Hemakovichの半永久的平坦な戦場

パニック不全神経症者が落ちてゆくカムフラージュ

ツイッターなんて断言と雄弁へ従属させる小道具である

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 どうやら今年も冬季うつに突入したらしい。先週ぐらいから調子悪い。

 何をやるのも億劫で、家事も投げ出したくなる案配で、こうやってブログを書くのですら苦痛になってくる。

 今年の冬季うつは今までになかった特徴があって、それはほとんど性欲が起こらないということである。これは先月ぐらいに今まで飲んでいた抗うつ剤を別のものに変えたせいもあるかもしれない。

 うつ状態のなかで思考する内容というのは、うつ状態に支配された状態での産物なので、正しい認知だとは言えない。だがここ数日よく考えるのは、「年齢ばかり重ねるだけで、もはや今の生活に何の変化もないまま老いてゆくだけなんじゃないか」というような不安である。

 ヴィム・ヴェンダースの映画に『都会のアリス』というのがある。大学のとき「ドイツ文化概論」とかいう講義を受講していたのだが、講師はドイツ人男性で、この映画を講義の題材に使った。

 「この映画の主人公の男は要するにアイデンティティの不安にさらされているわけなんです。男は40歳前後になれば誰でもこんな抑うつ状態に襲われます。僕もそうでしたし」
 ダンツィヒ生まれの少し髪が薄くなった優しいその先生は、ニコニコしながらそう話したのを、今でもなぜかよく憶えている。

 確かに30代半ばぐらいまでは、人生に対して漠然と不安を感じることは皆無というぐらいなかった。だがこのごろになって、やけに、考えても仕方ない先のことについて鬱屈に不安を感じてしまう。

 大雑把に言って、人生なんてものは承認欲求の塊によって支えられているものである。

 だから他人から認められる機会が少なければ、自分で自分の人生を承認してしまえば良いのだ。たぶんそういうことができる人が「強い人」なのだと思う。
 でも強い人であっても、ときどき自分のことが分かんなくなって、非生産的に悩むことだってあるだろう。

 そういうときは昔のことを考えればよい。強い人なら自分の過去をどんなに突き詰めても決してそれを否定しないものである。そういうやり方で人生は継続されてゆく。




 数日前に書いた「誘発された感情の理由を思考できないメディアウイルス」という記事の中で、TV映像というのは知性によって反駁することが最も困難なメディアである、てな感じのことを書いた。

 近頃思うにツイッターというのは知性が介在する可能性がないに等しいものであるばかりか、反知性主義的な使われ方をするメディアであるように感じられてならない。

 大体、あんなものを使って思考するユーザーなんて存在するだろうか。意味のありそうな文言のように感じられても、それでも所詮思考に発展性を付与しない断言に過ぎず、美意識に拠った言葉の装飾に過ぎない。

 そもそもほとんどの人はツイッターの使い道が分からないのにツイッターを使いたいがために、浮遊する内容しか書けない。

 他人の言葉や写真をリツイートするにしても、そこには知性など作用しないのは、一瞬の情動しか働いていないからである。
 情動が作用する動機となるのは、情報の強度やソフィストのごとき無価値な雄弁の流麗さのごときものに情動が刺激されているに過ぎない。

 ここで一番大事なことは、リツイートの馬鹿馬鹿しい連なりのなかに、わずかでも思考された痕跡のようなものが見事なまでに皆無に欠落されているということである。

 極言すれば、ツイッターなんてものはオピニオンリーダーが発する断言へと連鎖的に従属するファシズムの小道具というべきものである。
 だからこそ、ドミートリー・メドヴェージェフのような独裁者プーチンのパシリ政治家もツイッターを愛好している。

 以前、「ウェブはバカと暇人のもの」であり、「ネットはバカに発信力を与えてしまった」との名言を吐いた者がいた。

 ツイッターとは、バカと暇人をますますバカで怠惰な者たちの世界に集約する最強の動員兵器となった、とも言えるかもしれない。

 考えてもみよ。ツイートしたり他人のそれをリツイートしたりするのに、10分や20分でも真剣に考え込んだりするような真摯で誠実なユーザーなど存在するだろうか。

 たとえ未来永劫ネットが存在し続けたとしても、ツイッターやそれに似た類のソーシャルワークだけは必然的に駆逐され知性ある世界から完全に放逐されなければならないと考えている。





ソーシャリズム・ゾンビ

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You

trespass on

too much

faces

all

places,



き、   み、   に、   は、   ど、   こ、   に、   も、   


か、   お、   が、   な、   く、
   

therefor

you

guffaw

as a lunatic

suchlike games,



で、   も、   こ、   う、   し、   て、     


な、   い、   て、   い、   る、


   

surely

it's because of

the ugly act

of

your

true face,



き、   っ、   と、   


べ、   つ、   の、   か、   お、   の、   


し、   わ、   ざ、   な、   ん、    だ、



   


   

your hatred

for

your fuck-hole,



き、   み、   の、   


き、   み、   じ、   し、   ん、   へ、   の、   


ぞ、   う、   お、





you

plot

to pinch

my face

soon.



き、   み、   は、


あ、   た、   ら、   し、   い、   か、   お、   


の、   こ、   と、   を、


か、   ん、   が、   え、   る。







誘発された感情の理由を思考できないメディアウイルス

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 『永遠の0』だとかいう小説を書いた海坊主みたいな極右作家が、今度は故やしきたかじんについての本を、なんか書いたらしい。

 新聞の広告で、たかじんが闘病中に書いたらしいメモの言葉と、死去前に写した女性とのスナップ写真が配置され、海坊主が「これ以上のものは書けない」とかのたまっている。非常にウェットに構成された広告を眺めながら、「こんな本、読みたい奴がいるってのが不思議だよな」と思っていた。

 たかじんがどうだとか、海坊主がどうだとかいう以前に、ウェットな売り方が気持ち悪いのである。

 なぜ自分がそれを許容できないのか理由を考えていて、現大阪市長が知事選に出馬表明したときのことを思い出した。2万パーセントだか絶対出ないとか言いながら結局出馬したのは島田紳介だとかたかじんに背中を押してもらったのが理由であるとか述べながら極右弁護士は目を潤ませたりとかしていた。
 あれを眺めていたときも、「こんなウェットな会見をして票がもらえると踏んでる神経が気持ち悪い」と思っていた。

 いろいろ考えて結局のところ、ああいうウェットにカタルシスを感じるか否かの分水嶺は、彼らのことをTVで日常的に見ているかどうかの違い、それだけでしかないのだろうと理解するに至った。

 スケートリンクで他選手とぶつかって負傷しながらも結果を出した選手の話に、まったく僕が感情移入しないのも、きっと同じ道理に根拠がある。僕が彼のことを今まで一度もTVで見たことがない、それだけが心を微塵も動かされない理由だろう。

 TVという媒体がそうなのか、映像の本質がそうなのか、その辺はよくわからないが、とにかくTV映像というのはわれわれの日常性のなかで、もっとも人を感化させカタルシスを刺激するメディアだと思う。
 TV映像の感性に対する感染力というのはすさまじく、人はあれを眺めるのと同時的に肯いていて、否定的違和感が挟み込れる余地がほとんどない。
 慣れ親しまれた方法、つまり一定のマニュアルに従った撮影や編集・音響の効果で映像を流し込むと、ほとんどの人間があれを批評的に鑑賞するという姿勢を発することなどありえず、作り手の意図そのままが頭にダダ流れされる。
 人間というのは笑わされることよりも、感傷的気分に誘発させられることの方が刺激としては単純である。だからウェットな印象効果がやたらと多用される。

 文字による媒体に対するリテラシー能力は、案外多くの人たちがそれを保っている印象があるのだが、TV映像の感染力が前提にあると、人は文字媒体に対してもTVから受けた印象をなぞるようにしかそれに接することができないように思う。
 
 インターネットこそがメディアの頂上であるがごとく語られる頻度も多いが、あれはTVよりも後発で「新しいものがすべて」という観念に捕らわれているに過ぎない。
 ネットがもたらした最大の産物は、TVや文字媒体を「見ているだけ」であった受け手が発信力を持てるようになったことである。
 だが彼らが発信する内容というのは、大概がTV映像に刻印された意図に対してその意図通りに印象をなぞるしかないのが関の山である気がする。

 ネット時代だとどんなに喧伝されようとも、いまだ最大の感染力を誇るメディアウイルスは、やはりTVなのである。

 
 リテラシー能力というのは単純に言えば「批評する力」のことだが、好きか嫌いか、もしくは退屈かを述べることは、批評することとはまったく違う。
 ただし自分が好感を持つものや「正しい」と感じるものに対しても「敢えて疑ってみたりする」という実験ができるならば、それだけでその人はきちんと「批評している」といえる。

 批評するということを他に言い換えてみれば、それは「送り手の意図がなんなのかを考える」ことだと言うこともできる。

 しかし、好きなものや正しいと思えるものであっても「それは置いといてちょっと疑ってみてごらん」なんていうことは、学校でも社会でも、その効力について教えてくれることなど、まずない。
 特に映像に関しては、それを鑑賞しながら「この場面はどういう目的があるのか」と同時進行で考える、なんてことをする人は評論家以外にはいないだろう。
 
 映像を見るという行為の中には内容を吟味する以前に、すでに鑑賞者の目的が織り込み済みで含まれている。よく言うではないか、「泣ける映画を観る」とか。

 スキャンダルを起こした有名人の弁解の会見を観る場合でも、「こいつは許せないから叩く」という結果がすでに会見内容を見る以前に先行して決定されている。
 そしてその会見を映像で送る側の人間も、「許せない奴を叩く」という心理の需要に応える目的で、内容に先行して編集や演出を用意しているのである。

 つまり映像というのはある方向に感化されるために観るものであり、映像を見る行為と同時に内容の方向に「逆らいながら考える」なんてことは絶対なされない。
 共感するか反発するかのどちらかに作用させられて、そういうふうに誘発させられた感情はおおむね映像を作る人間の作為に従順である。
 誘発された感情の理由を思考する、作為に対して知性で反発するために「ちょっと立ち止まってふりかえる」なんてことをするために存在するものだとは、映像に対しては人々はそのようにするものだとは一度も考えたことがない。


 しかしそれって、恐ろしいことだし気持ち悪いことなのではないかと内省してみる必要があるだろう。

 映像という感染ウイルスに対して、それが自分の批評を妨害する危険なものであると認識する免疫機能を、あらかじめ自ら殺してしまい、感染効果に対して無防備であることを許すようなものでしかない。

 ただし映像媒体にたいして批評的な知性で向き合うなんてことは、なかなか難しいことだと思う。

 TVでバラエティーを見ていたら「釣られて」笑うなんてことがごく当たり前の反応とされるように、映像に対して感情のみで反射させられることが普通のこととして、子供のときから慣らされている。NHKの幼児向け教育番組だって、映像はカタルシスでもって反応するものとして仕込みがなされている。あれに反応されない方が情操的におかしいとされる(それはある程度は正しいことなのだが)。


 僕は自主映画を学生時代に作った影響で、映画を観てもほとんどの場合感動しながら観るなんてことはない。どうしても作り手の意図なんかを思考しながらシーンを「分析」するから、映画を楽しめない。TVドラマなんか意図が安っぽいから、バカバカしくて観れたもんじゃない。

 TVなんてもんは基本的に大衆扇動の暴力装置と思えるくらい作為が見え透いてしまい、またその作為というのが随分視聴者を舐めていて、その侮蔑にむかつくから僕は皆無に近いほどTVを見ない。断言してもいい、TV局の奴らどもは庶民は「バカ」「C層」としか看做していない。

 僕が極右の海坊主が書くやしきたかじんの本や、フィギュアスケート選手の流血事故に「ほお・・・」とか「へえ・・・」とかしか反応しないのは、TVを見ないからである(逆に言えば野球中継は見ているからプロ野球選手には親しみを感じるし、ごくたまたまの偶然に試合を見て「かわいい!!」とか思った石川佳純さんは結構熱心なファンだったりもする)。

 TVを皆無に近く見ないのだが、それでも何かの拍子でNHKの大河ドラマとかNHKスペシャルなんかを見ると、感情の向くままに内容を鵜呑みに取り込んでしまった自分を、後になって意識したりすることもある。

 まことに映像というのは実に手ごわい相手である。

 映像を見る行為に知性が同時に伴うなんてことが当たり前の所作として、啓蒙され、広く行き渡る時代が来るのはどのくらいの世代を経た後だろうか。

 そんな未来はありうるのか?





ひっそりと日常を侵食する不安の正体

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 トハチェフスキー元帥らの銃殺および最近ソヴェートにおける清党工作は世界を驚かせた。元来この事件についてはいまだ正確な事実を知り得ず、伝えられることの多くは臆測の要素を含み、あるいは何らかの為めにする宣伝ですらあるようである。したがってこの事件に対する我々の批評も、単なる感想にとどまらざるを得ない。

 この事件によってソヴェート政権および赤軍が脆弱(ぜいじゃく)になったとは考えられないであろう。もちろん、かような事件が起ったということは、そこに何らかの弱点が存在していたことを証しているに違いない。しかし他方その弱点がこの事件によって救治され、かの国の政治上ならびに軍事上の体制はかえって強化されたという推測も成り立ち得るのである。かような荒療治をともかく強行し得るということ自体がすでにスターリン政権とソヴェートの統一との鞏固(きょうこ)さを示しているといい得る。スターリンが徹底的な現実家であることは衆評の一致するところである。彼は決して夢想や空想によってこの大弾圧を行なったのでなかろうし、そしてこれを行なう以上、十分に自信があって行なったに相違ないと考えられるから、今度の事件の結果スターリン政権は強化したとも想像し得るのである。しかし同時に現実家のスターリンがかように思い切った弾圧を行なわねばならなかった限り、従来の体制に弱点ないし欠陥が含まれていたということも蔽い難い事実であるように思われる。

 ところで我々はこの弱点ないし欠陥が単にソヴェートの国内的関係に存したと考えることができない。そこには対外的に重要な事情があったはずである。すなわち現在ソヴェートを繞(めぐ)る国際関係の緊張によってソヴェート自身も余儀なくされているいわゆる準戦時体制の強化の必要から、今度のような粛軍および清党工作が行なわれねばならなかったと見ることができる。したがってそれは国内的必要からというよりも対外的必要から行なわれたのであり、言い換えれば、その犠牲者は直接には社会主義建設に対する裏切りのためにというよりも、ファシスト諸国によってソヴェート自身が強要された準戦時体制の強化に対する障碍として犠牲にされたものである。もちろん、ソヴェートにおいてはこの準戦時体制の強化も間接には社会主義擁護の目的をもっているのであるが、しかし直接には準戦時体制と社会主義とは一致するものではなかろう。政治の固い論理が犠牲を要求したのである。しかも、もしこの犠牲の責任を問うとすれば、間接には世界のファシスト諸国にも責任があるといい得るであろう。

 我々が知りたいのは、ソヴェート民衆が今度のような事件をいかに考えているかということであるが、それも言論の統制が完全に行なわれている国においては不可能なことである。革命以後すでに多くの歳月を経ているのであるから、教育の力によって、我々にはそのまま受取ることのできぬ政府の説明をもそのまま受取って安心しているように見える。どのような制度でも、一定の期間以上存続すると、その間にすべての人間をその制度に適したように作りかえることによって、維持力をいわば加速度的に増して来るものである。この点からいっても、今度の事件のためにソヴェート政権に大きな動揺が生ずるとは想像されない。

 右は政治の論理である。しかしいずれにしても、革命の功労者の多数が次から次へ倒されてゆくのを見ては、我々は政治の論理の非情性を思わずにはいられない。我々のヒューマニスティックな感情はそこになにか忍び難いもの、反発するものを感じるのである。個人は社会のために存在するというだけでは済まされない。ヒューマニズムの論理は政治の論理に一致し難いものがあり、そこに歴史の悲劇というものが考えられる。この悲劇はもとより単にソヴェートにおいてのみでなく、世界の到るところにおいて、過去および現在にわたって、見られることである。オプティミスティックな政治主義が考えるように、簡単にこの悲劇がなくなるとは想像され得ず、かえって悲劇は歴史の本質であるように思われる。政治の論理と人間の論理との一致を理想として歴史は限りなく悲劇を繰り返しつつ進んでゆく。ジードの『ソヴェート旅行記』のごとき、まさにそのことを示している。


 今日の世界の不幸は独裁政治であるというよりも政治の独裁である。独裁政治はむしろ政治の独裁の一つの形態である。

 戦争の危機を前にして政治の独裁は強化されるばかりである。かような政治の独裁が制御されねばならぬ、政治の独裁に対する批判的な力が強化されなければならない。

 言い換えれば、人間の論理、ヒューマニズムの論理が政治に対する批判的な力とし強化されて現われることが大切である。人間存在の政治的性格のみが力説されて来たのに対してその超政治的性格が力説されねばならぬ。一つの政治を他の政治によって批判するのみでは政治の論理の独裁はやまない。

 政治の論理に対する人間の論理の批判がなくなる場合、政治は狂気になるであろう。



三木清 『政治の論理と人間の論理』 (改行の一部は引用者による)






こんな人と衝突して狂わされて人生ぶち壊されてみたかった

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 寝室の電灯が点かなくなったので、量販店に買いに行く。

 円形の電球2つのうち1つが点かなくなったのだが、どちらも以前いつ買ったものなのかわからないので、2個組のものを選ぶ。

 パナソニックのパルックe-dayってのと、パルックpremiumってのがあって、前者が6000時間、後者が9000時間の寿命らしいのだが、値段の差が500円違う。
 どっちを買うか10分くらい店内で悩んだのだが、9000時間の方にする。

 帰宅して取り付けてみたのだが、点かなくなった方の位置の電球が新品なのに光が出ない。

 長いことかかっていろいろいじってみて、ある箇所をいじくってみたら、途端にぴかっと簡単に明かりが灯った。さっきまで点かなかったのが嘘みたいに、魔法でも宿ったかのように簡単に光った。

 母に話して事情が分かったのだが、僕がいじったある箇所というのは「点灯管」と呼ばれる部分であるらしい。今まで全然知らなかったのだが、点灯管がきちんと作用しないと電球は点かないものであるらしい。
 居室に使ってる部屋の電灯も片方の電球がなかなか点かなくなっているのだが、その原因もどうやら2つあるうちの一つの点灯管が古くなっているのが関係しているらしいことも、これで分かった。

 それにしても、点灯管なるものがあって、それが機能しないと電球が点かないなんて、30年以上生きてきて今までまったく知ることがなかった。電球の方は数え切れないくらい買ってきて取り付けてきたというのに。

 義務教育で「理科」とか「技術」とか「家庭科」なんて科目があったけれど、その9年間の過程で点灯管について学んだ記憶はまったくない。30年以上生きてきて、今日ようやくその名前を知ったほどだ。

 こんな身近で重要な事柄を教えない僕が経てきた義務教育とは、なんと空疎なザル教育であったことか。

 それともあれだろうか、義務教育で点灯管について教えないのは、電気屋の需要を減らさないために故意に教えないようにしているのだろうか。



 週に一回の精神科の外来に赴く。

 「仕事をやってたころは、趣味でやりたいことも時間がなくてほとんど出来なかった。今は時間にたっぷり余裕があるのに少しの家事をやるだけで疲れてしまう。ちょっとしたことで疲れるぐらいだから趣味の方もやる気が起こらない。どうも以前と比べて体力が落ちてきたような気がする」

 主治医にそういう旨の話をしたら、

 「体力だけでなく気力の方も落ちてしまいがちなのでしょう。セロトニンとかノルアドレナリンは、身体が忙しくないと活性化されなかったりするものですから」、とのこと。

 たぶん今の状態が、向精神薬の薬効の限界なのだろう。

 ソーシャルワーカーと喧嘩して就労支援B型作業所を「休職」状態にしてしまって、もう一年半が経つだろうか。

 普通ならそろそろ復帰してもよいのだが、休職状態に入って月日が経つうちに家の事情も変わってきたので、簡単に復帰できる状態でもなくなってきた。
 一番引っかかりになっているのは、この一年半の間に父の認知症が際立って進行してきたこと。僕が家を空けると多少なりとも母に家事の負担が一極化してしまう。

 頑迷で人一倍プライドの高い父は自分が認知症だとはなかなか認めようとしない。

 「病気という宿痾を受けいれる苦悩はあなたが一番分かってるでしょう」と母に言われるのだが、幼少から喘息であったことや斜頸があること、そして鬱病が始まったこと、どれもこれも僕の場合、淡々と呑み込んで受けとめてきたように思う。
 たぶんこの先、髪の毛が薄くなったり人工透析を受けなきゃいけなくなったとしても、メンタルな部分での葛藤はあまり起こらないと思う。

 だって、頭がハゲてしまったりアルツハイマーになったとしたとしても、それは「不幸」なことだろうか。「不幸」だと決めつけてしまった時点で、決めつけた人間の内部で、初めて不幸が始まるのではないか。

 精神科の病棟で社会的長期入院の患者たちに出会ったとき、人生を価値判断する冒涜の中には人への尊厳など在りはしないと、僕は学んだ。



 誰の好みで本棚に収められたのか、僕の通院先の待合室には『岡崎京子の仕事集』などという尖がった本が置かれてある。
 こんな保守的な田舎町の精神科でいったい誰が読むのだろうと訝しんでいたのだが、今日はちょっと暇だったので、ちょっとだけ読んでいた。

 岡崎京子のマンガは海外でも結構出版されているらしい。この本には海外での本の装丁が紹介されているのだけれども、フランスやドイツなんかで出版された装丁の方が日本のより、断然アートだったりする。

 表紙内側に茶色っぽいモノトーンで、荒木経惟が撮った彼女のポートレイトがある。前髪の切り方が面白いショートと、太い眉。和製レンピッカとも評したいようなコケティッシュな感じ。

 「こういう人がたぶん俺の中ではファムファタル認定みたいな女性なんだろうな。今までの人生で一度でいいから、こんな感じの女と衝突して、こころ狂わされて、人生ぶち壊されてみたかった」などと、詮無い思いつきのまま、看護師が呼びにくるまで、長い時間、眺めていた。





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