Hemakovichの半永久的平坦な戦場

パニック不全神経症者が落ちてゆくカムフラージュ

酒に縁遠かった僕もニッカに魂を奪われてしまった

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 ニッカのモルトクラブを買いに安売り食料雑貨量販店に行ったのだが、初号ブラックニッカ復刻版を初めて見た。

 昨年末から数量限定で売り出されているらしいのだが、どこのスーパーやコンビニ、専門酒店に行っても全然見かけなかった。
 1500円前半で売っていたので思わず手が伸びて、かなりの時間眺めていたのだが、やはり初心の方を優先してモルトクラブを買う。
 帰宅してネットで検索してみたら、最も安くてだいたい1600円ぐらいで売り出されていること、よくわからないがとにかく美味しいと評判が高いらしいことを知り、買わなかったことを後悔した。

 数日経って同じ系列の量販店の別店に行ってみたら、1本のボトルだけ残っていた。迷いなく購入。

 「チョコレートを思わせるスイートさ、ほのかなビターさの中に、穏やかなピートが感じられるコクのある味わいが特徴です」

 こんなブレンダーのコピーを眺めながらゆっくり口の中に流し込むと、本当にビターチョコレートみたいな味の感じがするので驚いた。
 結構な割合でジンジャーエールと混ぜてみても、ウイスキーのコクが残るので、ハイボールにしてみてもゆっくり味わって飲める感じ。

 ここ一ヶ月、相当な種類のニッカを買ってきて、最後にこれを買ったのは財布的には痛かったが、十分に元が取れるウイスキーだったので嬉しかった。


 どこの酒売り場に行っても、ここ最近、ニッカのウイスキーの品だしがかなり少なくなっているのが目立つ。

 特に、一番安いブラックニッカ・クリアは、夕方とかに買いに行ってみると2~3本しか置いてなかったりする光景によく出会う。モルトクラブを買いに行ったときも空いたスペースに1本だけしかなかった。

 ニッカと並ぶようにして置かれているサントリーはどこもかしこもぴっしりと品だしが十分に揃っていて、つまり、あまり売れていないようだ。
 もっとも、「山崎」なんかの高値のウイスキーになると、サントリーでも原酒が不足しているらしく、入荷未定のブランドも幾つか見受けるのだが。

 ニッカがまばらになっているのに、サントリーの品だしが充実している景色を見ると、いかに『マッサン』の視聴率が高いとはいえ、こうまで違ってくるものなのかと、驚愕せずにはいられない。
 先日、酒造業界では、昨年の決算かどうか失念したが、サントリーが一番売れたとの記事を読んだが、ウイスキーではどうやらニッカの一人勝ちの様相を呈しているようだ。
 
 僕の予想だが、たとえ『マッサン』の放送が来月に終わったとしても、ニッカの売れ行きが急激に落ちるという事態はなさそうに感じられる。
 ドラマを通じてニッカの独自性を知った人たちが、今後も続けて愛飲する可能性が高いように思うからだ。
 また、ニッカでは価格の安いウイスキーでも、決して低品質というわけでもなく、ウイスキー党以外の人たちが入り込む間口が広いことも、一度味を知った人たちを離さないだろう。

 どうやら酒に縁遠かった僕も、ニッカに魂を売り渡してしまった。


 第20週目の月曜日から、僕もついに『マッサン』を見始めている。

 エリーが日本人からの迫害に遭う20週目はなかなか見どころ豊富で、特高に対してエリーが啖呵を切って立ち向かう金曜日の放送は、僕が馬鹿にしているTVドラマの割りに演出もなかなか良く、印象に残った。
 僕は昼に見たのだが、朝に見た母から次の番組の「あさイチ」で有働さんが泣いていたというのを聞いた。
 
 母がつねづね「あの外国人の主役の人、よくやっている」と誉めていたショーロット・ケイト・フォックスさんだが、演技の上手さは分からないけれど、なんとなく、共感したくなるタイプの女優として映っているような気がする。

 TVドラマ自体、全然見ない僕なのだが、とりわけNHKの朝ドラに対していつも思うのは、共演者がどんなに魅力的な人がいたとしても、肝心の主演のヒロインにまったく共感できない、ということだった。

 『カーネーション』にしろ、『あまちゃん』にしろ、『花子とアン』にしろ、母や姉たちからどんなに面白いかを力説されてもいつも煙たい思いがしていた。
 それぞれのドラマ自体は確かに良作だったのかもしれない。だが朝ドラ全体の印象として思っていたのは、ヒロインに魅力があろうとなかろうと、女優はドラマのよさに単純に乗っかってるだけだから熱い視線を送られているだけ、というような感覚がいつも僕のなかにはあった。

 ヒロイン自体に共感を感じられた稀有な作品と言えば、『ゲゲゲの女房』の松下奈緒ぐらいだっただろうか。あの作品での彼女はドラマの素材のよさに、ただ乗っかっているだけのような印象は受けなかった。

 で、『マッサン』なのだが、シャーロットさんが初の外国人ヒロインとして、一人異郷で頑張っていることへの贔屓目はもちろんあるのだろうが、彼女も松下さんと同じ感覚での共感が感じられるのである。

 取り立てて美人というわけでもなく、個性が光るというわけでもないのだけど、ドラマに乗っかってるだけじゃなくて、ドラマを引っ張ろうとする意思のような存在感を見いだせる気がする。
 その辺が他の朝ドラのヒロインの安直さとは正反対なものだから、思わず共感して応援したくなるのだろう。

 ドラマから離れたオフの場の印象では普通のアメリカ人という印象なのだが、その彼女が前世紀前半のスコットランド人を見事に演じているのも、僕の好感を引いた理由かもしれない。

 また、女性ヒロインだけでなく、男女ともに両俳優が主演というのも、今回の物語の特性としては共感を引きやすい設定だろう。

 最終回は、ぜひシングルモルト余市の入ったグラスをくゆらせながら、最高の余韻に浸りたいものである。





いいよ、いいよ。君が死ねば僕だって死ぬよ

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 私達は予定通り、恰度一時間を費して、インタアナショナルを出た。
 真暗な河岸通りに青い街灯が惨めに凍えて、烈しい海の香りをふくんだ夜風が吹きまくっていた。

 元町へ抜けて、バンガロオへ寄って、そこで十二時になるのを待った。アレキサンダー君が、このダンス場の看板時間まで踊り度いと云うので、踊の出来ない私は、ぼんやりウイスキーを舐めるばかりで、旺んなホールの光景を見物しながら待っていたわけである。
 へべれけに酔っぱらった大そう年をとり過ぎた踊子(ダンサー)が、私の傍へ来て、ポートワインをねだるので、振舞ってやると、やがて彼女は、ダンス位出来なくては可哀相だから、教えてやると云って、私の両手を掴んで立ち上がるのであった。
 だが、彼女は直ぐに、蝋引きの床の上に滑ってころがった。何度でもころがった。
 私は到頭、やっかいな老踊子を、静かに長椅子(クッション)の上に寝かしてやらなければならなかった。

 十二時にバンガロオを追い出されて、私達はさて、大方寝てしまった元町通りを、真直に徒歩で大丸谷へ向った。
『大丸谷は本牧より半分安いですが、悪い。そして、日本人は好かれませんよ。』と、アレキサンダー君は、私と腕を組ませて歩きながら云った。
 草の生えている真暗な坂道を上がって行くと、左側に何々ホテルと記した、軒燈りの見える家が幾軒となく立ち並んでいた。
 私達はその中で、一等堂々として見える新九番館(ニュウ・ナンバア・ナイン)を的にして行ったのだったが、玄関も窓も、すっかり暗くなっていたので、已を得ず、その裏側にある東京ホテルの玄関を敲いた。
『何国?――』と云う声と共に、傍の小窓が開いた。
 窓明りを背負って現われた黒い女の顔は、玄関の扉にくっ着いているアレキサンダー君よりも、その後に立った私の方を主に窺った。
『支那人(チャニス)。』とアレキサンダー君が咄嗟に答えた。が、『満員!――』そして忽ち、窓は閉まった。
『ちえッ!――』アレキサンダー君は、唾を甃石の上へ吐きつけた。
『チボリへ行っても寝ています、本牧へ行きましょう。』
『オールライト!』
 と、私は答へた。

 私達は、それから本牧へタキシイを駛らせながら、十二天と小港の何れを択ぶべきかと相談した。
 そして結局、キヨ・ホテルはブルジョワ・イデオロギイであると云うので、後者をとることになった。車は夜更けの海辺を疾走した。

 狭い横町を左へ折れて、梅に鴬の燈りが灯っているホテルの前を過ぎると、間もなくアレキサンダー君は車を停めさせた。私達は、エトワールと云うホテルに入った。ひきつけとも云うべき明るい広間に、十人もの六月の牡丹の如く絢爛たる女が並んでいた。
 アレキサンダー君には、すでに馴染があったが、私はその中で、最も自分の気に入ったどの女をでも、選択することが出来たのである。
 女達はアレキサンダー君を、『サーシャ』『サーシャ』と呼んで取り巻いた。アレキサンダー君の女は、頭を美事な男刈にした、眉根の険しい感じのする、十七八にしか見えない小娘であった。
『サーシャ、タンゴ――』と、その女は直ぐに男の体に絡みついた。

 私は自分の女を択ぶことを、『酒場さん』なる鴇母(おば)さんに催促された。私は大勢の女の一等後の方で、蒼い顔をして外っぽを向いている、痩せた女を指してしまった。

 彼女はさっきから、私の心を殊の外惹いていた。それと云うのは、彼女は他の女達のように、私へ笑いをかけることをちっともしなかったし、それに脆弱な花のように、ひどくオドオドとした哀れな風情が、その大きな愁しげな眼や、尖った肩さきなどに感じられたからである。

 併し、これは鴇母さんにも、他の女達にもまたサーシャにも、少からず意外であるらしかった。が、私は彼女を膝の上に腰かけさせて、その艶のない頬を撫でてやった。

 私共は二人分として二十五円払った。勘定が済むと、それぞれの寝室へ入った。私の女は、私の衣服をたたんで、鏡台のついた箪笥へしまってくれた。

 『あなた、偉い方?』と女は私の髪を骨ばった指で弄びながら訊いた。女の声は喉もとで嗄がれて、長い溜息のような音を立てた。

 『ああ、華族様さ。けれども男爵だよ。』と、私は嘘を吐くのであった。

 『そう、いいわねえ。』彼女の声は風のように鳴った。

 『君、病気なんだね。肺病だろう?』

 『ごめんなさいね――あたし、死ぬかもわからないの。』

 『いいよ、いいよ。君が死ねば、僕だって死ぬよ。』

 『まあ――調子がいいわね。』私は彼女の、小さな頭を胸の中に抱いた。

 『お止しなさいな。あたし、もっと悪い病気なのよ。』と、彼女は唇をそらそうと、もがいた。

 『いいよ、いいよ。』

 私は、そして、無理遣りに彼女の頬を両腕の中におさえた。――そんな病気は、世界中の何万何億と云う男と女とを、久しい時代に渡って一人一人つないで来た――云いかえれば、男女の間の愛と同じ性質のものである――と云った、アレキサンダー君の言葉を思い出しながら……



渡辺温 『ああ華族様だよ と私は嘘を吐くのであった』 (改行の一部は引用者による)






大人になったら、直情パンクではなく混沌ファンク

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 新しいコラージュの発想も全然浮かばないし、ブログに書くネタも特に思いつかない、政治のことなんか書いてもクソなので、今日は最近偏愛する音楽のことについて触れたい。


 まず、ザ・ポップ・グループの“Where There's a Will”について。

 彼らの曲で最も好きなものを挙げろと言われたら、以前は“Justice”だったのだが、今は断然この曲なのである。

 数ヶ月前から重宝して利用している音楽サイトGroovesharkで、僕はこの曲を再生リストに入れてなんとなく「いい曲だ」と聞き流していた。
 だが最近になって、過去にベルギーの“Generation 80”というTV番組で彼らが“Where There's a Will”を演奏している(エアだが)のを見て、完璧にこの曲に取り憑かれてしまった。

 ちなみにこのベルギーの番組ではキリング・ジョークだとかスリッツだとか、やたらオルタナティヴなバンドばかり取り上げて出演させている。
 だが、ポップ・グループの演奏映像が断トツにかっこいい。
 軍服を着たマーク・スチュワートやメンバーたちのアクションもさることながら、彼らのパフォーマンスをシルエット映像にしてバックに投影させている演出が実にクール。なんてこともない演出なんだろうが、僕はこういう金のかからない範囲で最大限に魅せるニッチな工夫には敏感に反応させられる。

 歌詞の内容なんてネットで調べても分からず、ポップではないポップ・グループの曲の中でも、名前も挙がってこないレアな曲なのだろう。シングルでの発表当時、アルバムにも収録されなかった。

 でも、彼らの作った曲の中で、一番「踊れる」という意味でファンキーで、かつ攻撃的に感じられるのは僕にとって“Where There's a Will”なのである。

 ポップ・グループといえば、“Y”と、“For How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?”の2枚のスタジオアルバムしか残していないが、僕は断然、混沌じみたファンクが顕著である後者派で、“Where There's a Will”もその系統に位置づけられるナンバーであり、彼らの編み出したファンクの最終完成形とも呼びうる代物だと思う。
 (余談ながら、“For How Much Longer”は今でさえ入手困難なアルバムだが、僕は20年ほど前に限定販売されてなんとか購入したものを、大学の友人に借りパクされてしまったという無念な思い出がある)

 アマゾンのレビューでも誰かが書いているが、とにかく腹が立つこと、政治だとか社会的不条理にぶつかって、なんとも晴らしようのない怒りに燃えたら、とにかくポップ・グループを聴くべきである。
 僕なんかは、最近アベゴミクズの下痢野郎の顔なんかをTVで運悪く見てしまったら、その不浄感をポップ・グループを聴くことで殺菌している。

 十代の頃なんかはセックス・ピストルズやクラッシュを聴くことで発散できたものも、三十代過ぎると、パンクでは薬効が足りなくなってしまう。
 大人になったら、パンクではなくファンクなのである。
 それも、ポップ・グループのようなミクスチャーな混沌ファンクでなければ駄目なのである。

 彼らの音楽について、ある程度インテリジェンスな論説で理解したいと思う人には下記のサイトを推奨したいと思う。主だった代表曲の訳詩も紹介されている。

 訳詞と考察 ‐ The Pop Group/Mark Stewart






 アビー・リンカーンの“For all we know”について。

 詳しいことは知らないが、この曲は有名なジャズナンバーであるらしくって、有名どころではナット・キング・コールが歌ってたりしている。
 だがこの曲を聴くときは必ずアビー・リンカーンのバージョンだと決めている。アビー・リンカーンなんて全然知らない人だし、彼女の他のナンバーは一曲たりとも聴いたことがないのだけれども。

 この曲を初めて聴いたのは、ガス・ヴァン・サント監督のデビュー作『ドラッグストア・カウボーイ』を見たときである。

 この映画、実に選曲のセンスが最高の映画なのだが、僕は長い間、この映画に使われた曲名やミュージシャンの名前を知らないまま、十数年過ごしていた。というのも、『ドラッグストア・カウボーイ』のサントラCDは(どうやら)日本では発売されなかったらしいからである。

 高校のときから何回もこの映画を観るたびに、最後のエンドクレジットをブラウン管に目をくっつけるように注視していたのだが、字が小さすぎて全然読み取れなかった。
 21世紀になってインターネットでなんでも分かる時代になり、あるとき、この映画の英語解説サイトを閲覧してみたらあっという間にすべてのサントラの曲名が分かって、それをYouTubeにコピペしたら拍子抜けするほど簡単に長年焦がれた曲が聴けたので、驚愕させられた。まったく、良い時代になったものである。

 主題歌であるデズモンド・デッカーの“Israelites”もそうだが、この“For all we know”も、映画の中でラストシーンや主人公のマット・ディロンがヤク断ちをして堅気の暮らしを始めるシーンなど、良い挿入がなされている。
 高校時代からずっと忘れられないほどにまで恋した曲で、今でも折に触れて、頻繁に聴いている。

 最近は、近頃ハマってるブラックニッカ・クリアなんかをハイボールで飲む深夜に、つまみのチョコレートをかじりながら聴いていたりすることが多い。

 世間の洋楽ファンが一人で夜中に洋酒を飲んだりするときには、ウェットが好きな人ならチェット・ベイカーとかビル・エヴァンス、ルーズ志向の人ならルイ・アームストロングやトム・ウェイツだとかを聴いたりするのが、たぶん定番であるように想像したりする。
 だがウェット型の僕の場合、日頃大好きなトム・ウェイツの1stアルバムとかカウボーイ・ジャンキーズの『トリニティ・セッション』を飲んでるときに聴いてしまうと、なんかどこまでも酒の方に飲まれ、抑うつが発生しそうな不安を感じたりする。
 (それでも大学時代はアーリータイムズを飲みながら『トリニティ・セッション』を聴いて、失恋の痛みを慰められる毎日があったものだが)

 “For all we know”も随分ウェットで、外国のチョコレートみたいに甘すぎな曲だと思うのだが、これを飲んでるときに聴いても憂鬱に塞ぎ込まされそうにならないのは、やはり『ドラッグストア・カウボーイ』での印象と、アビー・リンカーンの歌声に拠るものなのだろうか。

 映画のラストシーンで「生きていたい・・・・・・」とマット・ディロンが呟くシーンと、そのバックで流れるこの曲の主題のようなものは、互いに呼応しあうように完全に調和している。
 ラストシーンにこういう内容の歌詞の曲を持ってくるのは幾分ベタ過ぎるようにも思えるのだが、ガス・ヴァン・サントの8ミリハンディカメラの演出、それと歌の内容を自分とは突き放すように歌うかのようなアビー・リンカーンの雰囲気が、甘くならない不思議な哀愁を生み出すことに成功しているように思える。ナット・キング・コールだと、こうはならないかもしれない。

 哀愁とは本来それを感じようとする者による甘い主観だと思うのだが、ある種類の感性をもった歌姫がそれを語ろうとするとき、哀愁は人間の本性にとって普遍的な存在論を奏でる響きとなりうるのかもしれない。

 Yahoo知恵袋で名もなきの詩人が訳してくれたこの歌詞を眺めながら、僕は今夜もブラックニッカとチョコレートで存在論に思いを馳せることになるだろう。
 
たぶんきっと。

きっと、僕らはもう二度と会わないかもしれない。
君が去る前に、もう一度優しい時間を過ごそう。
僕らは、最後の最後まで、「おやすみ」は言わない。
僕は君に手を差し出す。
そして、その手の中には、僕の愛がつまっているだろう。

きっと、これはただの夢なのかもしれない。
さざ波のように、僕らは出会っては、別れていく。
だから、今夜は僕を愛して。
誰かのために、明日はあるんだろうけど、
明日なんて永遠に訪れないかもしれない・・・・・・きっと。






「ともだちのことを書きました。じごくに落ちるところです」

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ひまこさんへ    2012年 1月30日

   
   
だいすきなひまこさん きょうはどんな日をおすごしでしたか 
うちは きょうは午後から カウンセリングでした 
うち せんせいに言ったんです 

 すきなひとができました 
   
せんせいはとてもびっくりしてました うちがすきなひとができるなんておもっていなかったんでしょうね 
  
 すきなひとと会うときは やっぱりいちばんきれいな服きて おけしょうもするの? 
 あたりまえですよ と うちがいうと 
 じゃあ こんど 彼氏さんと会うときとおなじかっこうでカウンセリングきてよ 
うちはことわりました うち びょういんに行くときは コンタクトじゃなくてメガネなんです けしょうもしません 
そんなうちだから せんせいもびっくりしたんでしょうね 

   
このまえ ひまこさんにうちあけたとおり 今日はうちが産婦人科に行って10年めの日でした 

ひまこさん 言ってくれましたね 
 僕が誰よりも君のことを守る 僕に守らせて下さい この空を通して今も 僕と君の世界は繋がっているから 安心してください    
うち すごくうれしかったんです しんせつな言葉 ありがとうございました  
でも うちのきもちが どんどんつよくなって とてもこわかったんです 
いまのびょうきの 原因になった おとうさんのきもちと うちがおなじきもちになりそうでこわかった 

ひまこさんを星空文庫でみかけたとき ひまこさんがほんとうにおとこの人なんだとしったとき 
あのときと いまのきもちはちがいます 
ひまこさんに味方でいてほしい ひまこさんだけが うちのあかちゃんをつくってくれるひとでいてほしい 
ひまこさんがうちのこと すきになってくれればくれるほど うちのきもちはおそろしいものになっていきます 
   
こんな日にかぎって おかあさんは うちにこんど 九州に旅行にいこうとさそってくれました 
   
こんな日にかぎって おとうとに しごとがんばってね というと  おう! とやさしくいってくれました 
   
こんな日にかぎって おばあちゃんは うちがおるから わが家はあんしんやわあ といってくれます 

   
今日は産婦人科のしゅじゅつから10年めだから がっくり落ちこもうとおもっていたんだけど 
きがついたら いまこうして ひまこさんがかいてくれた うちの詩をよんでいます    
お盆のときがきたら おはかまいりするように 
産婦人科でのあの日がきたら ベートーベンの 熱情 をきいて うちはひとりで黙とうします 

中学のときの おとうさんとのできごとは ひまこさんだけがしっていてくれたら十分です    
ベートーベンの 熱情 をきいているときは ひまこさんのしらない うちがいます    
でもベートーベンの 悲愴 をきいているときは ひまこさんにうちのえがお みせられます 

そうですね 
いつか  熱情 をきいているときの うちのかお ひまこさんは目にするかもしれませんね 

   
ひまこさんと けっこんするときは ニュージーランドのきょうかいで式をあげたいとおもっています 
そして うちは だいすきなピカソの絵とおなじように あおいドレスをきます 
入じょうするときのテーマ曲もきめています 
ジェーン・バーキンの イエスタデイ・イエス・ア・デイ  
   
うちは高校のときからそうきめていました 
  
うちは高校のときから あおいドレスでニュージーランド ジェーン・バーキンのうたでけっこんする 
そうきめていました 
でもうちのこころのなかには はなよめさん はいても  しんろうさん はいませんでした 
   
ひまこさんは うちにはじめて しんろうさん になってくれるひと そうおもえたひとです 
   
でも ひまこさんのおとうさんがひこうきがとてもこわいのだと 
ニュージーランド あきらめなければいけないかもしれませんか 

   
ひまこさん まえのメールでたずねてくれましたね 
 どうして君はまだ僕に会っていないのに 僕の子供を産んで一生愛しますって言ってくれるの? 
  
うちはそれに答えます 
それはうちだけが ひまこさんをしあわせにできるからです 
  
このまえ ともだちのナミちゃんとナミちゃんのかれしと 3にんでイタリアンを食べにいったはなしをしましたね 
そのとき ナミちゃんのかれしは婚やくゆびわをわたして いっしょうけんめい ナミちゃんにプロポーズしてたんです 
そばで見てるぶんにはそれはたのしかったのです 

でもうちがそれをおもしろ半分でからかっていると ナミちゃんのかれしは 
 じゃあ きみはこいびといるの? というはなしになって うち ひまこさんのこと うちあけたんです 
ナミちゃんのかれしは まだ会ったこともないのにどうして好きといえるの とか 反ろんしてきたんですね    
だから うち 言ったんです    
ひまこさんはかならずうちに会ったらうちのこと ぜったいすきになってくれるって 
会っていないことは もんだいじゃないって いいかえしたんです    
そしたらナミちゃんのかれしは  おたがいこいびとを しあわせにできるといいね って 
おたがい こいびとをしあわせにできるようになろうって 約そくしました 
   
ナミちゃんは うちよりも恋愛けいけんがいっぱいあるけど まえはかれしがいませんでした 
だから去年 いっしょにやさかさんにいって えんむすびのおいのりにいきました 
そしてナミちゃんにかれしができて うちには ひまこさんがいま います    
 おれいにおまいりしなきゃいけないね ってナミちゃんと きのう 電話ではなしていたんです 

   
ひまこさん うちのことをまた詩にかきたいって言ってくれましたよね 
でもさいきん よい詩がかけないと おっしゃっていましたよね 
   
でもだいじょうぶです 
   
ひまこさんは きっとよい詩をかけます 
ひまこさんが詩をかくために たりないものは うちがもってる 
   
だからしんぱいしないでくださいね 

   
いま ねこのミツバとベッドでねころんで iPhonでひまこさんの詩をろうどくしています 
このごろ ミツバは うちがひまこさんの詩をろうどくしていると いじわるになります おこります 
ミツバは ひまこさんにやきもちやいてるんでしょうね 
 しっとぶかい女のこ こうかくりつで きらわれる って キラキラぼしのかえうたでミツバをからかいます 
ミツバがやきもちやいてると うちのからだの上でひっかいてきます 
だから いま おふろばでシャボン玉とばしながら ひまこさんへのメールのへんじ かいてます 


うちは なにもない女です でも ひまこさんがもとめるなら 一生ひまこさんのおくさんでいます 
   
ひまこさんが うちを きっとえらんでくれるって 

ひまこさんは うちのびょうきを きっとわかってくれるって 

フェイスブックでしりあったときから しんじていました 

ひまこさんから好きになってくれたんじゃなくて よかったです 
うちのほうから ひとをすきになるの ひまこさんがはじめてだから 

   
いままで さみしい恋愛ばかりしてきました 
きらわれるのは なれていました でもとてもさみしかった 
うちは ちいさいときから おとうさんにうそをついてきました 
   
 うちは おおきくなったら きれいで かしこい むすめになります って いってきました 
でも うちはほんとうは こういいたかったんです 
 うちは おおきくなったら およめさんになって けっこんしたいです 

   
あと 1しゅうかんしたら ひまこさんに出会えます 
うちのねがいが ひとつ かないます 

   
1しゅうかんたったらな いちばんきれいな うちのこと ひまこんさんにみてもらうんよ    
ほんで  これいじょう きれいにならへんけんな って言うねん    
ほしたら  いまでもじゅうぶん きれいだからね って言うてほしいねん 

  
ひまこさんのこと かんがえたら 心ぞうの奥が ぎゅーって あつくなるんよ    
ほなけん ひまこさんに ぎゅーって 抱きしめてほしいんよ 

   
   
だいすきなひまこさんへ

   

              ひまこより   2012年 5月23日






『黒い看護婦』の感想、もしくは『世に倦む日日』みたいな陰謀論者は無視すること

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 『マッサン』は全然見ていないのだが、相変わらずニッカのウイスキーにハマっている。

 先日、ブラックニッカ・リッチブレンドと、モルトクラブを買ってきた。

 リッチブレンドの方はブラックニッカ・クリアよりも、より濃厚な感じ。味も香りもクリアのように淡白ではないし、アルコール度数も高い。
 クリアはよく「初心者向け」と言われたりするようだが、リッチブレンドになると「本格派」に一歩足を踏み入れた感じがする。クリアだと酔いも深くなりにくいからどんどん飲めるが、リッチブレンドはそうはいかない。ゆっくり味わって飲まないと味わう以前に酔いの方が先に回ってきてしまう。

 モルトクラブはグレーンを混ぜていない、100%モルトであるらしいのだが、製造する機械を2つ使ってるとかなんとかで、やはりブレンドウイスキーに分類されているらしい。
 だが、味や香りの豊穣さの点で言えば、リッチブレンドやクリアよりも、よほどユニークなウイスキーだという気がする。

 ネットで調べてみたら「青りんごやバニラのフレーバーがある」というのだが、実際匂ってみるとほのかに青りんごの香りが漂ってくる感じがする。
 ボトルを半分くらい空けてみると、今度はバニラの匂いがしてきたので驚いた。

 バーボンやスコッチ、もしくは他の国産ウイスキーを飲んでみたわけではないので、断言は出来ないのだが、ニッカのウイスキーは僕が今まで飲んできた酒の中でも、総じて甘い味覚がするように感じる。
 カクテルやチューハイのような故意に作り出した甘さとは違って、ほんのりと自然に甘い。それに加えて、さっぱりとしている感じもする。

 『マッサン』を見ている友人に言わせれば、
 「日本人の舌にウイスキーがなじまないというのは、『マッサン』の時代だけじゃなく、今でも事情は変わっていない気がする」という。
 うちの父も、
 「結局のところ、蒸留酒は焼酎に限る」と言いながら『マッサン』を見続けている。

 国産のニッカしか飲んでいないわけだが、僕は結構ウイスキーと相性が合っているように感じている。

 だが、僕は基本的に酒好きではないし、いろんなものを飲んできたキャリアがあるわけでもないので、写実的に説明しようとしても、いかんせん、酒を語る「言語」を持たない。
 「言語」が生まれるところには、いろんな酒を飲み比べてみた経験が必要条件なのだが、そういうわけではないので、単純に「おいしい」としか言いようがない。
 また「言語」がなければ、当然のことながら「批評性」も発生しないことになる。

 偶然にウイスキーに関心を持ったことによって、「言語」とか「批評性」が生まれる構図を図らずも理解したわけである。


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 録画しておいたTVドラマ『黒い看護婦』を見る。TVなんか全然見ていないのだが、朝日の番組批評に興味をそそられて、なんとなく見てみたい気になった。

 予想に違わず、見事に当たりで面白かった。

 寺島しのぶは目立たない女を演じても美人だよなあとか、大竹しのぶは以前、福田和子を演じただけあって上手いよなあとか、いろんな箇所で見どころがあった。
 一緒に見た母は大竹しのぶはなに考えてるか分からない怖さがあると言っていたが、僕はむしろ、実生活でも簡単に「人たらし」で周りを誘引するような、そういう天然さが彼女にはあるような気がする。

 このドラマで描かれた事件だとか、角田美代子だとか、北九州監禁殺人だとか、そういうのを引き合いにして「洗脳」の問題が語られ、「かくも容易に人は騙されるものなのか」とよく言われる。
 僕は洗脳とか心理学なんてものをまったく信用していない者ではあるが、他人をかくのごとき操作することは、案外簡単に可能になることだと思っている。

 陰謀論によって人々が容易にオピニオンリーダーの側へと転ぶ例は、最近で言えば朝日の慰安婦誤報問題とか、枚挙に暇がない。(一応確認しておくが「慰安婦に強制性はなかった」という説の方が陰謀論の側である)
 イスラム国の人質殺害事件でも、リベラルを自称するブログが「後藤は政府の工作員である」という身も蓋もないデマを垂れ流していたが、本来リベラル側に位置する読者たちによる賛同のコメントが溢れていた。

 また人間というのは、「自分で考えて生きていく自由」よりも、「他人に考えてもらって生きさせてもらう不自由」の方を案外選択しやすいものだと僕は考えている。

 自分の力と発想で自由に生きるというのは、しんどいものだし、絶えず不安がつきまとう。だけど、自分にとても親切にしてくれて親身に付き添ってくれる人が「ああしろ、こうしろ」と言ってくれる道筋に沿って自分を向かわせることは、とても楽なことだし孤独な不安も解消してくれる。
 そこに金銭だとか自分の思考を放棄した事柄が絡んでくると、人は一層従属的になるものである。なぜなら大金をはたいたり自由を放棄してまで献身した他者が実は自分を利用しただけだったという結末はあまりにも惨め過ぎる。だから従属者はその結末に至らないように自ら主体的に迂回して行動し、回避しようとまでする。

 結婚詐欺の被害者が加害者に対して峻烈な処罰感情を抱けないのと似たような状態である。

 こんなことを書いている僕にしても、すべてを理解していたところで、騙されるときはやっぱり騙されるのである。

 「あなたの死んだお兄さんがあなたの守護霊になって守ってくれている」なんて吹き込んできて優しくしてくれる女性が現れたら、僕だってあっさり自由を放棄して、導いてくれる先へ導かれる快感に酔ってしまうかもしれない。


 話を発展させてみる。

 世間で言われている「洗脳される」ってことを厳密に解釈するなら、われわれは「洗脳されながら日々生きている」と言わざるをえない。

 恋愛に執着してストーカーになってしまうのも「洗脳」されてるってことだし、ブラック企業でこきつかわれて過労死するのも仕事に「洗脳」された結果とも言えるだろう。
 新聞やTVを見て、編集された情報とコメンテーターの見解を鵜呑みにして、分かったふりをするのは「洗脳」されていないと言い切れるだろうか。

 国家だとか金融経済なんてものは一種の「劇場」システムに過ぎないものなのに、それらに生き方を束縛されてるわれわれは、国家や資本にとっての「洗脳」された奴隷だと形容することは可能ではないか。
 単なる光の投影に過ぎない映画に感動するのも、単なる紙切れに過ぎないお札を有り難がるのも、文明という巨大なペテンに完全に「洗脳」されたわれわれによる日々の隷従と使役によって成り立っている、そんなところまで拡大された論題を嗤える人間は、自身がそれほど自由に生きていると信じていられるのだろうか。 

 分かったような人たちが簡単に洗脳、洗脳って言うけれど、じゃあその人たちは「洗脳」されていないのかというと、厳密に考えたら人間というのはかくの如き「洗脳生物」として群れているのだと解釈するのは言いすぎだろうか。むしろ人間以外の動物の方が「洗脳」されずに本性のままに生きているとも思えるのだが。


 では、人間は「洗脳」されないで生きるということは完全に不可能なのか。

 そうではないと、僕は完璧に言い切れる。簡単なことだ。そういう「洗脳文明」に実際に生きているということと、それを自覚しながら生きている精神の自由は別個に成立するのだと思えば良いだけのことだ。

 最初に僕は洗脳とか心理学をまったく信用しないと書いた。少し厳密に言えば、「心理学に当てはめれば人間の心のことは何でも理解可能である」とする、「心理学主義」を僕はまったく信用しない。心理学を社会学に置き換えたものとすれば社会学主義だがこれも同様だ。
 「人間を一定の環境や条件の下で制約すると、心理学(または社会学)の理論に準ずる行動形態を必ずとる」とするような考え方を還元主義と呼ぶことがある。
 この還元主義こそが、世間で洗脳、洗脳と喚き散らしているコメンテーター連中の学問的根拠なのである。つまり、制約された人間の不自由状態を何から何まで「洗脳」という言葉で片付けられると盲信している輩のイデオロギーなのだ。

 この還元主義なんぞに、絶対に支配されないぞと、自分に固く誓うことが、「洗脳」などという馬鹿げた概念から自由に生きるための最初の一歩である。

 たとえこの世界で制約された生き方を余儀なくされたとしても、心の中の自由まで誰一人として自分を束縛することは出来ないぞと、固く信じることが、還元主義ごときに還元されない人間の根拠である。

 実存というのは、つまりそういう精神の在り方のことをいうのであり、実に身近な、われわれにとって切実な考え方なのである。決して大学の哲学科で薀蓄語る程度だけのものではない。


 『黒い看護婦』の感想的なまとめ。

 自由を怖れてはならないし、自由から逃げ出してはならない。自分に生きる行方は自分自身が決めることであり、不自由という楽な方に流れてはいけない。
 「自分が本位だ」ということをよく考えること。

 あと、ブログ『世に倦む日日』の著者みたいな陰謀論者には無視を決め込むこと。

 彼が後藤健二をスパイ扱いする理由は簡単だ。自分より若くて、影響力があって、尊敬されていて、金にも困ってなさそうで、ちょいイケメンで、どうやら奥さんは頭が良くて美人さんみたいだし、要するに許せないくらい妬んでいるからスパイに仕立てあげたいのである。

 このあいだ、『世に倦む日日』の一部記事が閲覧不能状態に陥ったのは、あまりに後藤氏への誹謗中傷がひどかったので、たぶん心ある人たちがエキサイトに通報した結果、ああいうことになったのだろう。
 ブログ主は「政府の検閲が始まった」とかほざいているが、あれを信用する程度のバカは、おそらく『黒い看護婦』での大竹しのぶ扮する女にだって、ちょろくだまされることだろう。

 ほうっておこう。





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