Hemakovichの半永久的平坦な戦場

パニック不全神経症者が落ちてゆくカムフラージュ

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『黒い看護婦』の感想、もしくは『世に倦む日日』みたいな陰謀論者は無視すること

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 『マッサン』は全然見ていないのだが、相変わらずニッカのウイスキーにハマっている。

 先日、ブラックニッカ・リッチブレンドと、モルトクラブを買ってきた。

 リッチブレンドの方はブラックニッカ・クリアよりも、より濃厚な感じ。味も香りもクリアのように淡白ではないし、アルコール度数も高い。
 クリアはよく「初心者向け」と言われたりするようだが、リッチブレンドになると「本格派」に一歩足を踏み入れた感じがする。クリアだと酔いも深くなりにくいからどんどん飲めるが、リッチブレンドはそうはいかない。ゆっくり味わって飲まないと味わう以前に酔いの方が先に回ってきてしまう。

 モルトクラブはグレーンを混ぜていない、100%モルトであるらしいのだが、製造する機械を2つ使ってるとかなんとかで、やはりブレンドウイスキーに分類されているらしい。
 だが、味や香りの豊穣さの点で言えば、リッチブレンドやクリアよりも、よほどユニークなウイスキーだという気がする。

 ネットで調べてみたら「青りんごやバニラのフレーバーがある」というのだが、実際匂ってみるとほのかに青りんごの香りが漂ってくる感じがする。
 ボトルを半分くらい空けてみると、今度はバニラの匂いがしてきたので驚いた。

 バーボンやスコッチ、もしくは他の国産ウイスキーを飲んでみたわけではないので、断言は出来ないのだが、ニッカのウイスキーは僕が今まで飲んできた酒の中でも、総じて甘い味覚がするように感じる。
 カクテルやチューハイのような故意に作り出した甘さとは違って、ほんのりと自然に甘い。それに加えて、さっぱりとしている感じもする。

 『マッサン』を見ている友人に言わせれば、
 「日本人の舌にウイスキーがなじまないというのは、『マッサン』の時代だけじゃなく、今でも事情は変わっていない気がする」という。
 うちの父も、
 「結局のところ、蒸留酒は焼酎に限る」と言いながら『マッサン』を見続けている。

 国産のニッカしか飲んでいないわけだが、僕は結構ウイスキーと相性が合っているように感じている。

 だが、僕は基本的に酒好きではないし、いろんなものを飲んできたキャリアがあるわけでもないので、写実的に説明しようとしても、いかんせん、酒を語る「言語」を持たない。
 「言語」が生まれるところには、いろんな酒を飲み比べてみた経験が必要条件なのだが、そういうわけではないので、単純に「おいしい」としか言いようがない。
 また「言語」がなければ、当然のことながら「批評性」も発生しないことになる。

 偶然にウイスキーに関心を持ったことによって、「言語」とか「批評性」が生まれる構図を図らずも理解したわけである。


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 録画しておいたTVドラマ『黒い看護婦』を見る。TVなんか全然見ていないのだが、朝日の番組批評に興味をそそられて、なんとなく見てみたい気になった。

 予想に違わず、見事に当たりで面白かった。

 寺島しのぶは目立たない女を演じても美人だよなあとか、大竹しのぶは以前、福田和子を演じただけあって上手いよなあとか、いろんな箇所で見どころがあった。
 一緒に見た母は大竹しのぶはなに考えてるか分からない怖さがあると言っていたが、僕はむしろ、実生活でも簡単に「人たらし」で周りを誘引するような、そういう天然さが彼女にはあるような気がする。

 このドラマで描かれた事件だとか、角田美代子だとか、北九州監禁殺人だとか、そういうのを引き合いにして「洗脳」の問題が語られ、「かくも容易に人は騙されるものなのか」とよく言われる。
 僕は洗脳とか心理学なんてものをまったく信用していない者ではあるが、他人をかくのごとき操作することは、案外簡単に可能になることだと思っている。

 陰謀論によって人々が容易にオピニオンリーダーの側へと転ぶ例は、最近で言えば朝日の慰安婦誤報問題とか、枚挙に暇がない。(一応確認しておくが「慰安婦に強制性はなかった」という説の方が陰謀論の側である)
 イスラム国の人質殺害事件でも、リベラルを自称するブログが「後藤は政府の工作員である」という身も蓋もないデマを垂れ流していたが、本来リベラル側に位置する読者たちによる賛同のコメントが溢れていた。

 また人間というのは、「自分で考えて生きていく自由」よりも、「他人に考えてもらって生きさせてもらう不自由」の方を案外選択しやすいものだと僕は考えている。

 自分の力と発想で自由に生きるというのは、しんどいものだし、絶えず不安がつきまとう。だけど、自分にとても親切にしてくれて親身に付き添ってくれる人が「ああしろ、こうしろ」と言ってくれる道筋に沿って自分を向かわせることは、とても楽なことだし孤独な不安も解消してくれる。
 そこに金銭だとか自分の思考を放棄した事柄が絡んでくると、人は一層従属的になるものである。なぜなら大金をはたいたり自由を放棄してまで献身した他者が実は自分を利用しただけだったという結末はあまりにも惨め過ぎる。だから従属者はその結末に至らないように自ら主体的に迂回して行動し、回避しようとまでする。

 結婚詐欺の被害者が加害者に対して峻烈な処罰感情を抱けないのと似たような状態である。

 こんなことを書いている僕にしても、すべてを理解していたところで、騙されるときはやっぱり騙されるのである。

 「あなたの死んだお兄さんがあなたの守護霊になって守ってくれている」なんて吹き込んできて優しくしてくれる女性が現れたら、僕だってあっさり自由を放棄して、導いてくれる先へ導かれる快感に酔ってしまうかもしれない。


 話を発展させてみる。

 世間で言われている「洗脳される」ってことを厳密に解釈するなら、われわれは「洗脳されながら日々生きている」と言わざるをえない。

 恋愛に執着してストーカーになってしまうのも「洗脳」されてるってことだし、ブラック企業でこきつかわれて過労死するのも仕事に「洗脳」された結果とも言えるだろう。
 新聞やTVを見て、編集された情報とコメンテーターの見解を鵜呑みにして、分かったふりをするのは「洗脳」されていないと言い切れるだろうか。

 国家だとか金融経済なんてものは一種の「劇場」システムに過ぎないものなのに、それらに生き方を束縛されてるわれわれは、国家や資本にとっての「洗脳」された奴隷だと形容することは可能ではないか。
 単なる光の投影に過ぎない映画に感動するのも、単なる紙切れに過ぎないお札を有り難がるのも、文明という巨大なペテンに完全に「洗脳」されたわれわれによる日々の隷従と使役によって成り立っている、そんなところまで拡大された論題を嗤える人間は、自身がそれほど自由に生きていると信じていられるのだろうか。 

 分かったような人たちが簡単に洗脳、洗脳って言うけれど、じゃあその人たちは「洗脳」されていないのかというと、厳密に考えたら人間というのはかくの如き「洗脳生物」として群れているのだと解釈するのは言いすぎだろうか。むしろ人間以外の動物の方が「洗脳」されずに本性のままに生きているとも思えるのだが。


 では、人間は「洗脳」されないで生きるということは完全に不可能なのか。

 そうではないと、僕は完璧に言い切れる。簡単なことだ。そういう「洗脳文明」に実際に生きているということと、それを自覚しながら生きている精神の自由は別個に成立するのだと思えば良いだけのことだ。

 最初に僕は洗脳とか心理学をまったく信用しないと書いた。少し厳密に言えば、「心理学に当てはめれば人間の心のことは何でも理解可能である」とする、「心理学主義」を僕はまったく信用しない。心理学を社会学に置き換えたものとすれば社会学主義だがこれも同様だ。
 「人間を一定の環境や条件の下で制約すると、心理学(または社会学)の理論に準ずる行動形態を必ずとる」とするような考え方を還元主義と呼ぶことがある。
 この還元主義こそが、世間で洗脳、洗脳と喚き散らしているコメンテーター連中の学問的根拠なのである。つまり、制約された人間の不自由状態を何から何まで「洗脳」という言葉で片付けられると盲信している輩のイデオロギーなのだ。

 この還元主義なんぞに、絶対に支配されないぞと、自分に固く誓うことが、「洗脳」などという馬鹿げた概念から自由に生きるための最初の一歩である。

 たとえこの世界で制約された生き方を余儀なくされたとしても、心の中の自由まで誰一人として自分を束縛することは出来ないぞと、固く信じることが、還元主義ごときに還元されない人間の根拠である。

 実存というのは、つまりそういう精神の在り方のことをいうのであり、実に身近な、われわれにとって切実な考え方なのである。決して大学の哲学科で薀蓄語る程度だけのものではない。


 『黒い看護婦』の感想的なまとめ。

 自由を怖れてはならないし、自由から逃げ出してはならない。自分に生きる行方は自分自身が決めることであり、不自由という楽な方に流れてはいけない。
 「自分が本位だ」ということをよく考えること。

 あと、ブログ『世に倦む日日』の著者みたいな陰謀論者には無視を決め込むこと。

 彼が後藤健二をスパイ扱いする理由は簡単だ。自分より若くて、影響力があって、尊敬されていて、金にも困ってなさそうで、ちょいイケメンで、どうやら奥さんは頭が良くて美人さんみたいだし、要するに許せないくらい妬んでいるからスパイに仕立てあげたいのである。

 このあいだ、『世に倦む日日』の一部記事が閲覧不能状態に陥ったのは、あまりに後藤氏への誹謗中傷がひどかったので、たぶん心ある人たちがエキサイトに通報した結果、ああいうことになったのだろう。
 ブログ主は「政府の検閲が始まった」とかほざいているが、あれを信用する程度のバカは、おそらく『黒い看護婦』での大竹しのぶ扮する女にだって、ちょろくだまされることだろう。

 ほうっておこう。





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命の重さに関する暗黙のうちの不平等な差別

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 数日前から標準ブラウザをFirefoxからOperaに切り替えている。

 いつもGroovesharkという音楽配信サイトから再生リストを聴きながらコラージュを作成しているのだけども、巷で言われているとおりFirefoxはどうもフラッシュの読み込みが遅い。
 特にGroovesharkのフラッシュとの相性は最悪で、いつも途中で音楽が止まったりして難渋していた。

 Operaは以前のパソコンではインストールしてたのだが、自サイトを編集した後の確認以外ではまったく使っていなかった。最近になってどこかのサイトでブラウザ比較を読んだのだが、Operaがノルウェーの会社による開発というのを知って、俄然興味が出てきた。東欧や北欧出身のソフトは高速だというような話をセキュリティソフトの解説で書かれていたのをうろ憶えしていたからだ。

 実際使ってみると、確かに早い。そして、なんか、軽い感じがした。

 Firefoxだと繋がりにくい米国サーバーの自サイトが面白いほど結構簡単に表示される。Firefoxの場合、時折動作を誤るとすぐにフリーズしたりセキュリティソフトからメモリ過重の警告が出るのだが、Operaだと少々荒い使い方をしても問題なく動いてくれる。フォトショップと一緒に使っていても問題ない。

 右クリックで表示される機能もほとんど両者に変わりはない。音楽ファイル等のダウンロードの拡張機能にしても、ちょっと検索して探してみたら、ごく短時間でFirefoxと同程度のアドオンがOperaでも見つけることが出来た。

 割と便利で使い勝手が良いブラウザだと思う。だがなぜか実際にはOperaはあまり使われていない。

 僕が管理している複数のサイトのアクセス解析を調べてみても、IE以外では、だいたいがGoogle Chrome、Safari、Firefoxという順番で使用されているが、Operaユーザーのアクセスがゼロの月もあるぐらい、あまり見かけない。

 以前、ウイルスの問題でIEの使用が危険状態に陥ったとき、ヤフコメを見ていたら難渋しているネトウヨどものコメントを多数見かけた。

 ああいった連中は本来パソコンのことには詳しいものだと根拠もなく思い込んでいたが、なんのことはない、世間の事情と同じくらい様々な面において絶対的に彼らが無知というか、「知る」という行為が本来的に欠落していて、それがあの輩たちの基調なのだと理解し、一層侮蔑の念を強くしたことは今でも憶えている。



 前からここで述べていることだけど、僕はここ1~2ヶ月だろうか、政治や社会全般のことに関心をあえて持つまいと思って、TVどころか新聞も読まなくなったし、ブログにもそういう内容の記事をあまり書かなくなった。

 イスラム国による日本人誘拐事件に関してもそれは同じことだ。

 それに対して意見とか感想とか、そういうのは表明しようと思わないし、自分の中においてさえ、あの事件をあまり考えないようにしている。
 もっと詳細に言えば、自分の中でさえあの事件に対する自分の意見を持つことさえ、避けようとしているわけだ。

 いろんな人たちが嘆いたり憤ったりして、ネット上で自ら意思を表明したりしているけれど、僕はあの事件に対する自分の感情を意識化すること自体、あの事件の首謀者の意図通りに動いているような気がして、一市民としての自分が愚か者になるように思えてしまうのだ。
 直接には無関係である赤の他人の僕があれに感情を乱されるのは、それこそイスラム国の狙いに沿って行動させられているようにしか思えない。
 うちの親父があのニュースを見ながら酔いも手伝って、
 「武力でカタつけてやったらええんや!」と激怒しているのを見て、これがテロリズムの波及効果の恐ろしさなんだなと理解した。

 だが、あの事件の過程すべてにおいて、僕が完全に無関心を貫けていたかといえば、まったくそうでもなかった。

 イスラム国の要求期限の時間帯などは、何度もニュースサイトを開いて注視していた。その自分の行為が愚かに感じられ、自分が振り回されていると自覚しても、それを止めることが困難である自分の感情と向き合わされた。

 80年代の核戦争TVドラマの『ザ・デイ・アフター』や『スレッズ』のなかで、登場人物たちが世界状況の悪化をTVで頻繁に注視しながら、核戦争がいつ起こるのかと、それを「待たざるをえない」姿が映し出されていた。

 僕はそれらのドラマの光景を自分に重ね合わせざるをえなかった。つまり、人質が殺されるのか、解放されるのか、それをメディアに頻繁に繋がりながら、なんの変哲もないこちら側の自分の日常の中で「待たざるをえない」、そんな渦中に没頭している愚かな自分を感じた。

 小松左京の小説にもあったけれども、まさに、そういう「待たされ方」の光景がこの時代の色合いなのだ。

 「待たざるをえない」その間の僕たちの日常の在り方は、いかにも滑稽であり、愚かしいという意味でのシニックに満ちている。

 その滑稽とシニックをいったん自覚してしまうと、“I am Kenji”などというネット上での「連帯」らしきものに対して、まさか同調できるはずもない。
 ああいう行為さえもが、われわれ一人一人の薄ら寒い日常のことを思えば、なんとも滑稽とシニックの色合いが滲んでいる気がして、僕の感情は冷えてしまうのだ。

 その滑稽とシニックというのがいったい何に由来するどのようなものかを考えるには、僕の想像力を論理に帰結させる能力が不足していて、あまりにも言葉が見つからない。


 それでも、僕が感情を意識化して表明しても構わないだろうと思うことが、ただ一点だけある。

 なぜ後藤さんは過剰なほどまでに美化され、死をあれだけ哀しまれるのに、湯川さんの死に対してはなんの反応も起こらないのだろう。後藤さんとの違いが歴然としているというか、ほとんど無反応という印象ではないか。
 (後藤さんに対する賛美はある意味度を越えていて、ナショナリズムの匂いまでして正直気持ち悪い。彼について言及しすぎることは、政治的利用の付け入る隙を与えてしまう危険性もある。)

 僕が知りうる限り、湯川さんの死に対してはっきりリアクションした著名人、哀悼の意を明晰な言葉で表明した人物は、直接の関係者以外では、アンジェリーナ・ジョリー、ただ一人の発言が目立っているのみである。

 この、命の重さに関する暗黙のうちの不平等な差別に対してだけは、この事件全体の中で、不気味な薄気味悪さを感じる。

 暗黙だからこそ、よけいに恐ろしい。これだけは滑稽やシニカルを突き抜けて、グロテスクという形容が見事に値している。





辺見庸よ、お前が言うほど「いまある現実」は愚かでも単純でもない

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 垂れ込める低気圧のせいで、まだらのように混ざり合う気分に悩まされる。

 以前から感じていたことではあるが、どうやら僕の抑うつは天候に左右される場合が多く、よくよく観察してみると、やはり雨降りの日には、憂鬱とやる気のなさが濃霧のように行く先を阻むことが顕著だ。

 あまりに今年は冬季うつがひどいので、主治医にエビリファイを処方される頻度が増えた。

 この薬はもともと統合失調症患者の陰性症状改善のために開発されたもので、よほどの効き目があるのか知らないが、とにかく開発元の大塚製薬が、国際的な賞をもらったとか聞いている。

 僕のように非定型型の鬱病患者にも使われる場合が多いらしい。最初のころ、あまり飲む頻度の少なかったころに飲んでたときは驚くほど劇的に効いた。
 その効き方というのが「ハッピードラッグ」とでも命名したくなるようなもので、抑うつ状態から一気に多幸感に満ち溢れる快適な状態まで押し上げる感じ。
 鶴見済が『人格改造マニュアル』に著していたプロザックについての表現と似た状態に思えて、効き目が現れるのも二、三日とごく短期間なのだ。

 あまりに幸せな気分に持っていってくれるものなので、これは覚せい剤みたいなものなんじゃないか、やばいんじゃないか、とすら思ったこともある。

 ただ、昨年末ごろの抑うつが一番ひどかった時期に毎日服用で処方されていた期間があってからは、以後、「ハッピードラッグ」というような多幸感が現れる効果は消えてしまった。

 今は頓服として処方され、だが飲む頻度も多い状態だが、抗鬱効果は地味ながら感じられる。だが重い鬱に落ち込みそうなところを無理やり引っ張り上げようとして、まるで頭の中で鬱とエビリファイが綱引きをしているような感じに思える。
 だから気分の状態が、なんとなく、まだら模様のように交じり合った感じで、完全に鬱でもなければ、かといって元気だとはとても言えない、すべてのやる気が起こらないまま、なんとなく身体が動かせるという、中途半端な現象になってるような気がする。

 この、まだら模様の状態はパニック障害の不全発作に似ている。鬱に陥る不安に彩られた状態だけが鬱でもないのに続いていって、なんとも気持ち悪い。



 辺見庸が最近、自著や対談で「人間の最後の尊厳はいまある現実を偽りだと言うことである」という言葉を盛んに用いているようだが、この言葉にどうも大きな違和感が感じられて仕方ない。

 細かなことは分からないが、彼がこの言葉に込めている内容は、たぶん、この国を取り巻く現在の状況に決して妥協しない、正統性を認めないという意味合いの表れなのだろう。
 その辺は理解できるのだが、「いまある現実」をここまで断じて拒否しようとする姿勢には、イデオロギーの表現を借りれば、まるで「極左」的で、このようなスタンスにだけは共に巻き込まれたくないという気持ちしか持てない。

 「いまある現実を偽り」とすることが、本当にそれが「人間の最後の尊厳」なのだろうか。
 むしろそれは、「最後の暴走」とか「最後の玉砕」のような、極めて危ういものに思えてならない。

 もし辺見の言葉がいまここにあるリアルの一切から乖離しながら突き詰めていくならば、極端な話、あらゆる人々は秋葉原の殺人者だとかテロリストだとか、ネット廃人だとか解理性障害疾患者になる他、道が残されなくなるのではないか。

 だいたい人生の終末において、自分が辿ってきた道の終着が誤りの世界に行き着いてしまったと思いながら死んでいくことが、「尊厳」という言葉の重さに見合う結末だろうか。僕ならそんな思いで絶望しながら死ぬのは絶対に僕の尊厳が生かされた最後だとは決して思わない。

 辺見のその言葉を咀嚼しながら想像を巡らすとき、僕はそこに、ネットに満ち溢れる自己顕示欲だとか憎悪に駆られた陰謀論者の姿を映し出す。
 それらの存在が辺見の言葉と通低するように思えるのだ。

 そもそも陰謀論者なんてものは、陰謀に含まれる卑屈さや狡猾さに塗れてしまって、自らもそういう手段を好むからこそ陰謀論者足りうるのである。

 現実の状況から一切の意味を見いだそうと出来ず、自分が自分にしかるべきところで生きていないことに我慢がならないと考える連中が行使する方法は、陰謀を好んで用いることで、状況の基本的な根っこの部分からすべてのリアルを卓袱台返しのようにひっくり返してしまう、そういう独りよがりな暴挙でしかありえない。

 「いまある現実を偽り」とすることを「尊厳」とまで言い切ってしまうことは、そういう短絡的な者どもたちの独りよがりさにお墨付きを与えてしまうことにもなりかねない。

 辺見の言葉自体のニュアンスには、そういう視野狭窄な行為のイメージを相手に印象付ける危うさが、表象にある。


 どのように抑圧的な政治体制であって、弱者が苛まれる経済の状況であったとしても、人々の生活は現にそこにある。
 人々の継続されてゆく日常というのは抑圧的社会によってすべてが定義されうるような、そのような短絡的かつ単純なものでは、決してない。

 どんな社会であっても親子の情はあるし、人は人を好きになったりする。そんな人間らしい基本的な営みを守り続けていこうとするガムシャラさだって、どんなことがあっても持ち合わせていたりすることだってある。

 日常に現れる幸せとか不幸せなんてものは、社会の体制の形に根底から支配されてしまうほど単調なものではない。

 社会そのものがどうであれ、人間一人一人の深遠な人生の意味が社会に決定づけられてしまうことなど絶対にありえない。

 現実を偽りとして否定し、意味を見いだそうとする一切の努力を放棄してしまえば、基本的な営みを地道に生き抜く人間の人間らしい愛らしさまでもが、「正義」だとか「大義」という名の下の憎悪や原理主義的観念によって踏み潰されてしまうことも起こりうる。イスラム国なんてものはそんな一例の真骨頂みたいなものである。

 僕は辺見に問い質してみたい欲求に駆られる。

 いまある現実が偽りとして否定されるなら、じゃあいったい、どんな現実が後に残されるのか。
 現実は常に現実の先端を目指して淡々と連なっていくものとして捉える他に、選択できるどんな道があるというのか。
 お前はお前自身の個人的絶望をいまある世界に投影しているに過ぎないのではないかという疑念を、お前は完全に否定し切れるのか。

 辺見がもしも創造者の端くれであるとするならば、彼には井上光晴の『明日』や、フランクルの『夜と霧』を熟読することを是非とも勧めたいものである。

 
 心ある者がいるとするなら、彼は現実に対して完全に負けて絶望に拘泥してしまうような、そんな脆弱な人間などではない。

 人間らしい日々の営みが続いているとするならば、それはアベゴミクズごときですべてが喪失されてしまうような、そんな単純で愚かなものなどではない。





ろくでなし子が「ただのおめ子」と改名すれば済む問題

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 皆様方にはどうでもいい話だが、僕の現在のハンドルネームは「どうせひまこ」、またはアルファベット表記で“Hemakovich Uzumaky”である。

 最近、これらのハンネをぜんぶ変えたくなって仕方なくなった。

 そもそも僕のハンネの由来は2つの原因がある。

 十年以上前に大学のサークルの後輩が年賀状を送ってくれた。むかしから諧謔精神に富んだ面白い男だったのだが、新しく変わったメアドを知らせてくれて、そのユーザーアカウントが“dousehimadesukara”だった。
 これが大いに気に入った僕は、当時出入りしていた詩投稿サイトで“Douse Himadesukara”と名乗り始めた。
 ただ、綴りが長すぎる難点と、当時の僕の詩を読んだ人たちが僕を女性と想像した出来事があって、「どうせひまこ」へと自然に略称するようになった。

 それから東欧だとかタマラ・ド・レンピッカに夢中だった時期に、タマラをモチーフにしたある詩を書いたときに“Himakovich Uzumaky”と名乗ったことがあった。後にこれを改良して東欧っぽい表記にしようと思ったので“Himakovich”は“hemakovich”となった(だが実際には東欧諸国の人とスカイプしていて“He”を「ひ」と発音してくれたことは、ただの一度もない)。
 
 “Uzumaky”というのも大学時代由来の発想であった。僕の自主映画を観てくれたある女性がマンガを描いていて、ペンネームが「渦巻けい」という名前だったからである。
 この名前を彼女に命名した男性は僕の友人だったのだが、命名の理由を尋ねると、
 「だって外国語にしたら『ケイ・ウズマキー』になるだろ? なんかタルコフスキーとかカウリスマキみたいでかっこいいじゃん」
 なるほど、と非常に感心してしまった僕は、それから数年後に自分のハンネとして横取りさせてもらうことになった。

 
 なぜ今になってハンネを変えたくなったかというと、マンガ『ナルト』があまりにも有名になったこと、それと漫画家の「ろくでなし子」の知名度が急激にアップしたことに起因する。

 端的に言えば、僕のハンドルネームがこれらのものたちにあやかったものなのではないかと、そういう誤ったミーハー的解釈をなされてしまう事態を、なんとしても避けたいからなのである。

 だいたいマンガはろくに読んでもいないので、『ナルト』は名前を知っていはいても主人公の名前なんか全然知らなかった。なのにInterPalsなどで“Uzumaky”を名乗ると、やたらとインドネシアの人たちから話しかけられる。どうやらかの国では『ナルト』は非常に人気があって、それにあやかって“Uzumaky”と名乗る人が大勢いる。そして同じように名乗ってる人には親近感を憶えるらしい。そういった事情が掴めて、僕は『ナルト』の内容を初めて理解したぐらいなのである。

 だが“Hemakovich Uzumaky”のハンネよりも、「どうせひまこ」を使う頻度の方が断然多い僕にとっては、『ナルト』の存在よりも「ろくでなし子」の一件の方が、よほど「迷惑」に感じられて仕方ない。

 この「迷惑」というのは「名前がかぶるから迷惑」という意味でのことに過ぎない。だが僕はもう10年以上この名前を使ってるので今更変えるのも結構不都合である。
 いったい彼女がいつから「ろくでなし子」と名乗り始めたのか、氏の経歴を調べてみても、2010年代以前の履歴は見つからない。
 だがなんといっても向こうは「まんこ」の一件で一躍時の人になってしまったので、無名のなんちゃって詩人の僕の方が彼女にあやかっているのではないかと、どうしても初めて僕の作品を読む人はそういう解釈をしてしまうだろう。

 そういうふうな想像が強迫的に僕に襲ってきて、どうしても「改名」したい衝動に駆られてしまう。時折、詩を投稿させてもらってる「星空文庫」では、すでにアカウント名を変えてしまっている。


 ろくでなし子の起こしたことの事件性については、正直、何の関心もない。
 
 逮捕した警察・検察も、彼女のシンパである側の者たちも、ろくでなし子を買いかぶりすぎである。どうして官憲はあんな瑣末なことで彼女をジャンヌ・ダルク化して売名に貢献してしまったのか。それとも彼らには北原みのりの口を封じるという別件的な意味合いが主目的で、ろくでなし子を「利用」したのか。

 女性器の呼称にこだわることで「まんこを下卑たモノ扱いしている」という、ろくでなし子の主張は、彼女のやってる創作活動の意味合いによって自ら破綻させてしまっている。
 「まんこ」のボートだとかランプだとか、3Dプリンターの情報だとか、彼女がやってることにおいて、彼女は著しく「まんこ」を物自体としてのカリカチュアライズしてしまっている。その本質には「下卑たモノを公に引き出す」という意味合いが根拠になっていると思う。根拠になっていなかったら「まんこ」をひたすらデフォルメする作業にいそしんで主張しないだろう。「まんこ」をモノに扱っているのは、下卑たものをアートで持ち上げようとする、芸術家としてごくありふれた動機を持った彼女の方であり、その点において彼女は十分に「まんこ」を「下卑たモノ」と認識している。
 留置所ではいたパンツの公開も、その流れで発想したのだろう。それぐらいのことをきちんと理解しながら左派的知識人は彼女を擁護しているのだろうか。フェミニストはどう考えているんだろう。逮捕されたら誰でも芸術家はジャンヌ・ダルクとして持ち上げられるのか。

 そうした彼女の自己矛盾に満ちた活動に対して僕は興味を持たない。むしろあれほど自己矛盾に満ちたことをやりながら、「まんこ」を「下卑た物扱いしている」と世間に向かって糾弾する、彼女の政治的言動の滑稽さの方に、むしろ僕の関心がある。
 
 
 ろくでなし子氏に提案したいと思うのだが、そんなに「まんこ」に政治的こだわりを持つのであれば、いっそ「ただのおめ子」に改名したらいいのではないか?

 「ただのおめ子」と名乗ることが「まんこ」を「物扱い」していて「下卑ている」とは全然思わない。むしろ「まんこ」にきちんとアイデンティティを与えている。「まんこ」ボートを作るぐらいなら理解してもらえるはずだ。「まんこ」が卑猥でもなく、日常的なものとして考えるなら、「ただのおめ子」と名乗ることはなんら不思議もなく、等身大の意味合いとして保てることではないだろうか、「花子」と名乗ることが花を下卑ていないのと同じように。この場合、「ただの」と付け加えることが彼女の主張に非常に適っているとも思う。

 自信を持って真面目にそう提案したい。なんなら僕が「ただのちんぽ子」に改名したっていいくらいだ。ただしそれは、もし僕が彼女と同じ内容の政治的動機を持つに至ったらの話だ。
 (実際のところ、ろくでなし子氏の政治的言動のなかには彼女の政治的動機など含まれていないのだと僕は推察する。たぶん「まんこ」はアートとしてのネタに過ぎないのだろう)

 
 幾つかの作品を読んでもらえば理解してもらえるが、僕は「おまんこ」とか「チンポ」だとか、詩の中で結構頻繁に多用している。
 「オマンコ選抜皆殺しエリア」なんていう作品タイトルもあるぐらいで、時々怒られないかと思ったりもする。

 だが、僕にはチンポやオマンコが「下卑たモノ」かどうか、そういうことにはまったく関心がない。ただ単純に「下卑たモノ」という社会の一部の偏見だとかコモンセンスを「なぞっている」だけなのであって、「下卑たモノ」という認識の現実があっても、全然構わないのである。
 僕にとっての言葉とは、それがどのような意味合いで現実に呼ばれているか、そのリアリティだけが重要なのである。
 そして、僕が作品を政治的文脈で描くときは、その現実性を否定しないところから始まって、現実が矛盾にぶつかるところに追い詰めることによって他者へ理解してもらう、そういう手段を使う。
 政治的意図がないところにおいては、言葉の呼ばれ方の意味合いなど、全然僕にはどうでもよいことであって、現実を適切に読み取ることのみが重要になってくる。それだけなのである。
 
 「まんこ」という言葉の日常的立場を考えると、それこそ言葉を発する人の意思とか無意識が無数にあって、百家争鳴のごとくいろんな主張があると思う。だがそれ自体は社会としては非常に健康な状態にあるといえるだろう。
 ろくでなし子氏が「まんこ」を伏せるな、ちゃんと呼称しろと主張することのなかで、「下卑た物扱い」などというのは後付けと似たような意味しかないだろう。
 「まんこ」という言葉を見たり発音したりしたい人と、したくない人、両方があって、それを公のなかで一方に強制しようとするならば、背景に妥当性がなければならない。だが実際には、「まんこ」を「下卑た俗語」と考えていながらそのことが女性蔑視と結びつかないケースは多分に含まれているわけで、パブリックに訴えるほどの妥当性があるかどうかは、かなり無理があるように僕は思う。
 「まんこ」という言葉を日常的に強制する作用のなかで、ジェンダーの問題を取り込むのは的外れだと思う。「まんこ」という言葉(とか、留置所ではいた他人のパンツ)を見たくない人は男女を問わず存在していると考えられるからだ。

 こうした呼称の強制の意識には、根っこのなかに「言葉狩り」と反対の意味での強制性が働いているように、僕には思えてならない。

 言葉の問題を政治的主題として扱うならば、「まんこ」はそれこそ百家争鳴状態であって、誰かの勝手気儘に対して強制性を発動させることは、むしろ百家争鳴の自由な状態を侵害する恐れすらある。
 政治的な意味で切迫さを感じるのは、むしろ「在日認定」などという明らかに他者の自由を排除するレイシズムにもとづいた言葉をパブリックに禁じる措置の方が、よほど現実的に重要だろう。

 「まんこ」を他人に呼ばせたい自由を行使するならば、ろくでなし子が「ただのまん子」とか名乗れば片付く問題なのである。
 ただしその場合、呼び手が「まんこ」ではなく「ただのまん子」氏のことを「下卑ている」と思うか否かに対しては分からないし、分かったところで意識を変えさせられるかどうかは本人の努力の問題だろう。
 
 だいたいさ、他人に「まんこ」と呼ばせるかどうかとか、そこに拘泥しすぎるのは、売名目的と思われても仕方ないと思うよ、まあ、「まんこ」ボートとかシール作るのは勝手だけどさ。

 「それだけなのか?」と看過されてしまって通り過ぎられるのが、創作者としては一番痛いことじゃないの?

 僕からすれば、「まんこ」だけじゃないってところが、引き出しの多さが重要になってくる創作者としては一番注目される箇所だと思うんだけどね。

 考えてみれば僕の作品、『オマンコ選抜皆殺しエリア』だって『チンポコ選抜皆殺しエリア』であっても全然構わないよな。描いてある内容、変わんないんだから。どちらかというと「オマンコ」の方が好きだから、そうなのであって。『女性器選抜皆殺しエリア』としたって、作品の質が変わるわけでもないんだし。
 
 問題は、僕の作品の意識がどこにあるかとか、僕の作品には「オマンコ」しかないのかとか、そういうことなんだと思うけどね。
 水玉模様を描き続ける草間彌生みたいな、ああいうある種実存的な理由は拘泥とはまったく別次元だと思うけど、あの人は他者の認識とか問題にしてないよね。
 なんか、ろくでなし子のやってることは、一時期パブリックとして流行って消えてったストリーキングと同レベルの程度しか感じられないんだよね。


 ここまでダラダラ書いてきて、なんかどうも、ろくでなし子と「どうせひまこ」がかぶりそうだとか、どうでもよくなってきた。

 調べてみてわかったけど、僕がよく知ってる「辛酸なめ子」とか、他にも「腹肉ツヤ子」とか 、「まんしゅうきつこ」やら、「魔神ぐれ子」とか、かぶりそうなのは無限にありそうだしな。

 作者の名前がときどき変わっていくというのも、作品の独自性の逆を踏むみたいで、面白いかもしれないな。





安楽死自殺の公表という死のイベントプレエ

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 ずっと感じていた違和感がいったい何であったのかを明確に認識することができた。

 脳腫瘍のため余命半年を宣告された29歳米国人女性が、11月1日に医師から処方された薬を使って「安楽死」した事件についてのことである。

 世界に衝撃、米29歳女性の「安楽死」 - J-CASTニュース 14/11/4


 彼女は今年4月に余命宣告を受けてからその死までの間、フェイスブックやYouTubeを使って自分が安楽死することを公に宣言してきた。
 その、公に自殺を宣言してきたという部分が、どうにも受け入れ難いこととして僕に違和感をもたらしたのである。

 いわゆるターミナルケア(終末期医療)はより良く進めていくべきだと思うが、この女性が選んだような自然死を途中で回避した形での安楽死は、僕個人が同じ場面に遭遇したとしても僕は絶対にそれを選択しない。
 ただ、個人の意見としては安楽死は絶対悪だとは思わないし、そういう自殺行為を手伝ってくれる国や地域があったとしても、それが問題だというふうには考えない。

 ただ、安楽自殺したい人間は勝手に死んでいてくれていいから、どうか世間に意見など表明せずに静かにひっそりと自殺していって欲しいと願っている。

 29歳米国人女性はその点で完全なペナルティを犯して死んでいった。

 彼女が世界に向かって自分の安楽自殺をSNSを使って広めたことの中に、利他的要素は皆無であり、あれは彼女が自己満足と他者への一方的な承認要請を押し付ける動機からなされた行為だと僕は考える。
 たぶん彼女にとってSNSで自死をあのように公言することは、彼女のなかでは限られた範囲の人々に知らせる程度のライトな感覚であったのだろうと推測する。
 だがインターネット以前を知る僕のような世代にとっての「限られた範囲」は、29歳女性にとっては世界規模と言って過言ではない広さまで無尽蔵に拡大し、彼らにとってそれはちっとも怖いことではない。
 その無尽蔵な広さに驚愕や恐れを感じられないのは、技術に比例して、人間の知性が賢明になったわけでは全然ないからである。

 迷惑極まりない。自己の死に対する美意識を赤の他人に関わらせる構図へ誘導するのは、自己愛のエゴイズムでしかありえない。
 「許せない」とすら思う。

 自分の死を家族だけに共有してもらうことだけでは満足しきれなかったのか。

 SNSを駆使してまで安楽自殺を見知らぬ他人に共有してもらわなければ、その孤独さや恐怖を克服することができなかったのか。だったら彼女が自殺など最初から選ばなかった方が、他人にとってはマシだったはずである。

 もし自殺が彼女の自己愛の延長線上にある美的イベントの軽さしかなかったとすれば、そんなバカにSNSという手段を安易に利用できるようにした世界の商業性に問題があったとも言わなければならない。
 バカは決して一人ではないのだから、これからもこのような「告知プレエ」を楽しみながら、死をイベント化して、他人に不健全な感化を擦り付けながら自殺してゆく連中はきっと現れ続けるだろう。

 このニュースに最初に触れた瞬間に最初に感じた不健全の不快さは、園子温監督の映画『自殺サークル』を見たときの反吐を催したときの感じ、あれと似たようなものだった。

 これからは大手メディアが自殺報道を自粛し続けていくにしても、こういう自分がやっている行為の罪深さを自覚できないような連中によって、他人が簡単に人生の主題を短絡化させられる危険に吸い込まれる時代となるのだろう。

 

 僕の父の従兄弟は50歳半ばで誰にも看取られることなきまま、独居のアパートで、おにぎり2つ残して、数年前に餓死した。
 彼はフェイスブックやYouTubeなど縁がなかったばかりではなく、新聞のおくやみ欄にすら載せられず彼の死は親族によって伏せられた。
 いま現在、無縁仏として、そのおじさんは祀られていて、おじさんの死を省みる機会と場面すら剥奪されている状態である。

 僕がどれほど頭で思い描いたとしても、イメージのなかで僕が掘り起こそうとするおじさんの死は、あまりにも痛ましく、彼がたった一人で迎えようとしたその瞬間の孤独や恐怖、無念さは、どんなに時間を経たとしても、僕はそれを絶対に感情としては受け留められることなどこの先もありえないことだろう。

 だが理性においてはそれはまた別だと言い切れるかもしれない。そんなふうに考えられるようにもなってきた。

 先日、TVで観た映画『南極物語』で、放棄された樺太犬が痛々しく鮮血を流しながら、飼い主たちが極地に残していったピース缶を力なく、ちろちろと舐めつつ息を引き取るシーンを見た。

 それを涙をいっぱい流しながら見て、思い出していたのは餓死したおじさんのことだった。

 どんなに哀しみが大きすぎて受け入れられないとしても、そこには、きちんと尊厳があって、死の姿によって変わることなど決してない終わりの尊さを誠実に教えてくれているように、僕はそういうふうに理解した。

 死の瞬間に向かおうとする経緯のなかにこそ、見届けて学ぶべき姿を伝えてくれているんだと、何度も何度も反芻した。

 何度も繰り返すが、哀しみが癒されることが生あるものの気持ちとして迎えられないのだとしても、悲しみの悲惨には、きちんとした意味がそこにあるのだ。
 その意味を一生涯ずっと反復していくことが、生きているものが死へ向かうまでの、唯一つの貴重な使命なのだと、僕は自分の知性に訴えかけながら、自分の終わりを一つ一つ用意していくようにして、いまここにいる自らを認識する。

 僕の場合は、そんなところだ。

 だから僕の終わりに安楽自殺など当然ありうるべくもない。


 自分が死ぬということだけは、どんなにたくさんのアカウントによる「いいね!」に囲まれたとしても、それによって括られて通過されるような矮小なものであってはならない。
 そんな事態は、決して許容される時代であってはならない。





ツイッターなんて断言と雄弁へ従属させる小道具である

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 どうやら今年も冬季うつに突入したらしい。先週ぐらいから調子悪い。

 何をやるのも億劫で、家事も投げ出したくなる案配で、こうやってブログを書くのですら苦痛になってくる。

 今年の冬季うつは今までになかった特徴があって、それはほとんど性欲が起こらないということである。これは先月ぐらいに今まで飲んでいた抗うつ剤を別のものに変えたせいもあるかもしれない。

 うつ状態のなかで思考する内容というのは、うつ状態に支配された状態での産物なので、正しい認知だとは言えない。だがここ数日よく考えるのは、「年齢ばかり重ねるだけで、もはや今の生活に何の変化もないまま老いてゆくだけなんじゃないか」というような不安である。

 ヴィム・ヴェンダースの映画に『都会のアリス』というのがある。大学のとき「ドイツ文化概論」とかいう講義を受講していたのだが、講師はドイツ人男性で、この映画を講義の題材に使った。

 「この映画の主人公の男は要するにアイデンティティの不安にさらされているわけなんです。男は40歳前後になれば誰でもこんな抑うつ状態に襲われます。僕もそうでしたし」
 ダンツィヒ生まれの少し髪が薄くなった優しいその先生は、ニコニコしながらそう話したのを、今でもなぜかよく憶えている。

 確かに30代半ばぐらいまでは、人生に対して漠然と不安を感じることは皆無というぐらいなかった。だがこのごろになって、やけに、考えても仕方ない先のことについて鬱屈に不安を感じてしまう。

 大雑把に言って、人生なんてものは承認欲求の塊によって支えられているものである。

 だから他人から認められる機会が少なければ、自分で自分の人生を承認してしまえば良いのだ。たぶんそういうことができる人が「強い人」なのだと思う。
 でも強い人であっても、ときどき自分のことが分かんなくなって、非生産的に悩むことだってあるだろう。

 そういうときは昔のことを考えればよい。強い人なら自分の過去をどんなに突き詰めても決してそれを否定しないものである。そういうやり方で人生は継続されてゆく。




 数日前に書いた「誘発された感情の理由を思考できないメディアウイルス」という記事の中で、TV映像というのは知性によって反駁することが最も困難なメディアである、てな感じのことを書いた。

 近頃思うにツイッターというのは知性が介在する可能性がないに等しいものであるばかりか、反知性主義的な使われ方をするメディアであるように感じられてならない。

 大体、あんなものを使って思考するユーザーなんて存在するだろうか。意味のありそうな文言のように感じられても、それでも所詮思考に発展性を付与しない断言に過ぎず、美意識に拠った言葉の装飾に過ぎない。

 そもそもほとんどの人はツイッターの使い道が分からないのにツイッターを使いたいがために、浮遊する内容しか書けない。

 他人の言葉や写真をリツイートするにしても、そこには知性など作用しないのは、一瞬の情動しか働いていないからである。
 情動が作用する動機となるのは、情報の強度やソフィストのごとき無価値な雄弁の流麗さのごときものに情動が刺激されているに過ぎない。

 ここで一番大事なことは、リツイートの馬鹿馬鹿しい連なりのなかに、わずかでも思考された痕跡のようなものが見事なまでに皆無に欠落されているということである。

 極言すれば、ツイッターなんてものはオピニオンリーダーが発する断言へと連鎖的に従属するファシズムの小道具というべきものである。
 だからこそ、ドミートリー・メドヴェージェフのような独裁者プーチンのパシリ政治家もツイッターを愛好している。

 以前、「ウェブはバカと暇人のもの」であり、「ネットはバカに発信力を与えてしまった」との名言を吐いた者がいた。

 ツイッターとは、バカと暇人をますますバカで怠惰な者たちの世界に集約する最強の動員兵器となった、とも言えるかもしれない。

 考えてもみよ。ツイートしたり他人のそれをリツイートしたりするのに、10分や20分でも真剣に考え込んだりするような真摯で誠実なユーザーなど存在するだろうか。

 たとえ未来永劫ネットが存在し続けたとしても、ツイッターやそれに似た類のソーシャルワークだけは必然的に駆逐され知性ある世界から完全に放逐されなければならないと考えている。





誘発された感情の理由を思考できないメディアウイルス

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 『永遠の0』だとかいう小説を書いた海坊主みたいな極右作家が、今度は故やしきたかじんについての本を、なんか書いたらしい。

 新聞の広告で、たかじんが闘病中に書いたらしいメモの言葉と、死去前に写した女性とのスナップ写真が配置され、海坊主が「これ以上のものは書けない」とかのたまっている。非常にウェットに構成された広告を眺めながら、「こんな本、読みたい奴がいるってのが不思議だよな」と思っていた。

 たかじんがどうだとか、海坊主がどうだとかいう以前に、ウェットな売り方が気持ち悪いのである。

 なぜ自分がそれを許容できないのか理由を考えていて、現大阪市長が知事選に出馬表明したときのことを思い出した。2万パーセントだか絶対出ないとか言いながら結局出馬したのは島田紳介だとかたかじんに背中を押してもらったのが理由であるとか述べながら極右弁護士は目を潤ませたりとかしていた。
 あれを眺めていたときも、「こんなウェットな会見をして票がもらえると踏んでる神経が気持ち悪い」と思っていた。

 いろいろ考えて結局のところ、ああいうウェットにカタルシスを感じるか否かの分水嶺は、彼らのことをTVで日常的に見ているかどうかの違い、それだけでしかないのだろうと理解するに至った。

 スケートリンクで他選手とぶつかって負傷しながらも結果を出した選手の話に、まったく僕が感情移入しないのも、きっと同じ道理に根拠がある。僕が彼のことを今まで一度もTVで見たことがない、それだけが心を微塵も動かされない理由だろう。

 TVという媒体がそうなのか、映像の本質がそうなのか、その辺はよくわからないが、とにかくTV映像というのはわれわれの日常性のなかで、もっとも人を感化させカタルシスを刺激するメディアだと思う。
 TV映像の感性に対する感染力というのはすさまじく、人はあれを眺めるのと同時的に肯いていて、否定的違和感が挟み込れる余地がほとんどない。
 慣れ親しまれた方法、つまり一定のマニュアルに従った撮影や編集・音響の効果で映像を流し込むと、ほとんどの人間があれを批評的に鑑賞するという姿勢を発することなどありえず、作り手の意図そのままが頭にダダ流れされる。
 人間というのは笑わされることよりも、感傷的気分に誘発させられることの方が刺激としては単純である。だからウェットな印象効果がやたらと多用される。

 文字による媒体に対するリテラシー能力は、案外多くの人たちがそれを保っている印象があるのだが、TV映像の感染力が前提にあると、人は文字媒体に対してもTVから受けた印象をなぞるようにしかそれに接することができないように思う。
 
 インターネットこそがメディアの頂上であるがごとく語られる頻度も多いが、あれはTVよりも後発で「新しいものがすべて」という観念に捕らわれているに過ぎない。
 ネットがもたらした最大の産物は、TVや文字媒体を「見ているだけ」であった受け手が発信力を持てるようになったことである。
 だが彼らが発信する内容というのは、大概がTV映像に刻印された意図に対してその意図通りに印象をなぞるしかないのが関の山である気がする。

 ネット時代だとどんなに喧伝されようとも、いまだ最大の感染力を誇るメディアウイルスは、やはりTVなのである。

 
 リテラシー能力というのは単純に言えば「批評する力」のことだが、好きか嫌いか、もしくは退屈かを述べることは、批評することとはまったく違う。
 ただし自分が好感を持つものや「正しい」と感じるものに対しても「敢えて疑ってみたりする」という実験ができるならば、それだけでその人はきちんと「批評している」といえる。

 批評するということを他に言い換えてみれば、それは「送り手の意図がなんなのかを考える」ことだと言うこともできる。

 しかし、好きなものや正しいと思えるものであっても「それは置いといてちょっと疑ってみてごらん」なんていうことは、学校でも社会でも、その効力について教えてくれることなど、まずない。
 特に映像に関しては、それを鑑賞しながら「この場面はどういう目的があるのか」と同時進行で考える、なんてことをする人は評論家以外にはいないだろう。
 
 映像を見るという行為の中には内容を吟味する以前に、すでに鑑賞者の目的が織り込み済みで含まれている。よく言うではないか、「泣ける映画を観る」とか。

 スキャンダルを起こした有名人の弁解の会見を観る場合でも、「こいつは許せないから叩く」という結果がすでに会見内容を見る以前に先行して決定されている。
 そしてその会見を映像で送る側の人間も、「許せない奴を叩く」という心理の需要に応える目的で、内容に先行して編集や演出を用意しているのである。

 つまり映像というのはある方向に感化されるために観るものであり、映像を見る行為と同時に内容の方向に「逆らいながら考える」なんてことは絶対なされない。
 共感するか反発するかのどちらかに作用させられて、そういうふうに誘発させられた感情はおおむね映像を作る人間の作為に従順である。
 誘発された感情の理由を思考する、作為に対して知性で反発するために「ちょっと立ち止まってふりかえる」なんてことをするために存在するものだとは、映像に対しては人々はそのようにするものだとは一度も考えたことがない。


 しかしそれって、恐ろしいことだし気持ち悪いことなのではないかと内省してみる必要があるだろう。

 映像という感染ウイルスに対して、それが自分の批評を妨害する危険なものであると認識する免疫機能を、あらかじめ自ら殺してしまい、感染効果に対して無防備であることを許すようなものでしかない。

 ただし映像媒体にたいして批評的な知性で向き合うなんてことは、なかなか難しいことだと思う。

 TVでバラエティーを見ていたら「釣られて」笑うなんてことがごく当たり前の反応とされるように、映像に対して感情のみで反射させられることが普通のこととして、子供のときから慣らされている。NHKの幼児向け教育番組だって、映像はカタルシスでもって反応するものとして仕込みがなされている。あれに反応されない方が情操的におかしいとされる(それはある程度は正しいことなのだが)。


 僕は自主映画を学生時代に作った影響で、映画を観てもほとんどの場合感動しながら観るなんてことはない。どうしても作り手の意図なんかを思考しながらシーンを「分析」するから、映画を楽しめない。TVドラマなんか意図が安っぽいから、バカバカしくて観れたもんじゃない。

 TVなんてもんは基本的に大衆扇動の暴力装置と思えるくらい作為が見え透いてしまい、またその作為というのが随分視聴者を舐めていて、その侮蔑にむかつくから僕は皆無に近いほどTVを見ない。断言してもいい、TV局の奴らどもは庶民は「バカ」「C層」としか看做していない。

 僕が極右の海坊主が書くやしきたかじんの本や、フィギュアスケート選手の流血事故に「ほお・・・」とか「へえ・・・」とかしか反応しないのは、TVを見ないからである(逆に言えば野球中継は見ているからプロ野球選手には親しみを感じるし、ごくたまたまの偶然に試合を見て「かわいい!!」とか思った石川佳純さんは結構熱心なファンだったりもする)。

 TVを皆無に近く見ないのだが、それでも何かの拍子でNHKの大河ドラマとかNHKスペシャルなんかを見ると、感情の向くままに内容を鵜呑みに取り込んでしまった自分を、後になって意識したりすることもある。

 まことに映像というのは実に手ごわい相手である。

 映像を見る行為に知性が同時に伴うなんてことが当たり前の所作として、啓蒙され、広く行き渡る時代が来るのはどのくらいの世代を経た後だろうか。

 そんな未来はありうるのか?





それのどこが「大人の態度」なんです?

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 長く生きているので、今までにいろんな悪いことはそれ相応にしてきたけれども、殺人と窃盗と非合法麻薬、それにギャンブル、そういうのには未だ手を染めたことはない。

 ギャンブルに関してだが、競馬や競艇はもちろんのこと、パチンコも今まで一度もやったことがない。友人がやるのについていって一回だけ入店したことはあるが、自分では玉は買わなかった。だからパチンコ屋の店内の景色だけはどんなに頑張っても頭に思い浮かべることができない。

 かつてギャンブル依存症の友人がいたことがある。

 パチンコがやめられないということを初めて彼から打ち明けられたとき、その友人が別の友人から十数万もの借金をしてまでのめり込んでいたことを知らされて、「それほどまでしてやってしまうものなのか」と、大層驚かされた。
 一年ほど大学のスクールカウンセリングに通って治療を試みたが、結局彼の状態は改善されず、パチンコ依存が原因となって恋人とも別れ、下宿を引き払い、田舎に帰ってしまった。

 生年月日が同じである小学生からの友人がいたが、その男もかつて深刻なパチンコ依存に陥っていた。音大を出た後、バイオリンだかピアノだかを教える教室に勤めていたのだが、給料をまるまる注ぎ込むほどの荒れた生活を送った挙句に、とうとう職場の楽器を盗んで売り払ったのが露見して逮捕されてしまった。

 ギャンブル依存のために派手に人生を破綻させた友人が2人もいるというのは、レアなケースかもしれないが、ともかく周囲にそういう例があったために、煙草はやめられなくてもギャンブルには一歩も立ち入らないようにしようとする自覚が、いつしか僕の中に芽生えていた。


 現政権がカジノを日本にも作ろうと考えているらしい。

 とりあえずは外国人のみが利用できるものを作ろうとしているそうだが、一度カジノを作ってしまったら、そのうち日本人も入場できるようにハードルを下げることになるだろう。

 朝日新聞オピニオン面で、『カジノと民主主義』というタイトルで、内田樹へのインタビュー記事が掲載されていた。

 僕はこれに関して自分の意見を持っていないのであまりよく分かっていない。だからカジノ法案に対する内田の見解にはただただ「なるほどなあ」という感じで、ぼんやりと眺めていた。

 内田の主張を端的に言えば、パチンコのように既存の賭博業がすでに存在していることと、国が堂々と公認して賭博業を産業として認めることは、その意味合いが全然異なり、後者に関しては賛成しないということ。
 なぜなら本来賭博は不幸になる人が増えていくことで利益を増やすビジネスモデルであるから。パチンコのようにあくまでグレーゾーンに留めおかれていることで足かせとなっているものを、為政者が国策として押し進めるのは節度も謙虚さもない、それは国がやるべき「経世済民」の理念から反している。
 福島の原発問題や震災復興、沖縄の基地問題など、他に優先順位の高いことがたくさんあるのに、なぜ金儲けの話ばかりになるのか。
 以上が内田の主張の大雑把な要約になるのだが、興味がある方は上記のリンクから詳細を読んでみてほしい。なかなかいいこといってると思う。

 このインタビューはカジノの話を次第に脱線して、現政権と民主政治の反映といったようなテーマにシフトしていくのだが、僕が興味を持ったのは実はそっちの方だった。

 現政権が一定の支持率を保っていることについて、内田は国民が「こむずかしい政策論争よりも民生の安定を望んでいる」のにもかかわらず、それをメディアが「有権者は経済成長を望んでいる」という話へと矮小化し、「有権者は何より金が儲かることを望んでいるというふうに世論を誘導していった」のだとして、メディアの責任を激しく糾弾する。

 「武器輸出も原発再稼働もカジノも『金が儲かるなら、他のことはどうでもいい』という世論の形成にあずかったメディアにも責任の一端があります。メディアはなぜ『金より大切なものがある』とはっきり言わないのか。国土の保全や国民の健康や人権は金より大切だと、はっきりアナウンスしてこなかったのはメディアの責任です」

 
 この、内田の「金より大切なものがある」に朝日の記者は反応したのだろうか。
 「理想を高らかにうたうのは大切だと思いますが、成熟した大人にとって、現実的な議論とは言えないのではないでしょうか」などと嘯くのである。

 これに対して、内田は猛然と、キレる。

 「それのどこが『大人の態度』なんです? 人間は理想を掲げ、現実と理想を折り合わせることで集団を統合してきた。到達すべき理想がなければ現実をどう設計したらいいかわかるはずがない。それとも何ですか? あなたはいまここにある現実がすべてであり、いま金をもっている人間、いま権力を持っている人間が『現実的な人間』であり、いま金のない人間、権力のない人間は現実の理解に失敗しているせいでそうなっているのだから、黙って彼らに従うべきだと、そう言うのですか」


 この部分を読んだ直後、僕は不覚にも、ちょっとだけ泣きそうになってしまうぐらいの激しい情動におそわれた。

 感動してしまった。

 「金より大切なものがある」というのは実に稚拙ではある。だがそれを「成熟した大人にとって、現実的な議論とは言えない」などと上からの態度のごとく言い捨てる記者の反応もまた、稚拙かつ紋切り型のものであって、いつもどこかで見慣れたようなものである。

 だが、

 「あなたはいまここにある現実がすべてであり、いま金をもっている人間、いま権力を持っている人間が『現実的な人間』であり、いま金のない人間、権力のない人間は現実の理解に失敗しているせいでそうなっているのだから、黙って彼らに従うべきだと、そう言うのですか」

 この言葉も当たり前のことのようであるが、ここには「人を救う」ものが宿っていると思った。当たり前のようなことでありながら、誰も見向きもしないものであり、誰も口にしないような言葉だ。
 だがこんな言葉を、愚直であろうとも、敢然と言い放つ、その態度に、僕は賢明さの希望を感じた。

 
 僕は朝日新聞と地方紙しか読まないから他の新聞のことは知らない。だが比較的リベラルである朝日に対して時々怒りを感じてしまうのは、「理想を高らかにうたうのは大切だと思いますが、成熟した大人にとって、現実的な議論とは言えない」などと嘯く態度のごとく、スノッブなエリート感情というか、われわれ読者を見下した意識を紙面から感じ取るときがあるからだった。

 それに対する内田の半ば義憤に駆り立てられたような応答は、僕のような人間にとって、「誰か代わりに言ってくれないだろうか」と切実な感情に寄り添ってくれたものであり、僕が僕の怒りに対して言葉にしようとしても言語化できない感情を説明してくれたような言葉でもあった。

 今まで内田樹に対しては良いイメージを持っていなかった。

 彼の物言いは時として、日本を批判するときに自分が当事者である日本人であることを欠落させたような印象を感じて、「嫌な奴だ」と思ってきた。
 「スノッブは嫌いだ」と言いながら内田自身がスノッブに感じるときもあるし、洗練された話し方を意識しているような感じも伺えて、高橋源一郎と似たような鼻持ちならない知識人特有の悪臭を感じるときもあった。実際、この「カジノと民主主義」の文中でもそういう内田節は健在で、僕は全面的に評価しているわけではない。

 だが上記に引用した内田の発言は、本当に見事に感動させられてしまった。こんな愚直で誠実な言葉を吐いてくれるような人だと思ってなかった。こんなことをいう日本人を久々に見た思いがした。

 ちょっとだけ彼を見直した。

 この紙面を読み終えたとき、いつも過ごしている朝の時間が、いつもと違って、なにか特別なものと向き合っているような、そんな美しい朝に感じられた。





農業、反革命、マイノリティと、いつか見た破局

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 うちの家は小規模な兼業農家で、減反やら本業の多忙が理由でもう20年以上稲作は休耕したり専業農家の人たちに収穫してもらっている。
 だがここ近年、年老いた両親は「将来かならず食糧不足がやってくるから、今のうちに稲作を覚えて米を作れ」ということを息子にさんざん言い聞かせている。それがどうも僕には煩わしい。

 今日も昼食を食べながら、母と戦時中の食糧不足の話題になって、同じ枢軸国でもドイツは日本のように農家まで無差別大量に徴兵に狩り出したりしなかったから日本ほど深刻な食糧不足に陥らなかった、というようなことを話すと、
 「なんでそんな身近ではない大きな話ばっかりで、おまえはもっと地に足つけて米を作ろうとは思わないのか」と、激怒するように言われたので、ちょっと面食らった。

 僕の人生は根本的に地に足ついていないというスタイルでここまで来てしまっているので、そこのところを突かれると、まったく反論しようがない。自分ながら困った人である。

 だが、ただ単純に米を作っていたら食糧不足の時代が来ても多少は有利に生きられる、というような母の妄信的な発想を聞いていると、それが大局的に血に足ついているといえるのか、こちらとしては大いに疑ってしまうので煩わしく感じるのである。

 自民党の大規模集約的な農業政策が現実になれば、別に戦争が来なくても小規模農家が生産するのは赤字で身を切るような立場に追い込まれていくだろう。
 だが自民党的な政策が実現してしまうと、生産の多様性が失われて、凶作や経済恐慌に見舞われてしまうと米のような主要作物でも輸入に頼らなければ切り抜けられない、そういうちょっとした危機にも脆弱な食糧供給の時代がやってくるだろう。

 では、どんな形であれ農家を今の規模と数で維持され続けて、ただ漫然と農家は米や野菜を作り続けていれば、危機の時代に都市住民が食糧供給に困り果てても農家の人間はやりくりできるだろうという予想が正しいかどうかと問われれば、それもずいぶん認識が甘いというような気もする。

 戦争末期に生まれたうちの両親の世代は、終戦直後に都会の住人が田舎に食料を得るために物々交換に訪れて農家はそれなりに得をした、というような、そういう子供時代の漠然としたイメージから未来の食糧不足へのシュミレーションを発想しようとする。
 だが戦時中には農家は働き手を兵役に取られて生産に苦労した上に、自分が食べていくにも困難なほどの作物の供出を国から強要されて難儀したというような事実は、歴史の本をかじってない漠然としたイメージからは想定することはできない。

 ロシア革命が起こって後、内戦やら他国からの軍事的干渉に遭って食糧不足に陥ったソ連では、都市のプロレタリアートである工業労働者が武装して、地方のプロレタリアートである農民たちを襲って無理やり作物を収奪した。逆らえば富農(クラーク)という現実の反したレッテルを貼られ、反革命的として殺された。

 何が言いたいかというと、日常が地に足ついていない僕のような人間はこういう話を本で読んで現実に対してシニックな怠け者であるからこそ、「ただ米・野菜さえ地道に作っていれば大丈夫」というような、母の猪突猛進型の発想を聞かされると漠然とした楽観思考に感じられて、どうしても冷笑的に返してしまうのである。

 最近になって両親は休耕地に大量にソーラーパネルを設置することで農業に代わる現金収入を得ようとする、巷で流行りだした案に傾倒しつつあるけれど、これにしたって自然災害に襲われるとパネルを修理したり処分させられるコストが発生するリスクがあるから、現実に地に足ついていない僕は反対している。


 大局的発想ばかりに没頭して身近な日常に還元しないと、よく批判されるけれども、近眼視的な想定に埋没していると何だか大きな存在の手によって希望を裏切られる気がして仕方ない。

 僕が地道な努力に基づく楽観的期待に対して怠惰かつシニックであるのは、知性を信頼しているからではあるけれど、それは「頭がいい」とかいうことを意味してはいない。

 僕の知性の目的やベクトルが弱者としての自分が生存するという方角に向けられているからである。

 弱者に求められる資質として「安易に期待しない」ということも大事ではあるが、「袋小路であろうとも小路を敢えて選ぶ」ということがより重要である。そのためには強度の大きな情報も、その裏返し的な陰謀論も、両方とも排除することが可能な知性が必要になる。

 そういう知性は、たとえ地に足ついていたとしても思考が自立してないと意味がない。

 思考が自立しているということは、基本的には、自分の目的と他人の意図を穿き違えないということである。

 朝日新聞の「誤報」騒動が始まって以来、とりわけそのことを意識せざるをえなくなった。右の人間は捨て置いたとしても、リベラルな側の人々にそういうことへの脆弱性をしばしば感じさせられるようになった。

 だが多くの場合、物事に対する単純な情報を獲得していれば容易に乗り越えられるものなのである。それなのに単純に知らないにも関わらず、むやみに語ろうとしたり情緒で突っ切ろうとする無防備な人たちがやたら多い。
 少なくとも自分の意図を他人の意思に取り替えようとする右側の人たちの方が、自分のやっていることに自覚的である。その分においては彼らの方がより「知っている」と言える。

 リベラルであるということとマイノリティであるということは、似ているようであるが現実にはほとんど一致していない。だから知らないことまで語ろうとして墓穴を掘るリベラルな人たちの無様さ、言葉の意味のなさは、見ていて滑稽である。

 知らないことは語ることを律儀に保留しておけば、本意の所在を見失うことにはならない。

 僕は社会的に弱い立場の人間という意味でマイノリティであるが、弱いからこそ自分の意思にないことにはとりあえず暗黙する。
 話さないことはともかくそれが自分の意思を示さないことにはならないし、他人のそそのかしで自分の意思を間違えることにはならない。
 話さずに考え続けることは、時々何もしないように誤解されることにもなるが、日々を継続させる努力以上に必要なものなど何もない。それ以上に安易に足を踏み入れてしまって最初に失うのは、純粋な自分の意思である。

 日々を継続させる努力という地道さと、大局的というほら吹きのような立場は相似していないように見受けられるかもしれないが、自分の意思の在り処を確保するには容易に答えないことへの時間の長さを必要とする。大局的というのはとどのつまり、そういう類の時間の長さを許容するスタンスとほぼ同義なのである。


 話を最初の地点である農業のところへ強引に戻すならば、漫然と米を作ることよりも大胆にソーラーパネルを据え付けることよりも、とりあえずそういう類の時間の長さを確保して防衛するためには、ともかく、地面を無作のまま耕し続けておけばいいのである。
 それが近視眼的でもなくただの怠惰でもほら吹きにもならずにすむ、必要に足りる日々の継続だと僕は思う。

 大部分の農家が弱者になりつつある現状で、自分の意思を持っておく百姓が他者的な意図として介入してくる政治と対決するには、自分が持つ田畑の土の具合から常に解離しないことである。

 
 もしこのままの状態が続けば日本の農業から多様性が失われる、と僕は上述した。

 この多様性というのは一口に軽々しく説明できるものはない。気力があればそのうちこれについて記事を書こうかと思うけど、農業に寄り添って生きたことのない人間にはたぶん説明するだけでは理解できない。

 だがその多様性が失われたとき、農業だけでなく、すべての事柄において破局は始まるだろう。





ノーベル平和賞の選考審査を各国持ち回りでやってみてはどうか

Posted by Hemakovich category of Politics on


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 マララ・ユスフザイさんのノーベル平和賞受賞について、内藤正典という同志社の教授が朝日・大阪本社版で批判と懸念を示すコメントを寄せていて、いろいろ考える。

 「受賞するには若すぎる」という一般に多くみられた異論はおおむね正しいと僕は思う。

 平和賞なんてものは貰った時点こそその権威性によって人々からの尊敬からくる庇護のようなものを受けられる。だが何年も経ってしまえば受賞者を取り巻く政治的状況は過去に受賞したことなど何の意味もなくなってしまう。ダライ・ラマ14世や劉暁波の現在に目を向ければよく分かる。

 もしマララさんがタリバーンに銃撃されて死にかけなかったら、彼女は平和賞をもらうことなど絶対なかっただろう。

 彼女に「ヒロイン」の名を付与したのは迫害の受難者であったことに尽きる。もし迫害の実行者がタリバーンではなくイスラエル政府で、マララさんと同じような少女が「子供たちが平和的に教育を受ける権利を」と唱えて無差別に打ち込まれる砲弾で傷ついても、「ヒロイン」に祭り上げられるどころか、単なる無名の「負傷者」として数字上の存在に貶められていただけだろう。
 政治的意味合いで大変都合がよかったから、マララさんは「ヒロイン」に祭り上げられると同時に、欧米の政治的正統性を喧伝するための「マスコット」の役目も与えられた。タリバーンに殺されかねなかったら、英国女王や合衆国大統領と面会する機会も設けられなかっただろうし、国連で演説するほどの権威も与えられなかっただろう。

 子供の就学の権利は無論否定されるべきではないが、宣伝塔の役割以外にまだ何もやってないに等しいマララさんへの授賞がある意味「強行」されたのは、パキスタンなどへの米国の無人機空爆への免罪符的意味合いや、イスラム原理主義の脅威への対決姿勢といった西欧社会の個的都合が反映されたから、それだけに過ぎないと思う。

 マララさんの受賞は要するに、彼女が欧米の論理と都合に抱き込まれたという事実しか意味しない。

 開発途上国の貧困や人権問題に関して、欧米各国の為政者連中がシリアスな問題意識を持っているとは単純には信用できない。

 パレスチナの状況を挙げるまでもなく、タリバーンやイスラム国ほどではないにしろ、やはり抑圧的な性格を持つイスラム諸国、たとえばサウジアラビアなんかの親欧米的な国々への欧米のぬるさ加減はそれを如実に示している。
 西アフリカでのエボラ出血熱の蔓延にしても、篤志的で勇気と使命感を持った一部外国人の懸命な活動は素晴らしいことだが、それら個人の英邁さに比して、先進諸国全体の反応はずいぶんとアフリカに対して冷淡に感じられてしまう(自国で発生した患者に対する蔑視的扱いとかは露骨である)。

 「パキスタンタリバンに襲撃されたことでノーベル平和賞の栄誉に輝いた彼女とは対照的に、アメリカの攻撃で命を失ったアフガニスタンやイラクの少女たちは何の賞賛も償いも受け取ることはなかった。私はこのことを不公正だと思う」との内藤氏の指摘には、一定の範囲で理にかなったものだと僕は思う。
 (イスラム主義そのものが必ずしも就学侵害の理由となっているのではないのにそういう印象が形成されている、との内藤氏のこちらの指摘も必見)

 
 もういいかげん、ノーベル平和賞を世界標準の良心とか倫理のお手本みたいな見方で権威性を持たせるのは卒業したほうがいい。
 欧州の人たちの中には、一部ではあるが、なにかというと自分たちの物の見方が世界標準であるかのような未熟な思考を持ち、異なる文化の多様性に対して攻撃的なまでの排除心を向けるような人たちも見受けられる。InterPalsでどれだけ多くそういう連中に出くわしたことか・・・・・・。

 平和賞をこの先も存続させていくつもりなら、ノルウェーとスウェーデンが特権的にそれを決めるものではなく、オリンピックみたいに各国持ち回りで審査授与国を毎年変えていくようにしてはどうか。
 たぶん、各国の思惑や主観が影響して毎年びっくり驚くような選考が行われて、受賞者発表の記者会見で異議罵声が飛び交うようなものになるかもしれない。

 でも各国選考持ち回り平和賞なんて方が現行方式よりもずっとエキサイティングで面白い。それに自分たちの志向と違う人物を他者が選考するという「不条理」を味わうことによって、世界が一様ではないという当たり前の現実を温和な形で知る機会となるのではないか。
 少なくとも、西欧的倫理を一方的に異文化に対して示すという独善性が排除された平和賞となるだろうし、びっくり驚くような選考が起こる権威が形骸化したエンターテイメントと化すことによって、一部の人間が勝手に平和賞を決める行為なんてのは絶対的なものなど創りえないんだよ、という当たり前の事実を人々が理解する気づきの機会になるかもしれない。

 就任したばかりのアメリカ大統領が
 「僕ねえ、いつになるかわかんないけど、まあそのうちに核兵器全廃とか、そういうことあったらいいな、とか思っちゃってるの、なんちゃって」
 みたいなことを口にしただけで、核弾頭一発すら減らしてないのに貰えちゃったりするのが、ノーベル平和賞の次元の低い相場なのである。
 日本の文学賞でいえば、芥川賞みたいな具合にもはや重みが零落したものであり、ちゃんちゃらおかしい。

 僕はマララさんがイスラム世界のすべての子供や女性たちの置かれた現実からの叫びを代表した存在だとは、これぽっちも思ってはいない。
 まだ17歳に過ぎない彼女にこのような権威性を授与する暴挙は、社会的権力を持った大人たちが自己満足を満たすだけの愚行でしかないと感じている。
 自分たちが17歳だったころを思い出してみるがいい。そのころの知識や人間性の未熟さや浅薄さを思い出せば、たかだか17歳の子供が世界的権威を箔付けされてオピニオンリーダーの役目を担うことの重圧や危うさを容易に想像できたはずである。

 平和賞を授与されたこと自体や、それに突き動かされるように彼女自身が先鋭化したりするならば、マララさんがこの先も命を狙われてしまうかもしれないことは十分に有り得る。
 そのようにして彼女がもし非業の死を迎えたとするならば、そのときマララさんはノーベル平和賞を彼女に授与した者たちによる論理や政治的意図を背負ってしまったゆえの殉難者となったと言えなくもないだろう。

 「ヒロイン」とか「マスコット」的存在でしかない成熟途上の子供に偉人のごとき称号を与えることなど、それこそ大人が子供を自分たちの行為に酔いしれるための玩具のように扱っていることの証左である。
 ノルウェー・ノーベル委員会には「恥を知れ」と、猛省を促すべきである。

 
 ちなみに「憲法9条を保持する日本人」に平和賞が与えられなかったことは幸いであった。慰安婦問題やヘイトスピーチによって国連人権委から糾弾されているような国がノーベル平和賞なんて、洒落にならない。

 極右の連中がまさにそうであるのと同じように、この国のリベラルな市民を自負する者たちもこの国が世界からどのように見られているかという切実な現実を直視することに関してまったく怠惰であると言うほかない。
 本当に「日本人」に対しての平和賞が欲しいというならば、慰安婦問題やヘイトスピーチの克服は勿論のこと、米軍基地を押し付けた沖縄の現状に冷淡である自分たちの瑕疵に正面から向き合うべきである。

 自分たちが戦争をしてこなかったつもりでも、沖縄に居座り続けた米軍は絶えず戦争に直結してきた事実がある。この程度のことすら認識を欠いているのであれば、なんとも能天気でおめでたいかぎりである。

 日本のリベラルがその程度の低水準ならば、「憲法9条を保持してきた日本人」よりも先に、「積極的平和主義」を提唱して実行した下痢政治家の方がノーベル平和賞を獲得するなんてこともありうるかもしれない。





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