Hemakovichの半永久的平坦な戦場

パニック不全神経症者が落ちてゆくカムフラージュ

たぶんES細胞の窃盗も消息を絶った航空機も無慈悲なパレスチナ人虐殺も綺麗さっぱり忘れてさられてしまうのである

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 「テレビ、ラジオ、新聞などは、雑多な関連性を喪失した世界を作っていて、これが我々の心に大きな影響を及ぼしている。大都会は関連性喪失それ自体のための具体的表現である。…多くのナチスの殺人者たちは殺人者のような顔をしていない。一切が関連性を喪失して、装置化されてしまっている。数々の犯罪や残虐行為もナチスという巨大な生産装置の一部門に過ぎなかったのだ。…言葉はすでに対象に貼り付けられるレッテルに過ぎなくなっていた。ヒムラーがバッハ演奏者であったり残虐行為を指揮したハイドリヒがモーツァルトを聴いて涙することは不思議ではないのだ。殺人とモーツァルト、ガス室と演奏会場、それが平気で並んでいるのだ。それは関連性を喪失しているからだ。…誰もが無目的にどこへでもつるつると滑っていく」

 「テレビ、ラジオ、新聞などは、単に無関連的でバラバラというだけにとどまらず、関連のない世界を製造している。もろもろの事物がはじめからお互いに関連しないように、次々に忘れ去られていくように事物を製造する。こうしたバラバラの外部世界は、はじめから人間の内部の無関連性、非連続性、にねらいをつけて作業計画を立てているのであって、関連性喪失の状態を種にして仕事をしているのだ。だからヒットラーは、こうした関連性喪失した社会の中で、随所に何度でも顔を出すことによって、その他の支離滅裂な関連性なきものより目立つ存在になった。人々は彼に馴れ、彼を受容するようになった。それはちょうど新聞紙上の雑多な広告の中に繰り返し繰り返し出てくる練り歯磨きを、人々が買うようになるのと同様である。…人々はあまりに無関連的で、あまりに空無のなかで崩壊しきってしまっていたから、命令によってはじめて関連性を喪失した支離滅裂な自己の内部をかろうじてその周囲に寄せ集めることのできる一つの外的支柱を発見し得たのである。…ヒットラー自身があまりに無関連的であったから、日々命令によって一つの明確さや中心点を自分自身に与えることができた。こうして、ヒットラーは日々命令によって人々を引きつけ聴衆を創造し、自分自身をも創造した」

 「ナチズムは、内的関連性を失った人間のあり方を完成したに過ぎない。恐るべきは、そのような人間が、自己の犯した殺人罪をさらりと忘れてしまうことだ。…彼が人を殺したりガス攻めにしたりしていた時にはもう、二三週間前に郵便切手や葉巻を売ったり、あるいはホテルでお客を愛想良く迎えていたことをすっかり忘れているのである。そして、今日はまた郵便局の窓口に座っていたり、煙草屋の店先に立っていたりするこの人間が、明日にはまたまた殺人を犯し毒ガス地獄の悪鬼となることができるのである。これが内的関連を完全に喪失した人間の真相なのである。ナチがすべてを忘却するのは、彼は何の関連性を持たないからである。これがナチの特徴なのである。つまり、彼は人殺しをするというだけでなく、何よりもまず、彼は自分が人殺しをしていることを綺麗さっぱりと忘れてしまうのである。…ナチスの世界は、関連性の喪失の上に成り立っている。こうした世界においては、人々は簡単に戦争をおっぱじめ、簡単に戦争を忘れ、そしてまた簡単に戦争に取りかかる」

 「ヒムラーがバッハ演奏者であったり残虐行為を指揮したハイドリヒがモーツァルトを聴いて涙することは不思議ではないのだ。…ガス殺人の前、あるいは後に演奏されるモーツァルト、親衛隊員の背嚢のなかのヘルダーリン、捕虜収容所監視人のための図書室に並べられたゲーテの作品。…このナチスの世界では、音楽も、絵も、殺人行為も、ただ瞬間のなかにあるのみであって、人間のなかにあるのではない。…瞬間を埋めるものがたとえ殺人であれバッハであれ、ガス攻めであれヘルダーリンであれ、かまうことではない。今の瞬間にひとりの子供の腕をやさしく撫でているヒムラーのその手が、次の瞬間には死の部屋へと毒ガスを吹き送るハンドルのうえを撫でるのである。ここでは万事が瞬間を埋めるための単なる充填物にすぎない。ここでは一つのものが他のものと何の関連もなく平気で隣り合い、ひとりの人間が何の関連もなく続けさまにあれやこれやのことをすることができる。…ナチスの残虐行為は、いわば工場の装置からあるいはすっかり機械装置と化してしまった人間によって、発生したのである」

 「ナチス出現以前から、人々は人間をただ<効用価値>の面から、業績の面からのみ眺めていた。…ナチスにおいては、人間はわずかに効用価値としての、効用価値の単なる機関(からくり)のための材料としての価値しか持ってはいなかった。…彼らは自ら科学的残虐行為装置の単なる一部分になりさがったのである。…彼らの残虐行為は、なにか他のものを製造することもできる機械装置によってなされたものであるかのようだ。この装置が今の瞬間には犯行に向けられていたかと思えば、次の瞬間には民衆の福祉に、あるいはバッハの演奏に、あるいは児童教育に向けられるのである。…このようにして療養所や精神病院の入院患者の皆殺しがなされたのである。…数々の犯罪や残虐行為もナチスという巨大な生産装置の一部門に過ぎなかったのだ。それらのおのおのの部門は、最高生産額をあげることのみ専念していたのである。…この巨大な真空のなかでは、無関連のまま、際限もなく膨れあがることができたのだ。戦車も、空疎な文化も、優生学も、残虐行為も」

 「フン族の凶悪さは、ちょうど大自然の凶暴さのようなものだった。…つまり自然自身が人間のなかで荒れ狂ったのであって、人間において自己の凶暴な一面を露呈したところの自然だったのである。犯罪はまた、フランス革命のように、人間の激情から突発的に生じることもあり得る。…ところがナチスの場合は、自然でもなければ激情の爆発でもなく、いわば工場の生産物のようなものである。ナチスの犯罪が、まるで工場の生産が増加するみたいに驚異的に累積するのは、そのためである。いわば残虐行為の量は、たとえて言えば輸出の量のようなものだ。…だからナチスの残虐性は、ちょうど輸出量をあらわす数字のように、簡単に忘れられてしまうのである。つまりナチスの犯罪は、人間になんの関係もないもののようなのだ。そして、人間はそれに対して責任をとらなければいけないとは思えないのである。というのは、およそいかなる人間的なものとも結びついてはいないからである。ナチスの残虐行為は、いわば工場の装置から、あるいはすっかり機械装置と化してしまった人間から、発生しているのである」



「真の内的連続性を創造するものは<愛>である。ひとりの人間の過去を、ひとりの人間が体験したすべてのものを、内的統一へと結晶せしめるのは、まさにこの<愛>なのだ。人間が過ぎ去ったものに愛情を寄せることにより、つまり彼が過去のものを愛情をもって受け容れることによって、彼はそれを一つの秩序のなかへ、一つの連続性のなかへと置くのだ」



マックス・ピカート 『われわれ自身のなかのヒトラー』 より






寂しい情欲だよね、プライベートポルノって

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 東京三鷹のストーカー殺人の、裁判員裁判が始まった。

 被告が自分の事件を通してストーカーについて語る、みたいな随分前の記事があったのを見つけ、その記事に関する感想スレが2ちゃんねるにあったので、両方を読む。


 「彼女は自分と真反対な家庭環境でした。彼女は幼いころから慈愛を受けてきて、人にもそういうことができていました。それが心地よくって」(池永チャールストーマス被告)


 この部分を読んで、最初は被告の言葉に自分の過去の体験を重ね合わせようとする感情が僕の中で起こった。

 だがそれは「なんか気持ちよすぎる言葉」であって、「なんか違う」という感じがしたのだが、2ちゃんねるでの反応を読んで、それが瞬時に理解できた。

 
こういう男の場合は、自分の精神を保つために死んだ彼女のことをどんどん理想化していくよ。
またそれが楽しいんだろうし


 殺した彼女のことを美化しながら、たぶん彼は嘘をついてるんだと僕も思う。

 その彼女が被告の言うような素晴らしい女性ではなかった、と僕は言っているのではない。

 別れた彼女を他の女性との比較で相対化することができなかったから、結局犯行に及んだのだろうけど、拘置所の中に入って自分の罪に向き合わなければならない段階に至っても、彼はまだ彼女を「特別」な存在として認識し続けているのだろう。

 この意味での「特別」というのは過去のことを指しているのではない。

 手っ取り早く言えば、彼女をこの世界から抹殺してしまって、被告はなお未だに、まだストーカーをやめてはいない、ということだ。
 だから、彼はまだ、彼女を殺した過去から時間を経過させず、殺したときの自分を現在として生きているのだと、僕は思う。


 だいたいさ、「彼女は幼いころから慈愛を受けてきて、人にもそういうことができていました」なんて、本当に思ってないよ、この男。それは完全に嘘だと思う。
 だってさ、本当にそういうふうに彼女を尊敬する視点があったなら、殺してもいないだろうし、リベンジポルノなんかやってなかったと思うよ。

 「彼女は自分と真反対な家庭環境でした」って認識はたぶん彼の中で一番支配的な本音だろうけど、そこの部分から派生していくほとんどの部分で、彼は彼女に対する本当の自分の思いをかなり排除しているんだろうね。

 僕がそう断言できるのは、やはりリベンジポルノの部分が大きいからであって、裁判でもこの行為の意味合いが量刑を左右するだろうと、僕は見ている。

 僕はリベンジポルノをやったことはないけど、腹立ち紛れに、そういうことをやったぞと嘘をついて、相手の心を一瞬だけどん底に落としたことはある。すぐに嘘だって明かしたから一瞬だったわけで、ずいぶんずいぶん大昔の彼女のときだけど。

 そういう嘘で相手を傷つけたとき、僕の心の中で、相手を美化できるほど尊敬するような気持ちなんて、微塵もなかったね。
 また、そういうプライベートポルノを撮っていたとき、交際が上手くいってるときにだって、僕はその相手を美化するように尊敬なんてしてなかったと思う。

 僕は女じゃないから、女性がそういうものを相手が求めるままに(あるいは自発的に)、そういう別れた後にやばくなるような物を撮らせたり送ったりできる感情の状態というのは、想像でしか考えられず、完全に把握することはできない。
 でも男の立場からなら自分自身の経験から推測することはできるけど、プライベートポルノを撮って、所有していることからくる相手への想いって、あんまり美しい感情じゃないような気がする。

 好きなことは好きなんだろうけど、「慈愛」とかいう言葉で相手を褒めちぎるような、そういう愛情があったら、プライベートポルノなんて撮らない、という気がするけどね。

 これは僕の場合だけど、自分のペニスをフェラチオしている女の映像を撮ってたときなんて、そのときは感じなかったけど、後になって思い返してみると、自分の相手への情欲が爛れているような、そういう嫌な気持ちが沸いてきたりしたこともあった。

 だから、自分は本当にこの人のことを愛したいと思うような相手と出会ったとき、その彼女がセックスの前後に着替えてるところを見ないようにした、なんていうこともあったんだけど、まあ、それはそれで極端だったんだろうけど。

 あくまで僕の見解だけど、相手に対する感情が利己的なものから少しでも離れたところへ向かうなら、プライベートポルノなんていう発想から遠ざかっていくように思うのだけど。
 相手とセックスしているとき、普段の日常とは違う相手の媚態を自分だけが気持ちよくなりながら見ている、というのが愛情に近いところの情欲の一例であって、相手とのセックスをビデオや画像まで動員しなければ補間できない要素というのは、支配的であるがゆえに不安に満ちた情欲というか、「淫している」という意味での情欲でしかないという気がする(それが悪いとは言わない)。

 もう一度言うけど、プライベートポルノについて、僕は男としての自分の立場からのみ、いまこのように書いている。

 だから被害者の少女がどういう気持ちでそれを許容したのか分からないし、別れた後でリスクが生じるものを許容してしまったというのは結果的には最悪の形で誤りとなったわけだが、それを彼女の落ち度だとは、僕は考えない。
 プライベートポルノを許容したという一点のみで、彼女の愛情がどれだけのものだったかを推し量ることはできないし、仮に被告をそれほど好きでもなかったとしても、それで彼女が責められる謂れは一切ない。

 彼女が他人に慈愛を与えられる人だった、などという被告の物言いが完全に嘘であるということを、ただ僕は一番言いたいだけなのである。
 彼女が慈愛の人だったかどうかは他者にはどうでもいいことであって、殺した相手を殺してもなお美化して語ろうとする執着の中に、僕は犯人の極端な「自愛」を見いだすのである。

 もし裁判の過程で彼女のことを慈愛云々と美化する発言を彼が言い出したならば、その発言の後で彼自身が撮影してネットに後悔したリベンジポルノの映像を、もう一度じっくりと見せつけてやるといい。

 彼が精神を病んでいないとするならば、きっと、もはやもう何も言えなくなるはずである。

 彼女の動画をアップロードしたそのとき、彼女を刺殺していたちょうどそのとき、彼女が慈愛の人だったとかそういう云々の類の認識とは対極の彼女への感情が彼のすべてを支配していたはずである。

 また、彼女を特別に美化して語る現在の彼にしても、彼女のことが好きなのではなく、彼女を美化する思考によって、殺害時の鬼畜のようであった自分自身と向き合うことを拒んでいるだけだろう。

 彼女がもうこの世界にはいないという事実に安堵しているから、彼女を理想化することもできるし、そうすることによって、自分の感情をもっともらしく改変していっているだけなのである。

 自分の最も醜悪な姿や感情を直視しないために、彼女は彼によって美しく語られ続けるだろうが、それは彼が自分の罪に向き合わないという利己的な理由にしか基づいていない。

 彼は彼女の無念を封じながら、その勝手な物言いによって彼女はもう一度彼に殺されている、という言い方もできる。


 
 大学生のとき、ある年のクリスマスに自分の下宿に帰宅したときに、女の子が僕の隣のアパートの住人を、夜も遅く雪が降り積もる中をずっと待ち続けていたのを目にしたことがある。

 隣の住人はもちろん僕と同じ学生の男である。女性はかなり長時間その男の帰りを待ち続けていたけれど、その光景はおそらく自分のことを好きではない男を女が自分の意思で待っているのだという状況を、明確に窺い知ることができるものであった。

 けなげな女の人だなと、当時の僕は思った。まったく未知の他人だったが、わけもなく同情した。

 でも今から思い返してみれば、どんなに相手がけなげな思いであったとしても、好きでもない女が自分の下宿の前で真冬の夜にずっと待ち続けているというのは、される側からすれば、プチストーキングと言えなくもない気がするのである。

 たぶんあのときの女性は、そうやって待ち続けている自分の姿に美意識を感じていて、それが相手に理解してもらえると思っていたからこそ、ああいう迷惑なことができたんだと思う(男からすればその光景を隣の住人である僕に見られ衆知の状態に晒されたわけであり、まさに迷惑以外なにものでもなかっただろう)。

 あの女性がストーカー特有の感情に突き動かされていたのかどうか、あの光景一つをもってして今の時点から類推することは僕にはできない。

 ただ、ああいう自分の行為に美的自己満足を感じるようになってしまったら、自分に対する相手の判断とか感情を、一見道徳的であるかのような自分の視点から叩いてしまう危うさを深めてしまっていくように思う(ちっとも道徳的ではないのだが)。

 世の中ではそういう美的自己満足に浸りながら相手を追いかける立場にシンパシーを感じる側の人間たちが、いつの世にも一定数存在する。
 そういう人たちもやっぱり道徳的に見えるようなものを振りかざして、恋愛における自由な振る舞いや感情を、たとえば奔放というイメージで枠の中に入れようとしたりすることもある。

 あの三鷹のストーカー殺人で被害者を叩く人たちが現れたのはそういう理屈からであって、それ自体は凡庸であり、ありがちな話ではある。

 ただ、被告がリベンジポルノを同時に行ったことで、そういうありがちな類の人たちの勝手な言い草に関して、世間への影響力に及ぶ上での強度が加えられてしまった。

 そのことが、被害者にとっても、彼女の遺族にとっても、まさに痛烈無念極まりない部分だったろうと、僕は想像する。


 だからこそ、彼女が慈愛の人だった云々などと思ってもない嘘を自分の利己心のために吹聴し続ける殺人犯の妄言について、僕はくどくどとこだわり続けざるをえなくなるのである。





「死者の眼からは全て美しく見えるんだよ」

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 ぼくは女のひとの愛情の楽しさ苦しさも知らずに、二十二歳の若さで死んだ池田をバカ野郎とも可哀想とも思ったが、彼のつきつめた誠実さに、自分の放恣(ほうし)な生き方が邪魔されるのが厭で、彼の自殺もできるだけ忘れるよう努力した。ぼくは池田や自分の政治的な理想にあっさり、「さようなら」を告げ、自分の生きる目的を文学の世界に見出そうとしたのだ。例えば夕方、子供たちが、「さようなら」と叫びあい、後をもみずに自分たちの家庭に帰り、そこで今迄の遊び仲間のことなど、夢にも思わず、晩御飯や兄弟喧嘩や漫画の本に熱中できる単純さで、ぼくはその時、政治や昔の同志に向い簡単に自我的な「さようなら」をいえたのである。

 処で川合という胸を病んでいた新しい文学の友人は、はじめから近く自分の死ぬのを予感していた。彼はルパイヤットの詩人が、(ぼくたちは人形で、人形使いは自然。それは比喩でない現実だよ。この席で一くさり演技がすめば、ひとりずつ無の手箱に入れられるだけさ)と歌ったような無常観に安住しながら、自然を少女を文学を、彼岸のものとして美しく眺めていた。川合は既に自分を亡霊扱いにしていたので、ぼくたちも彼を別の世界のひとのように遠くからいたわって、つきあう他はなかった。川合はぼくたちに黙って、何度となく血を吐き、死期が迫るとこっそり田舎に帰って死んでしまった。ぼくはそんな彼に最後まで、「さようなら」を云えず、彼もぼくたちに、「さようなら」をいわず、永遠に別れることとなった。それ故、ぼくは十五年後の今でも、ふッと川合が生きていて、そのスラリとした長身に青白い童顔を微笑させ、ぼくの前に出てきて、「死んでしまった癖に、生きている世界を散歩してみるのも愉しいもんだよ。空の蒼さ。木の葉の青さ。花の紅さ。ピチピチした少女。ただ急がしそうな中年の勤め人。みんな生きているのには意味があるんだ。生きているというだけで死者の眼からは全て美しく見えるんだよ」と卒直な感想を語りそうな錯覚がする。

 大学を出てやっと就職したかと思えば、昭和十二年、日本軍閥の中国に仕向ける侵略戦争はとめどがなくなり、ぼくも補充兵として召集を受け、半年足らず原隊で人殺しの教育を受けてから北支の前線に引張りだされた。その頃から日本人は肉親、友人、愛人とやたらに「さようなら」を云い合うようになったのだ。日本人の戦争道徳は(生きて帰ると思うなよ)である。出征の際、(また逢う日まで)を祈る別離の言葉なぞとんでもない。どうしても、(左様なる運命だからお別れします)の「さようなら」がいちばんふさわしい。その上、女のひとだと、「さようなら」に「御免下さい」をつけ加える。(そうした運命になったのをお許し下さい)と強権に対し更に卑屈に詫びているのである。まるで奴隷の言葉と呆れるより他はない。

 ぼくたちはそうした奴隷の言葉に送られた、奴隷の軍隊としての惨虐性を中国において遺憾なく発揮した。「グッドバイ」の意味する如く、神を傍らに持たず、中国語の、さよなら「再見(ツァイチェン)」の意味する、愛する人たちとの再会の希望もない軍隊は、相手の人間をいたずらに傷つけ殺し軽蔑し憎悪することで、自分たちの高貴な人間性も不知不識に失なっていた。ぼくたちは、中国兵の捕虜に自分たちの墓穴を掘らせてから、面白半分、震える初年兵の刺突の目標とした。或いは雑役にこき使っていた中国の良民でさえ、退屈に苦しむと、理由なく、ゴボウ剣で頭をぶち割ったり、その骨張った尻をクソを洩らすまで、革バンドで紫色に叩きなぐった。

 ぼくは山西省栄河県の雪に埋もれた城壁のもとに、素裸にされ鳥肌立った中年の中国人がひとり、自分の掘った径二尺、深さ三尺ほどの墓穴の前にしゃがみこみ、両手を合せ、「アイヤ。アイヤ」とぼくたちを拝み廻っていた光景を思い出す。トッパと綽名(あだな)の大阪の円タク助手出身の、万年一等兵が、岡田という良家の子で、大学出の初年兵にムリヤリ剣つき鉄砲を握らせ、「それッ突かんかい、一思いにグッとやるんじゃ」と喚き散らし、大男の岡田が殺される相手の前で、同様に土気色になり眼をつぶり、ブルブル震えているのを見ると、業をにやし、「えエッ。貸してみろ。ひとを殺すのはこうするんじゃ」と剣つき鉄砲を奪いとり、細い血走った眼で、「クソッ。クソッ」出ッ歯から唾をとばして叫び、ムリに立たせた中国人の腹に鈍い音を響かせ、その銃剣の先を五寸ほど、とびかかるようにして二、三度つきとおした、中国人は声なく自分の下腹部を押え、前の穴に転げ落ちる。ぼくは鳥肌立ち、眼頭が熱くなり、嘔気がする。(さようなら。見知らぬ中国人よ、永久にさようなら)

 ぼくは共産八路軍と交戦し、勇敢な十四、五の少年の中国兵を捕えたことがある。精悍(せいかん)な風貌をした紅顔の美少年。交戦中の捕虜は荷厄介として全て殺してしまうぼくたちも、彼の若い美しさを惜しみ、荷物を持たせる雑役に使うことにした。しかし彼は飽迄も日本軍への敵意を棄てず、ぼくたちが黄河河畔の絶壁の上を喘ぐように行軍していた際、突然、荷物を棄てると、その絶壁から投身自殺した。数千年の風雨に刻まれた高さ三千丈もある大地壁。顔を覗かせただけでも、下から吹きあげる冷たい烈風、底に無表情に横たわる水のない沼土までの遠さなぞに竦み上がる崖上から、十四、五の少年中国兵が鳥のような叫声をあげ、鳥のように舞い降りたのだ。幅僅か二間あまりの癖に眼くらむほど深い地隙には、絶えず底から烈風の湧く強い空気の抵抗があったから、少年の肉体は風に吹かれる落葉のように揺れながら落ち黒い点となり、眼下の褐色の沼土に吸いこまれていった。ぼくは彼のそうした死に方に、人間に飼われるのを拒否して自殺する若鷹に似た壮烈さを感じ、その黒い一点となった少年の後姿に心の中で、ただ「さようなら」を叫んだ。(そうなる運命なのだ。少年よ、仕方がない。では左様なら、御免なさい)

 その前後、ぼくはこうした許しを含んだ、「さようなら」との別離の言葉を多くの中国人や自分の戦友たちにさえ告げた。ぼくは幾度か一線で対峙(たいじ)した中国兵に、上官の気を損ねまいと、正確な射撃を送り、四人まで殺し、十人ばかりの人々を傷つけたが、その戦闘後、自分の殺した生温かい中国の青年の死体の顔を、自分の軍靴で不思議そうに蹴起しながら、いつも、「さようなら」とだけは心中に呟くことができた。(ぼくの手がその青年を殺したのではなく、戦争という運命が、その青年を打ち倒した)との諦感からである。例えば惜別の言葉として、「オォルボァル」とか、「ボンボワィァジュ」といえるフランス人たちは、戦争を天災に似た不可避の運命と信ぜず、ナチ占領下も不屈の抵抗運動を続けられたのだが、愛する人々との別れにも、「さようなら」としかいえぬ哀れな日本民族は、軍閥の独裁革命に対し、なんの抵抗もなし得なかった。

 本来ならそうした抗戦運動の指導者になる筈の知識人たちが、日本の場合は隠遁的ポオズだったり反って軍閥の走狗(そうく)となった例が圧倒的に多い。その為、ぼくたち日本の知識階級の未成年はお先真暗な虚無と絶望と諦めにおとし入れられていた。彼らの中にも狂信的な愛国主義者になり切ったものがいたが、そんな青年たちでさえ、助かる程度の戦傷を受けた際は勇ましく、「天皇陛下万歳」を叫び、瀕死の重傷の場合は弱々しく、「お母さん。さようなら」とだけ呟くのを眺め、ぼくには奇妙な笑いと怒りを同時に感ずる苦しさがあった。



田中英光 『さようなら』 (改行は一部引用者による)






セックスが狡猾な行為と思えてきたら観る映画

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 YouTubeで、大島渚監督の1999年の映画『御法度』を観る。

 公開当初に映画館で観たのが最初で、それ以来だから15年ぶりということになるが、初見のときの印象とは異なり、とても面白く鑑賞した。

 昔から映画館に行くのが面倒くさかった僕がこの映画を劇場で観たのには、一つの忘れ難い理由がある。

 当時、友達以上恋人未満みたいに想っていた人がいて、彼女と一緒に誕生日を過ごしたいという念願から、僕はレオス・カラックスの映画『ポーラX』を観に行こうと誘った。
 僕が一番大好きだったカラックスの、『ポンヌフの恋人』以来の待望の復帰作であったがゆえに、特別に映画館で観たかったし、特別な人と一緒にそれを観たいと思った。彼女はカラックスの映画をまったく観たことがなかった。

 結果的には僕にとって『ポーラX』は予想を遥かに裏切る大駄作であって、カラックスファンの僕が面白くなかったぐらいだから、欧州映画に疎い彼女にとっては何とも理解しがたいクソ映画だった。
 映画館を出て、ドイツ料理専門のビアホールみたいなとこで二人飲んだのだが、「あのラスト、むちゃくちゃっていうか、激しすぎる映画だったよね」という彼女の苦笑を聞きながら、「とんでもない映画をデートに選んだものだ」と、後味の悪さと後悔ばかりで、7回コールドの惨敗みたいに大事な誕生日を潰してしまった思いで悪酔いした。

 彼女と別れた後、「大事な誕生日をこんな無惨さで終わらせたくない」という口惜しさから、映画館を梯子して「口直し」としてオールナイト上映を観ることにした。

 それが『御法度』だったのだが、ウィキペディアで調べてみると、封切り初日にこれを観たことに15年経って、いま気づいた。

 だがせっかく梯子して観に行った『御法度』も、全然面白くなかった。『ポーラX』と同じくらい失望させられた。

 最終的に明け方まで始発のバスを待ちながら、最悪の誕生日だったと腐りながら、明け方まで京都の河原町を「無念さ」とともに、ほっつき歩いた。


 それから15年経って、何の意味もなく暇つぶしにもう一度観たのだけど、予想外に面白かった。
 「こんなに面白い映画だったっけ?」といぶかしみながら、連続で2回観た。

 今から思うと、15年前、『戦場のメリークリスマス』を初めて観たときの感動を再現するような結果を、僕は『御法度』に期待していたのだろう。
 だが『御法度』は『戦メリ』みたいなスケールの広さがあるわけでもなく、小品的なタイプの作品で、終わり方もなんとも言えない後味の悪い濁りがあって、『戦メリ』でのたけしのアップみたいな清々しさとは対極にあるようなラストである。

 15年経って、清濁併せ呑むように生きてきたわけでもないけれど、僕の人生にも濁りというか陰りみたいなものを僕自身が意識するようになった。そのような現在だからこそ、普通に受け入れられたのであろう(『戦メリ』にも感動しなくなったし、『愛のコリーダ』も観たし)。

 あのラストの後味の悪い濁り加減、あれがいま観たら、すごく感情移入させられた。

 15年前は台詞の聴き取りづらい劇場で観たから謎だらけのラストだったけど、今回は英語の字幕付きで繰り返し見たからよく理解できた。

 あれは常識的に考えて沖田が加納を粛清するために中州へ戻ったのだろうけど、ネットでは「沖田が加納と契りに行った」という誤解とか、「ラストが謎だから美しい」と分かったつもりで悦に入るスノビッシュな向きも多い。
 でもあれは間違いなく沖田は加納を斬りに戻ったのだ。
 「沖田さん・・・・」という加納の声と斬った男の声、加納と田代が斬り合う前に土方の頭に去来するイメージ映像、あれらがその解答を示唆している。
 にもかかわらず、分かりやすいことをわざと分かりづらくしてるんだから、大島監督のシナリオってセコイよな。わざと謎かけみたいに終わらせたいもんだから、ラストでの土方の台詞が無惨にも、説明調で語らせざるをえなくなる。

 大島監督の映画ってそういうしょうもない欠如とかツッコミ入れたくなる箇所が、どの作品にも満遍なく収められてある。

 それでも『御法度』が、現在の僕には『戦メリ』よりも深い共感を寄せる理由は、ひとえに、あの映画全体の暗さ、救いのなさに拠るところが大きい。

 衆道を描いてるけどゲイムービーじゃない。人と人が結びつくときに生じるある種の絶望的な暗さを、特に性交によってより顕になるそれを、衆道という搦め手から取り上げてる。
 シンプルに愛情とか信じなくなって、セックスの中に狡猾さを見出してしまう、そういうふうに成り果てた齢からあの映画に接してみると、あの暗さがなんともいえない。
 「自分に将来なんてあるのか」という加納惣三郎の言葉通りに生きてるような感覚で生きてこそ、あの暗さに共感しうるようになる。

 新撰組映画、もしくは幕末物としての視点からあの映画を捉えても、実に興味深い作品で、大河ドラマを一年間延々欠かさず観るよりも、ほんの90分だけあの映画に陶酔する方が人生の選択としてベターだと思う。
 『龍馬伝』とか良いかもしれないけど、ああいう無暗な陽性は嘘っぽいしね。三谷幸喜の『新選組!』は考証とか研究熱心で面白かったけど、たかが90分の異端派的「新撰組」物語の『御法度』の方が妙に本物に思えてくる。

 武田真治の沖田は正攻法としても、たけしの土方、崔洋一の近藤とか、ミスキャストぎりぎりみたいなキャスティングだけど、大島さんは何気にツボを押さえてるんだよね(伊武さんの伊東甲子太郎も)。
 でも誰より抜きん出て武田真治の沖田役は良かった。あの映画の屋台骨は沖田の役割が支えてる部分が大きく、そのためのキャラ作りが的中してるんだよね。
 沖田総司ってのは子供に優しい爽やかな男だけど、隊士を粛清する仕事においては容赦なく斬る。そこんとこを押さえてる歴代の作品は多いけれど、じゃあどうしてそんなに容赦なく斬れたのか、その沖田の人物的な理由を描いたものはあまり無い気がする。

 でも『御法度』は、異端「新撰組」物語でありながら、そこを端的に示してる。

 土方 「総司、おまえ、惣三郎に嫉妬してるんじゃないだろうな?」

 沖田 「私は子供のときから近藤さんと土方さんの間で育ちました。私に嫉妬というものはありません。ところで、土方さんと近藤さんの間はどうなんです?」

 土方 「どういう意味だ?」

 沖田 「私にはお二人の間には誰も入れないという暗黙の了解があるような気がします。それが新撰組なのです。ところが時々そこへ誰かが入ろうとする。近藤さんが迂闊に入れようとする時もある。土方さんはそれを斬る」

 土方 「総司、黙れ!」


 僕は原作を読んでいないんだけど、こんな数行のやりとりの中に、新撰組での彼らの背景が見事に言い尽くされているのを今まで触れたことはない。

 平隊士の衆道というエキセントリックな案件が、沖田の指摘によって、一瞬で新撰組の根幹に関わる話へと一般化される。その一般化の一瞬で僕たちは「これは紛れもなく新撰組のドラマなんだ!」と意識させられ、新撰組の話の中に何度も投影されてきたこと、自分たちの人間関係に関する現実と違わない普遍性の真実を知る場所へと一瞬で移される。
 
 でもここで一番大事なのは、リアルに起こるその普遍的真実を誰が距離を置いて直視しているかということで、それが沖田総司その人なのである。
 加納惣三郎の一件について近藤や土方さえも手古摺りながら、まさかそこに自分たちが当事者として普段意識しない重要な問題が反映されているとは思いもよらず、巻き込まれてしまっている。だが沖田はそれを一番冷静に注視して理解している。だからこそ怜悧な粛清実行者となりうるのだ。
 子供に親しい爽やかさというのは、容易に巻き込まれない距離の置き方との裏返しなのかもしれない。

 こんなふうに『御法度』では、沖田が最大のキーパーソンであり、沖田による粛清によってすべてが収まるのだが、逆に言えば、彼の役割がなければ全体が破綻しかねない、実に危うすぎるカタストロフィへのぎりぎり寸前の事態を見透かさずに切り取ったのがこの作品であるわけだ。

 この破局寸前でぎりぎりに回避される現実の静かな危うさというのが、やけに見慣れた光景として自分の現実の中で繰り返し眺めてきたような、そんな既体験感をこのドラマから感じ取ったりしてしまう。
 それはたぶん普遍的なテーマとしてある僕たちの肉体の問題であって、手近なところで言えばセックスなのだと結んでしまえば教科書的な答えで、元も子もないのだが。

 惣三郎に惚れてしまった湯沢が散々セックスで惣三郎を貪りつくした挙句、絞殺するかのように彼の首を絞める場面がある。それは戯言に過ぎないのだが、『愛のコリーダ』では定は吉蔵をそのまま絞め殺してしまう。
 しかし僕はこのスキャンダラスな衆道の情景はしっかり目に焼きついていたのだが、性交の後に首を絞めるシークエンスを15年前にまったく記憶していなかった。
 たぶん、その仕草は15年前の僕にとっては、必要のない意味のないものだったのだろう。
 だがこの仕草の必然性が切なくなるほど完全に理解できる今となって、この映画は自分の現実に近い世界のものだと僕はついに意識することとなった。


 初見のときにも感じたのだが、坂本龍一の音楽が秀抜である。

 『戦メリ』とか『ラスト・エンペラー』での作曲を今となってはまったく評価していない僕なのだが、『御法度』のミニマルは耳に残りやすく、映画に投影されるような自分の現実的な諸事に似通った音として聴こえてくる感じがする。

 それはただ単純に自己愛を意味するものじゃなくて、「自分の壊れ方」ってこういう感じなんだよね、という感覚において似通ってるということ。
 もしくはカタストロフィの怖さとか、日々の危うさの実感とかそういうイメージにおいて。武満徹を聴くようになって分かるようになったけど、あれに近い感じで『御法度』での坂本の仕事を僕は評価する。


 大島渚の映画としては、今の時点では一番好きな作品かもしれない。

 僕はいつも思うんだけど、なぜ大島の映画が海外であんなに受け入れられるのか、理解に苦しむんだよね。だって、最初の方で言ったように、欠如した感じとかツッコミたくなるような部分満載だし、下手くそという意味で偏執的な描き方するし。
 第一、面白くない。面白くないのはたぶん、カタルシスがないから(カタルシスを作るのが出来ないんだと思う)。

 でも『御法度』が面白いのは、とても感情移入しやすいから。身近な現実のように思えるから。あと、新撰組の物語としては断然他を抜きん出ていると思う。
 海外でまったく評価されなかったという、その事実は今でも本当みたいだね。僕が観たYouTubeのコメントにもそういう意味の英文が幾つか見受けられた。それはやっぱり新撰組が理由なんだろうけど、そこが面白いんだけどね。

 NHK大河で繰り返し量産される幕末物って、なんであんなに支持されて、みんな見飽きないんだろうね。あんな幕末、嘘っぱちでしかないだろうに。
 坂本龍馬が日本国がなんとかかんとかアジるような、ああいう描写は、日常性からして嘘だと思う。
 『御法度』のなかで土方が「幕府がどうのこうのといつもいつも議論していたら本当に幕府が倒せる気になってしまう」という台詞があるけど、あれが本当で、志士なんてものは日常にフィクションを持ち込んだ新左翼みたいな嘘の連中でしかなかったんじゃないか。

 新撰組が遮二無二人を切っていく集団と土方が割り切ったように、加納惣三郎が「自分に将来なんてあるのか」と言いつつ人斬りに魅せられていったように、現実はもっと陰性だ。

 陰性な現実のなかで足元を掬われるように、危ういぎりぎりのところで、戸惑いながら、狂いながら、生きたり死んだりする。

 そういうふうに、われわれと似通った現実と違わないものとして幕末を切り取ったという意味で、『御法度』は黒木和雄の『竜馬暗殺』と同じ視点をもった作品と言えるかも知れない。

 そして『竜馬暗殺』が当時のセクト同士の内ゲバをなぞらえたと批評されたように、『御法度』を見ていると、僕はなんだか「酒鬼薔薇聖斗」以降の現在の時代感覚と相似する部分があるような側面を感じないでもない。





なかなか死ねない

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なかなか死ねない。






娼館で飛び散った白いカルピス




岸辺で潮流に投げ捨てられる虫の息のクーリー




愚かな生き物



低能なオチンチンと白痴のオマンコ






町で一番のカンフー映画は悪玉オンリーで



租界から放出される極彩色刷りのエロ本には彼が白人シャム猫女におしゃぶりしてるさね。







なかなか死ねない





穏やかに ひどく無惨に 終わりへゆっくり向かうでしょう。



阿片がくすぶる浴槽の中。





突き上げるね、メイティン。


慰めてくれ、こんな憂鬱、どこかへぽしゃって。









メイティンは男達の秘密。


上海ドールの神秘。




銃剣が光る命の瀬戸際で、


バスタブでイチモツを握り締めながら唾を混ぜて、静める。






「しっーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」







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