたりしていない。彼の役柄には戦中と戦後の日本人が絶えず敵味方を問わず、向けられた圧力なら何にでも屈する存在でしかなかったことのカリカチュアが描かれているに過ぎない。
 対して、一度は香川たちを殺そうと考えた中国の村民たちも、降りかかった問題に単純に言葉通りの義やら情によって決着をつけたわけでもない。香川を日本軍に無事に送り届けることによって日本軍から食料をもらう、ちゃっかりした打算に基づいて彼らなりの取引きを実現させて厄介な問題から逃れようとしたまでの話である。

 ただ中国の村民の側には彼らなりの解決に向かうまでの過程に、個々の人間が個人的レベルで煩悶したり苦悩したりする感情の差込口が集団の中で作用したわけで、香川を生きて日本軍に帰させようという決着のつけ方は例え打算が働いていたとしても、それは誰もが後ろめたい苦悩を背負わずに済ませたいとする情による動機がはっきりと存在している。

 そして重要なのは、それは人の感情を欠いた「政治性」とはまったく異なる部分において、日本兵に関する問題と向き合ってこようとした、というところである。

 だが日本軍の部隊は個人的な感情が反映する集団では勿論なかった。彼らは最初から最後まで中国人を交渉の相手とする対等な人間とは看做さなかったし、その背後に油断のならない敵の姿を最初から疑ってかかる対象として村民を掃討しようとした。
 映画のクライマックスで起こる殺戮劇に関して、あれが偶発的に起こってしまったものとして捉えるレビュアーが多いけれど、残念ながらそうではない。上官の台詞の節々を見る限り、明らかに彼は村民を掃討しようとしてあのような宴会を茶番として設けたのであり、騙して殺したのである。


 政治の不条理性に対する言及はクライマックスの殺戮劇よりも、むしろ終戦後のエピソードの方が露骨に強調されている。
 場面は少人数の村人たちによる群像劇から、群像劇のような個々の感情が差し込まれることのない小都市へと移っている。日本人に対する復讐をさせないとする国民党の方針によって、軍人たちは丁重に保護されながら、香川と共に何者かに拉致された中国人通訳のような対日協力者に対しては残酷なまでの扱いによって簡単に処刑してしまう。

 主人公のマーが村を殺戮された憤激に耐えかねて、収容所の日本兵を殺しにかかるシーン、僕はあの場面に何ともいえない切ないカタルシスを覚えずにはいられなかった。彼の憤激は何も日本兵という単一の属性だけに向けられた訳ではないように思う。突如日本兵を「預かれ」と一方的に投げ込まれてから中国人通訳の処刑に至るまでの、すべての過程の中で翻弄させられた理不尽なものに対する怒りの大きさがあの行為に象徴的に描かれたのだという気がする(はっきり言えばそれは政治性なるものの理不尽さへの怒りなのだが)。



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 マーが処刑される場面の描写はすさまじく露骨である。中国人将校の台詞はもとより、連合国指導者の肖像がゆっくりとパンしながら映されたり、国民党を対象としているにしても「よくやるなあ」と思った。
 中国人将校が日本兵俘虜に処刑を命じて、彼らの意向で銃殺ではなく首切りに処刑法が変わり、香川の持った軍刀がマーの首に据えられる。あれは戦中に日本兵が中国人に対して行ってきた残虐を、皮肉にも戦後になっても中国人自身によって再現されることへの風刺であり、政治の暴力がその権力のベクトルを変えたとしても、必然的に容赦なく人に対して牙を剥くという表現なのだろう。

 マーの首がはねられた瞬間、ずっとモノクロだった画面がカラーに一転して物語を終える。あれをどのように解釈するか。この映画の中で最も寓意性が分厚く包まれて、明瞭な答えを封じてしまおうとする作り手の意思が感じられるのはこのラストの色彩効果についてだと僕は思う。
 それまでの物語の合間にラストに関する伏線がなかったわけではない。でもいきなりラストでカラーに一転させるのはかなり強引な手法だろうし、見る人を迷わせる複合的な意味合いを感じさせる。

 僕個人がもしマーの立場であの物語のラストを解釈するとするなら、死ぬことによって政治性の暴力から解放される個人の姿、言い換えれば死ぬことでしか自由になれない悲劇を、惨殺されたマーの首の末路の表情から読み取る、それしかないように今は思う。


 この映画を見た人たちの感想のうち、一番顕著に見られるのは、やはり物語の後半に起こる殺戮劇によって、それまでこの物語に期待して抱いていた甘い願望のようなものが一気に打ち砕かれた、そういう印象を持った人がとても多い。

 だが僕はそれとはちょっとだけ違って、物語前半部分の日本兵と村民たちのやりとりを観ていても、決して気を許せるような朗らかな印象は持てなかった。もし日本映画でこういう場面を日本人を主体にして描くとするなら、もっと陰惨になるだろうなあとか思ったり、物語が進みながらいずれ訪れるカタストロフィの予感の的中を描写の中に少しずつ刻み込まれていくような、そういう危うさの不安を絶えず持ちながら観ていた。

 だからクライマックスの殺戮場面もこれは日本軍側の計略が初めから意図されていたのだと読み取ったし、そういう解釈によって香川照之の兵士像の中に象徴的に描かれた十分すぎるほど分かりやすい日本人の心象を理解することが出来た。

 大雑把に分類すれば戦争映画となるのだろうが、僕には日中戦争の構図を明確に言い表した日中戦争に関する映画だとはっきりと感じる(つまりはわれわれ日本人の加害性や戦後の責任意識の所在のなさも明確に示された映画ということだ)。


 そして日本軍の殺戮劇や国民党による処刑場面が、それに至るまでの観客の甘い期待を打ち砕くからこそ、前半部分の村人たちの煩悶や苦悩が実に人間らしい善良な営みとして浮かび上がってくる。
 その部分こそが、この映画にとって一番大事なことを作り手がわれわれに示そうとしているものではないかと僕には感じられる。

 村人と日本兵、中国人通訳のそれぞれの必死の思いが交錯して描かれる翻訳シーンのユーモア。当初は冷淡でドケチなおばさんが物語が進むに連れて徐々に肩入れして、日本兵との宴会ですっかり感激してしまうエピソード。日本兵と通訳を誰が殺すかでいざこざする辺りのそれぞれの感情のぶつかりあい。
 この物語の本質が人間を容赦なく無感情の総体として抹殺する政治性に対するアンチテーゼとして描かれているからこそ、村人や日本兵、中国人通訳の、個々の感情の混ぜ込み合いの場面が人間が持つ本来的なものの善良性として、政治的なるものからの救いとして対峙して見えてくるのではないだろうか。

 主人公のマーが日本兵らを殺したと思い傷ついた愛人が、実はマーが彼らを殺せなかったと知ったときの、愛人がマーの頬を包んで見下ろしながら安心したように微笑むアングルのシーン、僕はあれが一番感動した。この映画の一番感動的な名シーンは僕にとってはあそこだった。個々の人間があらゆる全体的な束縛から離れた部分での感情を、一番美しい形で描いた場面だったように僕は思う。


 この物語のことの次第の引き鉄である、マーの家に日本兵らを連れた「私」が現れる場面、その前にマート愛人がセックスに耽っていたという設定など、相当にしたたかでクレバーな物語としての意図を感じる。
 主人公マーを演じたのがこの映画の監督らしいが、彼のインテリジェンスが十二分に示された映画だ。


 演出に関する作り手の意図だとか、そういうものに気を取られず、夢中で作品鑑賞に没頭できる映画との幸福な出会いが訪れたのは、いったい何年ぶりのことなんだろう。


 チアン・ウェン監督の才能の結実に、心から感謝したい。





正邪のレッテル張り抗争に終始する世界への無垢な問いかけ

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 昨夜の夢の中に、なぜだか分からないが糸井貢が現れた。

 と言っても、糸井貢って誰?って人がほとんどだと思う。実在の人物ではない。TVドラマの必殺シリーズ『暗闇仕留人』に登場する殺し屋の主人公(って言ってもいいのかな)である。
 このドラマは中村主水が登場するシリーズとしては2作目であり、必殺シリーズとしては4作目のドラマである。糸井貢とは蘭学者くずれの侍で、必殺ファンの間では「シリーズきってのインテリ殺し屋」とも呼ばれるキャラクターである。石坂浩二が演じた。
 
 このドラマが半年間放映されて、ちょうど最終回を迎えたころ、僕はこの世に生まれた。いわゆる「前期必殺」シリーズの大ファンである僕だが、そんな事情もあって『暗闇仕留人』には思い入れがある。

 藤田まことの中村主水がメインキャラになったのは『暗闇仕留人』からであり、西崎みどりが歌った主題歌『旅愁』がヒットしたり、「なりませぬ」という流行語を生んだり、いろんな意味でこの作品は重要な位置を占めている。

 ただ、僕を含めた前期必殺マニアが『暗闇仕留人』に対して特別な感慨を抱くのは別のところにあって、それは「悪人を殺して裁いても結局何も変わらず虚しさが残るだけ」という主題をドラマ全体に据えて描ききられたところにある。

 「勧善懲悪」が時代劇ドラマの代名詞のように考えられていた時代のなかで、これを完璧に否定しきった点において『暗闇仕留人』は異色であった。だがこのアンチ「勧善懲悪」こそが仕事人シリーズ以前の必殺の特徴であり、このドラマ以降のシリーズは殺し屋を決して「正義」として描かず、悪と正義が未分状態の複雑な世界観を常にサブテーマとして置いてきた。

 簡単に言えば、『暴れん坊将軍』が悪人を切り捨てても、『水戸黄門』という絶対正義の殿様がその権威で悪事を裁いたとしても、『暗闇仕留人』の世界においては「なにも変わらない」「虚しさだけが残るだけ」。

 そういう絶望的なほどまでに救いのない時代劇なのである。


 『暗闇仕留人』はペリーが来航した幕末に時代設定されている。糸井貢は蘭学者ゆえに蛮社の獄で弾圧されて、お上に追われ、病身の妻を伴いながらさすらっている、そういうキャラクターである。

 物語の前半、最愛の妻の薬代欲しさに殺し屋を始めるものの、学者というインテリであるゆえに悪人を殺して弱者の恨みを晴らすことにある種の正義感を投影しようとする。
 だがドラマが進行していくにしたがって、気さくで優しい人柄の貢は単純に人を悪として殺すことに迷いを生じ始めていく。途中、他の殺し屋との抗争によって妻を失い、貢の苦悩は一層深まり、恨みを晴らす殺し屋としての存在意義を問い詰めてゆく。

 今のドラマと比べても、時代劇としてはかなり異色なキャラ設定である。悪人が殺される過程に最大のカタルシスを求めるような現代の(ジャニーズに支配された)必殺シリーズを好んで観る人たちには考えられないようなドラマだろう。
 新聞のTV欄の記者コラムなんか読んでても、必殺を「勧善懲悪」ドラマだと感覚的に思い込んでいる人は昨今のメディアの中にも多くいる。そんなもんだから前記必殺の再放送もだんだん消えていっているのだろうが。


 『暗闇仕留人』の虚無的なドラマ性を象徴したエピソードを一つ挙げてみよう。

 糸井貢は昔の蘭学生時代の友人と再会する。今は幕府に仕える旧友は異国との戦いに備えて西洋式軍隊を作ろうとしているのだが、爆薬の実験のために庶民をまきぞえにするようなテロまがいの殺害まで起こしている。「すべては日本のため」として自身を正当化しながら、旧友は貢を仕官させようと誘う。

 貢の妻は、婚礼を控えた町人娘の花嫁衣裳を縫っている。だが娘の許婚の男は父親の犯してしまった罪を自分がかぶって奉行所に捕まる。そして島流しにされるはずが奉行所の役人の策略によって、貢の旧友が行った砲術実験の的代わりにされ、爆死させられる。許婚の死を知った娘は出奔してしまう。

 恨みを晴らすために主水や貢は裏稼業を開始する。貢はかつての友人に「死んでくれ」と告げながら仕留人として彼を殺す。

 裏稼業を終えて家路へ帰ろうとする道すがら、貢は今回の殺しの、事の次第の末路を目にしてしまう。それは最愛の許婚を失って家を捨て、自ら女郎となった娘が、客との酒宴に狂騒する姿だった。


 報われなく救いを欠いたまま、後味の悪さだけを残して閉じられるエピソード。『暗闇仕留人』に限らず、前期必殺と呼ばれるシリーズでは、こういった形で後に深みを残す物語は少なくない。
 その深みこそ、人が生を営むこの世界の現実の姿であって、勧善懲悪といった架空のメルヘンとは程遠く、生きることの苦味とかわだかまりという本来性が淡々と、ごく普通に、そこにある。



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 誰かが必殺のことを「無念を晴らして無常が残る話」と評していたが、そういうなにか、「本当らしさ」こそが僕が必殺を偏愛してきた理由でもある。

 たとえ正しき弱者の恨みを晴らしたところで、それは恨みの元となった邪悪さと何一つ変わらない邪悪さを生業としているに過ぎない。それをまざまざと見せつける、矛盾に満ちた余韻を残す。
 殺し屋の物語を描くなら必然的に生じざるをえない当たり前の矛盾を、物語の外側に生きるわれわれの世界のリアルと沿わせるようにきちんと道理を突く。
 そういう真っ当な倫理観こそが、殺し屋をあくまで暗闇の底ので生きる者として描いてきた前期必殺の真摯さだったと思うのだが。


 『暗闇仕留人』の最終回、人の恨みを晴らす殺し屋として、恨みの根拠である悪と「晴らす悪」との狭間の矛盾で苦悩の涯てに辿り着いた貢が、主水に殺し屋を辞めたいと告げながら、決定的な結論へといたる。

「なあ八丁堀、俺たちは今まで何をしてきたんだい。世の中動いてる。この川だってオランダやアメリカや、イギリスの都ロンドンのテームズ川にだって繋がってるんだ。」 

「もう少し考えてみたい、俺たちはいったいなんのために生きてるのか、なんのために今まで人殺しをしてきたのか」

「だから俺たちは何をしたかって言ってるんだ。少しでも世の中良くなったか? 俺たちに殺られた奴らにだって、妻や子がいたかも知れないし、好きな奴があったかも知れないんだ。」



 必殺シリーズ全物語を通じても他の追随を退けるような屈指の名台詞である。同時にこの疑問の提議は勧善懲悪を娯楽として魅せる時代劇(あるいは単純に物語)全体に対する、ほとんどアンチテーゼのようなものである。正邪のレッテル張り抗争に終始する現実世界に対するある種の哲学的問いかけ、と言ってもよいかもしれない。

 主水はこの貢の台詞に対して、何一つ答えることができず、またこれに対する明確な解答を欠いたまま、後々の必殺シリーズを継続していくことになる(同じく『仕留人』の殺し屋であった村雨の大吉が貢の問いに対して「殺しは自分が食っていくため」とドライに答えた点も、このエピソードを深く膨らませている)。

 最期の殺しに際して、相手が自分と同じ開国論者であったがために一瞬の怯みが生じた貢は返り討ちに遭ってしまう。
 主水や大吉らに囲まれながら、ただ一言、「すまなかったなあ・・・・・・」と言い残して、貢は息を引き取る。

 開国を望んで、海の向こうの遠い世界を夢見ながら死んでいった貢を、主水たちは遺骸を船に乗せて、そっと沖へと流してやる。

 わずか必殺4作目にして、恨みを晴らす殺し屋の存在矛盾を『暗闇仕留人』のラストで提示してしまったまま、シリーズはこの主題をサブテーマに残していながら続いていくことになる。


 
 『暗闇仕留人』の主題歌、『旅愁』の歌詞の中にこんな一節がある。

 

白いほほえみも うしろすがたも / 遠い夢の中 あなたはいない



 この「白いほほえみ」という不思議な形容について、ネットの誰かが「白い、というのは最初から存在しない、という意味のことを言ってる」と説明していたような覚えがある(違うかもしれないけど)。

 糸井貢というキャラクターを思うとき、最初から存在しない意義の中で人を殺していって、人を殺すことに最初から意味も何もないのに殺していってしまったんだと、何もない空白のなかで気づいてしまった、そんな人物のように僕には思える。

 『新・必殺仕置人』とか『必殺仕業人』だとか、これを上回る好きなシリーズは必殺の中にあるにもかかわらず、『旅愁』を聴きながら『暗闇仕留人』に特別な意味合いを感じるのは、この「白いほほえみ」に引きつけられるからかもしれない。

 あれほど探して、「その日」まで探そうとして「ここまで来た」のに、本当は最初から何もなかったんだって無常しか残らない場所に戻ってくる、そんな「何もなさ」の、どこまでも変わらなさ過ぎる虚ろなやりきれぬ景色に、僕は自分が生きてる事実としての世界になんらかの類似した儚さを見つけてしまうのかもしれない。


 『暗闇仕留人』が放映された頃に生まれたせいでもあるまいが、『旅愁』を聴いていると寒々としていながら本当のところにいるような、不思議なノスタルジーを感じる。

(コアな必殺ファンの中で「貢のテーマ」と呼ばれてる『旅愁』のB面曲『みかづき恋歌』も、似たような、あてのない追憶感に浸される)







ありふれてしまった暴力が正気に満ちた静謐となるとき

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 僕は芸人・オピニオンリーダーとしてのビートたけしは反吐が出るほど大嫌いだし、映画監督としての北野武もまったく評価していない。北野武の映画は1作を除いて全部駄作だと思っている。

 その唯一僕が面白い映画だと不承不承に認めている作品は、彼の処女作である『その男、凶暴につき』である。

 昨夜、検索してみたら見つかったので、中学生以来、この映画を再見した。やっぱり面白いと言わざるを得なかった。

 この映画が初めてTV放映されたとき、たしか北野氏本人がゲストに呼ばれてた。彼が自作について口にした言葉の中に「戦前の憲兵(特高警察だったかもしれない)」を引き合いに出したことは強く印象に残っている。
 だから僕はこの作品を「暴力の根源をテーマにした映画」だと当時は認識していた。だがそれは誤りであって、北野映画は「暴力」を「作風」として平凡に多用する作品がずっと連なっていった。もし「暴力」を描いたのが『この男、凶暴につき』の一作限りであったならば、僕はこの映画に対する今現在の評価以上に絶賛していたと思う。

 北野氏の作品を総称するような言葉をして「北野ブルー」なんていうのがあったと思う。だが僕に言わせればこんなのはジャン・ジャック・ベネックスや村川透が既にやってることであって、後出しの小賢しい装飾としか思えない。僕は彼の映画の何が一番嫌いかって、既に誰かがやってるような小賢しい装飾(その多くがストーリーにとってあまり必然的なものとはいえない)がパクられてて、なのにスノビッシュな白人どもがそれを絶賛してたりするような現象に最も辟易している。

 だが『その男、凶暴につき』に関しては小賢しい無意味な演出がまったくない。

 たとえば、銃の発砲でまったく無関係な人間が殺傷されたりとか、刑事と容疑者がスローモーションの画面で格闘していてバットで刑事が殴られる瞬間に正常なスピードに切り替わったり、こういうのが一々ストーリーからの必然性を納得させられるのだ。
 無駄な映像美なんてものが全然ない。骨格だけの描写が最初から終りまで完全に連なっている。だから多くの北野映画とは例外的に退屈する場面がなくラストまで面白く見ていられる。

 『その男、凶暴につき』の一作限りを取り出して「暴力の根源」を主題にした映画として鑑賞するなら、これはかなりの佳作だと思う。映画冒頭、ホームレスが子供に襲撃され、その子供に対して主人公が最初から平然と暴力を浴びせる描写、あの辺りにそういうテーマ性が露骨に象徴されている。

 僕が一番興味深く観た場面は、ディスコ(って死語か?)のトイレで刑事がシャブの売人を吐かせようと平手で殴り続けるシーンである。
 刑事と売人を真横のローアングルから捉えて、延々30秒以上、ワンカットで殴り続けさせる。「どこからシャブを手に入れたんだ」「しらねえよ」、セリフも平手打ちと同じように延々反復されるのみである。この場面に「暴力」の根源的な光景を最も見せつけられているような気がする。

 「じゃあ、暴力の根源ってなんだよ?」って突っ込まれたら、実は僕は何とも説明仕様がないのである。だから映画で黙々と描写されてるんだよ、としか言いようがない。
 ただ、あのシーンを見ていると大阪の高校での体罰による自殺事件を僕は連想する。
 試合でミスをするたびに顧問から何度も体罰を浴びせられ、自殺した生徒は試合後に帰宅して「数十回ぐらい殴られた」と話したという。まさに映画のワンカット平手打ちの「暴力」の反復は、実際の日常場面でありそうな要素の特徴を上手い具合に抽出して描写している。

 つまり、現実世界のありふれた「暴力の日常性」をありふれていない演出でフレームアップしているからこそ、「暴力の根源」を見つめさせらている思いになる。


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 主人公が違法逮捕した容疑者を隠れて署内で暴行し続けるシーンも興味深い。

 殴っている場面を直接に見せるのではなく、音と、血まみれの容疑者の姿のカット挿入だけで暴力を描写する。上手い技量だとも思うし、現実世界の日常的な暴力なんてのは、無関係の非当事者からしてみれば、あんなふうに静謐で、あんなふうに可視化され得ないものだろう。まるでサントラに使われたエリック・サティと同じぐらいのあまりにも整理された静謐。

 親のDVで子供が殺される事件を引き合いにするなら随分納得させられる暴力描写である。親のDVだとかいじめのリンチだとか、それ自体は大変痛ましいものだが、暴力とは相対的に無関係に日常を生きてる者にとっては、あのシーンで血糊が塗られたカットが静かに挿し込まれるのと同じ程度ぐらいにしか、われわれは暴力を想像することができない。

 あの映画では「いかれてる」とか「きちがい」という言葉がセリフに乱発されている。宣伝のキャッチコピーの中にも「狂気」という言葉が使われてたりする。だが僕はあの映画で「きちがい」だとか「狂気」が描かれているとは、まったく思ってない。

 暴力がありふれたところでの人が暴力に駆り立てられる衝動とか、暴力行為そのもの以上に理不尽な暴力の動機が、われわれの日常でわれわれがどのように受けとめているかも含めて、デフォルメされてきちんと正確に言い表されている映画だと思う。

 『その男、凶暴につき』というタイトルそのものが滑稽なぐらい、あの映画での暴力はちゃんと説明可能な程度にありふれて正気に満ちたものである。そもそも暴力って、無関係に生きてる人間にとってはとことん理不尽だし「凶暴」としか言いようがないほど理解不能なものである。だが暴力と日常的に並行して生きる場面においては、暴力はすべてが説明可能なほどきちんと根拠がある。『その男、凶暴につき』という前提を置くような言い回しは、まるで暴力を単純に「狂気」としてしか片付けられない人たちへのアイロニーのようでさえある。
 
 このようにこの映画について考えているからこそ、北野映画の後続作品がことごとく「作風としての暴力」に固執して、バイオレンスがアクセサリーみたいになっていったことは、つくづく残念だと思っている。東映のヤクザ映画みたいに陳腐だし、ドラマがなくて殺しの場面だけ賑やかな後期必殺シリーズを見ているように退屈である。

 『この男、凶暴につき』の欠点を一つだけ挙げよう。
 主人公が死んだ後、彼に付いてまわってた新米刑事がヤクの横流しに手を染め始めるところで終わるラストである。なぜあの新米刑事が「悪人」に変わるのか、すごく唐突で脈絡がなさすぎなのである。いきなり訳分かんないオチで終わらせる。北野映画にありがちな「ストーリーの欠陥」が見事に処女作で表れている。北野映画はほとんどすべてが拙いラストシーンで終わってしまい、せっかくのラストまでのいい流れをぶち壊す。そもそもはなっからストーリーを重視していないから、終わらせ方が分かっていないのだと思う。

 ただし『その男、凶暴につき』のラストのストップモーションだけは正しい終わらせ方のように思える。あの秘書の女性のストップモーションとともにロールテロップが流れるのは、中学のときに見たときもものすごく印象的に残った。

 あれはなぜかすごく悲愴で絶望的なイメージだと思う。主人公が妹を射殺する直前の絶望的な表情とよく対照しあってるように感じる。





物憂げなMy self‐portraitのアパシー

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 ホームページを「ぷち更新」する作業を少しずつ続けている。

 jqueryだとかmootoolsだとかCSS3なんていう、全然知らなかったものと格闘している。こつこつ作業することで、なにかしらの感情の沸き起こりを抑制して、平板化して生きている。

 感情が平板化しているせいか、ブログに書くネタがなくて困っている。

 中庸でフラットを保つことは僕の病気にとっては良いことだが、「書くこと」に関してはまったく困りものである。起伏がないということは、文字にして叩きつけることがない、というか、重要な関心が生まれないということである。

 思い浮かぶことがないわけではないが、「ブログに書くほど大したことではない」と思ってしまう。本当は大したことではないこともないのだが、「大したことではない、ということにしておく」というふうにしてしまうのである。なぜなら平板な状態が一番平和だから。

 作業所に行かなくなってストレスがほとんどなくなった。というか、作業所に短時間いるだけで、なんであれほどストレスが生じて苦しまねばならなかったのか、そっちの方が奇異というか、不条理である。



 今は、ホームページの「自己紹介」にあたる部分に、いろいろ手を加えている。

 別になくてもいいのだが、「あったとしても面白いかもしれない」と思って、「自己紹介のビデオ」を作った。

 「自己紹介のビデオ」といっても、単純に「自分が映っているだけ」なのである。フェイスブックなんかでプロフィールの部分に自分の写った写真をアップロードしたりとか、多くの人がそういうのをやっている。あれをビデオで作ってみただけなのである。

 自分の映像以外は、自分が今まで作ってきたビデオ作品のカットを適当に取り出して前後に散りばめた。あんまり複雑なことは考えず、遊びのつもりで、適当に作った。

 それが下記のビデオである。







 作った直後に、音質が悪いのが気になって、どうも我慢できなくなった。

 たぶん音声ファイルのビットレートと、編集してエンコードする際の音質設定が間違っていたのだろう。だが、僕のメインサイトのトップでいつも流れてるファイルを使っているのが、どうも気に食わなくなった。

 「遊び」で「適当」のつもりだったが、「作り直そう」と思った。

 なにか良い音源ファイルはないだろうかとハードディスクを隈なく探してみたが、どれも時間が長い。長い時間のクリップを作ろうとすると、それこそ「遊び」で「適当」の領域を超えてしまう。

 ふとYouTubeをいろいろ見ていたら、Julee Cruiseの"In your world of blue"を使うことに思い当たった。

 YouTubeで流れているこのビデオは彼女のマキシシングルのPVで、絶対にCDを買わせるために、PVなのに使用されてる音は実際のCDの最初の1分だけである。

 I分だけならなんとか「遊び」で「適当」の領域で作れるかもしれない。もう一度再編集を始めた。

 自分の映像だけでなく、過去に写した写真まで静止画で使うことにした。そうしないと1分持たない。

 「自己紹介のビデオ」なのだが、1分持たすために過去のいろいろなソースを詰め込んだ挙句、完成したものは「現在の僕を自己紹介するビデオ」ではなくなってしまった。20代の頃の映像ソースまで持ち込んでしまったから。

 いろいろと「遊び」で「適当」の領域で四苦八苦した挙句に、出来上がったのが下記のビデオである。











 結局、「遊び」で「適当」にやるつもりが、僕の完璧主義を呼び起こしてしまって、2つのバージョンを作ってしまった。

 2本の違いはカラーの場面が多いか少ないかの違いで、カットの内容はほぼ同じである。

 他人がどう思うかは別として、Julee Cruiseの音楽は主観的には「ハマってる」ような気がしてならない。なにせ、曲タイトルが"In your world of blue"なのだから。
 僕のルックスがもっとセクシーであれば、さぞかしもっとアンニュイで気だるい「自己紹介ビデオ」ができたことだろう。

 昨夜から編集をしているが、"In your world of blue"が耳にこびりついて離れない。物憂げで甘く頽廃的なJulee Cruiseのセクシーボイスが、「ブログなんて書くのやめて、薬を多目に飲んで一日ベッドで半分死んでみない?」と誘ってくるようで、平板化した僕は平板を通り過ぎて、形がなくなってしまいそう。


 さて、どっちをホームページに載せるべきか。


 
 動画のエンコードを待ってる間に姫野カオルコのブログを読んでいた。ハシシタの発言について書いてて、いろいろ思うところがあったのだが、「ブログに書くほどのものじゃない」という例の無気力が襲ってきた。だから書かないでおこうと思う。

 しょせん姫野カオルコごときだから、彼女の妄言は大勢に影響もないし、まあ昔はよく読んでた作家だったけど、彼女と彼女のファンによるある種の攻撃性が嫌になったから疎遠になった。それも10年近く前の話だ。

 それにしても、作家のくせに毎日ブログ書いたり、ハシシタのことなんぞを話題に取り上げたり、よくそんな世俗的体力があるよな。感心するよ。



 僕のアパシーは僕の憂鬱なポートレイトビデオのように、フラットだ。平板だ。

 なにもないのだ。



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新しい動画をアップロードしました #10

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 相変わらず鬱である。なので仕事のことはできるだけ考えないようにしている。

 ブログにMediaBoxを導入した。「なにそれ?」って興味のある方はリンク先で詳しい説明を見てほしい。簡単に言ってしまえば、リンクをクリックするとサイトの画面が真っ黒になって、画像とか他のサイトとか動画なんかが、ガーっと画面に大きく表示されるJavaスクリプトである。

 こういう内職をすることで、とりあえず嫌なことを考えないようにしている。「どいつもこいつも薄情なやつばっかりだ」みたいな言葉が脳裏をかすめないように、やってもやらなくてもどっちでもいいようなことに没頭して時間を食い潰しているのである。


 前回に引き続いて、自作動画の紹介記事を書きたいと思う。ただ前回に引き続いて「新しい動画」ではなく、随分前に完成させたものなのだけど。

 ブログパーツで見つけて、すでに視聴してくださった方もいらっしゃるかもしれないが、備忘録も兼ねて、改めてご紹介させて頂きたいと思う。


 今回お知らせする新しい動画は"Love me, Miss Bot"というタイトルの作品。
 下の画像をクリックしてください。


loveyoumissbot.png



 YouTubeのサイトで見るにはこちら(HDサイズ) youtube-32x32.png   
 (上の画像をクリックしても視聴できない方はこちらへ)

 vimeoで見るにはこちら Vimeo-32x32.png
 (YouTubeよりもやや画像が綺麗です。画面が大きいです)



 このブログのYouTube埋め込みプレーヤー、またはYouTubeのサイトで視聴される場合は、高画質の設定にして見て下さい。 
 設定の仕方はとても簡単です。3秒あればできます。分からない方はこちらを見て下さい(YouTubeを本来の高画質で見る)


 この動画は2012年の11月ごろから準備を始めて、編集を年末から開始して2013年1月上旬に完成させた。使用したソフトはいつものようにユーリードのVideo Studio。動画共有サイトへのアップロードにのみ、Adobe CS4のエンコーダーを使用。

 ご覧になって頂ければ一目瞭然だが、このビデオは前回ご紹介した"Process of Depression"(記事はこちら、動画はこちら)と同じ動画イメージを使用している。ただしカットの長さや順序はまったく違っており、エフェクトをさらに駆使して、新たなイメージを付け加えて、全体の雰囲気は別個のものになっている。

 "Process of Depression"を作成している過程で、同じイメージを扱いながら全然作風の違う別のビデオを作りたいと僕は考えていた(そういう創作方法は僕にはよくあることだが)。"Process of Depression"で作り出したイメージがなかなか面白く感じられたので、これだけで編集を終えて他に転用しないのは「もったいない」と思った。

 いろんな構想があったが、このイメージを新たに「リライト」して別の作品にするなら、バグルスの曲を使用したMusic videoこそ一番相応しいと即決した。"Process of Depression"を完成させてからすぐに編集を始めて、前作よりもかなり苦心しながら、2~3週間ほどかけて作成した。

 
 バグルスといえば『ラジオスターの悲劇(Video Killed The Radio Star)』があまりにも有名な80年代エレポップバンドだが、そのころの僕の中ではバグルスのリバイバル・マイブームが起っていた。

 なんでそのころバグルスだったのか、よく思い出せない。"Living in the plastic age"の歌詞の和訳を見つけたのが発端かもしれないが、とにかく聴きまくった。有名な1stだけでなく知名度の低すぎる2ndも聴いてたし、トレヴァー・ホーン関連でイエスとかアート・オブ・ノイズもついでに僕の中でリバイバルブームが起ってた。
 バグルスがどれくらい素敵なバンドで、どのように僕が惹かれていったのか、それを語りだすとこのブログ記事の主旨から逸脱していってしまうので、とりあえずバグルスをよく知らない方はこのサイトをご覧下さい。


 僕のこのビデオ作品"Love me, Miss Bot"は、タイトルが示す通り、バグルスの"I Love You (Miss Robot)"を音源に使用したMusic videoである。

 もともとこの曲がとても好きだったし、ビデオを作るならこの曲が一番イメージを構想するのが楽しく感じられた。前作の"Process of Depression"の動画イメージを転用しリライトしてまったく別の作品に仕上げるなら、バグルスの" I Love You (Miss Robot)"が一番作りやすいと思った。

 この動画を作る以前、2010年にバグルスが" I Love You (Miss Robot)"を小さなライブハウスで演奏している映像をYouTubeで見つけた(こちら)。
 演奏するバンドの後方上部で映像がプロジェクターで流されている。ライブ映像自体がiPhoneか何かのカメラで撮影されているので鮮明ではないが、プロジェクター映像ではロボットの歩く動作のようなものと女性の顔が繰り返し現れている。よく見てみるとこの女性は東洋人、それも日本や韓国などの東アジアの人の表情らしいことが分かる。

 これを見て、"I Love You (Miss Robot)"で歌われるロボットの女性のオリエンタルなイメージが、僕の中で膨らんできた。それまでは"Miss Robot"という存在をあまり意識して考えたことがなかったが、東アジア系の女性を照らし合わせてみると、なにかこの曲が描き出す"Miss Robot"のイメージがしっくりくるような思いがした。
 
 だから前作"Process of Depression"をリライトしてまったく別個の作品を作るにあたって、すでにあった女性の動画イメージを"I Love You (Miss Robot)"を音楽に用いることで生かすことができると思った。
 そして再編集の際には"Process of Depression"で用いた映像の他に女性を撮った動画を新たに付け加えることにした。とにかく"Miss Robot"をオリエンタルな肖像として強調することに留意した。

 女性のイメージ以外の部分では、"I Love You (Miss Robot)"の持つ近未来的な雰囲気を多少デジタルなイメージで表現しながらも、ほとんど「近未来」を強調してはいない。"Process of Depression"で表した現実世界のイメージをそのまま転用した。
 この"I Love You (Miss Robot)"という曲は80年代特有の「近未来的」な雰囲気と同時に、リアルタイムに進行する世界に対する倦怠というかアパシーのような空気を表現しているようにも見えたりする。だからこそ"Process of Depression"の映像イメージをこの曲にぶつけた。

 ノイズ音楽を使用した"Process of Depression"では完全に音と絵の同期を無視して作ったが、今回のビデオは逆にある一定の範囲で音楽と映像が同期して重なり合うように編集した。音楽のリズムと展開にイメージの展開が盛り上がるように意図した。


 ビデオタイトルを"Love me, Miss Bot"にしたのは幾つか理由がある。

 まず、バグルスの曲名をそのまま引用するのはつまらないし、動画共有サイトで公開制限を喰らう可能性があった。
 "Robot"を"bot"にしたのは語呂合わせのようなものをを狙った意図は否定しないが、80年代にバグルスが近未来を想像して"Robot"というイメージで引用したことを、今の現代世界の一面に転化してみるなら、"Bot"という語句に表象させるのは案外的を得ているかもしれないと思ったからである。

 かなり昔のことだが、タンブラーでいろんな文章を拾い読みしていたときに、「ずっと実在の人間だと思ってツイッターで接していた相手が実はボットだと分かって、いろいろな意味で衝撃だった」というような誰かの体験を読んだことがある。その話がずっと僕の頭の中にあった。そのころよりは今はもっと多くの人がツイッターをやってるだろうから、ボットと実在のユーザーの区別ぐらい、みんな分かっているかもしれないけれど。

 "I Love You (Miss Robot)"の歌詞の中で、話者の男はロボットと電話で甘い会話をするけれど、お金が足りなくなってロボットの声が消えていくたびにコインを入れ続ける。そうやって孤独を満たそうとする。そうしながらも彼はロボットから去らなくてはいけないと思う。
 僕はこれらのフレーズによって、SNSにはまり込む自分や他の誰かの心の衝動を、寓話的に喩えさせることが可能だという感じがした。それは安易といえばあまりに安易すぎるかもしれないけれど。
 
 この"I Love You (Miss Robot)"は一言でいえば孤独を歌った歌詞である。それは人対人という自明の理の関係すら失ってしまった者が抱く孤独だ。そういう孤独は、一つの空間の中を共有するわけではなくて、インターネットのなかで特定できない誰かを対象化して本当の関係性と置き換えるような、現在の人々につきまとうある種の孤独に似ている。
 そういう類の孤独の中では、実際のところ相手がネカマだろうが年齢詐欺していようがあまり関係ないのではないだろうか。それは言い過ぎだと自分でも思うけれど、Facebookのプロフの中の写真とか、スカイプで繋がる動画の中の相手だとか、多くを共有しない空疎のうちの、ほんの表層の部分で相手と繋がること、それへの執着が、ロボットを相手にする寓話とよく似ている。
 そういう「空疎な表層の相手」を象徴化してしまえば、"Bot"という語句が適当な感じに僕には思えてくる。

 空間を共有しない、写真や音声の回線のような表層だけの刹那で孤独な繋がりだからこそ、ロボットの寓話と同じく"Do you love me?"という希求が切実なのであり、孤独さゆえに歪なものにならざるを得ない。

 そういう意味合いのことを込めて、この曲を使うビデオに"Love me, Miss Bot"という改題を行ったのだけれど、ビデオの内容自体はそうしたことを表現しているわけではない。

 ただ単純に、「切なさ」を描きたかった。

 
 余談ながら、僕が一番好きなバグルスの曲は実は"I Love You (Miss Robot)"ではなく、"Living in the plastic age"でもない。トレヴァー・ホーンがJ・G・バラードの小説に触発された(らしい)"Johnny on the Monorail"という曲である。ライブ演奏でも実にクールだ。



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