Hemakovichの半永久的平坦な戦場

パニック不全神経症者が落ちてゆくカムフラージュ

自立日記

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きょうはとてもかなしかったので、どうせひまこを一人、イワンのばかに売り飛ばしてしまいました。それでどうせひまこも、もうあんまりのこってないんです。きのうは電きだいをはらわなくちゃいけないので、やっぱりひまこを、えちごやさんに奉こうにだしました。そのまえは兵たいさんにむりやり国さいをかわされたので、ひとばんひまこを30ウォンでだース・ベーだーさまのちんかすやろうのおあいてをさせました。ちんかす、にがかった。





ゾンびのおせわをするおしごとは、きついです。いちにちに3かい、ゾンびさんのこやに青さんソーダとひきにくを3体もっていくのは、じゅうろうどう。このあいだひきにくちょうり場からきこえたひめいにびっくりして、青さんソーダ、こぼして、うでのセラみっくがすこしはげてしまいました。それで、えさやり、ぐずぐずして、ご主人の、ワンヤンアグダさまに、えらく、おこられてしまいました。でも、そのあと、ゾンびの、ぶらうんおじさんに、「ひまこちゃんはおいしそうだね」とこえを、かけてもらって、すこしげんきになれました。


でもうでのぶひんは、こんど、うっかりしょうてん島からゆそうせんだんがこないと、こうかんできないみたいです。





めいおうせいの、せいかつ、とてもつらい。いちにちに25かいぐらいは、くうしゅうけいほうがなって、ほわいとべーすがばくげきにきます。

このまえはラーげリだい25ばん○大はいき肉ショリじょうに、れっかスぺしウムこうせんがおちて、畜生ニンゲンがおおぜいやけたそうです。

えヴぁんげりヲンは、じこのムゲンぼうちょうだとかいって、たたかってくれないそうです。
こうかくキドウタイは、みんな、いんたーねっと・定食屋ちゅうどくで、ザシキろうにいれられてます。





ひまこは、はやく、せえんそう、がおわればいいのに、とおもっています。せえんそう、きらい。ころしあい、きらい。





ゆうべはこうしゃほうでうちおとされたほわいとべーすのじょういんのくそがきをびーむさーべるでめったぎりにしてやりました。





れっかスぺしウムこうせんが、おちたあとの、にじをみながら、


「おーばー・ざ・れいん・ぼー」、きいています。


やけあとに低じゅうりょくでういてるざんがい、をながめながら


「おーばー・ざ・れいん・ぼー」、うたっています。



おかあさんのこと、おもって、いっしょうけんめい、うたっています。





おかあさん、はやく、むかえにきてね。





おてがみといっしょに、畜生ニンゲンのほしたひきにく、てんぷふぁいるでおくります。

ながもちするので、おかねのたかい、くうるたっきゅう便でなくてもおくれます。





きょうはこれから、ヨシワラどっと混む市ばで、げノムおまんこ売りの、じ給れっせいいでんしレバー300ぐらむ、
の、ばいとです。



がんばってはたらくね。





安ラク死ハイキせんたーのある、ねヴぁーらんどの冬はとてもきびしいと、ふー・まんちゅうせんせいがじゅぎょうで
おっしゃってました。





おかあさん、そちらのさむさにまけず、おからだだいじにしてください。





だいすきなおかあさんへ





ひまこ






初号ブラックニッカ復刻版の再商品化を強く希望する

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 最近の生活について。

 寝込んでしまうほど苦しい冬季うつはなくなったが、春めいた季節の到来とともに、苦しくはないが、何事にも無気力な脱力感が日々を覆うようになった。


 ブログの日記をほとんど書いていない。いまアップロードしているのは、すべて以前に書き溜めていたものである。書きたいと思うことは時々浮かぶのだが、まとまった文章にならない。
 思い浮かぶことは感覚による短いフレーズのみであって、それが文書になるような思考まで到達しない。
 
 コラージュも全然作ってない。数週間前ぐらいから完全に製作がストップしてしまった。新しいアイデアが浮かびにくくなっている。というか、フォトショップを開く気分さえない。やる気が起こらない。


 新聞はまったく読んでいない。それどころかネットのニュースサイトすら見ない日もある。冬季うつ対策の中で「ニュースを見ない」というのを決めていたが、それが延長している。

 新聞なんて見出し一行見るだけで憂鬱になる。政治状況なんて関心はない。どうせ悪くなるばかりで、メディアは下痢ゴリラの太鼓持ちだ。
 現政権を僕は信任などしていない。
 僕には革命権が認められる。それが無政府主義者の論理だ。


 友達の中国人メイ・ティンの最近の写真を見ようとして、縁を切ったはずのInterPalsにアカウントをつくったところ、これをだらだらやり続けてしまっている。
 相変わらず反吐が出るくらい嫌なサイトなのだが、いいかげんなコミュニケイトをこころがけて投げやりにやっていると、案外没頭してしまう。

 外国人とのトラブルも以前と同じように起こる。
 20代のチリの女の子の発言にむかついて異議を唱えたら、最初は謝意を示していたが論理的に何が悪いかを説き続けていると逆ギレされて激しく罵倒された。
 そのまま縁を切っても良かったのだが、人を削除したり削除し返したりするのに疲れてしまっているので、仲直りを提言すると、逆ギレが嘘だったかのようにもう一度謝られて、「あなたは何も悪くない」とまで言われ、頭がくらくらしてきた。
 一応関係改善したふりをして無視しながら自然消滅的に離れようと思っている。

 一概に十派一絡げに言えることではないが、逆ギレというのはキリスト教文化圏の人々の文化みたいなところがある。論理的に非を質していくと、無茶苦茶な非論理で激高されることは珍しいことでもない。
 非論理的な人間の逆ギレ攻撃には一点を集中してぶれずに叩くというやり方が特徴的である。これは何も外国人に限らない。掲示板なんかで教養のない人間がこういう報復をするのはありふれた光景といえる。

 InterPalsというところは表看板はメル友探しサイトだが、ざっくりいえば犯罪の温床にすらなりそうな出会い系サイトである。
 「あなたに会いに行くから旅費を出して」なんて言われて、アメリカAmazonのギフトカードで支払いを求められたりしたこともある。ついつい「後払いで払うから」なんて半分のめり込みながら断ろうとすると、スカイプでおっぱいを見せようとされたりした。これにはさすがに引いた、というか激怒した。
 国にもよるが、彫りの深い顔をした文化圏の外国人はいかにも直接的に下品である。

 初めて香港・台湾以外の中国人と知り合って、先日スカイプで話した。上海の女性で日本企業で働いているから、日本語が使えて楽だった。

 僕のコラージュ作品のブログを見せたら、「マンガを描いているのか?」と言われて驚いた。フォトコラージュに過ぎないのだが、イラストと勘違いされたのだ。
 だがそういわれて注視してみると、作っている人間以外にはコラージュというよりイラストにしか見えないのではないかと初めて気がついた。肌のコントラストなどをいじくっていくうちに、素材の写真の質感がなくなっていくからだ。

 上海の子にメイ・ティンのことを話して、「彼女はミラン・クンデラが好きな変わった女の子なんだ」というと、ミラン・クンデラは中国では結構ブームなのだそうだが、これにはびっくりした。彼の小説は共産主義圏を舞台にしているから共感する人は日本なんかより多いのかもしれない。


 ウイスキーは相変わらず毎晩飲んでいる。

 シングルモルト余市以外は飲まなくてもいいと思えるくらい、やはりハマっている。この間、久々にブラックニッカ・クリアを買ってきたが、全然美味いと思えなかった。

 痛風に一回襲われたので飲酒後に夜食を作るのは控えるようにしているが、余市を飲むときは少量の肴は付けている。
 だいたいは鰹節とちりめんじゃこを混ぜた納豆だとか、昆布だとか、鮭フレークとか、塩分メインのものが多い。鰯なんかを買ってくるときは豪勢に感じられ、ものすごく幸せに包まれる。

 今までに飲んだ数少ない種類のウイスキーを格付けしてみる。

1. シングルモルト余市
2. 初号ブラックニッカ復刻版
3. モルトクラブ
4. ブラックニッカ・リッチブレンド
5. ブラックニッカ・クリア
6. 凛 (宝酒造)


 特にブラックニッカ復刻版は、とてつもなく美味かった。これが販売限定商品なんて実にもったいない。なんらかの形で新しく商品化してはもらえないだろうか。





その真理が何であるかを我々は知ろうと欲している

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 我々は思想の危機にあたって理論的なものが実践的なものに推移してゆくのを見た。しかも同時に我々はそこにおいて理論そのものの否定が実行されているのを知った。

 かくのごとき場合においては、理論的意識はもはや単なる理論的意識としてとどまることが出来ない。独断論における理論より実践への転化がまさにそのことを教えるのである。実践を理論から分離することが純粋に理論的意識を維持する所以であるとする見方は、思想の危機にあっては、なんら現実的なる理論的意識であることが出来ぬ。思想の危機にあっては、このような見方こそかえって理論的意識そのものを死滅させることとなる。それはこのとき、思想そのものにとってはむしろ「危機の思想」であるのである。

 ここに私はかかる非現実的な危機の思想として現われている一、二のものを挙げておこう。

 そのひとつは形式主義である。

 形式主義者は考える。理論は理論としていつでも形式的なものである。したがってそこには階級性などはあり得ない。彼らは階級を超越した理論を求める。しかるに理論は、それが現実的な理論として、現実の社会と連絡をもちそれに働きかけ得るものである限り、現在の階級社会ではつねに階級的な性格をもたざるを得ないから、そこで彼らは非現実的な理論を意識的に求めることになる。そして彼らは彼らの理論の非現実性に、普遍妥当性または永遠性などというがごとき美しき札を張りつける。

 例えば、彼らは、普遍妥当的な真理があるということを論理的に証明し得ると称して、――相対主義は自己矛盾に陥る、なぜなら相対主義をいやしくも意味あるように主張し得るためにはこの主張そのものが絶対性をもたねばならず、したがって少なくともひとつは絶対的な真理がある、という。

 かくのごとく形式的には、真理の普遍妥当性は証明されることが出来よう。絶対的な真理はある、しかしそれでおしまいだ。その真理が内容的には何であるかを我々は知ろうと欲しているのである。形式主義は形式を説くことによって我々の認識を豊富にすることなく、形式に固執することによってかえって我々の認識を貧困ならしめる。

 形式主義は最も多くの場合我々の認識活動を停止せしめることを我々に命ずる。かくしてそれは我々の具体的な理論的意識を満足させることなく、思想の危機に際してはそれは、我々の認識を窮乏ならしめる論理であることによって、かえって反動的な役割を演ずる。

 ――他のものは自由主義である。今日、自由主義者は行為の自由と研究の自由とを区別する、そして思想研究の自由は認めるもそれを行為において実現することはこれを認めることが出来ぬ、と考える。しかるにかかる自由主義は現在の社会において我々はこれを徹底し得るであろうか。

 なるほど、危険思想の研究が自由に許されているとする、そこでいまひとりの者がこの思想を研究しているとする、しかし彼はまさに危険思想の研究者なる故をもって、会社でも、銀行でも傭ってくれず、否、大学においてさえ使ってくれない。研究の自由は彼にとって貧困の自由を意味する。彼の研究の自由はかたっぱしから彼の行為の自由によって否定されてゆく。行為の自由を得ようと思えば、彼は研究の自由を否定しなければならぬ。

 自由主義は階級社会の中では現実的に存在し得ないのである。

 思想の危機にあたっては、理論的意識は実践と結びつくことによってのみ現実的であることが出来る。このとき実践はもとより単なる理論の否定ではない、それは独断論者のことである。

 実践は理論にまで高められ、理論は実践にまで深められ、かくて理論と実践との弁証法的統一がなければならぬ。理論と実践との弁証法的統一の上に立つ理論的意識のみが、思想の危機に際して、ただ一つの現実的なる理論的意識である。

 しかるにかくのごとき理論的意識は今や社会的に危機にある階級、すなわち支配階級の中では獲得されることが不可能である。彼らは危機を絶対的なる危機として受取らざるを得ないが故に、弁証法的に危機を思惟することが出来ない。この危機を弁証法的に把握し、そこにむしろ未来の発展に対する展望を認め得るものは、未来を約束されているところの新興階級である。

 これが思想の危機の理論である。



三木清 『危機における理論的意識』 (改行の一部は引用者による)




シングルモルト余市にハマる

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 酒を愛飲するようになると、肴になる食事にも凝り始めるものだと聞いてはいたが、普段食欲が皆無に等しい自分がよもやそういうふうになるとは思ってもみなかった。


 ノンエイジのシングルモルト余市にハマっている。これさえ一本飲んでいれば、ブラックニッカ・リッチブレンドやモルトクラブを併用して飲まなくても満足できる。ブラックニッカ・クリアなどは薬を飲んでるような味気なさで飲む気にもなれない。
 ただ惜しむらくは他のブランドが700ミリリットルであるのに対し、500しか入ってないことだ。まあ2000円以下でシングルモルトが飲めるのだから、この点は致し方ない。

 最初は「草の匂い」としか思えなかったのも、なんだか「果実香豊か」と感じられるようになったし、「クリーミーな口当たり」だとか「バニラのような甘さと香ばしさ」というのも、だんだん頷けるようになってきた。

 これを飲みながらニッカのブランドサイトや蒸留所の文や写真を眺めていると、大変に気持ちよく、そのうち北海道の余市まで工場を見学に行きたい気分にもなる。
 ほどよく陽気なケルト音楽をYouTubeから再生させて飲んでいると、ウイスキー発祥の地であるスコットランドを俯瞰している心地にもなり、このような酒を文明にもたらしてくれた神にすら感謝したい思いにすらなる。



 さて、そのウイスキーを飲む際の、肴に関する話である。

 ビールやチューハイしか飲んでこなかった今までは、酒さえ飲んでいれば腹も膨れたような満足感が伴っていたので、飲酒するときは何も食べてなくてもよかった。特につまみについては考えたこともなかった。

 だがウイスキーというのはどうしたものか、飲んでいると必ず食を欲するようになる。酒だけ飲んでるとどうも胃の中に何か入れたくなり、酔いだけでは満足できないのだ。
 カナダドライのハイボールで飲んでいるのだが、この場合、炭酸はお腹を満たすのにはまったく関与していないらしい。

 仕方なく冷蔵庫やらキッチンの棚やらをいろいろ物色してみるのだが、うちの家族は間食という習慣がないのでめぼしいものが見当たらない。
 酒を飲むのも父が夕食時に焼酎を晩酌する程度なので、父のためのアテは夕食後にはきれいさっぱり片付けられてしまっている。

 最初は常時イオンで買っているトップバリュのベーコンを食していた。だがベーコンに限らないのだが、トップバリュの食品は続けて摂取していると、次第に飽きが来てしまう。

 そのうちに週に一回ほど、アテとなるべきものを求めて、タバコを買う以外は近寄りもしなかったコンビニやスーパーへと買いに寄るようにもなってきた。

 ブラックニッカ・クリアやリッチブレンドの場合、一番最適なのはビターテイストなチョコレートで、これだけでほぼ足りるとった感じだが、シングルモルト余市だとちょっと異なる感じがする。
 余市のブランドサイトにマリアージュ(食べ物との取り合わせ)として、チョコレートが筆頭に上がっていたが、僕が食べて見た感じでは余市とチョコレートは最も相性が悪い気がする。そのミスマッチぶりはなかなか言い表せないが、日本酒を飲みながらコーヒー牛乳を飲んでるような、そんな感じの悪さがしてならない。

 余市には塩分の際立つ肴が一番合っているように思う。

 だからカルパスだとか、いかくん、チーズたらなんかを買ってくる。だが今までアテなんか食して飲んだことがなかったから思うのだが、元来、店で売ってる酒のつまみなんてものはどれもこれも割合に高いものが多い。一品でタバコ一箱買えそうであり、毎日こういったものを買ってくるのは少々財布に響いてきてしまう。

 先日、何かないかと冷蔵庫を探索していたら、たまたま母が買ってあった「こいわし」を見つけた。
 魚屋でバイトしてたときに教わった要領で適当に火であぶり、朝食の漬物に添えるちりめんじゃこと吸い物用の塩昆布をこれにつけて一杯やってると、これが最適のマリアージュで、すこぶる美味かった。

 以来、夕方の家事をやりながら、夜が更けてから飲むときのアテのレパートリーを考えるようになり、案外いろんなレパートリーを思いつくようになった。


 
 深酔いはせず、酒の味覚がまだ判断できる程度にほどよく酔った感じで、一日分の飲酒が通常終わる。

 だがウイスキーの場合、どうも不思議なもんで、飲み終わってからもさらに食欲が湧いてくるのである。これは僕だけだろうか。
 だからそこからまた夜食を作り始めたりするのだが、やっぱり塩分の濃い料理が食べたくなってくる。

 最初は袋入りのインスタントラーメンにネギをかける程度のものを食べていた。だが、それに飽きてくると、白菜を入れてみたり、えのきやシメジを入れたり、野菜を炒めて加えてみたり、その野菜炒め自体も胡麻油や料理酒を使ってみたりと、なにかとアレンジするようになってくる。

 ラーメンに飽きてくると、今度はうどんや蕎麦を作るようになって、ここでも加える具材や調味料をいろいろ変えてみて、だし汁から自分で考えて作り始めて、自分でも驚くほど「にわか食通」みたいになってきた。

 いま凝っているのは和風スパゲティである。味付けもインスタントの製品は一切使わない。材料も野菜だけで6種類ぐらい入れていて、もはや夜食のレベルを超え始めている。大学で下宿していたとき、結構まめに自炊していた方だが、料理に凝るのはそれ以来ではないだろうか。

 元来、僕は一度面白くなると真っ直ぐに凝り性に向かう性質なので、たぶんこの、飲酒後の夜食作りもしばらく続くだろう。

 料理にハマり出すと、当たり前のことだが食べ物全般に関して以前よりも興味を示すようになるわけで、そうなると自ずから今までになかった食事に対する関心も高まってくる。

 ウイスキーを飲み始めて酒の弊害よりも、僕の場合、むしろ健康体に近づいたといえる。

 そのうち図書館に行って、壇一雄の『壇流クッキング』なんかを再読し始めるほど勢いが止まらなくなるかもしれない。





恋は盲目だと言われている

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恋は盲目だと言われている。






だから街角ではたくさんの盲人が舗道をさまよっている。



おまけに恋人たちの信号は しょっちゅう壊れている。



それゆえ愛情の交差点は いつも混雑している。






ある日、赤信号を渡った盲人の男が 盲人のカップルが乗った車に 
はねられて死んだ。



翌日、死んだ男の 盲人のガールフレンドは 見知らぬ盲人の男の車に拾われ 
どこかへ消えた。









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