Hemakovichの半永久的平坦な戦場

パニック不全神経症者が落ちてゆくカムフラージュ

殲滅リーチェ #2

Posted by Hemakovich category of Poetry on


20140930-11hema.jpg





前髪を


執拗に


切り揃えるような


不安


人生は


積み重なった


パンケーキのよう


愛の 一つ


毛皮の アンニュイ


日溜りで


髪をすかしながら


からかう


コミューンの少年


愛しあうソファの上の選択権


プライドに跨り


短剣の発熱


もはや


気だるげに


冷めてしまった


求愛のシエスタ


考える。








            諧謔チェルシーは哀れな金持ちの女の子だった。
           諧謔チェルシーは晴れ着のドレスを運河に投げた。
       諧謔チェルシーは15分間のフィルムを略奪したヒロイン。
         諧謔チェルシーは悶絶するスカトロジストに君臨する。
        諧謔チェルシーはモロッコでかどわかされた律動人形。
        諧謔チェルシーはサロンで踊れなくなったヒップな道化。
諧謔チェルシーはペーパーバックのタイトルを乗り換えるPUNK Doll。
            諧謔チェルシーはパルチザンの少年を裏切った。
         諧謔チェルシーは逆オリエンタルに溺れられた愛人。
    諧謔チェルシーはベッドサイドのBeauthy#2に暴かれた少女。
      諧謔チェルシーは誰も愛さないフレンチポップ・シングル。
      諧謔チェルシーはNYのアップタウンのことなんか知らない。
              諧謔チェルシーは時間をジンビームに沈める。
      諧謔チェルシーはバスルームのアヘンの火に未来をくべる。
        諧謔チェルシーはもはやリムジンの恋人へは帰らない。
        諧謔チェルシーはいつか君の衝動に刺殺されるだろう。
            諧謔チェルシーは誰かの憂鬱と道連れに死んだ。








世界はあまりにも世界はあまりにも世界はあまりにも世界はあまりにも世界はあまりにも
世界はあまりにも世界はあまりにも世界はあまりにも世界はあまりにも世界はあまりにも
世界はあまりにも世界はあまりにも世界はあまりにも世界はあまりにも世界はあまりにも
世界はあまりにも世界はあまりにも世界はあまりにも世界はあまりにも世界はあまりにも
世界はあまりにも世界はあまりにも世界はあまりにも世界はあまりにも世界はあまりにも







世界 が


あまりにも








農業、反革命、マイノリティと、いつか見た破局

Posted by Hemakovich category of Politics on


20140715-4hema.jpg



 うちの家は小規模な兼業農家で、減反やら本業の多忙が理由でもう20年以上稲作は休耕したり専業農家の人たちに収穫してもらっている。
 だがここ近年、年老いた両親は「将来かならず食糧不足がやってくるから、今のうちに稲作を覚えて米を作れ」ということを息子にさんざん言い聞かせている。それがどうも僕には煩わしい。

 今日も昼食を食べながら、母と戦時中の食糧不足の話題になって、同じ枢軸国でもドイツは日本のように農家まで無差別大量に徴兵に狩り出したりしなかったから日本ほど深刻な食糧不足に陥らなかった、というようなことを話すと、
 「なんでそんな身近ではない大きな話ばっかりで、おまえはもっと地に足つけて米を作ろうとは思わないのか」と、激怒するように言われたので、ちょっと面食らった。

 僕の人生は根本的に地に足ついていないというスタイルでここまで来てしまっているので、そこのところを突かれると、まったく反論しようがない。自分ながら困った人である。

 だが、ただ単純に米を作っていたら食糧不足の時代が来ても多少は有利に生きられる、というような母の妄信的な発想を聞いていると、それが大局的に血に足ついているといえるのか、こちらとしては大いに疑ってしまうので煩わしく感じるのである。

 自民党の大規模集約的な農業政策が現実になれば、別に戦争が来なくても小規模農家が生産するのは赤字で身を切るような立場に追い込まれていくだろう。
 だが自民党的な政策が実現してしまうと、生産の多様性が失われて、凶作や経済恐慌に見舞われてしまうと米のような主要作物でも輸入に頼らなければ切り抜けられない、そういうちょっとした危機にも脆弱な食糧供給の時代がやってくるだろう。

 では、どんな形であれ農家を今の規模と数で維持され続けて、ただ漫然と農家は米や野菜を作り続けていれば、危機の時代に都市住民が食糧供給に困り果てても農家の人間はやりくりできるだろうという予想が正しいかどうかと問われれば、それもずいぶん認識が甘いというような気もする。

 戦争末期に生まれたうちの両親の世代は、終戦直後に都会の住人が田舎に食料を得るために物々交換に訪れて農家はそれなりに得をした、というような、そういう子供時代の漠然としたイメージから未来の食糧不足へのシュミレーションを発想しようとする。
 だが戦時中には農家は働き手を兵役に取られて生産に苦労した上に、自分が食べていくにも困難なほどの作物の供出を国から強要されて難儀したというような事実は、歴史の本をかじってない漠然としたイメージからは想定することはできない。

 ロシア革命が起こって後、内戦やら他国からの軍事的干渉に遭って食糧不足に陥ったソ連では、都市のプロレタリアートである工業労働者が武装して、地方のプロレタリアートである農民たちを襲って無理やり作物を収奪した。逆らえば富農(クラーク)という現実の反したレッテルを貼られ、反革命的として殺された。

 何が言いたいかというと、日常が地に足ついていない僕のような人間はこういう話を本で読んで現実に対してシニックな怠け者であるからこそ、「ただ米・野菜さえ地道に作っていれば大丈夫」というような、母の猪突猛進型の発想を聞かされると漠然とした楽観思考に感じられて、どうしても冷笑的に返してしまうのである。

 最近になって両親は休耕地に大量にソーラーパネルを設置することで農業に代わる現金収入を得ようとする、巷で流行りだした案に傾倒しつつあるけれど、これにしたって自然災害に襲われるとパネルを修理したり処分させられるコストが発生するリスクがあるから、現実に地に足ついていない僕は反対している。


 大局的発想ばかりに没頭して身近な日常に還元しないと、よく批判されるけれども、近眼視的な想定に埋没していると何だか大きな存在の手によって希望を裏切られる気がして仕方ない。

 僕が地道な努力に基づく楽観的期待に対して怠惰かつシニックであるのは、知性を信頼しているからではあるけれど、それは「頭がいい」とかいうことを意味してはいない。

 僕の知性の目的やベクトルが弱者としての自分が生存するという方角に向けられているからである。

 弱者に求められる資質として「安易に期待しない」ということも大事ではあるが、「袋小路であろうとも小路を敢えて選ぶ」ということがより重要である。そのためには強度の大きな情報も、その裏返し的な陰謀論も、両方とも排除することが可能な知性が必要になる。

 そういう知性は、たとえ地に足ついていたとしても思考が自立してないと意味がない。

 思考が自立しているということは、基本的には、自分の目的と他人の意図を穿き違えないということである。

 朝日新聞の「誤報」騒動が始まって以来、とりわけそのことを意識せざるをえなくなった。右の人間は捨て置いたとしても、リベラルな側の人々にそういうことへの脆弱性をしばしば感じさせられるようになった。

 だが多くの場合、物事に対する単純な情報を獲得していれば容易に乗り越えられるものなのである。それなのに単純に知らないにも関わらず、むやみに語ろうとしたり情緒で突っ切ろうとする無防備な人たちがやたら多い。
 少なくとも自分の意図を他人の意思に取り替えようとする右側の人たちの方が、自分のやっていることに自覚的である。その分においては彼らの方がより「知っている」と言える。

 リベラルであるということとマイノリティであるということは、似ているようであるが現実にはほとんど一致していない。だから知らないことまで語ろうとして墓穴を掘るリベラルな人たちの無様さ、言葉の意味のなさは、見ていて滑稽である。

 知らないことは語ることを律儀に保留しておけば、本意の所在を見失うことにはならない。

 僕は社会的に弱い立場の人間という意味でマイノリティであるが、弱いからこそ自分の意思にないことにはとりあえず暗黙する。
 話さないことはともかくそれが自分の意思を示さないことにはならないし、他人のそそのかしで自分の意思を間違えることにはならない。
 話さずに考え続けることは、時々何もしないように誤解されることにもなるが、日々を継続させる努力以上に必要なものなど何もない。それ以上に安易に足を踏み入れてしまって最初に失うのは、純粋な自分の意思である。

 日々を継続させる努力という地道さと、大局的というほら吹きのような立場は相似していないように見受けられるかもしれないが、自分の意思の在り処を確保するには容易に答えないことへの時間の長さを必要とする。大局的というのはとどのつまり、そういう類の時間の長さを許容するスタンスとほぼ同義なのである。


 話を最初の地点である農業のところへ強引に戻すならば、漫然と米を作ることよりも大胆にソーラーパネルを据え付けることよりも、とりあえずそういう類の時間の長さを確保して防衛するためには、ともかく、地面を無作のまま耕し続けておけばいいのである。
 それが近視眼的でもなくただの怠惰でもほら吹きにもならずにすむ、必要に足りる日々の継続だと僕は思う。

 大部分の農家が弱者になりつつある現状で、自分の意思を持っておく百姓が他者的な意図として介入してくる政治と対決するには、自分が持つ田畑の土の具合から常に解離しないことである。

 
 もしこのままの状態が続けば日本の農業から多様性が失われる、と僕は上述した。

 この多様性というのは一口に軽々しく説明できるものはない。気力があればそのうちこれについて記事を書こうかと思うけど、農業に寄り添って生きたことのない人間にはたぶん説明するだけでは理解できない。

 だがその多様性が失われたとき、農業だけでなく、すべての事柄において破局は始まるだろう。





反逆は絶望に対して絶望はしない

Posted by Hemakovich category of Quote on


20140213-4555hema.jpg



 ごく大雑把にそして極めて素朴に、人間の生活の理想的な在り方を考えてみる。――週に六日、毎日六時間ばかり、何等かの社会的な生産的な勤労に徒事し、それで生計を立て、その他の時間を、随意に自由に使用する。そして勤労によるこの生計は、僅かに生存を維持するだけのような低級なものではなく、必要にして充分な余裕を持つ程度のものであらねばならぬ。随って、其他の時間の任意な使用は、原則的に、報酬を目差すものではなく、各人各種の技能の花を咲かせるものとなる。時間は充分にあり、高度の技能も練磨される。芸術もこの中の花の一つに位置する……。

 以上、理想的な考え方で、今日ではまだ空想の域を脱しない。然しながら、理想は目標であり、ここに理念の基盤を置くべきであろう。同時にまた、目標はそれ自体が吾々へ近寄って来るものではなく、吾々の方からそれへ向って歩いて行かねばならぬもの故、到達までには、努力奮闘の務が吾々に負荷される。ここに今日の条件がある。――芸術もさまざまの花の一つだというのは、遙か彼方の社会に於けることで、現在では、今日の条件がいつも重大に付きまとう。

 そこで、早速に言う。文学は衆人に奉仕してその慰安娯楽となるべきであり、文学者は畢竟戯作者たるべきである、というような説、つまり、現実肯定の幇間的立場、それに私は反対する。反対するばかりでなく、そんなものはすべて下らないと軽蔑する。現在吾々が置かれてる現実そのものが、すばらしく立派なものであるならばとにかく、実に下らないものであるからして、それに阿諛するものはすべて下らないのだ。

 文学が現実の再現であろうとする企図が遂に失敗に終ることは、既に経験ずみである。文学は現実の転位の世界に於ける営みであって、この営みでは、常に現実に対して何かがプラスされる。そのプラスが文学の生命とも言える。近代の文学はそのプラスに眼をつける。近代の文学者はそのプラスに身を投げ込む。小説の批判性や思想性はそこから生ずる。――近頃の小説が如何に評論に近づいているか、如何に多く評論的要素を取り入れているかは、周知の通りである。

 また一方、純然たる評論や論説の形式による建造が、可なり頼りないものであること、殊に社会的変動期に於て頼りないものであることを、多くの人々は感じている。そして小説的思考形式、つまり小説的建造の方が、より多く安定で頼りになるように思われてくる。抽象的な思想的な建造にも、建築物的な堅固さが要望される。二度の大戦の激動によって、多くの信条、多くの信念が、次々に崩壊してゆくのを見た後のことだ。而もまだ戦争の闇雲は晴れていない。その上に原子力時代に突入している。不安な思惟はなるべく堅固な建造形式を模索する。ここに小説が新たな役目を提供する。そしてこの役目から、小説にはまた別種のプラスが付加される。

 右の二種のプラス的要素は、それ自体の性質上、現在を基盤にして将来を指向する。そしてこのプラス的要素が主要な創作モチーフである小説も、現在を基盤にして将来を指向する。取材は現在の事実であろうと或は過去の事実であろうと、息吹きは将来へ通う。つまり現実の中に将来が萠芽されるのだ。――ここにレアリズムの限界があり、レアリズムの自己崩壊がある。

 そこで、私はまた早速に言う。写実主義の文学、現実の赤裸々な相貌を呈出することだけに止まる文学を、私は軽蔑する。もとより、文学は単なる夢物語であってはならず、現実の裏付けがなければならず、素材は現在や過去やまたは歴史上のいずこに求めても構わないものであり、自叙伝の存在理由も充分にあるものだが、然し、常に将来への指向を内蔵しているべき筈であり、内蔵していなければならない。この将来への指向を、日本の文学は喪失しがちであったし、また喪失しがちである。極言すれば、それを獲得することに怠慢であるとも言える。――現在、戦争中のことや戦後のことが数多く書かれている。いろいろな面が発掘され曝露されている。だが、ただそこだけに閉鎖されているものが何と多く、将来へ息吹きを通わしているものが何と少いことか。思想性の貧困はその当然の結果である。

 如何に徹底した写実も畢竟はフィクションによって歪曲されるということは、既に自明の理である。そしてこの事情の下に、現実そのものに対比して文学自体の無力が承認されている。然しながら、文学自体のこの種の無力さを、現代の文学者は問題としない。そのようなことはどうでもよいのだ。重要なのは建設にある。将来を指向するその線に沿って如何なるものを建造するかにある。而もこの建造に対して、至るところに障碍がわだかまっている。至るところに障壁がつっ立っている。それを打破しようと文学者は血みどろになって闘う。

 それらの障壁こそ、実は現実なのである。現実のもろもろの形式であり、甲殼である。それを突き破らなければ、将来への息吹きが通わない。それ故文学者は、現実に対する反逆児となり、現実との格闘者となる。

 そこで、私はまた早速に言う。右のような反逆や格闘を内に秘めていない文学を、私は低俗なものとして軽蔑する。もとより、日の光りを楽しみ、自然を愛し、人間を慈しみ、生きてる悦びを歌う、そういう文学は、美しいものであろう。然しそういうことが、今日の条件に於いて果して可能であろうか。可能だとするには、白痴的なものが必要であろう。白痴は精神の一種の麻痺だ。麻痺から覚醒した精神は、今日の条件では、反逆児になり格闘者たらざるを得ない。――それほど大袈裟に言わずとも、一歩妥協して、文学は美しいものであれかしということを是認してみよう。ところで、作品の美しさそのものに、古さと新らしさとを吾々が感ずるのは、何に由来するのか。美に新旧はない筈だ。この問題を追求してゆくと、反逆的な何物をも持たない作品はすべて古く、反逆的なものを持つことの多い作品ほど新らしい、ということが発見される。そして現在、古い感じのする作品が、新人たちのそれにさえ、何と多いことであるか。

 今日の条件、この言葉を私は何の説明もなしに度々使った。そして茲で一言すれば、冒頭にのべたような遙か彼方の社会、私の謂わばユートピア、それの実現をはばむあらゆるものの現存を、私は今日の条件と言うのである。人は誰でもそれぞれのユートピアを持っているに違いない。そしてその種類によって、今日の条件も異った性質となるだろう。然しながら、今日の条件そのものの存在は否定出来ない。そしてこの条件を前にして、絶望が生れる。而も今日の条件は深刻に悪化している。現代の絶望ということが説かれる所以である。

 だが然し、文学に関する限りに於いて、私はそのような絶望に対して絶望はしない。絶望と希望との関係は、文学の場にあっては、偶然と必然とのそれに似ている。時とすると、両者入り交って見分けがつかない。絶望の文学と称せらるる作品を仔細に読んでみるがよい。少くとも私は、それらの絶望が如何にほのぼのとした明るみを湛えていることを大抵は感ずる。その明るさは希望のそれに似ているのだ。もしも希望の文学と言えるような作品があるとするならば、そしてそれが立派な作品であるならば、恐らくはその底に、絶望のそれに似た暗さを湛えてはいないだろうか。――このことは、人間的なもの、人間の本性、それに起因する。文学は常に人間そのものを凝視するのだ。

 それ故に私は、今日の条件というものを、政治的に理解されることを忌避する。もとより、現在から将来に亙る人間の考察に当っては、孤立した個人を抽出することは殆んど不可能であり、個人は常に、何等かの集団の一員、社会の一員として、不可分に存在するものとして理解されなければならない。だから人はみな、広義の政治の中に生きている。けれども、現在の一般通念としては、政治は権力観念と不可分の関係にある。そしてこの権力観念こそは、今日の条件のうちの最悪なものの一つなのだ。文学はそれに反抗する。つまり、所謂政治の線に沿っては進まないで、別なコースを取る。――所謂政治の線にのみ沿って進む文学が、人間的血液の乏しい傀儡ばかり跳梁する拵え物に、ともすると転落する例は、あまりに多く見られた。政治を権力観念から解放することも、文学の一つの仕事であらねばならぬ。

 彼方の社会、そこでは文学が無償のものとなり、数々の技能が咲かせる花の一つとなる、そういう社会が実現するまでは、文学は、私の要望する文学は、常に苦難の途を辿り、反逆闘争の歩みを続けねばならないだろう。そしてそういう文学を背負い込む宿命を甘受する文学者に、私は同感と敬意とをこめた握手の手を差出す。



豊島与志雄 『今日の条件』 (改行は一部引用者による)






ノーベル平和賞の選考審査を各国持ち回りでやってみてはどうか

Posted by Hemakovich category of Politics on


2014052444-22hema.jpg



 マララ・ユスフザイさんのノーベル平和賞受賞について、内藤正典という同志社の教授が朝日・大阪本社版で批判と懸念を示すコメントを寄せていて、いろいろ考える。

 「受賞するには若すぎる」という一般に多くみられた異論はおおむね正しいと僕は思う。

 平和賞なんてものは貰った時点こそその権威性によって人々からの尊敬からくる庇護のようなものを受けられる。だが何年も経ってしまえば受賞者を取り巻く政治的状況は過去に受賞したことなど何の意味もなくなってしまう。ダライ・ラマ14世や劉暁波の現在に目を向ければよく分かる。

 もしマララさんがタリバーンに銃撃されて死にかけなかったら、彼女は平和賞をもらうことなど絶対なかっただろう。

 彼女に「ヒロイン」の名を付与したのは迫害の受難者であったことに尽きる。もし迫害の実行者がタリバーンではなくイスラエル政府で、マララさんと同じような少女が「子供たちが平和的に教育を受ける権利を」と唱えて無差別に打ち込まれる砲弾で傷ついても、「ヒロイン」に祭り上げられるどころか、単なる無名の「負傷者」として数字上の存在に貶められていただけだろう。
 政治的意味合いで大変都合がよかったから、マララさんは「ヒロイン」に祭り上げられると同時に、欧米の政治的正統性を喧伝するための「マスコット」の役目も与えられた。タリバーンに殺されかねなかったら、英国女王や合衆国大統領と面会する機会も設けられなかっただろうし、国連で演説するほどの権威も与えられなかっただろう。

 子供の就学の権利は無論否定されるべきではないが、宣伝塔の役割以外にまだ何もやってないに等しいマララさんへの授賞がある意味「強行」されたのは、パキスタンなどへの米国の無人機空爆への免罪符的意味合いや、イスラム原理主義の脅威への対決姿勢といった西欧社会の個的都合が反映されたから、それだけに過ぎないと思う。

 マララさんの受賞は要するに、彼女が欧米の論理と都合に抱き込まれたという事実しか意味しない。

 開発途上国の貧困や人権問題に関して、欧米各国の為政者連中がシリアスな問題意識を持っているとは単純には信用できない。

 パレスチナの状況を挙げるまでもなく、タリバーンやイスラム国ほどではないにしろ、やはり抑圧的な性格を持つイスラム諸国、たとえばサウジアラビアなんかの親欧米的な国々への欧米のぬるさ加減はそれを如実に示している。
 西アフリカでのエボラ出血熱の蔓延にしても、篤志的で勇気と使命感を持った一部外国人の懸命な活動は素晴らしいことだが、それら個人の英邁さに比して、先進諸国全体の反応はずいぶんとアフリカに対して冷淡に感じられてしまう(自国で発生した患者に対する蔑視的扱いとかは露骨である)。

 「パキスタンタリバンに襲撃されたことでノーベル平和賞の栄誉に輝いた彼女とは対照的に、アメリカの攻撃で命を失ったアフガニスタンやイラクの少女たちは何の賞賛も償いも受け取ることはなかった。私はこのことを不公正だと思う」との内藤氏の指摘には、一定の範囲で理にかなったものだと僕は思う。
 (イスラム主義そのものが必ずしも就学侵害の理由となっているのではないのにそういう印象が形成されている、との内藤氏のこちらの指摘も必見)

 
 もういいかげん、ノーベル平和賞を世界標準の良心とか倫理のお手本みたいな見方で権威性を持たせるのは卒業したほうがいい。
 欧州の人たちの中には、一部ではあるが、なにかというと自分たちの物の見方が世界標準であるかのような未熟な思考を持ち、異なる文化の多様性に対して攻撃的なまでの排除心を向けるような人たちも見受けられる。InterPalsでどれだけ多くそういう連中に出くわしたことか・・・・・・。

 平和賞をこの先も存続させていくつもりなら、ノルウェーとスウェーデンが特権的にそれを決めるものではなく、オリンピックみたいに各国持ち回りで審査授与国を毎年変えていくようにしてはどうか。
 たぶん、各国の思惑や主観が影響して毎年びっくり驚くような選考が行われて、受賞者発表の記者会見で異議罵声が飛び交うようなものになるかもしれない。

 でも各国選考持ち回り平和賞なんて方が現行方式よりもずっとエキサイティングで面白い。それに自分たちの志向と違う人物を他者が選考するという「不条理」を味わうことによって、世界が一様ではないという当たり前の現実を温和な形で知る機会となるのではないか。
 少なくとも、西欧的倫理を一方的に異文化に対して示すという独善性が排除された平和賞となるだろうし、びっくり驚くような選考が起こる権威が形骸化したエンターテイメントと化すことによって、一部の人間が勝手に平和賞を決める行為なんてのは絶対的なものなど創りえないんだよ、という当たり前の事実を人々が理解する気づきの機会になるかもしれない。

 就任したばかりのアメリカ大統領が
 「僕ねえ、いつになるかわかんないけど、まあそのうちに核兵器全廃とか、そういうことあったらいいな、とか思っちゃってるの、なんちゃって」
 みたいなことを口にしただけで、核弾頭一発すら減らしてないのに貰えちゃったりするのが、ノーベル平和賞の次元の低い相場なのである。
 日本の文学賞でいえば、芥川賞みたいな具合にもはや重みが零落したものであり、ちゃんちゃらおかしい。

 僕はマララさんがイスラム世界のすべての子供や女性たちの置かれた現実からの叫びを代表した存在だとは、これぽっちも思ってはいない。
 まだ17歳に過ぎない彼女にこのような権威性を授与する暴挙は、社会的権力を持った大人たちが自己満足を満たすだけの愚行でしかないと感じている。
 自分たちが17歳だったころを思い出してみるがいい。そのころの知識や人間性の未熟さや浅薄さを思い出せば、たかだか17歳の子供が世界的権威を箔付けされてオピニオンリーダーの役目を担うことの重圧や危うさを容易に想像できたはずである。

 平和賞を授与されたこと自体や、それに突き動かされるように彼女自身が先鋭化したりするならば、マララさんがこの先も命を狙われてしまうかもしれないことは十分に有り得る。
 そのようにして彼女がもし非業の死を迎えたとするならば、そのときマララさんはノーベル平和賞を彼女に授与した者たちによる論理や政治的意図を背負ってしまったゆえの殉難者となったと言えなくもないだろう。

 「ヒロイン」とか「マスコット」的存在でしかない成熟途上の子供に偉人のごとき称号を与えることなど、それこそ大人が子供を自分たちの行為に酔いしれるための玩具のように扱っていることの証左である。
 ノルウェー・ノーベル委員会には「恥を知れ」と、猛省を促すべきである。

 
 ちなみに「憲法9条を保持する日本人」に平和賞が与えられなかったことは幸いであった。慰安婦問題やヘイトスピーチによって国連人権委から糾弾されているような国がノーベル平和賞なんて、洒落にならない。

 極右の連中がまさにそうであるのと同じように、この国のリベラルな市民を自負する者たちもこの国が世界からどのように見られているかという切実な現実を直視することに関してまったく怠惰であると言うほかない。
 本当に「日本人」に対しての平和賞が欲しいというならば、慰安婦問題やヘイトスピーチの克服は勿論のこと、米軍基地を押し付けた沖縄の現状に冷淡である自分たちの瑕疵に正面から向き合うべきである。

 自分たちが戦争をしてこなかったつもりでも、沖縄に居座り続けた米軍は絶えず戦争に直結してきた事実がある。この程度のことすら認識を欠いているのであれば、なんとも能天気でおめでたいかぎりである。

 日本のリベラルがその程度の低水準ならば、「憲法9条を保持してきた日本人」よりも先に、「積極的平和主義」を提唱して実行した下痢政治家の方がノーベル平和賞を獲得するなんてこともありうるかもしれない。





殲滅リーチェ #1

Posted by Hemakovich category of Poetry on


20140817-2ahema.jpg





黒と赤を纏った殲滅リーチェのことを考える。
息のきれいな39℃の呟き。あのころはスペ
ースとリタリンを二人で分け合っていた。ごち
ゃごちゃとした粗雑なレイヴハウス。窓ガラス
の砂塵が吹き飛んだ後のレバノンのホテルの
ような夜。皆は床の上でスピード漬けになった
中枢神経をさらして眠るただの子供だった。モ
ニターのPVではデビッド・バーンの顔がぐるぐ
る回る。君はゆっくりと起き上がり金髪の鬘を
取り、フィッツジェラルドが囁くイミテーションの
繁栄を踏みにじった。ハウスを出た君のシボレ
ーK型のエンジンに世紀末の灯が点っていた
っけ。アウトバーンに出るともうそこはレンヴィ
ッカも描かないベルリンの夜明けだ。カー・ラ
ジオを捻れば流れてきたのはサロメの愛した
海岸にサマードレスを脱いで溺れ行くクライム
・アンド・ザ・シティソルーション。たかがオール
ディーズ。殲滅リーチェは闇雲に夜明けを疾走
する。失うことと生き延びることは等分の運命
のファンタジーだ。もう何も告げない。もう何も
明かさない。彼女は透徹したリアリティーの衛
星しか愛さない。君に出会えない、こんな勤労
スカトロジアな都市のジェノサイド。救いではな
く、祈りでもなく、詩を告げる、天上の神ではな
い、君に、君の石炭色の巻き毛、伏せ目がちな
その漆黒の瞳。







いつか見た屋上へ行ってみる。
あたしが生れ落ちた屋上へ。
海からの巡礼者に髪をたなびかせていた
その至高聖所に佇んでいた、ただの「あたし」の中に、
あたしがいた。


経血は、重力で、
あたしの嘘が、あなたを9月の雨に凍らせた。


あなたはいつも観念的なアジトに潜む。
ひ弱な子供、いたいけなシンジケート、
イメージコードに揺れる銃座を据えた赤色兵士。


あたしは、あなたのマジノ線に挑まない。
紙袋の爆弾が炸裂した混乱する広場の
オープンテラスであなたを売った。


都市のヴィジュアル・フローの中であたしを探す
あなたのモニターに、
わたしは北京に向かう軍用トラックから
なけなしの微笑のmpg映像を転送しよう。


あたしと、あたしたちの世界の凝結した渾沌に
あなたはフリーズされる。


あたしは覚醒した新生児のようなCUEを待ち望む。


それがたとえあなたが選び出すことを拒む世界の果て
であったとしても。







レトロウイルスの殺戮が始まったワルシャワの
場末の地下Barで僕たちは奇妙で不貞な言葉
殺しに興じていた。殺戮の戦況について話し合
っていたのだ。ジンを交し合い、ジタンを吹かす
煙の中。君だけが怯えていた。君はパリのホテ
ルで別れてきた男の残した言葉について語って
いた。まるで原子力衛星の落下する週末の世界
の終りを予言するかのように。君にとっては全て
の黙示録、もはや帰ってこないあの言葉が君を
虚ろな試験管胎児にする。


やがて戦闘が終わり、生きて帰ってくるならば。
僕がインスピレーションの詩心を信じるならば。


君と僕を分け隔てる罪の落とし子。
予定調和に怯えながら僕は尋ねたのだ。


「君の温度が感じられない。君は一体どこにいるんだ?」


中央ステーションの爆撃が激しさを増した。
グラスがテーブルから落ちる。仲間の女が
失神する。モニターの首相が警告する唇を
痙攣させる。そんな戦慄を遠くに感じていな
がら君がゆっくりと告げたんだ。


「わたしはどこにもいやしない。わたしはただの殲滅リーチェ。それだけ」


一番罪深い半永久の眠りに世界が降下していこうとしていくその瞬間、
君の言葉はピグミー族の恋歌のように儚く切なげな染みに残った。








PAGE TOP