Hemakovichの半永久的平坦な戦場

パニック不全神経症者が落ちてゆくカムフラージュ

ヒステリック・ホモサピエンス

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この星の耐用年数を考えていたら


1DKワンルームの自転が 冷たい冬に切り替わった。










「こんばんは。十六次元27時の臨時ニュースです」


何千人目かの新しいアナウンサー  口腔が振動して


突如ピストルを咥えて  自決する。









昨夜の妄想が  あまりに美しすぎたので


死んだ超新星の粒子が 


二万六千三百四十五回目の自慰の後に  降りてくる。









「あの忘れがたい身体の中へ    


確かにたった一度だけ入ったんだ」  


思い返しながら


およそ4億人の僕の精子  生死をともにして 


独り   音 を吐いてみる黄昏の後    謀略放送


第六十四回記念世界大戦ダービーを 観戦する









30数万年前  塵になった僕は 


「誰か」というマテリアル  に    包囲された  この宇宙 


「君」という概念も潰えて  無限時間の広さに 


永久に怯え続けていく。








LINEと気分変調症のジム・モリソン、空気のように反日を吐く

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 Lineにハマっている。

 スマホなんぞ死んでも持つかと決めているのだが、ネットで人と出会うと、必ずLineのIDを尋ねられる。

 ずいぶん前だが、どうしても友達になりたい人と肉声で喋りたくて、スカイプの有無を尋ねたらLineのIDを尋ね返された。仕方がないから、スマホなしでPCにLineを導入する術を調べたら、案外すんなり成功した。

 やってみると、なかなか面白い。スカイプよりも面倒ではなく、距離感の取り方が絶妙なアプリケーションだと分かった。

 ただ、一度だけLine友だちといざこざがあって、アンインストールしたことがあったが、わずか一日でもう一度インストールし直した。

 人と繋がりたいから繋がるためのアプリケーションを使う。これが普通は本当であって、そのためにスカイプやFacebookは機能しているのだろう。

 だがLineの場合、これが逆なのだと分かった。

 Lineをやっていると無性に人と繋がりたい欲求を刺激されるのだ。もともとそれほど対人関係に欲求がなくても、Lineを使っていると、なかった欲求が注入されて、体内に依存症のように巣食ってしまうのである。
 
 ドラッグに喩えるなら、Lineは覚せい剤のようなものである。試してみるだけで、本来不必要だったものが必要になって依存してしまう。
 スカイプやFacebookはそれを求める動機が先立って使用されるのであるから、精神病患者に向精神薬を処方するのと同じようなものなのだ。
 だが、Lineの場合、動機の有無に関係なく、最初から依存がやってきてしまう。

 今のところ、一対一のチャットしかやってなくて、グループ機能のような類には使ってはいない。なにしろLine友だちは皆、外国人だから。

 ブログも全然書いていないし、筆記が必要な作業が日常にほとんど存在しないので、日本語を全然書かずに英語ばっかり書いて一日が終わる場合が、しばしばある。
 いま、このブログを書いているけれど、日本語で思考して日本語で表現するのは実に一ヶ月ぶりぐらいのような感じがする。



 ドアーズにもハマっている。

 数年ぶりぐらい、久しぶりに聴いている。気分の状態に関係なく、いつも聴いている。朝目覚めて窓から明るい日差しを浴びながら、爽やかに『ジ・エンド』とか『ストレンジ・デイズ』を聴いていたりもする。

 いつだったか、『ブルー・サンデイ』だか『インディアン・サマーズ』だかを聴いていて、ジム・モリソンって実は僕と同じ気分変調症を患っていたのではないかと考えたことがあった。

 ドアーズの音楽はペシミズムとか無常観に彩られているのだけども、それが異様に美しいのである。厭世的な世界を常としてその上に自分の美意識をひけらかすなんて、気分変調症患者ぐらいしかやりそうにないことだ。

 だから勝手に、「ジムは僕と同じ気分変調症だったんだ!」という推論の延長でドアーズを聴いていると、すごく感情移入できたのである。
 高校ぐらいから聴いているけれど、なんか、「本当に分かった」という感じがしたのは、「ジムは気分変調症」という勝手な決めつけの後に生じたものなのである。

 逆に推論してみると、ドアーズを聴き始めた高校生のときぐらいから、僕は世界を厭世の産物としか見なくなっていた、ということも考えられる。

 そして、すなわち、僕の気分変調症は高校生ぐらいのときにはすでに発症していたという可能性を立てることもできる。

 前にも書いたと思うが、オリバー・ストーン監督の伝記映画を見て、僕はドアーズを知った。
 あの映画でのジム・モリソンの描かれ方はちょっとひどすぎるような気もするけれど、あれを見て彼らを知った人たちは僕の世代では多いんじゃないだろうか。

 映画館を出た後、自分の人生がなんだか一瞬で変わり果てたように思えたあのときの感覚を、今でもはっきり憶えている。

 数年後、大学に入ってだらしない暮らしをしていた頃、深夜の番組であの映画をもう一度見た。

 そんなに感慨深い気持ちは起こらなかったものの、見終わった後で同棲していた恋人と激しいセックスを数回やった。それがとてつもなく気持ちよかった。あの夜、汗まみれになって僕の腕の下にいた恋人の悶えた表情を、今でもはっきり覚えている。

 ドアーズ以上に官能的なポップスを僕は他に思いつかない。ジム・モリソンの声ほどにセクシーな男のボーカルを僕は今まで聴いたことがない。

 ペシミズムに満ちた世界で繰り返されるセックスほど、美しくて気持ちいいものはない。僕はセックスするときに音楽は聴かないけれど、なんで若い頃にドアーズを聴きながらセックスをいっぱい貪らなかったのか、そんなアホな後悔さえ覚える。



 反日にハマっている。

 台風通過で電話線が壊れ、家の周囲にどこから飛んできたか分からないトタンやら枝木が転がっていた。

 NHKの7時のニュースを見ると、台風被害よりも先に国立競技場の見直しとかなんたらを報じていた。「国の威信にかけても競技場建設を間に合わせなければならない」とNHKの解説委員が力説してるのを聞いて、脱力感を覚える。

 「国の威信」という言葉までもが堂々と発揚されるこの国に吐き気がする。

 いっそのこと、未曾有の災害で東京が地図から消えてくれたらスッとする。そんな悪意が自然に起こり、それが当たり前のことのように日々一層怨念が募っていく、下痢だらけの魑魅魍魎が気分を覆う時代。

 
 ドアーズの音楽だけが、そんなものから一番遠いところにあり、ルサンチマンの野糞のように成り果てた僕を少しだけ浄化して、安息の彼岸へと誘引してくれる。





びねつおおかみしょうじょ

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びねつ が つづく


おおかみしょうじょ


でんりゅう びりり と


すいそ に よりそう ゆめをみた





2すてっぷ きざんで


あのよ おどった たいこ と いたこ


きゃんべるすーぷ あきかんのそこ


けちゃっぷあえの たましい ひろった





おしゃべりずきな かがみのへや


かぜのなかで めありーは なく


あんぱんずきの はろうぃんの どうけは


ふっかつのひに ぶりっじ まける





ねえ、あいんしゅたいん、


あたしのはいらん、なにをねがうの?


ねえ、ぐすたふ・くりむと、


あたしのごうまん、ふりーずさせてよ!


ねえ、れい・かわくぼ、


あたしのよろいは、いつだって、じばくきりしたん。。。






びねつ が うずく


おおかみしょうじょ


こども たくさん うんで


ままごとは めとろぽりすの あきちで


せいろんてぃー と ぶりきの たいほう


こんけつのしょうねん だんしゃくいもふじん と じょうはつする


じゅんあい は たったひとつ


たいようのくに


すわりこんで ないていた


せいせんしょくひんうりば


かたすみで ふるえてた


れいぞうこの たまごおきば


ありふれたさいみんじゅつしの なんみんきゃんぷ


ぶたれたって きずつかない


あまったれた しゅうまつのこいびと


かれは きらーで


かのじょは あらー


どうしたって


まごころ を


あのときの



はつじょうき を


あなたが


たまって


あたしが


はらんで


だから


しっかり


さくらんするわ


もえつづけ


あふれつづけ


やみあがった


これが


うわさの


さるさの


いわゆる


ゆるゆる


ぺてんで☆


らてんよ♪





(-_-メ) びねつおおかみしょうじょ (-_-メ)






拭い去ることの出来ない虚無感の心的光景

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 GW期間中はどこにも行く予定はなかった。しかし、4月の末からすこぶる調子が悪かった。

 久々に一日中寝込む日々が数日続き、鬱の重さ加減は2月前半の冬季うつと同じくらいの重さに感じられた。まったく食欲が湧かず、起きていると頭痛がした。

 原因はInterPalsで、三年に一回出会うか出会わないかというぐらいの変態女に遭遇してしまったことにある。少し前のハメ撮り偽装オナニー写真を送ってきた女もかなりのものだったが、今回の変態女はメンヘラ的に気持ちの悪い女だった。

 思い出すのも嫌なので敢えて記録しないが、そのメンヘラ的変態度はずっと昔に会った生活保護不正受給の多重人格偽装女に匹敵するほどだった。
 なぜ、こういう珍獣のような際立ったパーソナリティの人間ばかりを招き寄せるのか、僕ってなんでいったいどうしてこうなのか。

 とにかく、鬱はどうやっても慣れることはない。その苦しさはいつも鮮度が高い。頓服薬なんか飲んでもどうなるものでもない。
 鬱になったら寝るしかない。5日くらいは寝込む覚悟で、通過するのを待つしかない。


 
 5月5日が過ぎたが、今年の5月5日は特別な日になるはずであった。なぜならこのブログを開設してちょうど10周年になるからである。

 「なるはずであった」というのは、実際に5月5日を迎えてみても、何の感慨も起こらなかったからである。鬱に七転八倒しながら、ブログどころか、文字をタイピングするのさえ苦痛であった。

 いろいろなブランクを挟みながらも10年書き続けたということに、大した意味は見出せない。むしろ10年経ってweb環境は想像もしなかった速さで激変したが、僕自身は想像もしなかった驚きとともに何も変わっていないということの方が大きい。

 10周年を機会に、というわけでもないが、ブログの更新回数を減らすことを考えている。

 一ヶ月に10投稿を目標にやってきてはいたが、最近書くことがなくて困っている。政治経済時事問題にタッチしないようになったので、なおさらネタ不足に陥っている。自分の個人的なことを随想みたいに書くのは得意でもないし、あまり好きでもない。

 日記に添えているフォトコラージュの製作も、だんだんと活動が鈍ってきた。

 遊びのようにやっていたことが、芸術になってくると、だんだん面白くなくなってくる。より良いものを、と考え出すと、それは仕事みたいになってきて、発想も大胆さも膠着してしまう。
 ちょっとこの辺で、少し休ませてみたいと思う。ストックは十分に揃っていることだし。



 『ザ・ハングマン 燃える事件簿』を1話から3話まで見る。ハングマンを知らない人は、説明するのも面倒なので、ウィキペディアで調べてもらいたい。

 第1話はゴッドと呼ばれるリーダーによって偽装殺人・自殺して戸籍を消したメンバーたちがハングマンになる過程を描いた回。

 あべ静江演じるベニーについてゴッドが説明するナレーションがあって、「長所、優れた学識と大胆な行動力。短所、拭い去ることの出来ない虚無感」と読み上げられるのだが、この「拭い去ることの出来ない虚無感」というのを聞いて、鬱病真っ最中の僕は「おいおい、おれのことやん」という思いに駆られる。

 「拭い去ることの出来ない虚無感」。

 自分の気分変調症がいつを契機に始まったのか、それを考え始めると、直接的には大学時代にきっかけをみいだせるのだが、萌芽のようなものは幼年期にその根拠を見つけ出せる思いがする。

 子供の頃、宿痾と呼ぶべきほどひどかった喘息の発作に死ぬほど悩まされた。発作が起こると当然学校は休まざるをえないのだが、共働きだったので、教師だった母が年休をもらって夕方に帰ってくるまで、一人で孤独なマンションの中、ずっと待っていなければならなかった。

 夕方の時間になると、窓の近くに横たわって母を待った。車の音がすれば苦しい身体を起こして窓から駐車場を見下ろすのだが、それが母の車でなければひどく落胆させられた。
 車の音がするたびに身体を起こして、またしても母の車でないことを確認させられ、一人で泣いていた、あのときの苦しさ。あれは大人になって、喘息がほぼなくなった現在においても、つらい思い出として感覚がはっきりよみがえる。
 
 待ちわびることの苦しみ、その分離不安は大人になってから対象が恋愛関係の女性に移行する形で再燃した。待つことは今でも苦手で、待っている間に、僕の思考はどんどん自滅する方向へ勝手に走り出す。

 だから気分変調症の世界像を覆い尽くす僕にとっての「拭い去ることの出来ない虚無感」というのは、幼児期に形成されてしまったものだと考えている。
 だからといって、いまさらそれを覆すことなど出来はしない。そんなことはありえない。

 
 『ハングマン』は第一シリーズのエンディングのみ、昼間、ちょうど午後3時くらいだろうか、夕刻と昼間のちょうど間の東京の光景が映される。
 第二、三シリーズは夜景なのだが、僕にとってのハングマンはこの夕刻と昼間のちょうど狭間の光景が最も適したイメージなのだ。

 雨が流れ落ちる窓が映され、やがて雨がやむと、都心の高層ビルが窓越しに見えてくる。それをゆっくりとズームアウトさせながら都心全体の景色が広がってゆき、その間にエンディング・テーマの『あれから』が流れる。

 僕はこの終わりのシーンを見るたびごとに、自分の原体験の心的光景を象徴的に見る思いがする。母の帰りを待ちわび続けた幼児期や、恋人だった女性たちに突きつけた分離不安の景色を、この映像がカリカチュアのように物語っているように映るのだ。

 夕刻と昼間のちょうど狭間、ビルがひしめき合う都市の光景。僕はこのなかに、意味もなく戦慄を覚えたり、パニック寸前のときの予兆の不安に似たものを感じたり、どうしようもなく胸を掻き毟られるような切なさに意識を持っていかれる気分になるのだ。

 『あれから』の歌詞の中に、こんな一節がある

 「あの人のことだから今も 気楽な暮らしだろうか。男たちの胸を焦がして 笑っているだろうか」

 この部分を聞くたびに、忘れていた思い出の疲れがどっと背中に刺さってくるような思いになる。

 終わりも逃げ場もない分離不安の宿命に怯えながら、人生を永久に彩る「拭い去ることの出来ない虚無感」を、僕はこのフレーズの中にいつもハッと思い出させられるのだ。





Stay, Stay, Stay

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Catastrophe




      人々は望むものを悲劇的に願い、


    人々は人々の顔を知らない、


        言葉は同じ言葉に収束されて、   


                カミソリへと仕向ける仕草を鏡に向かって繰り返す。


あなたは彼や彼女を使い捨てて、


        彼や彼女に似た誰かへと向かう。


             繰り返す物語に嘔吐しながら、


      そしてあなたはあなたの求めるすべてに憎悪するから。
   






Catastrophe




               彼は彼女に夢みられた世界をロッヂで待ち続ける。


      少年は古い指紋を懐かしみ少女は新しい誘惑にドレスが湿る


           混乱した鋪道の上で衝突する幾つかの人生は命がけで


                  僕はあまりにも多くの顔のことをいらないと思う。


あなたは時々立ち止まってふりかえり


        彼や彼女に似た誰かの運を数え上げるだろう。


             繰り返されるしかない物語に誰かは犬死にして、


        そしてあなたはあなたの求めるすべてから生き残るから。
 









あなたの求めるものへ、



あなたは求めたものに、



あなたの求めるものから、



あなたを求めたものが。








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