Hemakovichの半永久的平坦な戦場

パニック不全神経症者が落ちてゆくカムフラージュ

それは一種のエレベーターのようなものかもしれない

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 百貨店のひどく込み合う時刻に、第一階の昇降機入り口におおぜい詰めかけて待っている。

 昇降箱が到着して扉(とびら)が開くと先を争って押し合いへし合いながら乗り込む。そうしてそれが二階へ来ると、もうさっさと出てしまう人が時々ある。出るときにはやはりすしづめの人々を押し分けて出なければならないのである。わずかに一階を上がるだけならば、何もわざわざ満員の昇降機によらなくても、各自持ち合わせの二本の足で上がったらよさそうにも思われる。自分の窮屈は自分で我慢すればそれでいいとしても、他の乗客の窮屈さに少しでも貢献することを遠慮したほうがよさそうにも思われる。

 それほど満員でない時に、たとえば三階四階間の上下にわざわざ昇降機を呼び止めて利用する人もある。この場合には自分のわずかな時間と労力の節約のために他の同乗者のおのおのから数十秒ずつの時間を強要し消費することになるのである。これも遠慮したほうがよさそうに思われる。

 しかし、昇降機のほうから言えば何階で止まるも止まらぬのもたいした動力のちがいはないであろうし、それが違ったところで百貨店の損益にも電力会社の経営にも格別重大な影響を及ぼす気づかいはないであろう。また運転嬢の労力にしたところで二階で出る人のために扉(とびら)を開閉するのも二階ではいる人のために扉を開閉するのも同じであるからこれも別に問題にはならない。

 同乗客の側から言っても、他の便利のために少しの窮屈や時間の消費を我慢するくらいなことは当然な相互扶助の義務であろうから、なんの遠慮もいらないわけである。押し込まれるだけ押し込んでただ一階でも半階でも好きな所で乗って好きな所でおりればいいのである。また押し合いへし合うことのきらいな人間は遠慮なく昇降機を割愛して階段を昇降すればよい。それで問題はないのである。

 ただ問題になるのはこの昇降機というもののメンタルテストの前に人間が二色に区別されることである。

 何事でも人の寄る所へは押し寄せて行って群集を押し分けて先を争わないと気の済まない人と、そういう所はなるべく避けて少々の便宜は犠牲にしても人をわずらわさず人にわずらわされない自由の境地を愛する人とがある。この甲型の人の目から見ると乙型の人間は消極的退嬰的(たいえいてき)な利己主義者に見える。しかし乙はその自由のためにかえって甲の先をくぐって積極的に進出する事もあるし、自分の自由を尊重すると同時に人の自由を尊重するという意味では利他的である。反対に乙型の人間から見れば甲型の人々は積極的なようではあるが、また無用な勢力の浪費者であり、人の迷惑を顧みない我利我利亡者(がりがりもうじゃ)のように見える。しかし甲はまたある場合に臨んで利害を打算せず自他の区別を立てないためにたのもしくあたたかい人間味の持ち主であることもありうるであろう。それはとにかくこの二つの型が満員昇降機のテストによってふるい分けられるように見えるところに興味がある。

 それとはまた別のことであるが昇降機の二つ三つ並んでいる前に立って、扉(とびら)の上にあるダイアルに示された各機の時々刻々の位置の分布を注意して見ていると一つの顕著な事実に気がつく。それは、多くの場合に二つか三つの昇降機がほとんど並んで相(あい)角逐(かくちく)しながら動いている場合が多いということである。理想的には、たとえば三つの内の一つが一階にいるときに他の二つはそれぞれ八階と四階のへんにいるほうがよさそうに思われる。換言すれば週期的運動の位相がほぼ等分にちがっているほうが乗客の待ち合わせる時間を均等にし従って乗客の数を均等に分布する点で便利であろうと思われる。しかし実際には三つがほぼ同時に同じ階を同じ方向に通過する場合が多いように思われる。もっともそういう場合だけに注意を引かれ、そうでない場合は特に注意しないために、匆卒(そうそつ)な結論をしてはいけないと思って、ある日試みに某百貨店で半時間ぐらい実地の観測を行なってみた。観測の方法は、鉛筆と手帳をもって、数秒ごとに四つの昇降機のダイアルの示す数字を書き取るだけである。この観測の結果を調べた結果はやはり実際に予想どおりの傾向を示している。

 こういう現象の起こる原因は割合に簡単であって、ちょうど電車が幾台もつながってあるくようになるのとほぼ同様な原因によるらしい。すなわち、偶然二つが接近して同方向に動くようになるとそれからは、いつでも先へ立つほうが乗客の多いために時間をとってあとのを待ち合わせるような結果になるからである。これも結局は、多くの人間がただ眼前のことだけを見てその一つ先に来るものを見ようとしないことを示す一例に過ぎないであろう。これと似たことが人生行路にもありはしないかと思う。

 それはとにかく、先を争うて押し合う心理も昇降機の場合にはたいした恐ろしい結果は生じない。定員人数の制限を守りさえすれば墜落の恐れはめったにない。しかしこの同じ心理が恐るべき惨害をかもす直接原因となりうるのは劇場や百貨店などの火事の場合である。その場合に前述の甲型の人間が多いと、階段や非常口が一時に押し寄せる人波のために閉塞(へいそく)して、大量的殺人現象が発生するのである。

 しかし、また一方、この同じ心理がたとえば戦時における祖国愛と敵愾心(てきがいしん)とによって善導されればそれによって国難を救い戦勝の栄冠を獲得せしめることにもなるであろう。

 しかしまた、同じような考え方からすれば、結局ナポレオンも、レーニンも、ムソリニも、ヒトラーも、やはり一種のエレベーターのようなものかもしれないのである。



寺田寅彦 『蒸発皿』 「二 エレベーター」 (改行の一部は引用者による)






「反射的」な人間はバカをみるかもしれない

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 数週間前から、新聞を読むのを一切やめた。

 冬季うつに入ってから、新聞の見出しの文字を見るだけで憂鬱になるようになった。見出しの一行の言葉にすら、そこには気分を一気に塞ぎ込ませるだけの強度があり、厭世的な世界がすべてを圧倒するかのごとく、映し出されている。

 たまには「幸福」を模った記事を一面に持ってくることもあるのだが、世間の「幸福」と僕にとっての切実さは合致しないことが多くあるらしい。
 ノーベル賞の授与式なんて、なんであれがあんなに喜ばれることとして騒がれるのか、まったく理解できない。あれを観て冬季うつから解放されるなら幾らでも観るだろうが。

 新聞を読むのをやめると同時に、政治的な話題をブログに書くのも抑制するようにしている。

 文句を言いたいことはたくさんある。だが陰気に思ってることをブログに書き散らすのは負荷を自分に背負わせることでしかない。
 ただ、ブログには書かない代わりに、家族が政治的な話題を団欒の場に持ち込むと、途端に亡霊のように攻撃的な精神に切り替わる自分が存在している。

 「なんでこれだけ物価が上がってきているのに自民党政権を支持する人が減らないのか、理解できない」と、先日母がぼやいていたので、

 「まあ、自民党政権を生き延びさせて、とことん生活が苦しくなって、国民が自分の首を自分で絞めるような具合になった方がええんちゃう? この際。行くところまで行ったらええんや」

 「日本人はとことん塗炭の苦しみを味わんかったら、物事が分からへんのとちゃうか? 前の戦争やって同じやん。今は戦争反対とかみんな言うてるけど、もしアメリカと戦争して原爆まで落とされたりされへんかったら、戦争反対とか言わへんかったと思うで。南京陥落したときは提灯行列ができたぐらい喜んどったんやしな。 結果として言うなら原爆落とされても仕方なかったと言えるかもしれへんで」

 こんな具合でヤケクソのように前から思ってたことを話したら、「被爆者の人のこと、考えや!!」と、激しく叱られた。

 だが叱られたとしても、自分がそれほど間違った理屈を披瀝したようには思えず、理屈としては理にかなってるという感覚が自分のなかにあったので、「でも誰にも理解されへんやろな」という無力感だけが残った。

 原爆を落とされたことは悲劇であるが、原爆を落とされるまで政府や軍部に戦争を続けさせたのは国民であって、あれだけひどい目に遭いながら、幾ら強権的な時代であったとはいえ、革命どころか暴動も起こらなかったというのは、ちょっと常軌を逸脱した国民性と感じられなくもないということを、いつごろからか考えるようになった。
 そういう異常な従順さが数十年で変わったふうにも感じられず、とどのつまり、経済的失政をうすうす感じつつ、それでもなお今の異常な極右的政権を支持する異常な国民性は、戦時期にみられたそれと同根のものではないかと思えてならない。

 それはともかく、上記のように激しい論調でものを言うと、きまって母に言われるのが、

 「インターネットやらやってる人間はみんな人を不愉快にさせることを言うんが好きなんやな。従兄弟の健史くんとあんた、おんなじやわ」

 ということなのだが、それを言われると僕はいつもどうにも腹が立って仕方なくなるのである。

 まず、母の中で「インターネットをやってる人」というものに負のイメージがあって、それをなんでもかんでも十把一絡げにまとめて括る傾向があり、それが僕には不愉快なのだ。

 そして、それ以上に耐え難いのは、従兄弟の健史くんと同じ人間のように看做されることであり、これが一番我慢ならない。
 健史くんというのは僕よりずっと年長で独身の、東海地方の旧帝大出身というプチエリートなのだが、あまり働かなくて、パソコンを開けば「ネットしかやらない」人である。
 彼は「ネトウヨ」にも「ヲタ」にも一括りに分類できない人だが、スピリチュアルとか陰謀論が大好きな人で、そういう意味では「ネットをやってる人」にありがちなタイプなのだ。
 米軍は地震兵器を持っていて時折日本で「実践使用」してるだとか、2012年(は、もう過ぎたが)にはカタストロフィが起こって、自分みたいな霊性の優れた人間しか生き残れない、そういうことを考える人だ。だからその手の陰謀論や選民意識の話をさんざん聞かされて、母のなかで健史くんの評価が定まったわけである。

 だが母は「健史くんと話していると嫌な気分がある」という感覚を持ってはいても、「どうして嫌な気分になるのか」という理由を詰めて考えたりはしない。
 それゆえに僕が母にとって不愉快な話をすると、「ネットをやってる」という括りだけを持ち出して短絡的に「健史くんと同じ」という評定を故意に下して、僕に反撃するわけなのだ。
 そのレッテル張りの威力は僕にとっては凄まじく、「健史くんと同じ」と言われると論理的に話す上からの気丈さを一撃でぶっ壊される。

 僕がもし健史くんのようにネットをやっていて万能感を覚えるような人間であれば、母に不愉快と思われようとも逆にそれが「自分が偉い」ことの証明のように働いて、むしろ気分が良くなったりするんだろう。

 だが僕の場合、「ネットによって何でも知ってる」と思い込んでる人間であるかのように誤解されることは、単なる愚弄でしかない。

 僕は「なにかを知っている」という価値だけ単独で物事を評価することはまったく意味がないと常々思っている。ゆえに一番大事なことは、どういう筋道で物事を評価しているか、自分の考え方をどういうふうに工夫しているか(または表明しているか)、そういうことなのである。
 だがそこに力点を置きすぎていると、時々エキセントリックになって、そのことが僕の母のように反射的な感じ方が常識的だと思ってる人に「不愉快」と感じさせてしまうようである。

 そういう場合、考え方の筋道を訊いてもらえる段階まで至らないので、それゆえ僕の結論はいつも極端としか思われない。

 「正直者はバカをみる」という格言は嘘が言えないことは損だということを示唆しているとは思わない。

 正直にディティールを細かく明かすという行為が、いかに報われない結果に終わるか、そういうことを言ってるように僕には思える。

 人は誰でも細かいディティールの経過を経て結果を導き出しているはずなのだが、その経過に目をやることに関して怠惰であり、経過なんぞに意味を見いだそうとすることなどバカバカしいと、常識的にはそう考えられている。

 だがそういう方法を取ることは決してエキセントリックでも、特別な人間がやることでもない。誰でもできることだし、誰もが本当は持っていることなのだ。

 むしろ「反射的な人間はバカをみる」ということの方が真実としては頻繁にありがちなことのような気がする。新聞やTVなんて、反射的人間を大量生産する最骨頂ではないだろうか。

 反射の対象にのみ生かされるような貶められた人間こそが、とことん塗炭を舐める苦しみを経ない限り従順にバカであり続ける結果に向かう、そういうことになるんであろうか。





あなたは いま、わたしの運命の鉄筋コンクリートさんですか

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あなたは いま、

わたしの 運命の鉄筋コンクリートさん ですか?

あなたは いま、 あなたは いま。



あなたは いま、

わたしの 運命のヒキガエルちゃん なの?

あなたは いま、 あなたは いま、

あなたは いま・・・・・・
   


   

電報息子が銀河系から帰ってきて

ホット・ラヴについて語ったよ。

そりゃあ ホットな愛だった、

そりゃもう 戦車みたいによく燃える愛だった。

惑星女王は 宇宙舞踏を舞いながら、

「人生なんて たかがガソリンよ」

 と泣いた。

そうさ 彼女は ただ全焼するしかなかったんだ。


   
   

マンボに揺れる お日さまが、

恋わずらいの ウサギ戦士をからかった。

 「おお ベイビーちゃん、 なんててめえはストレンジなんだ!」

 「ああ ベイビーちゃん、おまえの人生はなんてディープなんだ!」

地下世界の無職紳士は ベイビーちゃんに求愛のブーメランを投げた。

スライダーで投げたのに チェンジアップだと言われちまった、

そうさ、奴は生まれたときから ボークだったんだ。

   


  
電気兵士が 宇宙船モノリスに乗って 火星に行った。

火星には 新装開店の ダイアモンドの牧場があるんだという。

ああ そこにはスリムなオメコの電気牝山羊が 生まれるらしい、

そこでは毎日 白鳥が牝山羊に跨がる愛の季節が 流れるらしい。

しかし火星に行っても 牧場も山羊も 愛の季節もなかった。

人面石のハイウェイをジープバスで疾走する 革命幼稚園児たちがいた。

子供ちゃんたちはジープスクールバスを走らせながら、

どこまでも 逃げていくのみだった。

そうさ 逃げなきゃならなかった、 

だって もはや生きてなかったのだから。


   

   
復讐のスペースボールに追われて ここまで逃げのびた おれは、

いま 生まれたてのブギーで あばずれ女のきみについて 歌っている。

ああ どこにもなくなった昔の話さ、

そう 美しい星になった死体のことだ。

激しく爆発して 素粒子へと消えゆく寸前のきみの唇が現れて、

残り火を灯すように 囁く。



  「歌ってよ、

   結末を 飲みほす前に、

   狂っちゃう前に、葬る前に。

   あの日の言葉、

   お願い、

   もう一度」



 だからおれは、

 もう一度あの歌を歌ってる、


   
   

あなたは いま

わたしの 運命のメランコリー だから。

あなたは いま、 あなたは いま、



あなたは いま

わたしの 運命の人 なのだから。

あなただけが、 あなたひとりが、


わたしには 

いま・・・・・・






『南極物語』を観て、2時間近く泣き続ける

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 ここのところTVは、ずっと高倉健の追悼映画上映週間みたいになっているが、TVは嫌いだが高倉健は好きだ。だから『南極物語』と『あ・うん』を観た。


 『南極物語』のことは先日ブログでもちょこっと触れたが、上映時間の3分の2くらいは、ずっとぼろぼろ泣いていた。あんまり泣きすぎて、しゃっくりと鼻水が出るほどだったのだけど、こんなのは初めて。

 多くの視聴者の例に洩れず、僕もこの映画を子供のときに映画館で観た世代である。初見のときも心を揺さぶられたのは間違いないのだが、泣くほどでもなかったんだがな。

 案外この作品は歳をとってから見た方が激しく情動に訴えかけられるのかもしれない。

 いろんな人間のいろんな死に様みたいなのを数多く見てきた齢の者たちにすれば、あの残留放棄されて南極の大地に投げ出された犬たちの運命は、まさに自分たちが見てきた人たちや、自分自身のこれまでやこの先を投影する象徴のように映るのかもしれない。少なくとも、僕はそんなふうに観ていたように思う。

 ネットに書き込まれたレビューを見ていると、多くの人たちが自分自身の愛犬の喪失体験を挙げていたが、僕はむしろ、あの犬たちのなかに自分自身を見る思いがしていた。

 20代の頃、ガンに罹った犬を相当長い期間をかけて看取ったことがある。

 末期のころになると本当に見ていられなくて、精神的にかなり思い詰めていた。犬の苦しみを楽にして死なせてあげるために獣医から安楽死を提案されたこともあった。
 家族のほとんどは安楽死の方に心が動かされつつあったのだが、一番看病する機会の少ない姉だけが倫理的に反するという立場で反論していた。現実を見ずに上っ面で物を言ってるように感じられて、僕は姉を殴った。
 そんなふうに家族の精神的きつさが頂点に達して関係に亀裂が走るほどにまで至った日のこと、犬は未明に息を引き取った。

 犬が死んだときに理解したのは、どうにも取り去ってやれなかった犬の末期の苦しみのなかに、同じ生き物として僕は自分自身がいつか迎えなければならない末路の姿を空想して苦悩したのだということだった。

 親鸞の説いた「他力本願」やキルケゴールが唱えた「宗教的実存」の意味を本当に理解した気がしたのは、その犬の死を看取ったときからだったように思う。
 自分の理知や賢明な努めによっても、自分の心を自分でどうにも救えないことが本当にあるんだと、如実に理解させられ、「おまかせするしかない」運命の開き方をも志向させられるようになったのは、それからだった。

 映画の中で、人間が残していったピース缶を力なく静かに舐めながら、鮮血に染まった身体を静かに横たえて死んでいった犬の場面なんかは相当に堪えた。

 だから実のところ、タローとジローが人間たちと再会した場面は、泣いていたけど、感動というのはなかったような気がする。
 感動というのとはちょっと違う、苦しみの最先端まで行き着いたときに訪れるような、哀しみを根源とする情動に突き動かされて泣かされたラストとして僕は見ていたように思う。

 今回、『南極物語』に大いに泣かされて気づいたのだが、僕の場合、感動して泣くことはないのだということだった。

 もっと明確に説明すると、喜びを根源とした感情で、「泣く」というような表現の形で情動が揺り動かされることなど、僕にはないのではないか、そういうことだった。

 今まで映画を観て泣いたり、実生活で感極まって「泣く」という表現の形を取ったときは、いつも僕は他者の哀しみに自分の感情が同化させられたり、ずっと苦しんできたことが堰を切って流れ出すように表面に溢れ出したときにだけ、泣いて来たような気がする。
 つまり、哀しみを根源とした感情と向き合っているときにだけ、僕には涙が必要とされるのだ。

 だから、
 「感動して泣くって、世間の人たち的にはどういうことなんだろう?」
 「感動したから泣く、ってどういうこと?」
 そんなことを少しだけ考え込んだりしてしまった。

 喜びとか解放感、美しいものや素晴らしいものを感じたときに、情動が動かされて、生きてるのが楽しくなるような、そんな文句なしになにもかもが嬉しすぎるときはあるし、そういうのが感動なんだってことは分かってる。

 でもそれが「泣く」要素になるってことは、「なにか違う」というのが僕のなかにはある。

 前に泣いたのはNHKのETV特集で、永山則夫を取り上げた番組だったな。あれはまったく「感動」とは程遠い番組だった。

 なんか『南極物語』の感想とかには全然なっていないのだが。

 感動っていう意味では、ヴァンゲリスのサントラがこんなに良いものだとは今まで感じたことはなかったので、再見して一番再評価させられたのは音楽だったかもしれない。
 映画を観終わった後で、ネットでサントラを探して全部聴いていたのだが、なんか、音楽だけでもとても奥行きのある広がりの映えた世界観を感じ取れるような、そんなすごい感動があった。

 誉めすぎと言われるかもしれないけど、『2001年宇宙の旅』とか『惑星ソラリス』のOSTを聴いているのと同種のテーマ性を持った音楽に触れてる印象があった。

 もしかしたら『南極物語』の話の肝というのは犬たちが極限の世界に直面する部分が重要なのであって、人間との再会というのは「おまけ」程度のものなのかもしれない。
 極限の世界が立ち現れることによって生の本質が浮かび上がってくるというふうな主題を設定してみたら、あれは犬であっても構わないが、犬を擬人化させた人間自身の物語を見ているような錯覚が起こってもおかしくない気がする。

 もしヴァンゲリスが『南極物語』のシノプシスのなかにそういうものをも受け取っていたんだとすると、当然その音楽は『宇宙の旅』だとか『ソラリス』のそれと同種の印象を刺激させられるものへと昇華させられるってことは十分にありうることだ。


 『あ・うん』についても書きたかったのだが、『南極物語』のくだりだけで文章量が膨らんでしまった。

 だから『あ・うん』の感想は、また今度、気が向いたらって、ことにしておく。





貧乏をなくす方法

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その日
学校では不安なざわめきが感ぜられ
私はいくつかのあわれなささやきに耳をいためた

つと立ち寄り
じっとその子の瞳をみていると
うちしずみものかなしいうったえるような色を浮べて
じっとみかえす

お前もか!
お前もか!
私は
うったえる瞳の奥にひろがる貧しい生活を思い浮べ
黙って生きてゆかねばならない
曇った運命をかなしんだ

先生!
蓄膿病ってなおるでしょうか?
淋巴腺、アデノイド、扁桃腺、中耳炎
みんなきりつめた様子で私をみつめるのだ
四十人中三十名
ものかなしい瞳の色が 今日
どうしてぬぐわれよう

朗々としみるような声が
くすぐるようにうつろにかわり
一節よんでは、はなをすすり始め
一句よんではとぎれ始め
だんだんとしわがれてくる
「もういい 代って」
そう言ったが
がばとうつぶし すすりなきにくれる
級長とその子
教室にたちこめてくる冷たい冷たい
涙のちんもくよ
私はかきむしられる心にむちうって立ち上った
そうして
子供たちに病気をなおす方法をとききかした



かんたんな塩のうがい法と

もひとつ

貧乏をなくす方法について



倉橋潤一郎 『身体検査日』 (改行の一部は引用者による)






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